鏡の前に立てば、その中に「いま」の自分が映る。らしい。
そして、自分が見る世界、自分を取り巻く環境、世界も鏡にオノレを写すが如く、らしい。
私の目に映る歓喜は、他の人の目には、地獄に映るかもしれないけど、私自身が「歓喜」と認識するなら、それで良いのだ。それは「歓喜」であるのだ。
私の目に映る世界が、私自身。
いろんな思いが混沌として、いろんな色が絡み合って、いろんな温度が溶け合って、私の世界が構築されている。
その全ての構成要因が私自身である事を忘れずにおこうと思う。
目の前で繰り広げられている闘争、抗争、たたかい。それも、私の一部なのであろう。
どんなものであろうと、愛から生まれたものは、やがて愛に還るだろう。その過程で、困惑や困難や悲しみや憎しみや絶望へと姿を変えたとしても、最後には愛そのものになる。
確信、した。
だから目の前にある風景を、事象を、人のココロを、多少不満だからといって、いじりまわす必要は全然、無いと思う。
ほっておけば、やがて愛へと還っていくのだ。
なんだか知らないけど、愛が愛へ還元するために、種々雑多の過程を通過しなければならないのが宇宙の法則のようだ。
全てを歓喜とともに、受け入れる。
そんな生き方を標榜したいものである。
そして、自分が見る世界、自分を取り巻く環境、世界も鏡にオノレを写すが如く、らしい。
私の目に映る歓喜は、他の人の目には、地獄に映るかもしれないけど、私自身が「歓喜」と認識するなら、それで良いのだ。それは「歓喜」であるのだ。
私の目に映る世界が、私自身。
いろんな思いが混沌として、いろんな色が絡み合って、いろんな温度が溶け合って、私の世界が構築されている。
その全ての構成要因が私自身である事を忘れずにおこうと思う。
目の前で繰り広げられている闘争、抗争、たたかい。それも、私の一部なのであろう。
どんなものであろうと、愛から生まれたものは、やがて愛に還るだろう。その過程で、困惑や困難や悲しみや憎しみや絶望へと姿を変えたとしても、最後には愛そのものになる。
確信、した。
だから目の前にある風景を、事象を、人のココロを、多少不満だからといって、いじりまわす必要は全然、無いと思う。
ほっておけば、やがて愛へと還っていくのだ。
なんだか知らないけど、愛が愛へ還元するために、種々雑多の過程を通過しなければならないのが宇宙の法則のようだ。
全てを歓喜とともに、受け入れる。
そんな生き方を標榜したいものである。
>どんなものであろうと、愛から生まれたものは、やがて愛に還るだろう
この部分、心に深く沁み入ってきます。で、じんわり癒された感じが広がりました。森のどこかで、ひっそり溢れている湧き水みたいに
美しい文章。いま、ほわいと姐様の心の中が美しいからですね!
さて、試行錯誤だらけの日々で、「は?」と思ったのです。愛から生まれたものは、愛に還るしかないではないか、と。
私の目前の苦手なあの人や、不愉快な出来事に「愛」を感じるのは困難かも知れません。つうか、無理だけどさあ(笑)最終的には、これも愛に到達する「過程」の一つ、と思うと、ま、いっか、味わってみるか、という気がしてきたのです。
飛行機に乗って日本からパリへ行く時、北廻りルートだとロシア横断していきますよね。窓の下に見える雪を頂いたウラル山脈を見て「パリはどこ?」と騒いでも仕方ありませんよね。
私たちの日常は、こうしてパリに辿りつくまでに流れていく風景のようなものかも知れません。
結局のところ、大丈夫みたいだよ、Kamoちゃん。