宇宙の秩序に調和しながらの煩悩達成日記

自己実現。そうです、願望実現を通して、自己をさらに深く知ってみようという実験の日記ざます!

全てはココにあるって、本当かも??

2006-12-10 22:28:28 | 瞑想にまつわる能書き
日常。

出家したわけでもないので(笑)、私には「日常生活」があり、その中で生きている。
具体的に言えば、会社勤めをしながら少しばかりの(爆)収入を得て、その範囲の中で衣食住をまかない、暮らしている。
そういう生活を意図的に選んだわけではないが、結果、そうなっているのが事実である。

仕事は、どうでもいいような気持で(爆)気楽に取り組んでいる。
かつては、自分のプレゼンスを確立するために(心配性だったので、クビになるのでは?という恐怖がいつもあったのだ!!)、無料休日出勤を初め、いろんなサービスをしていたが、どうでもいいや、と思えるようになってから、自然とそういう行為はしなくなった(爆)

例えば、毎朝、始業1時間前くらいに行って仕事をしていた。私のボスはオフィスに到着するなり、一気に仕事モードに突入できたのである。
でもさ、そういうのも、自分のため?という動機ではなく、クビにならないようにプレゼンスを確立する、という「怖れ」を基本にした行為だったため、私の中で何か地殻変動が起きた時に、意図せず、自然とそういう行為がなくなった。
会社にも丁字にしか行かない。
最初は、私より先に着席しているボスを見て、罪悪感なんか感じていたけど、それもすぐ消滅し、なんとも思わなくなった。それどころか、ボスも私が早く来ないので、定時に出勤するようになった!(笑)
そうか、私に合わせて早く出勤していたのか?!(笑)

クビになったところで、それはそれ(笑) そしたら、必ず「クビになった」を経由しての道が開かれる。
結局は、どんな「デキゴト」も通過点に過ぎないのだ。 私がこの仕事をクビになったら、そら、多少困るかもですが、それで人生が終わる事はありえないもんね。なんだかんだと、その後も続くのである。
だから、その通過点のデキゴトで、あんまり一喜一憂しててもな、とか思うようになったら、とーっても気が楽になった。
人生は塞翁が馬、だと私は思う。良いも悪いも無いといえば無い。ただ、変化していくだけである。 幸運が訪れたとしても、その喜びは永久に持続しない。カナシミが訪れても、それも永遠ではない。いつか、消滅していくか、カタチを変えていくかする。それが世の中というものだ。
まあ、その一方で不変な何かも、同じに存在してるんだと思うけど。

さて、そんな日常。
まあ、世の中的には特別でもないし、フツーの一般市民な暮らしぶりであると思う。
これもまた、どこに視点をおくかで、随分、その意味が変ってくる。
例えば私は会社で辛酸を舐めている(爆)と思っていて、周りの、イワユル、日本的なエリートが大嫌いだった時期がある。「ふん。何をエラソーに!」と思っていた。
私は生活基準(住まいの家賃等。駐在員には会社が出してるんだけどね。)とか、会社での激しい賃金格差(私は現地採用)とか、それよりも何よりも、「ふん、日本人の中だけじゃん、威張れるのって。世界基準から見たら、あんたなんかプー!」と思ってる日本人駐在員から、同じ日本人でも、私だけ二級市民の扱いを受ける事で、もの凄く気分を害したものだ(笑)
私もホント、小物でございますね(爆)

そんな日常の中で、特別なエンライトメントに遭遇するとか、聖人や賢人が登場する!というイベントも無く、私の探求は相変わらず、遅々としながらも、模索が続いている。
ホントは、ピカーッと空が二つに割れて、、、、とかいう劇的なデキゴトでも起きたら刺激的なんでしょうが、全くそういうのもないです(笑) 残念ながら。

そんな小市民的(笑)に探求の道を辿る自分に「与えられたもの。」は、この「日常的生活」しかないのである。
普通に仕事をし、趣味のヨガにウツツを抜かし、週末には友人と会って映画を観たり、楽しい事をしてみたり。 趣味の読書も延々と続けて、もう、このジャンル飽きたなあ~と思っても、他に関心を寄せる分野が無いので、相変わらず能書き世界の本に沈殿している。

必要なものは、既に、「全て」与えられている。

有名な言葉だ。
人生に足りないものも、欠けてるものも無い!という、小市民をエンカレージ(激励、勇気づける)する言葉かしら?とずーーーっと思っていた。
だって~!私に与えられているもの、、って言っても、特別な才能も無いし、地味な、この単なる日常が『与えられている』?わけ? だったら、あんまり役に立たないよなあァ~^^
それに、仮に私が消滅しても、誰も困らないのではないか?とずっと思っていた。

