A.ものを考える習慣と本を読む習慣が消滅する?
そろそろ大学は春学期の定期試験の季節で、試験やらレポートやら、出席やら成績やらを気にする学生さんたちは、単位を落とさない程度に、あるいは良い成績が取れる科目と取れない科目を見計らいながら忙しく暮らしている、ように見える。でも、勉強などほんとはする気がないのに、成績とか単位とかばかり気にしてる連中を下らねえと横目に見て、気ままな時間を好き勝手に過ごす少数者が必ずいて、かれらはこの時期、単位を落とし成績不振とみられてますます学生一般の流れから遠ざかる結果になる。卒業や就職内定は遠ざかる。大学の教師としては、ちゃんと出席して自分の講義の内容を理解し、課題をこなして試験の結果もよい学生は、よしよしと問題ないが、半分は欠席してるくせにレポートや試験では、自分勝手な意見や批判をびっしり書く、こういうクセのあるタイプの学生には結局単位はあげられない、というのが普通だろう。でも、ぼくは自分が大学の頃そういう学生だったので、こういう不真面目な学生をばっさり切る気が起らない。大学の成績や単位など、人生にとってどれほど意味があるのか?ない、と思ってしまう。
いつの時代にも、若い学生はこの世界をいかなるものか、どうやって世界を理解すればいいのか、先人の知恵を学ぶために本を読む、それが大学の勉強だ、という物言いがなされてきた。しかし、今の大学生を見ていると、まず本は読まない。読むとすれば授業の課題で発表したりレポートを書くために仕方なくつまみ食いするだけで、それも自分で書店に行って購入したりはせず、ネットで要点をコピペすれば単位が取れるかどうか、だけの関心である。書物に金を出すインセンティヴがない。つまり、日本の大学生のマジョリティは、ある知的関心から自分で課題を立てて、これはと思う本をじっくり読むというような習慣がない。本を読む代わりに必要な情報はどこから得ているかというと、スマホである。過半数はかつてのようなテレビや新聞雑誌もほとんど見ていない。
インターネットを基盤とするSNSや画像動画の無料に等しい普及は、四六時中のアクセスで他のメディアの必要性を侵食しているかもしれない。SNSは双方向のメディアで、友だち親密圏の交流を促進すると当初から言われてきたが、空間に制約されない人的交流はかえって趣味関心の偏る個別的親密圏を疑似的に構成し、その中だけに没入する場合、他の情報・メッセージを遮断する結果になりやすい。自分に心地よい情報だけに浸り、いやな物事、嫌いな人物は接触しないか、ないものとして無視する。若者論の文脈では、昔のTVゲーム以来の閉じたヴァーチャル世界への引きこもりが危惧されていたが、ここまでスマホ依存になってくると、大学生の知的世界(知的でない世界は広がっているのだろうが・・)の狭量化を心配した方がいいかもしれない。
先生、それはちょっとヒドいんじゃないですかあ、今の学生だって少しは本読んだり考えたりする気はあるんですけど・・、という声が挙ってくれればいいのだが。やっぱり読書というものの価値を知る体験と習慣が、高校生段階くらいで決定的に欠けているという気がする。これは日本語で読める本でこうなのだから、英語など他の言語で書かれた書物などまず読めるはずがない。言語に習熟していない政治家や企業人ほど、日本人はもっと英会話能力を高めないとグローバル競争に勝てない、などと言う。その含意は、自分は英会話得意じゃないから、若い連中にはもっと会話力をつけて助けてくれ、というだけである。その程度の語学力なんか、グローバル競争にはど~でもいいのである。きちんと書かれた本を読まないということは、世間に顔の知られた人の言っている言葉、それも数行の短いメッセージだけで物事を考えるということで、文字の読めない知的レベルに退行することである。