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Tokutomi Sohoの書についての記憶

2013-07-07 20:52:34 | 日記
A. 蘇峰91の扁額
 私事で恐縮だが、ぼくの父方の祖父は、明治の20年頃に名古屋で生まれた人で、親の都合で少年の時に関東のある寺に入れられたが、十代でそこを飛び出して一人であちこちを放浪したらしい。そのうち北海道で銀行員になったりしたそうだが、やがて東京で新しい発明品を売る店を始め、「帝国発明社」という会社にして楽器の卸売業で都心にビルを建てるまでになった。関東大震災と戦災で、二度店は丸焼けになって出直したが、戦前は朝鮮や満州にも支店を出すほど商売は儲かっていたらしい。
 ぼくが高校生になったくらいのときに祖父は88歳で亡くなってしまったが、隣に住んでいたのでスキンヘッドで夏などふんどし姿の裸体で庭に水や屎尿(肥撒きといった!)や殺虫剤を撒いている姿は焼きついている。祖父の家には、近所で最初にテレビ受像機が入ったし、広い庭があった。植えている樹木や花は、柿やイチジク、葡萄にへちま、など観賞というよりは食糧になるような実利的な植物だった。8本ほどあった柿など季節になると、いやというほどオレンジ色の実をつけるので、ぼくは柿を食べたいと思ったことがなかった。
 その祖父の家には、壁や欄間に美術品がいくつか飾ってあった。たぶん景気がいい時代に、成金趣味で美術品や骨董品を買い漁ったことがあったのだろう。床の間の掛け軸にもいろいろな絵があった。子どものぼくは、そんなものの良し悪しは判らなかったが、欄間の和服の若い女性が花を愛でている綺麗な日本画と、柱の能面の恐ろしい表情が記憶にある。祖父が死に、後を継いだ伯父も亡くなって、バブルがはじけた時代に祖父の家は売られてマンションになってしまった。あの美術品や骨董類もたいしたものではないにしろ、処分されたのだろう。
 そういえば・・、その時に祖父の家の欄間に飾ってあった扁額を、父がもらっていいかといったらそんなもの形見にあげるよ、といわれ実はうちにあることを思い出した。それは横に長い書で「貴為和以」という毛筆四文字で、子どものぼくはいつも左から読んで「きためわい」と憶えていたが、それが聖徳太子の十七条の憲法の一節だということを中学の歴史で初めて知った。和書では文は右から左へ読むものなので、横書きでも右から左へ書いたのだった。つまりこれは和を以って貴しと為す、と読む。左端に署名があって「蘇峰九十一」とある。「蘇峰」は子どもには難しくて読めないが、九十一なら読めた。これを書いた人は蘇峰という九十一歳の老人なのだということを、祖父が死んだ頃に気がついた。
 高校の日本史で「徳富蘇峰」という名前が、明治時代のジャーナリスト、言論人としてちょっとだけ出てきたが、その文章を読むこともなく、弟の徳富蘆花の方が世田谷区にある芦花公園の地名になるほどの高名な小説家であることは知っていた。大学生の頃、徳富蘇峰は太平洋戦争を鼓吹し、開戦の詔勅を起草した右翼的な論説家だったという文章をどこかで読み、そんな奴の書を家に飾っていることをちょっとマズいと思った。しかし、蘇峰のことはそれだけで忘れた。
 幕末維新から太平洋の戦争が敗北し、戦後日本が経済成長に向い始めるまで、日本の近代史を生きながらえた徳富蘇峰とはいかなる人間だったのか?



