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教育制度と試験について 2 科挙 ウイルス感染の拡大

2020-02-27 03:58:37 | 日記
A.科挙について 2 
 中国の隋王朝から始まった科挙という全国選抜試験は、高麗や李氏朝鮮でも制度化されて行われたが、日本では一度も定着しなかった。科挙の主たる目的は、天子が身分制度を超えて官吏登用を行なうことで旧弊な世襲貴族の権力を牽制することにあった。それは皇帝の権力を強固にし、中国の政治文化、あるいは教育に長く大きな影響を与えたことは確かだと思う。だとすれば、日本ではなぜ科挙はできなかったのか?日本の歴史で、もっとも中国文明を大真面目に輸入しようとしたのは、遣隋使を送った7世紀初め。聖徳太子から聖武帝までの飛鳥・奈良時代だということになっている。国家制度としての律令制の整備はその成果だが、科挙はできなかった。
 よく知られているように、飛鳥時代のヤマト朝廷は、蘇我氏をはじめとする豪族の力が強く、また漢字の書物を読め書ける知識階級もごく限られていただろうから、統一試験などとてもできるわけもない。しかし、その後平安初期になれば、空海や阿倍仲麻呂のような地方出身の若者でも勉学に励んで儒教仏教の経典を読みこなし、中国の知識人と対等に議論できる人材が出てくるわけだから、もしかしたら科挙ができたかもしれない。そうすれば、日本の歴史はかなり変わったかもしれないが、その後の日本史は文優先の儒教的世界観を追うことはなく、弓矢で天下を争う武士の暴力的権力闘争で終始し、天子に仕える官僚制はただの名前だけのものになった。
 偉大な中華文明の基準からすれば、日本などいくら頑張っても、文字も読めない未開の野蛮人の国で、まず礼儀から教えなければならない後進国だった。

 「郷試 科挙試のニ :試験の期日
 郷試の三年に一回、子年、卯年、午年、酉年ごとに挙行されることが法令で定められており、その期日もあらかじめ指定されている。八月九日に第一回の試験が始まり、十二日に第二回、十五日に第三回で、完全に終了するのは十六日である。八月といっても旧暦である。今の暦でいえば九月、ちょうど中秋の名月の前一週間ほどかかって行われる。政府では受験者の苦労を考慮して一年中で最も気候のよい時節をえらんだのである。
 もし宮中に大慶事たとえば天子の即位とか、天子あるいは皇太后の頌寿の式典が行なわれる時には、科挙は三年一度のほか、特別に一回増加することがある。これを恩科という。がんらい科挙は天子がその補佐役たる官吏を登用するため、天子の崇高なる義務の一つとして行なう試験であるが、後世になるとそういう意味が薄れて、人民がなりたがっている官吏への途を開いてやる天子の恩典というふうに考えられてきた。そこで科挙を一回ふやすことを天子の特別な恩典という意味で恩科と称するのである。恩科が通常の科挙の行なわれる年の中間へくれば問題ないが、もし同年になる時は両方を半年ほどずらせて行なうのが例である。
 試験官の派遣
 郷試は各省の首府に省内の挙子を集めて行なう。河南省なら開封、江蘇省なら南京江寧府といった具合である。その試験官は臨時に中央から派遣して、各省へ別々に派遣する。その人数は省ごとに正考官一名、副考官一名である。何ぶんにも大切な任務を負わされて行くので、朝廷ではまえもって派遣可能な官吏を集め、試験を行った上で任命するのである。だれをどこへ派遣するかはいよいよという時まで決定しない。よからぬ運動が行われるのを防ぐためである。
