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1920年代の岐路 4 排日移民法への反発  「隷従」について

2020-08-22 17:43:32 | 日記
A.黄禍論の流行
 「黄禍論」というのは、西欧白人の側から見た中国人や日本人などいわゆる黄色人種に対する排斥差別の思潮で、その起源は13世紀にモンゴル遊牧民から身を起こしたチンギス・ハンの孫パトゥによる、中央アジアから東ヨーロッパへの侵攻にあるという。これを迎え撃ったドイツ・ポーランド連合軍は、1241年4月に激突したレグニツァ(ワールシュタット)の戦いで、騎馬戦闘の得意なモンゴル軍に徹底的な敗北を喫した。ここでユーラシア大陸の遊牧エリア・オアシス商業エリア・農業エリアをまたぐ「大帝国」を築き上げていったモンゴルは、今のイラン・イラク方面は、フラグの国(フラグ=ウルス)、またの名を「イル=ハン国」。黒海北岸のロシアから、カスピ海北部、アラル海北部までの方面は、バトゥの国(キプチャク=ウルス)、またの名を「キプチャク=ハン国」。中央アジアのタリム盆地・天山山脈一帯は、チャガタイの国(チャガタイ=ウルス)、またの名を「チャガタイ=ハン国」などとなった。
 キプチャク=ハン国(ジョチ・ウルスの国)はヴォルガ川の下流平原に築いた都市サライを中心に15世紀末まで栄えたが、分裂や内紛を経てモスクワ大公国の伸長によって滅ぶまで250年以上続いた。今の中央アジアのカザフスタンやキルギスなどに住む人たちは、ぼくたちと見た目は同じモンゴル系の人たちが多い。モンゴル征服軍の子孫なのか、それ以前や以後にシルクロード経由で移住した人なのか、よく知らないが、見た目の「人種」というもので、排斥差別するのは古今よくあることだとしても、ヨーロッパ世界に武力で踏み込んで征服するという黄色人種が現われたのは、この13世紀だった。その忌まわしい記憶はやがて消えてしまったが、20世紀になって「黄禍論」は再登場する。歴史ある文明帝国中国は欧米列強にとって恐るるに足りないが、日本という極東の新興国は軍備を強化して日露戦に勝ち、第一次大戦で戦勝国の一員として国際連盟の常任理事国にまでなった。その日本人がアメリカ西海岸に続々やってきて、勢力を伸ばしている。これは脅威であると一部のアメリカ人は考え、やがて日米対立は戦争につながっていった。日系移民の人たちの苦難の歴史もここから始まる。

 「1924年移民法の成立:
 近代になってからの日本人の海外移住の始まりは、まだ独立国であったハワイ王国が砂糖キビの収穫に従事する労働者として受け容れた「元年者」といわれる移民であった。その後、1898年にハワイが米国に併合されると、米国西海岸に移る日系人が増加した。当時の米国では、1869年に大陸横断鉄道が完成し、中西部の安い小麦やトウモロコシが大量に流入したため、西海岸の農業は野菜や果物という収穫期に大量の労働力を必要とする集約農業に転換し始めていた。しかし、中国系の移民は、1882年の中国系移民排斥法で新たな流入は禁止されていたので、代わって日系人が西海岸に流入していった。
 その日系移民は、当初、農業労働者として白人が所有する農場で働いていた時代はむしろ歓迎されたが、厳しい労働の中でも貯金をして、農地を購入するようになると、白人農民のライヴァルとなり、排斥が始まった。それは、ちょうど日露戦争で日本が勝利した時期に重なり、米国のマスメディアでは、日本が日系移民を使って西海岸の領有に乗り出すのでは、といった荒唐無稽の「日本脅威論」が喧伝されていった。その背景には、一九世紀末にヨーロッパに流行した「黄禍論」の影響があったが、米国で日系移民排斥論が活発に主張されるようになるのは、日露戦争後であり、西海岸の有力紙である『サンフランシスコ・クロニクル』紙が日系人排斥キャンペーンを開始したのは、1905年1月の旅順の戦いでロシア軍が降伏した翌月からであった。
  ヨーロッパにおける黄禍論の台頭
 ヨーロッパ人が人種の違いを意識し、白人の優越性を強調し始めたのは、大航海時代、とくに奴隷貿易と中南米の植民地化の過程においてであった。しかし、その時代でもアジアにはオスマン帝国、南にはムガール帝国、東には明から清帝国が存在していて、むしろ、アジアの富への渇望がヨーロッパ人をして大航海に乗り出させたともいわれる。それ故、アジア人に対する意識は、まず憧憬から始まったが、同時に、一三世紀初めのチンギス=ハンによるヨーロッパ侵攻の記憶に結びついた「脅威」感もあった。その後、西欧が産業革命に成功してから、ヨーロッパとアジアの力関係が逆転し、多くのアジア諸国が西欧大国の植民地になるにつれて、アジア人蔑視が定着していった。つまり、ヨーロッパ人のアジア人観には、憧憬と蔑視がないまぜになっている特徴があった。