B.明治の青年とキリスト教について
 国民的歴史小説作家、司馬遼太郎の明治維新に対する視線は、近代文明の武力と政治力の優位に立つ西洋列強の帝国主義的野心に対して、極東の小さな島国の若者が、徳川の封建身分秩序を打倒して、たった30年ほどの間に近代国家を作ろうとした涙ぐましい粉骨砕身の努力を、奇跡的な出来事として愛(いとおし)むものだった。それは「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」などの作品で、広く世に普及したような、志高い若き下級武士の革命期の血の滲む成功物語になった。それはそのまま明治維新と文明開化の赫々たる成功としての日露戦争、そして愚かにも戦後の日本で「美しい日本」「優秀な日本人」という、自己陶酔的な美辞麗句を麻薬のように流布させた。
 パイルの本を読めば読むほど、ぼくたちは明治という時代を誤解してきたと思う。いや、誤解というよりはそれを遠い過去の物語に追いやることで、帝国日本の輝かしい成功という架空の物語を、ストレートにぼくたち自身が無意識のうちに信じてしまった。でも、明治20年という時点に目を据えて、そこに進行していた事態の意味、そこで生きていた青年、それを取り巻いていた国際情勢、それを客観的に見たとき、日本の若者が直面していた課題は、いかにこの弱小で古臭く、いつ西洋外国に植民地にされ、奴隷にされてもおかしくないような危うい国の同胞に安全な生活をなんとかして実現させ、貧困から救おうとすることだった。明治の若い知的指導者たちは、立場はいろいろ異なっていたにせよ、この国の未来を確かなものにするには、まず西洋の進んだ文明、とりあえずすぐ役に立つ軍事や科学の知識技術だけでなく、新しい時代にふさわしい人間はどうあるべきか、西洋文明の中心とは何かを学ぼうとした。意欲溢れるかれらは、先進国であるイギリス・フランス・アメリカ、そしてドイツの文明の背後にあるキリスト教を学ぶ必要があると思って、宣教師の開いた学校に入った。
 
 「一八八〇年代に登場した新しい世代の代弁者として最も広く認められていたのは、おそらく徳富蘇峰(1863-1957)であっただろう。かれは、何としても日本に進歩的な西洋社会を作りたいものだという、多くの日本の青年たちの意気込みを表明することによって、かれらの想像力をとらえ、またかれの著作やかれが編集した雑誌・新聞は自覚的に新旧両世代間の亀裂を描き出した。一人の青年としてのかれの思想的展開と、かれの思想の広汎な受容、およびかれの思想のその後の変容は、文化的アイデンティティ探求についての、多様で基本的な諸側面を物語っている。(中略)
 徳富猪一郎――成年においては徳富蘇峰という筆名によって、より知られるようになるのだが――は、一八六三年に九州という南の島の、熊本と鹿児島という二つの城下町の中間にある村で生まれた。かれは何代にもわたって熊本地方で地域の重要な行政職に就いていた富農の家の長男であった。徳富の先祖たちは、地方の他の素封家と婚姻関係を結んで、武士の特権の多くを享受する家柄を形成していた。すなわち名字帯刀の特権や、藩校で学ぶ権利を有していたのであった。しかし、かれらは本来の武士ではなかった。つまり、かれらは、その名望や権力が根をおろしていた田舎に留まって、地主としての利益を保護し増進していったのであった。
「豪農」と呼ばれた富農は、徳川社会の伝統的な構造の枠にあてはまりにくい変則的な社会集団であった。徳富はかつてこう書いている。平民でも貴族でもない「郷紳」は、「封建平民の酸味を嘗めたれとも、未た卑屈になるに至らす、封建武士の甘味を喫したれとも、未た高慢なるに及はす」。多くの武士たちよりも教養と財産があった豪農は、かれらの前進を阻む階級制度によって、しばしば挫折を味わうこととなった。そのような挫折ゆえに徳富の祖父は、自分の息子たちの教育に大きな努力を注ぎ込んだのであるが、それは明らかに、息子たちの将来を切り拓きたいという希望にもとづいていた。
 たまたま、かれらの好機は、変革の志を持つ武士との結びつきから生じてきた。徳富の親族のうち何人かは横井小楠(1809-69)の弟子であり信奉者であった。横井は、ペリー来航時以後の時期の国民的政治運動において、きわ立った役割を演じた人物である。熊本の中級武士の家の次男として生まれたかれは、熊本に私塾をつくり、そこでかれの改革思想を展開し始めた。朝廷にたいする忠誠を強調したということもあって、横井は藩の保守的な執行部の不興を招く結果となり、用心深い藩士たちもかれを避けた。しかし、かれは近隣の藩の武士の中から、そしてまた富農の青年の間から、熱心な信奉者をひきつけたのであった。(中略)
 徳富は、かれの自伝の中で、かれ自身の思想に及ぼした横井の影響力を強調しているが、この横井の思想はと言えば、かれの同盟者たる豪農たちの改革びいきの影響を受けていたのではないかと思われるのである。横井は西洋の諸制度を称讃していたために、ついには排外的な武士に狙われ、一八六九年に暗殺されてしまった。」ケネス・B・パイル『欧化と国粋』講談社学術文庫、pp.51-54.

