秋田ぐらし akita life

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イザベラ・バード久保田(秋田)に着き、滞在していろいろ見学

2017年05月12日 | 日記
 イザベラ・バードは神宮寺から岸辺は静かで美しい雄物川を舟で下り、新屋に到着し、そこから雄物川本流から支流にはいり、緑色の細く橋の多い川(旭川)を遡り、とても感じのいい二階の部屋に泊まることになる。イザベラ・バードが横手で食べ損ねた念願の「外国の食べ物」を久保田で食べることができたのである。イザベラ・バードの『日本紀行』には「おいしいビフテキ、すはらしいカレー、きゅうり、外国産の塩とマスタードが即座に手に入り、それをとったあと、わたしは自分の目が輝いているような気がしました。」とあり、このおかげで機嫌がよかったのか、久保田は非常に魅力的な、また純粋に日本的な町であると書かれている。イザベラ・バードが食した「外国の食べ物」は伊藤孝博著の『イザベラ・バード紀行』によれば

折しも明治11年、当時の石田英吉県令が音頭を取り、秋田県初の西洋料理店「与階軒」が開店した。・・・与階軒以外に往時のレストランが存在したことを示唆する記録は見当 たらず、そもそもレストランが他にあったら石田県令が自ら動く必要もないのだろうから、バードが食べた西洋料理は与階軒のものと考えてほとんど間違いないのではあるまいか。

 と書いている。与階軒の場所は川反四丁目の、旧検番の地だった辺りにあって、間口5間の大きな店だったとされるが、イザベラ・バードは伊藤氏の指摘どおり、レストランの様子に関しては何も書いていない。したがって、店で食べたのではなく、宿に取り寄せたのではないかと思われる。
 また、久保田では院内であった若い医師が見学するように勧めた病院を見学している。この病院は明治七年開院した公立「秋田病院」である。
この病院の建物は準洋風の大きな二階建てで、二階は教室に使われており、また一階は多数の寄宿生のほか100人の患者を収容している。この病院は100人の学生のいる医学校でもあり、ここを卒業すると秋田県内で医院を開業する資格が得られる。この病院の場所は現在の旭川に架かる五丁目橋(横町通り)の北東、ホテルグランディア秋田と天然温泉「華のゆ」の専用駐車場から、五丁目橋前の道路にかけての一帯にあたるそうである。
 バードは公共の建物の中でも最も美しい建物のひとつである師範学校をおとずれる。
師範学校では校長と副校長がバードをもてなすが、校長がバードと英語で話そうとするくだりがある。バードの『日本紀行』から引用すると
  「校長は英語の知識がわたしの日本語の知識と似たりよったり程度なのに英語で話をしてみると言い張 り、とても厄介でしたが、何度か試してみてこっけいな結果に終わったあと、伊藤に通訳をしてもらうことに同意しました。」
 とあり、校長の張り切り様と落胆が想像される。

 次に、バードは手織りの絹織物工場を見学していが、そこは180人の職工がいて、半分は女性であるとしている。この工場の場所は現在のJR秋田駅の南側、明田地下道付近の細谷病院などがあるブロック一帯だそうである。
 雨で足止めをくっているそれ以外にバードの宿の隣の家の人々の訪問をうけ、秋田の「神童」をみることになったり、泊まっている律儀な宿の主人の姪の結婚式に招待を受けたりしたが、バードの久保田の印象は
 「全体として、わたしは久保田が他の日本の町より好きです。それはたぶんここがとても純日本的で、昔は栄えていたのにいまはさびれているという雰囲気がいっさいないからでしょう。わたしはもう西洋人に会いたいとは思いません。」といい印象をもっている。

 イザベル・バードはいい天気の中、久保田を出発し、良好な道路を三マイル(約5キロ)は歩いている人、人力車に乗っている人、馬の引く赤い幌車、何百人の背負われている子供などなど、久保田の住民が半分もあつまっているような賑わいに出会う。

「左手には青緑色の海、久保田の家並みが周囲の緑から頭をのぞかせ、最も濃い藍色の太平山が南側の眺めを遮っています。お天気はすばらしく、夏の陽光があたり一帯にそそぎ、これほど陽気で明るい光景を日本で見たのははじめてです。男も女も子供たちも、幌車もクルマも警官も馬子も、すべてが久保田の荷揚げ港、みすぼらしいたたずまいの町港(みなと)に向っています。」

とうとう自分が乗った車も動けなくなり、クルマを降りて群集の中に分け入る。
 2016年ユネスコ無形文化遺産に登録された土崎港曳山まつりの様子は1マイル(約1.6キロ)の間、粗末な茶屋、粗末な店のある通りが人でうずまっていて、提灯がびっしりと吊り下げられていて、雑な造りの足場で支えた畳敷きの屋根付きのやぐらでお茶やお酒を飲んでいる、と書いているが、バードには出店が粗末な店に見えたものであろう。
最も人だかりがしている二台の大きな曳山は長さが30フィート(約9メートル)全体の高さが地面からざっと50フィート(約15メートル)近くあると書いている。現在の曳山祭りでは見ることのない高さである。曳山以外にも祭りの様子を詳細に記載しており、明治のころの祭りの様子がうかがえる。
バード一行は土崎を後に、八郎潟を左手に見ながら土崎にむかう人々とすれ違いながら松並木の道を北上し体調の不良もあり、虻川(潟上市飯田川下虻川)に宿をとる。



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