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 敗戦を語る俳優 6 シベリア抑留  エシカル消費?

2020-12-08 13:42:07 | 日記
A.三橋達也のシベリア 
 大戦末期の1945(昭和20)年8月9日未明、150万を超すソ連軍は、国境を越え満洲に侵攻した。それは長崎に原爆が落とされた日でもある。弱体化していた関東軍はこれを防ぎきれず敗走するなか、制圧したソ連軍は日本軍人を武装解除し、約57万5千人をシベリアやモンゴルに連れ去り、強制労働につかせる。これがシベリア抑留である。抑留中に死亡した人数は、厚生労働省によれば、シベリアで3万9013名、モンゴルで1430名となっている(2020年8月現在)。抑留者には、日本軍の将校兵士のほかに、満州国の官吏、警察官、民間人、満蒙開拓青少年義勇軍隊員、従軍看護婦、軍関係の女性事務職員が含まれていたという。
 濱田研吾氏の『俳優と戦争と活字と』(ちくま文庫、2020年刊)によれば、映画スターとして戦後活躍した俳優、三橋達也も、徴兵され敗戦の夏に満洲の部隊にいた。そのままシベリアに抑留され、1947(昭和22)年初めに帰国するまで1年半ほどの抑留生活を送った人である。

 「三橋達也は、1923(大正12)年、東京・銀座に生まれた。関東大震災から間もなくである。父は、銀座四丁目交差点の裏で木版の製造業を営み、母は美容院をやっていた。大震災で一時疎開し、一家は再び銀座へ戻る。三橋は、地元の京橋小学校から、中央商業学校(現・中央学院大学中央高等学校)へと進む。
 大学は、父が旧制東京美術学校(現・東京藝術大学)を勧めたのを逆らって、多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)をえらんだ。関心があったのは美術より演劇で、新劇の研究団体「新制舞台」に参加した。ただ公演にせっかく出演(端役だった)しても、お客さんはまばらにしかいない。
 満足できなくなった三橋は、1943(昭和18)年にかけて44(昭和19)年にかけて「劇団たんぽぽ」の青年部に移った(入団の年は、三橋本人の証言でも記事によって異なる)。劇団たんぽぽは、「ターキー」こと松竹少女歌劇団の水の江滝子(1915~2009)が率いる劇団である。たんぽぽでは、数少ない青年俳優となる。二十歳になるか、ならないかのころ。三橋は水の江から「ボーヤ、ボーヤ」と可愛がられた。のちに男優は増え、有島一郎、堺俊二、田中實(のちの田崎潤)らが参加した。

 やがて、準幹部に昇格したんですが、ほとんどそれと同時に召集されて戦地へもっていかれてしまいました。戦地へ出発する前に、劇団メンバーとその関係者は壮行会をしてくれましたが、そのとき餞別としてターキーさんにもらった十円はありがたかったですね。
 借金で不義理をしていた人たちにそのお金の一部で返済して、ことを果たしたのも忘れられない思い出の一つですが、残った金でぼくの初恋のおとめと二人で旅行に出かけたんですから、これは忘れようったってムリな話じゃありませんか。
 ともかく戦争中のことだったので、あたりは殺伐としていたんですよ。そんな中で、この女性との旅行はぼくのささやかな甘い青春の一ページでもありました。(三橋達也「わたしの十代 秀才から悪童へ!転落の青春賦」『近代映画』1965年9月号)

 右に引用した記事にも、抑留中のエピソードは書かれていない。わずかに《戦後、二十二年にシベリアから復員し》(前掲書)と書いてある。『夜の流れ』で演じた板前のように、過酷な戦地体験と心身に受けた傷は、そう人前で語りたいことではないだろう。
 三橋が固く口を閉ざしたかというと、そうでもない。映画ファン向けの雑誌でなく、大衆向けの週刊誌ではたびたび、抑留体験を口にした。ただし積極的に、ではない。求められたから語った、書いた、との印象を受ける。
 漫画家の近藤日出造が連載した訪問記で、三橋が語ったことがある。《「敗戦で捕虜になってシベリアへ持って枯れちゃって…。兵隊は伍長までいきましたが幹候(幹部候補生)あがりの伍長ですから、なぐられる方でしてね」》(「日出造訪問 これは失礼・三橋達也の巻」『娯楽よみうり』1956年3月23日号、読売新聞社)。
 この記事から二年後の1958(昭和33)年、流行語「一億総白痴」を生んだ評論家、大宅壮一の連載対談に招かれた。大宅にしてみれば、映画スターのプライベートより、その前段にある戦争体験に興味があったのかもしれない。対談が盛り上がってきたころ、大宅が戦時中の話題を持ち出した。それに応じた三橋は、満洲の独立守備隊にいたときの話を明かす。三橋がいたのは補充兵の部隊で、演習中のほかに鉄砲を撃つことはなかった。