 そうした中で、アジア人への脅威を強調する「黄禍論」が台頭するのは、一九世紀末の帝国主義時代であった。とくに、日清戦争での日本の勝利が大きなインパクトを与えた。ドイツ皇帝のヴィルヘルム二世は、1895年四月末に従妹のロシア皇帝ニコライ二世が日本に遼東半島の返還を要求する三国干渉の音頭を取った点に感謝して、次のような手紙を送ったという。
 「ぼくは君が日本に対抗してヨーロッパの利益を守るためにヨーロッパが連合して行動をとるようにイニシアテウィヴをとった、その見事なやり方にたいして心から感謝している。……大黄色人種の侵入からヨーロッパを守るのが、ロシアにとっての将来の大きな任務であることは明らかだ。」この手紙に加えて、ヴィルヘルム二世は、宮廷画家のヘルマン・クナックスに、大天使ミカエルがヨーロッパの女神たちを率いて、大仏で象徴させたアジアに対抗する有名な絵を描かせた。この絵のタイトルには「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの神聖な財産を守れ!」と書かれていた(廣部、12~13頁)。
 ここでのヴィルヘルム二世の意図は、ロシアの関心をアジアに向けることで、独ロ対立の緩和を狙ったものであり、黄禍論強調の背後にはヨーロッパのパワー・ポリティクスがあった。
  米国流の黄禍論
 米国の黄禍論は、アジア帝国への脅威感よりもアジア系移民への排斥感情から始まった(ゴルヴィツァー、71頁)。1846年、カリフォルニアで金鉱が発見されると、世界中から一獲千金を求める山師が殺到した。人口が急増した鉱山地帯では炊事や洗濯に従事する労働者が必要となり、はるばる中国から労働者が運ばれてきた。
 また、米国での大陸横断鉄道は、鉄道会社が連邦政府から公有地を借りて一定期間内に鉄道を完成させる必要があり、過酷な労働が強いられた。そのため、「東ではウィスキーによって西では茶によって建設された」といわれたように、東ではアイルランド系の移民が、西では中国系の労働者が大量に動員された。
 しかし、当時の中国は海禁政策をどり、海外移住が禁止されていたので、彼らは非合法に移出され、奴隷的な労働を強いられた。しかも、当時の米国では南部の黒人奴隷制をめぐって激しい論争が展開されていたので、中国系労働者は「苦力(クーリー)」と呼ばれ、黒人奴隷と同等とみなされ、排斥された。
 カリフォルニアの金鉱ではすぐに産出量が低下したし、大陸横断鉄道も1869年に完成すると、中国系労働者は解雇され、サンフランシスコなどに集住し、「チャイナ・タウン」を形成していった。その結果、白人労働者との競争が激しくなり、白人労働者による激しい排斥運動が発生し、その過程で、米国流の黄禍論が展開され、1882年に中国系労働者の流入を禁止する法律が制定された。
  米国西海岸での排斥法の制定
 行政レベルでの日系移民差別の目立った動きは、1906年10月にサンフランシスコ市・郡の学務局がアジア系学童を東洋人学校に隔離する命令を出した事件から始まった。この命令は、同年四月にサンフランシスコで発生した大地震によって多くの校舎が倒壊したため、アジア系の学童を白人児童とは別の学校で教育しようとしたものであった。これに対して、在サンフランシスコ日本領事館や在米日本人連合協議会などが差別として抗議したことから、児童隔離問題が日米政府間の重大問題に浮上した(澤田、41~42頁)。
 時の大統領、セオドア・ローズヴェルトは、ハワイ・メキシコ・カナダ経由で米国に入国する日系移民の入国を全面禁止にする行政命令を出すことで、学童隔離令の撤回を実現した。その上、1908年には日本政府が米国への労働移民を自主規制するという紳士協定が日米政府間で成立した。
 その結果、新たな日系人の流入は減少したが、代わって、先に移住していた日系男性との結婚を目的とする女性移民が増加した。しかも、帰国して結婚相手を決めることは経済的に困難であったため、写真だけで結婚を決め、渡米するケースも多く、白人社会ではこれを「写真花嫁」によって日系人の定住化が促進されるものと反発した。そうした反発から、カリフォルニア州議会では、1913年に日系人の農地所有を禁止する外国人土地法を可決した。
  1924年移民法と東南欧系移民差別