 郷試は試験期日が正式に定まっており、全国一斉に行われるが、試験官は中央から遠方へ派遣されるので、目的地へ着くまで相当の日数がかかる。彼らの到着が試験にまにあわなくても困るが、あまり早く到着しすぎると、またそこで運動する者が出てくるかも知れない。そこで中央では旅程を見はからって、早すぎぬよう遅すぎぬように二人の考官を出発させるのである。
 たとえば中央から一番遠い雲南省、貴州省の首府に到達するには、北京から約九十日かかる。そこで四月下旬になると中央政府の大臣は試験官、考官たるべき者の名簿を天子に提出し、天子がその中からだれを正考官、だれをだれを副考官と指名し、五月一日ごろに発表して正式に任命する。任命された者は都でぐずぐずしていてはならず、遅くも五日以内には出発しなければならない。もし五月五日に出発すると、途中約三か月を費やして、ちょうど試験期日の八月九日より数日前に目的地の雲南・貴州省の首府に到着するという仕組みである。広東省、広西省、福建省への約八十日、だんだん近い所へきて山東省、山西省、河南省へは二十日の日程を見込んでおく。近い所ほど任命がおくれるわけである。当時は旅行に不便な時代で、運河や揚子江の水路を利用するので、このように日数がかかるが、考官は何ぶんにも天子名代としてのお使い、欽差官であるから船に欽差と書いた旗を立てて罷り通ると、ほかの船はみな傍へよけて優先的に通してくれる。地方官も落度のないように、ひたすら勇退するのである。
 目的地の省の首府に到着すれば、土地の大官、総督、巡撫、布政使、按察使、知府以下が出迎え鄭重に待遇する。そしてあらかじめ定めておいた答案審査補助官と試験事務担当官を紹介する。
 もともと試験の係員には二通りの系統がある。一つは答案審査員で、中央から派遣された正・副考官だけで手がまわらないので、地方官吏のうち学問のすぐれた者を補助員として用い、これを副考官という。大きな省では十八名、小さな省では八名である。これは総督、巡撫から委任するので、多く知府、知県の中から選ぶ。学校の教官などは問題にされない。これらの正考官、副考官など、考官と名のつく者は直接答案審査に当たる者で、また内簾官と称せられる。
 このほかに試験事務だけを担当する系統が必要で、これを外簾官と称する。その全責任者を監臨官といい、総督もしくは巡撫がこれに当たる。その下に事務局長、監督官、またその下に答案受理係、整理係、身体検査係、謄写係、校正係といろいろ特殊な任務を命ぜられた官吏が整然と備わっており、互いに他の領分を犯してはならぬことが定められている。
 試験場
 試験場は貢院といい、各省の首府に常設の建物がある。前の科試までの受験生は大広間、堂の中に机を並べて座らされたが、貢院は、ちょうど一人だけはいれる独房が蜂の巣のように何千、何万と集まったものであり、その一つずつが厩のような長屋の形に連続したものであるから、全体で頗る広い敷地を占める。
 いま南京江寧府の場合を例にとると、屋形船で有名な秦准運河に臨んで、その北に広大な敷地をもつ南京貢院があった。運河に面して大きな石造りの坊門が三つあり、その奥に見えるのが貢院の入口、すなわち大門である。大門を入るとやや広い場所があり、その北が二門である。二門の次の竜門をぬけると北に向かって広い大通りがのびており、甬道とよばれるが、西側にも東側にも、およそ二メートルおきぐらいに号筒といわれる小路の入口が開いている。
 試みにこの入口から中へ入ると、入口の狭いわりに奥行きはきわめて深く、目の届かぬほど遠くへのびている。そして片側に一メートルぐらいに仕切られた小さな部屋、すなわち号舎とよばれる独房が無数に奥のほうへ続いて並んでいる。号舎をいま部屋といったが、実は部屋というにあたいしない。というのは、それは戸もなく家具もなく、ただ三方を煉瓦の壁で仕切りして屋根をいただいた空間にすぎないからである。地面はもちろん土間で、ただ大きな板が三枚ある。これを壁から壁へかけわたすと、一番高いのは物置き棚になり、次のが机になり、一番低いのが腰掛けになる。そのほかは何の設備もない、正に格子戸のない牢獄である。郷試の受験生たる挙子は、ぶっ通しに三日二晩をこの中で過ごさねばならないのである。