つまりは、ものを考える能力に決定的に欠けてくるということだ。さらに、本を読むといっても、今の日本に溢れかえっている本の50%くらいは、時間を費やす価値のない娯楽ジャンク本、あとの30%くらいはマニュアル的実用本であるから、残りの本(それも多くは新書や文庫)から何を読めばいいかを、まず大学は学生にオリエンテーションしなければならない。しかし、その動機付けが、成績や単位という魅力に乏しい脅迫のようなものだから、いっこうに多くの学生はまともな読書に手を出さないのである。
(理系文系問わず)大学生が本を読まない!という恐ろしい事態!それを大学生自身が、まったく恥ずかしいことだとは思っていない、という事態は、この国の未来に深く危惧を抱かせる。大衆とはほんらいそういうもので、大学が大衆化してしまったから、本など読まない人間が大学生になっているだけで、別に嘆くことではない、という意見もあるだろう。その場合、同世代人口の選ばれた0.5%だけが学ぶエリート校で、しっかり高い読書能力と思考力を磨く人材がいれば大丈夫なのだ、という結論になる。ぼくも社会学的に教育の機能を考えれば、そういう選択がないとは思わないが、いちおうエリート校ではない大学教師としては、大衆大学生を見下して、ど~せ君たちには言ってもわかんね~だろうなあ、と放り出すわけにはいかない。

B.若い教師と若い学生
パイルの『欧化と国粋』は、明治20年という時点にしぼって、そこに登場した新しい西洋の教育を受けた若い青年の言説を丁寧に追うことで、東洋の果ての島国に成立した奇妙な国家が、その新世代にどんな視線でどういう方向に進もうと考えていたのか、を炙り出そうと試みている。まだ20代半ばの青年が、西洋文明そのものを必死で吸収し、幕末以来の過去と自由民権論者を含む上の世代を否定し、日本がこれから進むべき道を述べ主張して、多くの知的な若者に強い影響を与えたという事実。そこでは、徳富蘇峰の率いる「民友社」と陸羯南が主催する「政教社」が主張を異にしながら並立する。
蘇峰の論説は、いわゆるストレートな欧化論で、西洋の技術だけでなくその基礎にある思想をも受容して新しい国家を作るべきという、リベラリズムである。日本は西洋のような社会にならなければならない、という格調高い蘇峰の文体は、読む者にわくわく未来への希望を与えたであろうと思われる。これに対して、政教社の三宅雪嶺や志賀重昂たちは、西洋文明を思想も含め学ぶ必要は認めるものの(彼ら自身、西洋の言葉や学問は十分学習していたが)、欧化に突き進むのは危険なものがあり、結果的に日本の自立(今ならアイデンティティというところだが)を失わせると主張した。ただ、この時点ではその代案が明確にあったわけではない。
「西欧文明について深く学び、またそれを賞讃していたにもかかわらず、徳富の欧化主義論を受け容れることができなかったもう一人の若い日本人は、三宅雄二郎であった(かれは三宅雪嶺という筆名によって、より多く知られるようになった)。
三宅と徳富は、日本のジャーナリズムにおけるその指導的役割のゆえに、しばしば比較される。両者はともに明治維新の前夜に生まれ、ともに第二次世界大戦後の日本占領を見るまで生きながらえた。また両者とも、本格的な学識経験を大衆的ジャーナリズムと接合した。徳富は驚くべき多産な歴史家であり伝記作家であったし、三宅は歴史哲学者として疲れを知らなかった。しかしながら、かれらはその長く並行的な経歴を通じて、多くの点において知的な対抗者であり続けたのである。