 三橋 奉天のこっち側、通化の手前まで部隊が輸送されまして、そこで今まで各部隊ごとに集まっていたのをバラバラにされて、別な編成でシベリアに一年くらいいまして、帰りはポシェットという港から朝鮮へ送られて帰ってきました。
 大宅 あなたの階級の最後は。
 三橋 兵長だったです。幹候(幹部候補)のほうは入院している間にダメになりましてね。最初シベリアへ行ったときは、なるべく階級を下にしたがったものです。将校がみな一等兵くらいの階級章をつけちゃったりした。
 大宅 上だとあぶないと思ったんでしょう。
 三橋 それと抑留期間が長くなるといわれたからですね。ところがそうやって将校が一等兵の階級章をつけていると、一等兵なみに作業に出されるし、将校は作業をしなくていいといわれて、その翌日から「おれは将校だ」と居直る者が出たりしましてね。みんな将校ばかりになったんです。(笑声)
 大宅 シベリアはどこにおったの?
 三橋 バルナウルというところの管轄でした。
(「大宅壮一のおしゃべり道中・道連れは三橋達也」『娯楽よみうり』1958年2月21日号)

 バルナウルは、モンゴルとカザフスタン国境のほうに位置するロシアの都市である。三橋はここで、抑留生活を強いられた。対談を読むかぎり、大宅の問いかけには遠慮がない。「外出は自由?」「町へ女を買いに行ったりはしなかったのかね」などと問う。この対談で、もっともリアルに抑留体験を語ったのは、以下のくだりである。大宅から「ジャガイモを植えたりしたの」と訊かれ、こう答えた。

 三橋 木材の伐採をやりました。それがすごいんです。向こうのソ連人民でもそうだそうですが、ノルマが一日一人八立米(リューベイ)、立米というのは直径一メートルの木、それを一本倒して、枝を全部払い、生木の材木にしまして、枝を雪の上で全部燃やしちゃって跡形もなくしなければいけないんです。そうしないと春になって虫が来て材木を食っちゃうので、それを燃やし尽くす。それが一日一人の作業量なんです。ところがそんな太い木は切るだけで一日かかりますね。それも雪が深いでしょう。その雪を地面が見えるまで掘って、それから仕事にかかるんです。地上三十センチの高さで切るという規定がありますからね。それがみな栄養失調の捕虜でしょう。だから雪を掘るだけでもフウフウいってるんですよ。ひとり岩手県のほうの兵隊できこりをやっていたのがいて、その人はハラショ・ラポーター(優秀な労働者)になって、特別なパンかなんかもらっちゃって、こんなに(両手をひろげて)太っちゃいましたね。(笑声)       (前掲書)