 尊王攘夷の沸騰する時代に、西洋文明に理解を示すだけで、刺客に命を奪われ命を落とした知識人は何人もいた。そういう開明派のうち、明治維新以降に思想的影響力をもてたかどうかは、皮肉なことに彼らの身分に対応していた。その点で有利だったのは、そこそこチャンスが与えられた下級武士の横文字が読める洋学者、福沢諭吉や勝海舟は代表的人物。同じ洋学指向でも農民階層になると、世に出るのにかなり苦労する。しかし、経済力は富農の方がはるかに豊かだった。

「おそらく、他のいかなる社会集団よりも富農は、一八六八年以後の文化的変革から得るものが多い立場にあった。かれらは伝来の文化的伝統の世界の中に確固たる地位を持つことはなかったが、それにもかかわらず、かれらは新しい文化の仲裁者たる資質と手段とを有していた。実際的な精神の持ち主であるかれらは、早くから西洋の技術にたいする関心を示した。徳富の父は、横井の二人の甥が一八六六年に洋学修行のためアメリカへ赴くにあたって旅行の費用を援助したし、同じころ、徳富の伯父の竹崎律次郎は、熊本郊外に広大な実験農場を設立し、そこで西洋の農法を試みた。後年、一族は製造工場や新聞や教会およびその他の新しい文化的な機関の振興にもあたっている。疑いなく、これら富農の西洋の学習にたいする熱心さは、一つには洋学導入がかれらの前進にたいする文化的障害を除去するための機会を与えたからであった。
 徳富の一族が指導的役割を演じた最も野心的な事業の一つは、一八七一年における熊本洋学校の設立であった。(中略)かれらは、ウェスト・ポイントの卒業生であるリロイ・ランシング・ジェーンズ陸軍大尉を雇い入れ、校長とすると同時に、英語・科学・数学・世界史を教えさせた。
 創設者たちは教育課程に一つの条件を付した。それは、西洋倫理の学習を含まないということであった。ジェーンズは、アメリカから到着したとき、伝統的な日本の倫理も新しい西洋の学問とともに教授されるであろうこと、および徳富の伯父の竹崎律次郎が規則的に儒学の経書を生徒に講義することになるだろうということを言いわたされた。徳富一族は、西洋の技術的で実用的な学問を採り入れる際の指導者であったけれども、自分たちの儒学の学識については誇りを持っていた。かれの父も、それからまた熊本に自分の塾――徳富は洋学校に入る前にそこで学んでいたのだが――を持っていた叔父も、ともに儒学者とみなされていた。洋学校に入学する以前に徳富が受けた正式の教育は、中国と日本の古典を強調していた。しかしかれは、新しい学校で勉強を始めたとき、『論語』や『大学』はもう時代遅れであることがわかった。」パイル『同書』pp.54-56.