三宅は武士の三男として、1860年に金沢で生まれた。三宅の父は、かつて江戸の有名な儒学者古賀侗庵の弟子であり、大名の家老のお抱え医師であった。医学は三宅の母方においても同様に家業であった。だが、かれの父親が伝統的な漢方を用いていたのにたいして、彼の母方の家族は進歩的な気風で知られ、彼女の二人の兄弟は長崎においてドイツ人医師シーボルトのもとで学んだ。
三宅の初期の教育は、儒教の古典の暗記と長時間の書道の練習に重点を置いた伝統的な型のものであった。十一歳のとき、かれは金沢の仏学塾に入学、のちに県立の英学校に通学し、それから名古屋の愛知英語学校に通った。こうして十六歳のとき、かれは東京大学予備門に入学する(その直後に志賀重昂が入学している)。三宅は、かれの自叙伝の中で、これらの学校ではほとんどの教師が外国人で、学国の教科書を使っていたことを回想している。
「名古屋で(は)・・・上級の教師は・・・特に米国人が多く、地理学の如き、北米合衆国を主にし一州毎に山河都市等を暗記せねばならなんだ。・・・東京の開成学校へ移るや、更に外国人が多く、愈々語学と学問とを混同した」
その結果、三宅は自分の時間の多くを、近くの儒教の寺院である湯島聖堂の書屋で過ごした。この時期のかれの主たる関心は東洋哲学であり、それに熱中の余り学校制度の改正を見過ごしてしまったほどであった。新しい規則の遵守を怠ったため呼び出されて注意されると、三宅は怒って退学し、金沢へ帰ってしまった。のちにかれはその学校に再入学し、そして予科を終了したのち、1879年に東京大学に入学した。かれは哲学(西洋や日本の哲学ばかりでなくインドや中国の哲学)に熱中し、こうしてすでに、生涯をつうじて没頭するようになる仕事――東洋哲学と西洋哲学の教説を総合するという試み――に関心を持つようになっていた。
三宅の新しい教師たちの多くは外国人であり、最もすぐれていたのは若いアメリカ人のアーネスト・フェノロサであった。わずか二十五歳、ハーバードを卒業したばかりのフェノロサは、1878年8月に来日し、東京大学の最初の哲学教授に就任した。三宅はのちに、彼の自叙伝の中で、その若い教師の熱弁と雄弁は、たちまち日本人学生の注目を集めた、と回想している。フェノロサの方でも1880年、かつてのハーバードの級友にあてた一通の手紙の中で、かれの熱心な若い学生たちに関心を寄せていることを密かに洩らしている。
「私は、この国が少なくとも相対的には深刻な無知の状態と呼ばれて然るべき段階から脱してまだ間もない事を考慮するならば、この大学は驚くほど恵まれた条件にあると思いました。およそ二〇〇名の学生は特別の選択科目を履修し、英語の本を読み、英語を流暢に話し、そして書いていました。あえて言うならば、これほどすぐれた一群の青年たち、すなわちこれほど熱心な研究者で鋭利な思想家たちは、世界中のどの大学でも見出すことは出来ません」
(Lawrence W. Chisolm, Fenollosa: The Far East and American Culture,New Haven, Conn., 1963 ,pp.39-40.)
テキストとしてフランシス・ボーウェンの『近代哲学』を用いて、フェノロサはデカルトからヘーゲルに至る西洋思想の発展を講義した。三宅は、この序論的概観は日本人の耳には「画期的」であったと記している。ハーバードにおいてスペンサー・クラブをつくったフェノロサは、かれの講義の多くを、この独特なイギリスの哲学者のために割いた(外山正一はイギリスとミシガン大学で学び、三宅にスペンサー社会学について多くを教えたもう一人の教師であった)。」
ケネス・B・パイル『欧化と国粋』講談社学術文庫、pp.99-102.