 極寒での木材伐採は、過酷な強制労働とされた。松や樅の大木を手作業(のこぎり、マサカリ)で倒していく。大木に引きずられ、命を落とす者もいる(三橋はそれについて語っていない)。三橋の抑留は、それだけでは済まない。すぐに日本へ戻ることはできず、現在の北朝鮮で一度、抑留された経験をしている。
 シベリア抑留記の類は、これまでに数多く出版されてきた。そのひとつに、穂苅甲子男著『シベリア抑留記 付・再びソ連を訪れて』(新信州社、1962年)がある。穂苅甲子男(1924~2015)は、信州の松本で有名な木材・建材・建築のメーカー、林友の創業者で、地元の名士であった。
 1944(昭和19)年四月、満洲に渡った穂苅は、四平省(現在の中国吉林省)梨樹県青年訓練所に勤務する。翌年三月には、東安省廟嶺803部隊に入営し、終戦となった。ソ連軍の捕虜となったのち、シベリア・タイシェット地区に抑留される。
 穂苅はそこで病を得て、シベリアから離れることになる。いよいよ日本へ戻ることができると希望に胸をふくらます。ところが着いたのは、現在の北朝鮮の都市、咸(は)興(むん)の収容所(ラーゲリ)だった。ここで、糧秣庫(兵士用の食糧と軍馬用の秣)の整理、駅からのトラックによる糧秣の運搬、牛、馬、豚の飼育および殺作業に従事する。ここで出会った上官が、シベリアから移された三橋達也であった。
 糧秣庫の労働は、実に重労働だった。
 しかし充分な、文句の云いうようのない給食は、われわれの労働能率をそれに比例して増加させていった。この陰には、三橋班長をはじめ炊事勤務者たちの、並々ならぬ苦労があったのである。まず三橋班長は、中隊に巣食う悪を断ちきるために身をもってこれに挺身した。正義感に燃える彼は、身の危険もかえりみず、ついに公平な平等な、搾取のない体制を築き上げてくれたのである。
 彼は、われわれシベリア帰りの食いたいというあこがれのものを、一つ一つ実現させていった。彼は手品師だ。ぜんざいが上る。捕虜生活ではとうてい考えられない珍物が、つぎつぎと上ってきた。足りない材料を苦心して集めては、毎日の食卓をにぎわすのだった。「今晩は何があがるかなあ…」われわれが作業から疲れて帰る道すがら、夕食の献立を楽しみに胸をふくらませるのであった。(穂苅甲子男『シベリア抑留記』新信州社、1962年)
 三橋は、炊事班の班長であった。仕事を終えた穂苅は、煙草をふかしながら、暗い夜道を歩いて、幕舎へ帰っていく。そこには、三橋がこしらえたあたたかい料理が待っていた。できたての真っ白な豆腐が出てきたときは、夢かとばかりにおどろいた。物資がそれなりに豊かだったこと以上に、不正・横領が日本人の中に広がっていたことが、穂苅の文章からうかがえる。
 1946(昭和21)年12月、穂苅は日本へ戻る。家族と再会した翌日からさっそく『シベリア抑留記』の執筆を始めた。「記憶が薄れないうちに」と気ばかりが急く。「いまも抑留されている多くの同胞を帰還させたい」「異国の地で亡くなった同胞の家族に、抑留の現実を知らせたい」。その彼岸をこめた原稿となる。
 抑留記を書き上げたあと、師とも父とも仰ぐ駒井徳三(元・満州国国務院総務庁長官)を訪ね、出版について相談した。講談社の関係者でもあった駒井は、原稿の意義を認めたうえで、米・ソ関係や戦後まもない日本の状況を考えて、時期尚早だと説いた。それが自費出版として日の目をみたのは十六年後、松本で木材業を起こしてからである。駒井はすでに亡くなっていた。
  < 中 略 > 
 12月16日の夕刻、およそ三千人を乗せた「大瑞丸」が、興南を出港した。その船に、穂苅と三橋がいる。京都府舞鶴への引き揚げ船ではなく、ふたりが下船したのは長崎県佐世保だった。そこから復員列車に乗り、ふたりは名古屋までいっしょだった。三橋はふりかえる。
――名古屋に着いた夜、復員列車の窓越しに固く手を握り、「また、お会いしましょう」そう云って中央線のホームへ降りて行ったときの穂苅君は、明日からの希望に頬を紅潮させていたのが、仄暗い中にもよく分った。…あれからちょうど十六年になる。  (前掲書) 
 穂苅は松本へ、三橋は東京へ、それぞれ帰途につく。実家のある銀座は、空襲で焦土と化していた。三橋は、母親の実家のある埼玉県の深谷へ向かう。三橋は五人兄弟で、そのうち三人はすでに病死、達弥と姉のふたりしかいなかった。ただひとりの息子である三橋は、出征したきり三年も音信不通だった。息子が帰ってきた日のことを、母親のかくが雑誌のインタビューで回想している(インタビュアーは毒蝮三太夫)。

