秋田ぐらし akita life

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イザベラ・バード一向 院内に泊まる

2017年05月08日 | 日記
主寝坂と雄勝峠を、24キロの道を12時間かけてたどり着いた院内の印象については、「女性たちはまだズボンをはいていますが、なかにたくしこんでいる上着は短くはなく、長くなっています。また男性は胸当てとエプロンを組み合わせたような木綿の衣装をそれだけか、あるいは着物の上につけています。杉並木を通る院内までの下り道と、雄物川の奔流に閉ざされた院内の村はとても美しいものでした。」とあり、村までの景色に満足しているようすがうかがえる。
「院内の宿屋はことのほか心地のよい宿屋でしたが、わたしの部屋はすべて襖と障子でしきってあり、終始人がのぞいていました。」とあるが、この宿の名前などの記載はない。
 前出の伊藤孝博著の『イザベラ・バード紀行』では、郷土史に詳しい渡辺和男氏(湯沢市文化財保護審議会委員)によれば 阿部吉右衛門家だったと考えられるとしている。
院内には本陣(斎藤家)があり、津軽・本荘・岩城氏の参勤交代に使われた。本陣か混むと阿部家の屋敷も使われた。明治になると本陣は宿屋をやめ、阿部家が旅館を営んだ。イザベラ・バードの『日本紀行』の文にはバードと同宿していた者に、当時院内で流行していた脚気の対策応援に久保田から来ている医師2人や雄勝峠のトンネルが可能かどうかを調査する測量技師が6人いたとある。したがって、当時該当するような宿は阿部家であると思われる。現在阿部家の建物は存在しないそうである。

  院内から湯沢へ
 翌朝みごとな杉並木の下の湿地を九マイル(約一四キロ)を馬にのって進み、湯沢に到着。着いてみると数時間前に起きた火事で七〇戸の家が消失し、自分か泊まる予定だった宿屋も焼けてしまっていて、黒い細かい灰しか残っていなかった。そんななか蔵は黒ずんでいるものの、どれも傷つかずに建っていたとある。

湯沢ではバードが昼食をとっているが、湯沢の印象は「特別嫌気のさしそうなところです。」と書いている。
大豆からつくったあじのない白い凝乳(豆腐)にコンデンスミルクをかけたもので粗末な昼食をとったが、何百人もの野次馬が門まで押しかけて、うしろで見えない人々がはしごを出して隣近所の屋根にまで上がったので、一軒の屋根が大きな音をたててくずれ、五〇人の男や女や子供が下の部屋に落ちた。
しかし、悲鳴をあげた者はひとりもいなかったとある。
湯沢の人々にとっては、七〇軒を焼いた大火があったすぐあとに、見たことももない西洋人婦人を間の当りにして、見らずにおかれようかという気持ちであったであろう。何百人も集まっていたところに、イザベラ・バードが辿りついたと言った方がいいのかもしれない。見られるバードは物も言わず黙って見つめられているのだから居づらいことこの上ないと思うが、昼食をとった場所がどこか、壊れた屋根の家は誰の家だったのかは明らかではない。
この日は湯沢を過ぎて横手に宿泊する。



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