 小路は非常に長く、行けども行けどもつきない。片側の号舎の列も無限に続く。ただ三年に一度使うにすぎない建物だから、ふだんは手入れも非常に悪く、屋根にはペンペン草が生え、軒はくずれおちそうであり、壁に湿気がにじんで黴くさい。もしひとりで夜中にこんなところへ迷いこんだら、どんなに気味が悪いことだろう。きっと鬼哭啾々、といった感じにちがいない。
 この小路はどんなに長くても奥は行きづまりであって、抜けるところはどこにもない。ちょっと考えると八幡の藪知らず、ラビリンスのように迷いこんだら出られまいと思われそうだが実際はそうでなく、行きづまりの一本道だからもし出ようと思ったら、入ってきたと反対の方角へどこまでも歩いていれば、いつかは自然に大門に通ずる大通りの甬道へ出てこられるのである。
 甬道の中ほどのところに明遠楼とよばれる立派な高層建築がある。これは試験施工中に見張りをしたり、合図をしたりするところである。このほかに数カ所、見張りのために瞭楼という高い櫓がある。挙子たちの入っている号舎は入口の戸がない吹きさらしだから、こうしてあちこちの瞭楼や明遠楼からのぞいてさえいれば受験生の動きが手にとるように見えるのだそうであるが、しかしこう広くては実際に効果がありそうにも思えない。単に威圧を加えるにすぎないのだろう。 明遠楼を通りすぎて、さらに甬道をまっすぐ北へ進めば、いっそう厳重に塀をめぐらした大きな別構えの門につきあたる。この内部は試験係員がひと月あまりも罐詰にされる宿舎と事務室とを含み、さらにそれが大きな運河によって前方部と後方部とに仕切られている。前方は試験事務担当院の居所で、いわゆる外簾官の居所である。外簾官は試験の現場を取り締まり、答案の整理をつかさどるので試験現場へは行き来できるが、その奥の内簾官の居所へは交通できない。内簾官は答案審査に当たる官で、この方は全く自分たちの居所に釘づけにされたまま、答案の審査がすむまでは一歩も埒外に出ることが許されず、一番窮屈に身柄を拘束されているのである。
 何百人もの係員がひと月も罐詰にされるためには多量の食べ物が必要だが、それはあらかじめこの構えの中の倉庫に貯えておく。こうして幾重にも内部が仕切られ、その外まわりには厚い高い壁をめぐらして世間から遮断されていて、出入口はただ一つ、南面の大門よりほかにない。試験係員も挙子もおよそ人間と名のつく者はすべて大門からだけで入りすることになっている。その外には狗くぐり一つないが、ただ例外は水と排泄物である。
 試験中に挙子が使う硯の水や炊事用の水は莫大の量にのぼる。そのため大門の左右両側に一ヵ所ずつ、外から内部へ清水を送りこむ仕かけがあって、これを水台という。試験の前に人夫がここから水を汲んで、試験場内の各号筒、小路の入口の大きな水甕の中にいっぱいためておき、試験最中にも使われて減るにしたがって補充する。それから先は挙子の仕事で、めいめいが土鍋をさげてここまで水をもらいにくるのである。排泄物の方は、各小路のつき当たりの便所にたまったものを、試験後に人夫が集め、東側にただ一ヵ所ある出糞処からくみ出す。出糞処はもう一ヵ所北側にあるが、これは試験係員の排泄物のくみ出し場所である。
 これら数ヵ所の出し入れ口をのぞいて、外周の高塀には蟻の這いこむ隙間もない。したがってもし試験最中に挙子が急に死にでもすると始末にこまる。大門は堅く錠をおろして時間がくるまでは絶対に開かない。そこで仕方なく屍体をこもにくるんで塀の上から外へ投げ出すのである。