 日本側では、排日運動は西海岸の地方的な動きであり、日本側の労働移民の自主規制により鎮静化を期待していたにもかかわらず、1924年に米国の連邦議会が日系移民の新たな流入を禁止するとともに、日系一世の帰化権を否定する移民法を可決したのは大きなショックであった。日本では、この移民法を「排日移民法」と呼ぶことが一般的だが、この法律で日本を名指ししている項目はないので、この名称は不正確である。
 この移民法では、日系移民の帰化権を争った事件で、連邦最高裁が日系移民一世を「帰化不能外国人」と認定して、帰化権を否定した判決に依拠し、この「帰化不能外国人」の新たな移民を禁止した(蓑原、119頁)。米国では、1790年の帰化法以来、米国に帰化(市民権の取得)ができるのは「自由な白人」に限定していた。その後、南北戦争の結果、黒人も市民となれることが憲法修正14条で決定されたので、アフリカからの移民にも帰化権が認められたが、アジア系は引き続き除外されていた。
 それ故、「帰化不能外国人」の新たな流入の禁止規定により差別されたのはアジア系一般であった。ただ当時の米国で最大の関心を持たれていたのが日系移民だったので、この規定は日系人の新たな流入を禁止するものとなった。
 その上、この移民法の主要な制限対象は、日系人というより、南欧や東欧からの「新移民」であった。元来、米国では、一九世紀末から南欧や東欧からの移民が増加していたが、南欧はカトリック教徒が多く、東欧はギリシャ正教徒やユダヤ教徒が多かったので、米国の主流派であったプロテスタント系の間では危機感が広がっていった。その結果、東欧系や南欧系が増える前の1890年の国勢調査における民族集団別の人口を基準にして入国の割り当て人数を決定する「出身国別割当制」を1924年の移民法で導入した(蓑原、120頁)。
  1924年移民法と日系移民 
 つまり、この移民法は、日系移民に対して差別的であっただけでなく、南欧系や東欧系移民に対しても差別的であったので、カトリック教徒でアイルランド系であったケネディ大統領の当選後には批判が高まり、1965年の移民法改正で、出身国別割当制は廃止され、すでに家族の一員が米国にいるかどうかや技術をもっているかどうかの基準が採用された。
 この1924(大正13)年二月に移民法が連邦議会に提出されると、日本政府は、すでに日本側の自主規制で日本からの労働移民は減少していたので、改めて連邦法で規制することは日本側の自主努力を無視する行為であると反発した。こうした強い抗議を受けて、ヒューズ国務長官は、この法案が「ワシントン会議の成果を水泡に帰するものである」として、法案の修正を求めた。しかし、埴原正直駐米日本大使がヒューズ長官にあてた書簡の中で、この移民法が成立すると日米関係に「重大なる結果(grave consequence)」を生むとした表現が上院で強い反発を生み、法案は1924年4月、上院でも可決された。その後、クーリッジ大統領の署名を得て、7月1日に発効した(筒井、2018年、59頁、三輪、193~194頁)。
  日本における抗議の動き
 この移民法の成立に日本の国民は激高した。1924(大正13)年5月31日には米国大使館前で抗議の割腹自殺をするものが現われた。6月7日には帝国ホテルに約60名が乱入し、在留米宣教師の退去、洋風舞踊の絶滅、米国製映画の上映禁止、米国製品のボイコット、米人入国の禁止などを要求するビラを配布した。この民族派による反米宣伝は功を奏した。また、6月14日には横浜の米国領事が暴行される事件が発生したという(筒井、2018年、59~60頁)。
 4月21日は東京の主要新聞15社の共同声明が出されたが、そこでは「華府(ワシントン)会議によって一層その度を加えた日米の親善と、昨秋の大震災を機として太平洋の両岸に架せられた友誼の橋及びその多幸なる記憶が、米国国会の措置によって破壊されることはわれ々の到底忍び得ざる所であり、同時に、平和協調を希求してやまざる全世界の市民の感を同じうする処であろうと信ずるのである。」と述べられていた(『新聞資料集成』大正13年4月、163頁)。つまり、新聞社の共同声明では、ワシントン会議や米国による関東大震災復興への支援で盛り上がった日米親善がこの移民法の成立で台なしになったという断腸の思いが表明されていた。