 「着のみ着のままでね、なんにも持ってない。夢かと思いましたねえ。あれ(三橋)が死んでたら、私たち、いまごろ乞食になってたでしょう。それにしても五人きょうだいのいちばん下に、まさかねえ、あの人にやっかいになるとは思ってなかったです」(「シリーズおふくろ・三橋かくさん」『週刊平凡』1973年3月8日号、平凡社)
 この記事の最後に、「息子・三橋達也のひとりごと」がついている。三橋は言う。《終戦になって復員して、埼玉の疎開先に行ったときは、おやじもおふくろも年とったなあと思ったけど、おやじはオロオロ、その点、おふくろはしっかりしてたねえ。》。
 帰国して一年ほどは、英気を養った。俳優に復帰してしばらくは、大泉映画(東映の前身)の大部屋にいた。1951(昭和26)年、『あゝ青春』(松竹大船)における学生役で、注目を集める。『あゝ青春』の監督と主演をつとめ、自分を抜擢してくれた佐分利信を、三橋は恩人として慕った。佐分利信もまた、三橋のことを可愛がった。」濱田研吾『俳優と戦争と活字と』ちくま文庫、2020、pp.398-409.  

 シベリア抑留は、不幸な体験であるし、極寒の収容所で命を落とした人も多くいるわけだから、愉快に語れるものではない。ぼくは五味川純平の「人間の条件」の映画で、最後に主人公の梶がソ連軍の収容所を脱走して雪に埋もれて死んでしまう場面で、この悲痛哀切な物語はフィクションだとしても、シベリア抑留の現実は戦争が敗北に終わるとはどういうことか、ぼくの親たちの世代がどういう時代を潜り抜けてきたのかを知った。そして、帰還したシベリア抑留者たちに向けられたある冷たい視線のことは、もっと後になって知った。収容所の待遇や日本への帰還を早めるには、ソ連軍の方針に忠実であることが求められ、共産主義の思想教育に従順に従う兵士ほど厚遇されたため、シベリア帰りで帰国後、共産主義運動に身を投じた人もいた。朝鮮戦争が起きた東西冷戦激化の時代、合法化され社会主義革命をめざした日本の共産党は、GHQ占領下でレッド・パージを受け、内部対立や分裂を起こしていた。「シベリア帰りはアカ」という偏見に、彼らは自己防衛する必要があった。三波春夫や三橋達也といった有名人も、シベリア体験を積極的に語ったり書いたりしなかったのは、そのような事情もあったのかな、と今にして推察する。