 徹夜の答案
 八月五日、まず試験事務担当係員が試験場に入るが、この時身体検査を行ない、必要不可欠の衣服、身廻品を携帯するほか、余分なものの持ち込みを禁止される。
翌六日、答案審査員たる正・副考官は、土地の総督・巡撫ら大官に招かれてささやかな酒宴に臨んだ後、試験の総裁ともいうべき監臨官となる総督・巡撫の一人、事務担当官たる提調官、審査補助官たる同考官ら相携えて試験場に入る。正考官と監臨官の二人は、特に外部から望見されるように駕籠の窓を開け放して街をねりあるく。試験場に到着すると明遠楼から景気よく号砲三発を放ち、重い大門の戸が左右に開かれる。考官はそのまま奥の構えの中に姿を消すが、監臨官は部下をしたがえて試験場を隈なく見廻り、整備が行きとどいているかどうかを点検する。こうして一度試験場構内に入った係員はそのまま終了の日まで構内に宿泊して外部との交通を断つ。 一方挙子は省内の各地から陸続と首府へ集まってくるが、その際に船を利用するときは、舳に「奉旨某省郷試」、すなわち勅令で行なわれる某省の郷試応募者という旗をたてて罷り通ると、内地の税関でもその荷物には手だしをしないという。
 首府に到着すると、挙子は官設の受付所に赴いて答案用紙を買う。これは厚い白紙の折本で、十四ページと十六ページのものニ種類がある。いずれも一ぺージは十二行二十五字詰めの赤い罫が印刷してあり、合計三通のほかに、草稿用紙が必要である。その表紙に姓名、年齢、容貌特長など書き込む欄があり、各自が書きこんで係員に預けておき、預かり証三通を受け取って保存する。これは試験当日、場内に係員に示して答案用紙と引き換えるためである。
 試験開始の前日、八月八日は挙子の入場の日である。夜半の午前零時頃に最初の号砲が一発鳴りわたり、三十分ほどして第二の号砲二発、さらに三十分ほどして第三の号砲が三発鳴ると、それを合図に試験場の大門が開き、挙子が続々と門前につめかける。門前で先ず人員点呼が行なわれ、省内数十ないし百余の県出身の童生はその出身地にしたがって十数個の起(組)に分けられる。その標識は燈籠と旗であり、第一起に属する挙子は第一起と書いた一個の燈籠のもとに集まる。第二起は燈籠の数が二つ、双児にしてつり下げられ、第十何起ともなると、あたかも祭礼の屋台の屋根からぶら下がっている提灯のように五列にしてつり下げられる。だから、挙子は字が見えなくても自分の集まるべき場所が分かるのである。夜があけると旗を目あてに集まる。
 点呼の際には各学校の教官が立ち会って本人に間違いないことを認識する。点呼がすむと、係員の誘導にしたがって一起ずつ大門をくぐって入場する。大門から先は附添人は入れない。挙子はめいめいに大きな荷物をかかえているが、それもそのはずで、試験場で三日二晩をすごさねばならないから、硯や墨、筆、水さしのような文房具のほかに、土鍋、食料品、せんべい蒲団、入口にかけるカーテンまで持ち込む必要がある。そこで点検がすめば見送りの人に別れてみずからこの重い荷物を肩にかついで場内へ進入する。
 大門を入ったところで身体検査があり、四人の兵卒が同時に1人の挙子の着衣を上から下までなでまわし、荷物をあけさせて内容を調べる。書物は言うに及ばず、文字を書きこんだ紙片は持込み厳禁で、もしそれを発見した兵卒があれば銀三両を賞に与えられるというので、取調べは厳重をきわめ、饅頭を割って中の餡まで調べると言われる。しかしどうしてか、カンニング用の虎の巻などがともすると厳重な係員の目をくぐって場内に入ることも珍しくない。ひどい時には、本屋が一軒できるほどたくさんの書物がもちこまれたとか。」宮崎市定『科挙 中国の試験地獄』中公新書15、1963年、pp.57-68. 