日本に来たフェノロサがハーバードを出たばかりの25歳、三宅雄二郎が東大でかれの講義を受けたのが19歳、ひどく若い。もちろん授業もテキストも全部英語である。徳富や三宅たちは、世界の現状と文明の方向を一気に知りたい、西洋社会のもとにある流れを総合的に知りたい、要するにハーバードやオックスフォードの大学生と同じレベルの知識と思考力を、この日本で一刻も早く身に着けたいという、野望を抱いていたわけである。こういう学生に教える若い教師は、ずいぶん楽しかっただろうと思う。何しろかれらは知的欲求と思考力に恵まれた、若きエリートだったのだから。そこで、スペンサーはこういう学生の期待に、ぴったり答えてくれる総合的な社会学だった。そして、それを学ぶと、日本という国とその人民の現状は、限りなく情けない、西洋と比べることも恥ずかしいような欠陥しか発見できなかった。
「三宅は、日本が西洋諸国のように急速に進歩できなかった歴史的な根拠を求めていたが、徳富同様、かれも国民の伝統的性質に欠陥が存在するのを感じていた。日本の国民性を自慢する人々もいるが、しかし冷静に日本人の特性を検討するならば、実際には卓越したものはほとんど見出し得ないだろう、とかれは述べている。
「外国人ハ論ナク内国人自ラモ往々日本人民ノ忍耐力ニ乏シク軽躁浮薄ニシテ小成ニ安ンジ偏ヘニ模倣ヲ事トスル由ヲ云ヘリ、某氏・・・曰ク、戊辰以後ニ人民ヲ入レタル器物ハ、昔時ヨリ善キ形状ナルヘケレトモ、人民ハ矢張旧ノ人民ナリ、下ニ驕リ上ニ媚ル人民ナリ、無学文盲ノ人民ナリ、酒食ヲ好ム人民ナリ、読書ヲ好マサル人民ナリ、智識浅短局量褊小ナル人民ナリ、私智ヲ挟ミ小慧ヲ行フ人民ナリ、勉強忍耐ノ性ナキ人民ナリ、自立ノ志ナクシテ人ニ依頼スルヲ好ム人民ナリ、観察思想ノ性ニ乏シキ人民ナリ、金銭ヲ用フルヲ知ラサル人民ナリ、約諾ヲ破リ信義ヲ重ンセサル人民ナリ、友愛ノ情ニ薄ク合同一致シカタキ人民ナリ、新発明ヲ務メサル人民ナリ」(石浦居士「日本人民固有ノ性質」『東洋学芸雑誌』1883年1,2月号)
三宅は、そのような見方は極端かもしれないと認めながらも、なおその多くの点は真実であると主張している。しかし、徳富とは違って三宅は、日本人が単純に西洋人をめざし、かれらの先例を追い、かれらの特性を受容するというようなことを熱心に説く気にはなれなかった。そのような政策は、ただ日本人の屈辱を増すだけであるし、そのうえ、それは民族的性格が形成された過程を無視するものであった。国民性は、人民を取り巻く環境の所産である。過去というものは、ある人たちが望むほどたやすく逃れられるものではない。」ケネス・B・パイル『同書』pp.103-104.