 それに対して、上杉慎吉のような民族派の憲法学者の場合は、「対米戦争の準備」を先導するほどの激高ぶりをしめした。上杉は、5月25日に東京の在郷軍人会が靖国神社で開催した抗議集会と、6月6日に国技館で開かれた、八万人を集めたという抗議集会の両方で講演し、それをまとめて、『日米衝突の必至と国民の覚悟』という冊子を出した。そこでは、こう述べている。「政府が何と云はうが、戦備が出来ようが出来まいが、民衆の力で戦争まで持ってゆく。」……「日本人の台頭は、全世界十二億の有色人種に至大なる反響を与え、有色人種の西洋人に対する解放運動は、将に世界的大潮流とならんとしつつある」……「日米の衝突は必至である。米の日本征服は既定の計画である。されば、必戦の覚悟を定めなければならぬ」……「日本人が一大勇猛心を奮い起して、日米衝突の大覚悟を為すは日本民族の世界的使命歴史的責任である」と(上杉、4,13,39~40, 43, 73~74頁 )。
 また、付録では、「国際主義とか平和主義とか云うことが、耳学問の片々才子に依て唱えらるべば、これに雷同する者もあると云ふ始末である、日本を軍国主義と誹り、日本唯一の強味を奪はんとする外国人の宣伝に対して、内からこれに調子を合わす非国民的外交家政党員記者も続々出て来ていると云ふに至ては、何たる有様と評すべきか……」(15~16頁)と主張した。
 このように上杉慎吉は、米国の物質的優位を認めながら、日本人の民族精神と有色人種の連合で対抗可能であるとして、対米戦争を先導したのであった。その極端な民族主義的論理は、1930年代の軍部独裁体制の下で一般化する排外主義的論理の先取りであった。」油井大三郎『避けられた戦争 -1920年代・日本の選択』ちくま新書2020.pp.108-119.

 人種差別、民族差別という心情的な排外主義は、根拠も怪しい議論になりがちだが、それ故に根が深い。アジア系移民を制限する「移民法」が、このように日本国内世論を刺激したことも記憶しておく必要がある。黄禍論のような人種差別に猛反発する「反米」というスローガンは、反西洋白人、反アングロサクソン、反西洋帝国主義という形で展開したけれど、日本が対米英戦争に感情的に踏み切る国民的動機でもあった。戦後、「反米」を唱える右翼保守勢力は影を潜めていなくなる。文化的にも、戦後日本でアメリカの大衆文化を否定するような言論は消えてしまった。それは占領政策のプロパガンダの成果でもあるが、日本人自身が選んだことなのかもしれない。


B.「隷従」の国民
 日本人が本来、権力に従順で時の政府に反抗したり批判したりするのを忌み嫌う「国民性」である、とはぼくは思わない。日本の歴史の中では、民衆はしばしば一揆や反乱を起こして戦っているし、明治以降でも自由民権運動や労働運動、戦後の学生運動など明確な反権力を指向した運動はあった。しかし、「お上に逆らったら結局損をし、周りから弾き出され、いじめられる」という思い込みが、多くの人たちにあると感じることがあり、それはたぶん江戸時代の身分制社会で「イエ」と「ムラ」の秩序に、厳しい相互監視の眼が定着したことからくるのだはないかと思っている。それが同時に、下から人民の力で世の中が変わるのではなく、「お上」が入れ替われば、民衆も一斉に新しい支配者を受け容れてしまうという、情けない伝統になってしまったのかもしれない。1945年夏の敗戦後に起きたことを見れば、一夜にして「天皇陛下万歳」から「マッカーサー万歳」に切り替わったことでも、分かる。

「隷従に慣れすぎてないか:「自由」なはずなのに無力感  《政治季評》 豊永 郁子(政治学・早大教授)
 1985年のロンドン初演以来、ロングランを続け、映画化もされたミュージカル「レ・ミゼラブル」に「民衆の歌」という歌がある。「レ・ミゼラブル」(「惨めな者たち」の意)は、貧しさから一片のパンを盗んだために一生官憲に追われるジャン・バルジャンと彼をめぐる人々の物語。ユーゴーの小説が原作だ。クライマックスは1832年にパリで起こった6月暴動。蜂起した学生と労働者がこの歌を歌う。歌詞の直訳はこうだ。「君に聞こえるか、民衆の歌が/怒れる者たちの歌を歌う/それは二度と奴隷にはならない人々の歌だ……戦いに加わりたまえ/それが自由である権利を君に与える」
 奴隷でないとは古代ギリシャ以来の、最もシンプルで恐らくは核心的な自由の意味だ。現代の聴衆にもこの歌詞が受けるのだ。だが、奇妙なことに、ミュージカルの日本版の歌詞には、歌のキモである「二度と奴隷にはならない」の部分が訳出されていない。漠然と「自由への道」が語られ、原詩と同様、明日の祖国のために血を流すことは歌われるが、「怒れる者たち」が出てこない。
 日本人には「奴隷になるものか」という心情がピンとこないのかもしれない。隷従に慣れすぎているのだろうか?周りの人が奴隷ならば進んで奴隷になるような気もする。