地殻変動は静かに起きた。いつ、なんどきだったか記憶には無いけど。
私はこの地味な日常の中に、「凄いなあ!」と感じる事を発見し、私の問いへの「答え」を、ものの見事に発見しているのだ。劇的に、ではなく自然に、ゆるやかに。。。
ホント、必要なものは「全て今、ここにある。」ってーのを実感しているのだ。

そしてそれは、本から実感する事もあるけど、「周りの人」の人生から、という事がとても多い。人間って、そういう風に影響しあうように出来ているのかも知れない。

例えば、昨日、友人アントニオがマネージャー(実質責任者)をしているカフェ・レストランに夕食に行った。 高級住宅地に隠れ家のように存在するこのカフェは、インテリアにお金をかけてあり、大変居心地がよく、メニュもサラダ中心で、働く人々も若くてフレンドリーな人ばかりで、徐々に人気だそうだ。
アントニオは料理好き。正式な修行はしていないみたいだけど、私のように料理を作って人を驚かせたり、喜ばさせたりするのが好きな人なのだ。

彼は10ヶ月ほどまえ、とあるホテルのレストランマネージャーで採用されたけど、ホントはホテルビジネスの経験も無く、英語も堪能というわけではなかったため、既存の社員からイジメを受け(本人談)、イヤイヤながら仕事をしていた。
結局、数ヶ月もしないうちに、クビになってしまった。 彼はとてもショックを受けていたし、私たち友人もなんと言っていいやら、という感じであった。
その後、彼は就職せずに、好きな料理のケータリングを知人・友人ネットワークを使って始めていた。自宅でパーティする人の家に出向いて、そこのキッチンでパーティ料理を作るのである。
そんな事を数ヶ月しているうちに、彼の料理のセンスを評価する人が現われたのだ。それが、現カフェのオーナー。
アントニオは首になった時点で、凄くスネていたし、荒れてもいた。セルフエスティームも相当下がったと思われる。でも、結果として、あの「悪夢の解雇事件」は、自分のレストランを持つ、という夢への始まりだったわけである。
世の中、上手くできてるねえ~と、彼のレストランで嬉々として働く彼を見るたびに思う。そしてレストランのメニュには、アタクシが直伝した「牛のたたき」サラダがあります!!
もう少し先に、「ジャパニーズウィーク」を企画するから協力してね!というアントニオの申し出を、快く引き受けたのは言うまでも無い。

私はアントニオに起きた出来事を思うたび、「通過点」の一点だけで、全てを判断しても意味無いな、と思うようになった。良い事と悪い事は、結局、同じコインなのだ。裏だけのコインも無いし、表だけのコインも無いのである。
人はハッピーな時や、順調な時には「どうして?」と思う事はあまりないように思う。
思い通りにならなかった時に「なぜ?どうして?」という思いが沸いてくる。そして、このクエスチョンは、必ず回答が与えられるのだ。


またもや、友人。大好きな友人M。
先日、Mの車に同乗していた時、Mの勤務する大ホテルの敷地内であったが、Mは管理職だけど、クリーナーからどんな人にも声をかけるのだ。私の住む場所は、階級社会なので、普通、そんな光景は見ない。しかも職務階層が明確な職場である。
Mはそんな事は一向にお構いなしに声をかけていく。当然、みんな笑顔で応えている。

それを見て思った。
全員が管理職ではホテルは存在できない。
料理する人も、掃除する人も、客室の世話をする人も、全部、「必要」なのである。
その必要性に優劣は無い。「必要」があるだけだ。
そして、ホテルの社長と掃除のオバサンとで、人間的な格差も結局、無いのだ。カルマ的に観れば、幾度もの転生で、人はいろんな役を演じてるそうだから、今回は掃除婦、次回はバチカン法王かも知れない。

そう思えるようになってから、「理不尽な駐在員の私に対する態度」も、納得がいくようになった(笑) そういう「違い」の中で、人は何かを学んで「腑に落として」いくのである。体験、ってやつか。
そして体験には、「体験する、しない」があるだけで、「良い体験」「悪い体験」ってーのは存在しないのだ。良い悪いはあくまで、人間が自分の欲望や満足度を標準に決定しただけに過ぎないのだ。
そしてその欲望も一定ではなく、どんどん変わっていく。変っていくものを満たす事は出来ないと思うのだ。変っていくものを観察する事、で充分と思うのだ。

こうして、私の日常にも、なんと「お宝」が散りばめられているのだ、と思うようになったら、なんか、平安な気分で暮らせるようになりました^^