石浦居士なるペンネームの文章は、日本人ボロクソである。下に驕り上に媚びる、酒食を好み読書を好まない。知識浅薄で小賢しく、口うるさく騒いで結果だけを焦って勉強忍耐せず、人にばかり頼って自立していない。事実を観察し思考する習慣がなく、金銭をどう使うかの知恵もない。約束を平気で破り人を信じない。友愛の情が薄く、意見は常に一致しない、創造性のない人民であると。人民蔑視のエリート思想であるが、そう思いたくなる現実が、江戸時代からずっと、(たぶん21世紀の現代にも)生き残っていると彼らは考えていた。
1945年、かれらが期待をかけた大日本帝国が、その後の紆余曲折の果てに、その西洋相手の戦争をやって破滅するまで生き延びた徳富と三宅の足跡をみていけば、1887(明治20)年に颯爽と言論界に登場した青年が、まったく遠い場所に辿り着くドラマでもある。
安倍晋三的現代から考えれば、今はむしろ日本人は素晴らしい、世界で一番すぐれている、というさして根拠もない言説を首相をはじめとする政治家が本気で信じているとすれば、それはそれで危ない。
そろそろ大学は春学期の定期試験の季節で、試験やらレポートやら、出席やら成績やらを気にする学生さんたちは、単位を落とさない程度に、あるいは良い成績が取れる科目と取れない科目を見計らいながら忙しく暮らしている、ように見える。でも、勉強などほんとはする気がないのに、成績とか単位とかばかり気にしてる連中を下らねえと横目に見て、気ままな時間を好き勝手に過ごす少数者が必ずいて、かれらはこの時期、単位を落とし成績不振とみられてますます学生一般の流れから遠ざかる結果になる。卒業や就職内定は遠ざかる。大学の教師としては、ちゃんと出席して自分の講義の内容を理解し、課題をこなして試験の結果もよい学生は、よしよしと問題ないが、半分は欠席してるくせにレポートや試験では、自分勝手な意見や批判をびっしり書く、こういうクセのあるタイプの学生には結局単位はあげられない、というのが普通だろう。でも、ぼくは自分が大学の頃そういう学生だったので、こういう不真面目な学生をばっさり切る気が起らない。大学の成績や単位など、人生にとってどれほど意味があるのか?ない、と思ってしまう。
いつの時代にも、若い学生はこの世界をいかなるものか、どうやって世界を理解すればいいのか、先人の知恵を学ぶために本を読む、それが大学の勉強だ、という物言いがなされてきた。しかし、今の大学生を見ていると、まず本は読まない。読むとすれば授業の課題で発表したりレポートを書くために仕方なくつまみ食いするだけで、それも自分で書店に行って購入したりはせず、ネットで要点をコピペすれば単位が取れるかどうか、だけの関心である。書物に金を出すインセンティヴがない。つまり、日本の大学生のマジョリティは、ある知的関心から自分で課題を立てて、これはと思う本をじっくり読むというような習慣がない。本を読む代わりに必要な情報はどこから得ているかというと、スマホである。過半数はかつてのようなテレビや新聞雑誌もほとんど見ていない。
インターネットを基盤とするSNSや画像動画の無料に等しい普及は、四六時中のアクセスで他のメディアの必要性を侵食しているかもしれない。SNSは双方向のメディアで、友だち親密圏の交流を促進すると当初から言われてきたが、空間に制約されない人的交流はかえって趣味関心の偏る個別的親密圏を疑似的に構成し、その中だけに没入する場合、他の情報・メッセージを遮断する結果になりやすい。自分に心地よい情報だけに浸り、いやな物事、嫌いな人物は接触しないか、ないものとして無視する。若者論の文脈では、昔のTVゲーム以来の閉じたヴァーチャル世界への引きこもりが危惧されていたが、ここまでスマホ依存になってくると、大学生の知的世界(知的でない世界は広がっているのだろうが・・)の狭量化を心配した方がいいかもしれない。