B.エシカル消費はおすすめ?
 パリのファッション・ショーを頂点とする服飾業界は、華やかさや豪華さを誇って時代の流行を先導してきたといわれた。しかし、このところ、資源を浪費しぜいたくを煽るファッションを反省するという新しい考え方で、風向きが変わってきたという。ひとむかし前までは「エコロジー」「エコ」という言葉で、地球環境問題を訴え、地球にやさしい生活を推奨していたメディアも、なんだかただの合言葉、「もったいない」から「無駄はやめようね」程度のもう言い古された感じで、インパクトが失せていた。そこで「エシカル」の登場、というわけかな。つまり、ただの無駄を省こうではなくて、何をどう消費するかでグローバルな視点から、苦しんでいる人たちを救う、倫理的動機を養う、ということですね。
「花まる先生公開授業:服作りで学ぶ倫理的(エシカル)消費  東京・お茶の水大学付属高校 葭内ありささん 
 家庭科の新学習指導要領では、「持続可能な消費生活・環境」が一つの大きな柱として位置づけられる。お茶の水女子大学付属高校(東京都文京区)の葭内ありさ先生は、エシカル(倫理的な)消費の実践を教えている。その取り組みの一つが服づくりだ。
 世例が鳴ると、被服室に年梅組の生徒が入ってきた。制服のブレザーの下に、作りかけの服を着ている子も。この日は、春から取り組む服づくりの中間発表会だ。
 先生からの指示は、天然素材を使うこと。そして、エシカルであることだ。先生は「切り口は複数ある。まず服づくりを体験してもらい、その時に見つけたポイントを生徒間で共有して、視点を深めていくのが狙い」と話す。黒板には、国連が掲げる「持続可能な開発目標(SDGs)」と、パリのエシカル・ファンションショーで用いられた指標のカードが並ぶ。産地支援、有機栽培、リサイクル、貧困をなくす‥‥‥。みんなの服は、どの要素が当てはまるだろうか。
 まず生徒たちは六つの班に分かれ、お互いの服のできあがり具合を確かめ合った。「めっちゃかわいいね」「おしゃれ~」。色使いやデザインを褒める声が湧きながらも、話はどんどんエシカルな方向へ。「天然の綿100%かあ」「布が無駄に使われてないね」。それぞれの工夫を評し合う。
 そして各班で選ばれた代表による発表会が始まった。実際に服を着たり、胸の前で大きく広げたりして紹介していく。
 緑と青のチェック柄のブラウスに、花をかたどった飾りを付けた生徒。実はこの花、フェアトレードで生産されたマスクでつくった。安全ピンで留めており。必要な時にさっと外して顔に着けられる。コロナ禍ならではの発想も盛り込んだ。料理で余ったタマネギの皮を染料にして、天然の染め物を楽しんだ生徒もいた。
 ある生徒は、捨てるつもりだった綿の枕カバーを半そでのシャツに生き返らせた。もとの素材に新たな付加価値をつけて生まれ変わらせる「アップサイクル」という手法だ。着古した服や不要になった布を利用して仕立てた生徒も。フリーサイズにすることで、親や兄弟と共有できる。「無駄の削減にもなるし、ジェンダー平等にもあてはまるね」。それぞれの発表に、先生が解説を加えていく。
 生徒たちにエシカルな視点を養ってもらうには、「体験したことを他者に伝えて『自分事化』すること」が大事だと先生は考える。例年、生徒たちは付属中学を訪れて学んだことを発表してきた。ただ今年はコロナ感染予防のため、ビデオレターを送ることにした。
 「ファストファッションの実態を知ってもらって、買うのを控えようって思ってくれるようにしたい」。そんな意見が上がった。私たちが日々まとう衣服は、環境や社会に大きな影響を及ぼしている。大量生産・販売をするファスト・ファッション業界は、生産された多くの衣服が廃棄されたり、労働者が低賃金で長時間労働を強いられたりするなど問題を抱える。生徒たちはその実態を、ドキュメンタリー映画などで学んできた。
 つくった服を紹介することを提案する子も。「エシカルが身近で手軽にできるって伝わる」との思いだ。買うだけではなく、つくることも選択肢になる。結論は次回に持ち越しになった。
 授業を機に、生徒たちの行動は拡がる。エシカル要素を採り入れた文化祭の企画や、NGOのインターン参加。食品ロスの解決をめざすための活動に注力したり、ライターとして情報を伝えたりする卒業生も。「まいた種が花を開き、生徒が社会を変えている」。先生は誇らしく感じている。
 はってん はっけん:人々を思いやり物事を俯瞰する「視点」を養って
 環境や労働、社会問題に配慮したエシカル消費が広がっています。この視点を養うことは、もはや世界的な流れです。それを必修科目で学ぶことは、非常に意義深いと思います。
 エシカルの意味を体験しながら学ぶよう心がけています。服づくりもその一環。「エシカルな服」をつくるとなれば、生徒はおのずと言葉の意味や背景を考え、深めます。服づくりは垣根の低い作業でもあり、手を動かす楽しさや完成させる達成感が味わえます。
 ただ、つくって終わりではありません。得た知識や視点を他者に伝えることは、当事者意識を持つことにつながると考えています。これまでにファッションショーや企業とのコラボ商品の開発、リーフレットの発行などに取り組みました。
 違った立場の人を思いやり、物事や自分自身の状況などをも俯瞰できる人、そんな「遠くへの視点」を、エシカルを学びながら手に入れてほしいです。」朝日新聞2020年12月7日朝刊、15面教育欄。

 エシカル消費は、世界的な流れだとして、若い世代を教育することは必要だと思うが、なんだか教科書的に、あるいは誰も異論を出さないような形ですすんでいくと、ちょっと落とし穴はないのだろうか、と思う。
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