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社会がひとつの方向で一直線に進化するという発想について

2013-07-09 22:18:18 | 日記
A.政見放送なんか見ちゃった!
 参議院選挙の候補者の政見放送というのを、たまたまNHKでやっていたので見た。埼玉県で出ているというある30代後半とみえる候補者は、いかにも慣れないTVカメラの前で、かなり落ち着かない様子で語っていた。今の日本で、政見放送などというものをちゃんと視聴しようという人は、候補者の身内以外にはほんとんどいないだろうと思われるが、ぼくにはこの候補者が語る政見、というより歴史観がちょっと興味深かった。かれの政党はある宗教団体をバックに多くの候補者を立てているのだが、みなその教祖ともいうべきカリスマの唱える歴史観を、同じように繰り返している。
 いわく、日本はかつて世界に誇る素晴らしい経済成長を遂げ、アメリカに並ぶほどの豊かで強い国を築いたのに、誤った政治によって過去の栄光を失い、長い停滞と衰退を招いて今日、中国や韓国のような劣った民族に追い抜かれようとする危機にある。これを打破し、再び輝かしい国家を復活させなければならない。それには、既得権に安住する左翼的勢力を潰し、規制緩和による力強い経済力と憲法を変えて強力な軍事力を実現し、再びこの国を世界で一番の他国の脅威を跳ね返す輝かしい国家にしなければならない。
 なるほど、こういう主張が今の日本、とくに過去の歴史を知らない若い世代に何か訴えるものがある、のかもしれない。あの1980年代のバブリーな経済大国の幻影を起点に、その後に成長してきた世代には、日本には昔、輝かしい栄光の時代があったのだ、と思ってみることが、自分自身の自尊心アイデンティティを力強く裏付けてくれると思ってしまうのだろう。
 しかし、歴史観というにはあまりに幼いこのような見解は、かつての高度経済成長を達成した日本の具体的な現実、そしてその前の戦後の苦闘の時代、さらにあの悲惨な戦争のプロセスについてほとんど無知な認識のうえに築かれたものだと言わざるを得ない。さらにいえば、同じようなことが、もっと昔に繰り返されていたということを、もはや日本の歴史教育において何も教えられていない、ことが大きな問題だとぼくは思った。
 明治の青年、新しい時代に新しい教育を受けて成長した人々が、自分の国に誇りをもつためにいかなる歴史観を構築しなければならなかったか、戦後の日本を生きてきたぼく自身が、そのことをちゃんと知らなかったし、考えてこなかったと反省する。GNP世界2位の高度経済成長の数字的豊かさが、国民のマジョリティーを一瞬、高慢で傲慢な自己陶酔に溺れさせた時代を、歴史の起点にしてものを考えた愚かさが、今の惨状を招いている。振り返れば、国家の破滅を招いた教訓は、明治維新にはじまる日本の近代産業化・近代化の歩みにおいて、苦闘の果てに日露戦争の勝利を実現した。その日露戦争というかろうじて勝った軍事的成功を起点に、われわれは西洋文明を簡単に凌駕したのだと妄想した後続世代が、国民の無辜の民の命を無残に奪って破滅に至った昭和20年を招いたことを、日本の戦後歴史教育は、ほとんど無視してこどもたちに教えなかった。つけが回っている。