先生、それはちょっとヒドいんじゃないですかあ、今の学生だって少しは本読んだり考えたりする気はあるんですけど・・、という声が挙ってくれればいいのだが。やっぱり読書というものの価値を知る体験と習慣が、高校生段階くらいで決定的に欠けているという気がする。これは日本語で読める本でこうなのだから、英語など他の言語で書かれた書物などまず読めるはずがない。言語に習熟していない政治家や企業人ほど、日本人はもっと英会話能力を高めないとグローバル競争に勝てない、などと言う。その含意は、自分は英会話得意じゃないから、若い連中にはもっと会話力をつけて助けてくれ、というだけである。その程度の語学力なんか、グローバル競争にはど~でもいいのである。きちんと書かれた本を読まないということは、世間に顔の知られた人の言っている言葉、それも数行の短いメッセージだけで物事を考えるということで、文字の読めない知的レベルに退行することである。つまりは、ものを考える能力に決定的に欠けてくるということだ。さらに、本を読むといっても、今の日本に溢れかえっている本の50%くらいは、時間を費やす価値のない娯楽ジャンク本、あとの30%くらいはマニュアル的実用本であるから、残りの本(それも多くは新書や文庫)から何を読めばいいかを、まず大学は学生にオリエンテーションしなければならない。しかし、その動機付けが、成績や単位という魅力に乏しい脅迫のようなものだから、いっこうに多くの学生はまともな読書に手を出さないのである。
(理系文系問わず)大学生が本を読まない!という恐ろしい事態!それを大学生自身が、まったく恥ずかしいことだとは思っていない、という事態は、この国の未来に深く危惧を抱かせる。大衆とはほんらいそういうもので、大学が大衆化してしまったから、本など読まない人間が大学生になっているだけで、別に嘆くことではない、という意見もあるだろう。その場合、同世代人口の選ばれた0.5%だけが学ぶエリート校で、しっかり高い読書能力と思考力を磨く人材がいれば大丈夫なのだ、という結論になる。ぼくも社会学的に教育の機能を考えれば、そういう選択がないとは思わないが、いちおうエリート校ではない大学教師としては、大衆大学生を見下して、ど~せ君たちには言ってもわかんね~だろうなあ、と放り出すわけにはいかない。

B.若い教師と若い学生
パイルの『欧化と国粋』は、明治20年という時点にしぼって、そこに登場した新しい西洋の教育を受けた若い青年の言説を丁寧に追うことで、東洋の果ての島国に成立した奇妙な国家が、その新世代にどんな視線でどういう方向に進もうと考えていたのか、を炙り出そうと試みている。まだ20代半ばの青年が、西洋文明そのものを必死で吸収し、幕末以来の過去と自由民権論者を含む上の世代を否定し、日本がこれから進むべき道を述べ主張して、多くの知的な若者に強い影響を与えたという事実。そこでは、徳富蘇峰の率いる「民友社」と陸羯南が主催する「政教社」が主張を異にしながら並立する。
蘇峰の論説は、いわゆるストレートな欧化論で、西洋の技術だけでなくその基礎にある思想をも受容して新しい国家を作るべきという、リベラリズムである。日本は西洋のような社会にならなければならない、という格調高い蘇峰の文体は、読む者にわくわく未来への希望を与えたであろうと思われる。これに対して、政教社の三宅雪嶺や志賀重昂たちは、西洋文明を思想も含め学ぶ必要は認めるものの(彼ら自身、西洋の言葉や学問は十分学習していたが)、欧化に突き進むのは危険なものがあり、結果的に日本の自立(今ならアイデンティティというところだが)を失わせると主張した。ただ、この時点ではその代案が明確にあったわけではない。
「西欧文明について深く学び、またそれを賞讃していたにもかかわらず、徳富の欧化主義論を受け容れることができなかったもう一人の若い日本人は、三宅雄二郎であった(かれは三宅雪嶺という筆名によって、より多く知られるようになった)。