 最近でいえば、ブラック・ライブズ・マター運動とミー・トゥー運動が日本であまり共感を集めなかったのも、そのせいかもしれない。警官による黒人男性の暴行死、ハリウッド女優による性暴力の告発が引き金となったこれらの運動は、単なる差別への抗議を超えて、現在だけではなく過去にも遡る、白人支配、男性支配の告発に踏み込んでいる。そこにあるのは「二度と奴隷にならない」という怒りだ。
  •    *     *   
 学者たちは、現代の自由をもっぱら二つの概念によって捉えてきた。他者からの干渉が存在しないことを意味する消極的自由と、理性あるいは真の自己に従って自律的に行為することを意味する積極的自由だ。前者は17世紀英国の思想家、ホッブスとロックに、後者は18世紀大陸欧州の思想家、ルソーとカントに起源が求められ、それぞれの長短について侃々諤々の議論が交わされてきた。
 他方、古代の自由派――そもそも自由の概念は古代ギリシャで生まれたのだが――社会的な関係を意味していた。通常、直接民主主義の下で市民が統治に能動的に関与することと解され、現代の自由とまったく異質なものとされる。だが、そうだろうか。
 アリストテレスの証言によると、古代ギリシャでは、自由は民主制の基礎であり、民主制の下でのみ市民は自由を享受でき、自由こそ民主制の目的であると考えられていた。自由のしるしは二つあった。一つはかわるがわる治め、治められること。各人は同党の存在だという平等の観念にもとづく。実際、当時の民主制では、公職者は原則的に全ての市民から抽選で選ばれ、短い人気で入れ替わった。もう一つは好きなように生きること。これは奴隷でないことによるとされた。ゆえに誰にも治められない、それが無理なら交代で治められることが望ましい。ここから一つ目の自由のしるしも導かれる。
 自由の意味は統治への関与というより、主人や支配者を持たないことにあったようだ。現代の政治哲学者アーレントは、古代の民主主義の理想は民衆による支配ではなく、まさに支配が存在しない、つまり支配者と被支配者の別が存在しないことにあったと説く。支配からの自由、平等による自由こそ重要であった。
 もっとも、こうした自由は男性の市民だけのものであり、労働を担った奴隷と女性に自由はなかった。だが、近代以降、これをすべての人に行き渡らせることが問われるようになる。その際、古代の国家が、生来同じではない市民の間に人為的に平等をつくり出していたことは、むしろ希望を与えてくれる。様々に異なる人間が、誰かが誰かを支配することなく、対等な存在となる社会をつくることは可能なはず、と。
  •     *     *   
 ところで、日本の新型コロナウイルス対策で、政府は他国でとられている強制的手段をあえてとらないことで国民の自由を重んじているとした。これは消極的自由だ。他方、国民は理性的に行動すること(自粛)を促され、積極的自由の主体に仕立てられた。両自由はふんだんにあったわけだ。だが、もう一つの、支配からの自由はどうか?思い浮かぶのが、感染拡大の最中、経済活動を極力継続させるという政府の方針の下、雇い主の求めるままに、職業的な使命によるのでもなく、仕事に出ていた人々に漂っていた無力感だ。
 ある友人は、2月下旬にパリを訪れた際(まだウイルスの感染爆発に至っていない頃だ)、地元テレビ局のニュースが労働者の撤退権なるものを告知しているのを見て驚いたそうだ。健康や生命に危険がある場合は職場から撤退しても解雇などの制裁や賃金減額を受けないという労働法上の権利だ(なるほど、ロックダウンは労働者の権利の延長線上にあった)。冒頭の6月暴動は失敗に終わるが、人々は歩みを続け、隷従に陥らないためのこうした制度を勝ち取っていったのだ。」朝日新聞2020年8月20日朝刊、13面オピニオン欄。

 ここで豊永氏が書いていることは、もう少し先があると思う。「自由」「人権」「平等」などといった価値は、フランス大革命に象徴される西洋の社会運動の中から(あるいは啓蒙主義思想から)生まれてきたもので、日本人は明治以来それを価値として学習はしたが、日本社会の中で定着させたとはいえない。少なくとも、危機的な状況になると、主体的にみずからの判断で積極的自由を求めるよりは、政府権力に依存し「隷従」する道を選ぼうとする人が多い。その先に何が起きたかは、昭和前半の歴史を見れば明らかだろう。
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