 江戸時代を通じて「学問」と呼ばれた、儒教の四書五経を暗記し学ぶことがもはや時代遅れであったことは天下に明らかだとしても、それに替わる日本人の倫理道徳を支え現わすものは、明治の日本には見えてこない。あるのは今まで文明の中心として大帝国だった中国への尊敬を、さっさと西欧に切り換えた無節操な西洋崇拝と、維新で既得権益を奪われた旧地主・庄屋や寺社の僧侶や神主、身分に安住していた上層武士といった中途半端な過去に生きる知識階級である。この連中の唱える日本の神代以来の麗しい伝統や、西洋に対峙できるサムライの大和魂などという空虚な幻想は、西洋の本質を見ようとせず、過去に逃避する言説に過ぎないと写った。儒教的倫理と封建道徳をベースに、維新の動乱を勝ち抜いた先行世代に対して、本格的な西洋の文明を西洋ネイティヴ教師の語学から徹底的に学んだ若い世代の旗手、徳富蘇峰は30代以上の世代を過去の亡霊として、全面否定していくことになる。その果敢な意欲は、かれらが新しい時代にいかに夢を抱き、自分の可能性に血をたぎらせたかを想像させるに充分である。

「徳富は、学校に吹き荒れていた熱情に巻きこまれ、熊本郊外の花岡山山頂において三十四人の級友とともにキリスト教の信仰告白の儀式に加わった。
 かれらの宣言は、両親の世代との鋭い対立をひき起こした。横井小楠の息子は誓いを立てた一人であったが、かれの母親(徳富の叔母)は、かれが誓いを取り消さなければ自殺すると言って迫ったといわれる。和解は、親族会議で息子が聖職者にはならないことに同意したことで成立したのである。海老名弾正という学生は、父親が断食まで始めたにもかかわらず、自分の新しい信条の放棄を拒否し、王陽明の教えの中に父に背く自分の行為の正当さを見出した。王陽明学派によると、人はいったん仕官したならば、たとえ伝統的孝行に反するとしても自分自身の良心の命ずるところに従わなくてはならないのである。(中略)
 徳富の両親は、他の親ほど激怒したわけではなかったが、それでも蘇峰の聖書や讃美歌集を焼き棄てるというほどの怒りようであった。蘇峰は当時十三歳で、奉教書に署名した他の多くの者より若かった(海老名は二十歳、横井の息子は十九歳だった)。後年における蘇峰の回想によれば、かれは単に年長の同級生に倣っただけだった。かれはあまりにも若かったので、宣誓をまったく理解することができなかった、と述べている。しかし、そうであったとしても、われわれはこの事件が、蘇峰がのちに明確なイデオロギーとして提示することになる青年意識の発端を、かれの心の中に植えつけただろうということを推測することができる。
 花岡山の誓いをめぐる対立がもとで洋学校は一八七六年の秋に閉鎖せざるを得なくなり、蘇峰の両親は就学を続けさせるために、かれを東京へ送り出した。しかし、英学校でしばらくの間勉強したのちに、徳富は両親の意向にもかかわらず、アメリカの宣教師の援助によって京都に設立された新しい学校である同志社に入学し、かつての熊本の同級生の何人かと合流した。二年近くたった一八七八年の春、蘇峰がはじめて熊本に帰郷したとき、かれの遠慮のないキリスト教徒としての見解は、両親を当惑させ、友人たちの非難を招いた。それにもかかわらず、かれはこのあと同じ年に、〔両親から、托された〕弟の蘆花を連れて京都へ戻り、蘆花もまた同志社に入学することとなる」パイル『同書』pp.56-58.

 江戸幕府によりご禁制とされていたキリスト教について、江戸時代の大人たちは当然それがどんなものか、何も知らなかった。しかし、幕末に開国に踏み切った時代に生まれた新世代にとっては、抑圧的な親たちの秩序をぶち壊し、自分たちの方が文明の方向に沿っている、これからは自分たちの方が世界の主流になるのだ、という自己主張にとって、キリスト教、とくにプロテスタントの教えは大きな援軍に見えたはずだ。若くしてクリスチャンになる下級武士や豪農の息子たちが、日本の各地で現れたことは、静かに進行した世代間の闘争を髣髴させる。
 徳富蘇峰という名前は、明治20年に特別な輝きを放っていた。
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