三宅と徳富は、日本のジャーナリズムにおけるその指導的役割のゆえに、しばしば比較される。両者はともに明治維新の前夜に生まれ、ともに第二次世界大戦後の日本占領を見るまで生きながらえた。また両者とも、本格的な学識経験を大衆的ジャーナリズムと接合した。徳富は驚くべき多産な歴史家であり伝記作家であったし、三宅は歴史哲学者として疲れを知らなかった。しかしながら、かれらはその長く並行的な経歴を通じて、多くの点において知的な対抗者であり続けたのである。
三宅は武士の三男として、1860年に金沢で生まれた。三宅の父は、かつて江戸の有名な儒学者古賀侗庵の弟子であり、大名の家老のお抱え医師であった。医学は三宅の母方においても同様に家業であった。だが、かれの父親が伝統的な漢方を用いていたのにたいして、彼の母方の家族は進歩的な気風で知られ、彼女の二人の兄弟は長崎においてドイツ人医師シーボルトのもとで学んだ。
三宅の初期の教育は、儒教の古典の暗記と長時間の書道の練習に重点を置いた伝統的な型のものであった。十一歳のとき、かれは金沢の仏学塾に入学、のちに県立の英学校に通学し、それから名古屋の愛知英語学校に通った。こうして十六歳のとき、かれは東京大学予備門に入学する(その直後に志賀重昂が入学している)。三宅は、かれの自叙伝の中で、これらの学校ではほとんどの教師が外国人で、学国の教科書を使っていたことを回想している。
「名古屋で(は)・・・上級の教師は・・・特に米国人が多く、地理学の如き、北米合衆国を主にし一州毎に山河都市等を暗記せねばならなんだ。・・・東京の開成学校へ移るや、更に外国人が多く、愈々語学と学問とを混同した」
その結果、三宅は自分の時間の多くを、近くの儒教の寺院である湯島聖堂の書屋で過ごした。この時期のかれの主たる関心は東洋哲学であり、それに熱中の余り学校制度の改正を見過ごしてしまったほどであった。新しい規則の遵守を怠ったため呼び出されて注意されると、三宅は怒って退学し、金沢へ帰ってしまった。のちにかれはその学校に再入学し、そして予科を終了したのち、1879年に東京大学に入学した。かれは哲学(西洋や日本の哲学ばかりでなくインドや中国の哲学)に熱中し、こうしてすでに、生涯をつうじて没頭するようになる仕事――東洋哲学と西洋哲学の教説を総合するという試み――に関心を持つようになっていた。
三宅の新しい教師たちの多くは外国人であり、最もすぐれていたのは若いアメリカ人のアーネスト・フェノロサであった。わずか二十五歳、ハーバードを卒業したばかりのフェノロサは、1878年8月に来日し、東京大学の最初の哲学教授に就任した。三宅はのちに、彼の自叙伝の中で、その若い教師の熱弁と雄弁は、たちまち日本人学生の注目を集めた、と回想している。フェノロサの方でも1880年、かつてのハーバードの級友にあてた一通の手紙の中で、かれの熱心な若い学生たちに関心を寄せていることを密かに洩らしている。
「私は、この国が少なくとも相対的には深刻な無知の状態と呼ばれて然るべき段階から脱してまだ間もない事を考慮するならば、この大学は驚くほど恵まれた条件にあると思いました。およそ二〇〇名の学生は特別の選択科目を履修し、英語の本を読み、英語を流暢に話し、そして書いていました。あえて言うならば、これほどすぐれた一群の青年たち、すなわちこれほど熱心な研究者で鋭利な思想家たちは、世界中のどの大学でも見出すことは出来ません」
(Lawrence W. Chisolm, Fenollosa: The Far East and American Culture,New Haven, Conn., 1963 ,pp.39-40.)
テキストとしてフランシス・ボーウェンの『近代哲学』を用いて、フェノロサはデカルトからヘーゲルに至る西洋思想の発展を講義した。三宅は、この序論的概観は日本人の耳には「画期的」であったと記している。ハーバードにおいてスペンサー・クラブをつくったフェノロサは、かれの講義の多くを、この独特なイギリスの哲学者のために割いた(外山正一はイギリスとミシガン大学で学び、三宅にスペンサー社会学について多くを教えたもう一人の教師であった)。」
ケネス・B・パイル『欧化と国粋』講談社学術文庫、pp.99-102.