 20世紀のはじめの清末まで科挙が行われていたということも、なかなか感動的だ。テキストが決まっていて、それを必死で勉強し誰でも受験するチャンスがあり、そこで合格すれば社会で輝かしい未来が約束されるという制度は、若者に大きな希望を与える。今の大学入試と違う点は、その試験が非常に厳密な牢獄のような閉鎖的な施設で、数日間寝食を費やして答案を筆記するものであったこと、その審査も選ばれた審査官が罐詰になって不正が起こらないように監視されながら行っていたこと。それでも、さまざまな不正行為が起こっては処罰されたこと。そういうこと自体が、科挙を通過した進士の栄誉と評価を保証していたことだ。
 日本では結局、個人のもつ能力主義、実力主義というものが、政治組織のなかで正当に評価されるシステムはなかったのではないか、と思う。もちろん、科挙の評価基準がきわめて偏狭な受験技術にすぎなかったことは、今も考慮に値するとは思うけれど。


B.コロナウイルスの笑劇
 今の日本で現実に起きていることは、かなり笑える段階に来たと思う。年末に中国武漢で危ない新型ウイルスが広がり、そこに日本人も企業進出していて逃げた方がいい、ということになり政府はチャーター便を手配する。帰ってきた日本人は、感染を危惧して千葉県のホテルに2週間の隔離を行なう。これでいったんは大丈夫だとメディアも報道したが、航海中の豪華観光クルーズ船に感染者がいたことが判明し、香港で下船したものの、沖縄、そして横浜に停留した数千人の乗客に感染の可能性があり、二週間はそのまま部屋に拘留して検査することになった。
 しかし、タクシー運転手など感染者が国内で次々に判明。感染経路も捕捉できないうちに、クルーズ船客の拘束も限界になってきて、検査で感染が確認されない陰性の人々を、日本社会の市民として開放した。そして、今起きている事態は、このウイルスの蔓延という現実に、われわれの社会が完璧に対処し抑え込むことは不可能だということだ。
 
「クルーズ船 下船後また陽性:新型コロナウイルスの感染拡大が続き、25日午後11時半までに、国内で新たに11人の感染が確認された。北海道5人、愛知県3人、長野県1人、徳島県1人、熊本県1人で、長野、徳島両県での感染確認は初めて、北海道では35人となった。
 徳島県では、集団感染が起きた大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号から下船した同県藍住町の60代の女性が、検査で陽性だったことがわかった。船内で検査を受けた際には陰性だったという。四国での感染確認は初めて。
 長野県で感染が確認されたのは、松本保健所管内に住む会社役員の60代男性。県によると、男性は今月14~17日に北海道に、17~19日に東京都内に滞在。25日に検査で陽性反応が出たという。
 北海道では20代~70代の男性3人と、20代と60代の女性各1人の感染が確認された。このうち60代女性は札幌市在住で、24日に感染が公表された市内の70代女性の友人という。名古屋市は、市内の70代女性2人と40代女性1人が感染したと発表した。いずれも容体は安定しているという。熊本市では、60代女性の感染が確認された。熊本県内で初めて感染が確認された20代女性看護師の母親という。
 4人目の死者
 ダイヤモンド・プリンセス号で、厚生労働省は25日、乗船していた東京都の80代の日本人男性の乗客が入院先の医療機関で死亡したと発表した。クルーズ船に乗っていた人で亡くなったのは4人目。
 厚労省によると、男性は症状があり、9日に船から医療機関に搬送。肺炎がみつかり、10日に新型ウイルスの感染が確認され、25日に死亡が確認された。死因は肺炎。男性には糖尿病の持病があったという。23日に死亡が確認された別の80代の日本人男性は、乗客で新型ウイルスに感染していたことを明らかにした。クルーズ船関連の重症患者は25日時点で37人という。
 さらに加藤勝信厚生労働相は25日の衆院予算委員会の分科会で、同船の下船後、健康状態の確認をしている乗客のうち、28人に発熱などの症状があることを明らかにした。このうち7人がすでに検査を受けたか、受ける予定という。7人のうち3人は陰性。陽性は1人で下船後に感染が確認され、栃木県が発表した同県在住の60代女性という。

 千葉の患者 同じジム利用
 千葉県は25日、県内でこれまでに新型のコロナウイルスによる肺炎患者と診断された11人のうち、3人が施設にいた時間帯には計約600人の利用者やスタッフがおり、県は「濃厚接触者」にあたるとして健康観察をする。
 施設は「エース〈アクシスコア〉市川店」。県によると、3人の利用時間帯は、15日午後1時45分~3時半▽16日午後0時半~4時▽18日午後1時半~5時。
 店は3月3日まで自主的に営業を休止。館内の消毒をする。」朝日新聞2020年2月26日朝刊35面社会欄。

 先週ぼくは、よく行くスポーツジムに行って1時間半ほど運動をした。もしそこにコロナウイルスに感染した人がいたとしたら、感染している可能性は高い。筋トレ器具はいろんな人が手にし汗もつく。隣で運動している人の息や飛沫は浴びる。でも、たぶん今度のウイルスは高熱の肺炎をもたらすかもしれないが、基本的な体力と免疫力がある健康な人には、致命的なダメージにはならないと思われる。だからぼくは、この事態がなにも心配いらないというのではなく、感染症の暴威というものが、今まで安定した社会の常識を信じてはいけない時代がくると思う。
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