B.H・スペンサーの社会進化論がむさぼり読まれた時代があった
 またパイルの引用ですまないが・・明治20年の徳富蘇峰の言説をみてみたい。

「徳富の思想は、日本の伝統文化やそれが生み出してきた特性にたいする否定的なイメージによって貫かれていた。かれは日本の過去を否認し、近代国家にとって本質的な要素を何ら見出さなかった。かれの考えとしてあったのは、新旧の要素の絶え間ない闘争によって引き裂かれている世界であった。かれの心の中には、静態的な伝統社会と、その方向で日本は進化しつつあると考えていた動態的な新しい社会との間の、深い亀裂が存在していた。日本は全面的な変化を遂げようとしており、過去とはっきり決別しつつある。そして、新しい日本は完全に西洋的な社会になるだろう。「東洋的の現像漸く去りて、泰西的の現像将に来たらん」とかれは述べている。
 徳富の初期の著作に、近代の日本人に自尊心を与えるような日本の個性についての何らかの感覚を探してもむだであって、逆に、恥ずべき否定的な自己認識(アイデンティテイ)のみを見出すことになる。独特な日本の文化的特性が存在することは承認されているが、それらの価値は否定されている。伝統的な政治手段・思想・芸術形式・価値観・人間関係のあり方は、批判されたうえで、それらとははっきり異なる西洋的な特性と対比されている。徳富は、すべての国家を同じ方法に沿ってつくり上げる社会進化の普遍的な過程が存在することを確信していた。
 徳富の見解が新しい世代の人々にアピールし、かつ広く受け容れられたという動かしがたい証拠があるからよいようなものの、もしそういうことがなかったならば、われわれは徳富の極端論を個人的な異常として片づけてしまうであろう。しかし、かれが、自分が生きている社会の伝統からの離脱を表明したにもかかわらず、同時代人から疎外された孤独で絶望的な存在でなかったことは明白である。むしろそれとは逆に、われわれにとってかれの存在がとくに重要な意味をもつのは、かれの思想の代表的性格についてである。それならば、どうして、かくも徹底的な文化的遺産の否認が、かくも広範な受容と承認を若い日本人の間に獲得したのであろうか。
 第一に、徳富の欧化主義は、社会における青年の重要性の増大を宣言するためのものであった。伝統的文化を否認するかたちで、かれはたんに過去を清算しただけではなく、同時に大人の世代の権威から青年が独立すべきことを主張していたのである。1870年代および1880年代における教育が、若い日本人に新しい文化についての知識とその真価を認めることを伝えるにつれて、社会発展の前段階で形成されたかれらの年長者たちの学問と技能は、しだいに不適切で時代遅れで現実と食い違った、不信を招くようなものになっていった。
 産業社会に向かう急速な進化において、新しい専門的職業のために必要な知識を持っていたのは、しばしば新しい学校の最も新しい卒業生であった。進歩した西洋教育は、青年にとって特別の強みであった。なぜならば、それは社会的上昇に高い価値を置く社会において、出世への新しい道を開くものだったからである。それは、自己表現の新しい形式を教えたし、また産業社会に適合的な新しい価値体系や諸制度を教えた。多くの点において、かれらは伝統的文化が過去のものになることから恩恵を受ける立場にあったので、青年はおのずから欧化主義についての徳富の信奉を受け容れたのである。
 第二に、徳富は青年の歴史的経験と合致する新しい方向づけを示したがゆえに、新しい世代はかれの思想に共鳴したのである。明治時代初期における変化の急激な速度は、歴史的発展において鋭い亀裂が生じたという印象をつくり出し、過去との連続についてのかれらの意識を崩壊させた。この崩壊のただなかで成長した若い日本人は、今や、自分たちの独特の経験を何らかの形で過去と未来に関連づけ、そうすることによってかれらの時代の意義を理解し評価するための展望を示してくれるような、新しい歴史観を求めていた。」ケネス・B・パイル『欧化と国粋』講談社学術文庫、pp.85-88.

 社会学を学んだ者には、覚えがあると思うが、フランスのA・コントは社会学の母、イギリスのH・スペンサーは社会学の父、などというのは日本の社会学だけの伝説だろうか。コントはその後のデュルケームに繋がるが、スペンサーというのはもはや忘れられた名前で、軍事型社会から産業型社会へ、ダーウィンの生物進化論を社会の発展に持ち込んだ社会進化論、という言葉だけは社会学史の教科書として残っているだけだ。しかし、明治の知識人たち、とくに新しい時代に未来を構想した若者には、スペンサーは文明の行く末を明確に提示した最新理論としてむさぼり読まれたのである。

「かれは、自分の生きている間の日本の革命的な変容が、西洋において見られる歴史的発達の型に関係していると論じた。社会構造の進化についてのスペンサーの概念を用いて、徳富は明治日本で進行中の変化を軍事的貴族的社会段階から産業的民主的社会段階への移行であると説明した。スペンサーと同じく、かれは新しい社会秩序への推移は普遍的な歴史的な力(徳富はそれを「時勢」「必然ノ勢ヒ」「天下ノ大勢」「世界ノ気運」などと、さまざまに呼んだが)によって押し進められる、逆もどりできない過程であると信じていた。徳富は、歴史的因果関係についてのこのような見解こそが、明治維新の本質的な逆説を説明するものであると理解した。すなわちかれが提起した問い(そして歴史家たちは今なおかれのこの問いをくりかえしているのだが)は、封建貴族が社会変革を自分たちの特権が廃止されるほどにかくも徹底的に遂行したことをいったいどのように理解すべきか、ということであった。
 かれは王政復古の過程で、「例外的な因果関係」がはたらいているのを見ることができた。王政復古の指導者たちは、封建社会を打倒するための計画を何ら前もっては作成していなかった――というのは、そのような革命はかれら自身の特権的地位を破壊してしまうだろうからである。その代りに、かれらは仮借ない歴史の力によって己の意図如何にかかわらず、一つの改革からもう一つの改革へと導かれ、押し流されていったのだ。こうしてかれらは、「知ラズ覚エズ、我邦ノ武備社会ヲ一変シテ生産社会トナシ、貴族社会ヲ一変シテ平民社会トナス大基礎ヲ築キタルナリ」とかれは説明している。
正宗白鳥は、徳富の歴史観は振り返ってみると「夢想的」ではあったが、1880年代と90年代においては、かれ自身と同じような青年たちの希望や期待に合致するものであったと回想している。」パイル『同書』pp.88-89.

 安部晋三氏をはじめとする、現代日本の保守派というナショナリストは、日本の伝統とか美しさとかを口にするのだけれども、だいたいは明治維新の志士を英雄にするだけで、それ以前とそれ以後の日本の思想史に何が起こっていたのかを語ることはない。それは何も知らないからだ。自分に都合のいいことだけを繋ぎ合わせて、伝統とか歴史とかを語ることほどインチキはない。
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