日本に来たフェノロサがハーバードを出たばかりの25歳、三宅雄二郎が東大でかれの講義を受けたのが19歳、ひどく若い。もちろん授業もテキストも全部英語である。徳富や三宅たちは、世界の現状と文明の方向を一気に知りたい、西洋社会のもとにある流れを総合的に知りたい、要するにハーバードやオックスフォードの大学生と同じレベルの知識と思考力を、この日本で一刻も早く身に着けたいという、野望を抱いていたわけである。こういう学生に教える若い教師は、ずいぶん楽しかっただろうと思う。何しろかれらは知的欲求と思考力に恵まれた、若きエリートだったのだから。そこで、スペンサーはこういう学生の期待に、ぴったり答えてくれる総合的な社会学だった。そして、それを学ぶと、日本という国とその人民の現状は、限りなく情けない、西洋と比べることも恥ずかしいような欠陥しか発見できなかった。
「三宅は、日本が西洋諸国のように急速に進歩できなかった歴史的な根拠を求めていたが、徳富同様、かれも国民の伝統的性質に欠陥が存在するのを感じていた。日本の国民性を自慢する人々もいるが、しかし冷静に日本人の特性を検討するならば、実際には卓越したものはほとんど見出し得ないだろう、とかれは述べている。
「外国人ハ論ナク内国人自ラモ往々日本人民ノ忍耐力ニ乏シク軽躁浮薄ニシテ小成ニ安ンジ偏ヘニ模倣ヲ事トスル由ヲ云ヘリ、某氏・・・曰ク、戊辰以後ニ人民ヲ入レタル器物ハ、昔時ヨリ善キ形状ナルヘケレトモ、人民ハ矢張旧ノ人民ナリ、下ニ驕リ上ニ媚ル人民ナリ、無学文盲ノ人民ナリ、酒食ヲ好ム人民ナリ、読書ヲ好マサル人民ナリ、智識浅短局量褊小ナル人民ナリ、私智ヲ挟ミ小慧ヲ行フ人民ナリ、勉強忍耐ノ性ナキ人民ナリ、自立ノ志ナクシテ人ニ依頼スルヲ好ム人民ナリ、観察思想ノ性ニ乏シキ人民ナリ、金銭ヲ用フルヲ知ラサル人民ナリ、約諾ヲ破リ信義ヲ重ンセサル人民ナリ、友愛ノ情ニ薄ク合同一致シカタキ人民ナリ、新発明ヲ務メサル人民ナリ」(石浦居士「日本人民固有ノ性質」『東洋学芸雑誌』1883年1,2月号)
三宅は、そのような見方は極端かもしれないと認めながらも、なおその多くの点は真実であると主張している。しかし、徳富とは違って三宅は、日本人が単純に西洋人をめざし、かれらの先例を追い、かれらの特性を受容するというようなことを熱心に説く気にはなれなかった。そのような政策は、ただ日本人の屈辱を増すだけであるし、そのうえ、それは民族的性格が形成された過程を無視するものであった。国民性は、人民を取り巻く環境の所産である。過去というものは、ある人たちが望むほどたやすく逃れられるものではない。」ケネス・B・パイル『同書』pp.103-104.
石浦居士なるペンネームの文章は、日本人ボロクソである。下に驕り上に媚びる、酒食を好み読書を好まない。知識浅薄で小賢しく、口うるさく騒いで結果だけを焦って勉強忍耐せず、人にばかり頼って自立していない。事実を観察し思考する習慣がなく、金銭をどう使うかの知恵もない。約束を平気で破り人を信じない。友愛の情が薄く、意見は常に一致しない、創造性のない人民であると。人民蔑視のエリート思想であるが、そう思いたくなる現実が、江戸時代からずっと、(たぶん21世紀の現代にも)生き残っていると彼らは考えていた。
1945年、かれらが期待をかけた大日本帝国が、その後の紆余曲折の果てに、その西洋相手の戦争をやって破滅するまで生き延びた徳富と三宅の足跡をみていけば、1887(明治20)年に颯爽と言論界に登場した青年が、まったく遠い場所に辿り着くドラマでもある。
安倍晋三的現代から考えれば、今はむしろ日本人は素晴らしい、世界で一番すぐれている、というさして根拠もない言説を首相をはじめとする政治家が本気で信じているとすれば、それはそれで危ない。
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