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2050年の日本 森嶋通夫の予言 5 大学教育の中身  「徳川」の由来

2023-02-07 19:41:16 | 日記
A.大学の役割とは?
 戦前の日本では、大学生という存在は同世代の若者の1割にも満たない選ばれた人たちだった。本人の学力で大学に入っただけでなく、旧制高校の卒業という条件は、貧しい家庭の子にはそもそも旧制中学に行くのも無理で、多くの子供は小学校(高等小学校を含む)を出たら働くのが当たり前だった。そういう時代の大学というものは、いずれ国家社会の中枢を担うべき人材を養成することが期待され、事実、昭和戦前の日本の官僚、大企業幹部社員、そして大学教員の大多数は、旧制大学出身者だった。この構造は戦後もしばらく続き、東京大学をはじめ旧帝大の出身者は日本社会のエリートと見られたので、経済的に豊かでない家庭の子女も、もしかしたら大学まで行かれるかもと、親はベビーブームで生まれた子を受験勉強に駆り立て、文部省は大学を新増設し定員を増加させたので、大学進学率は上昇した。
 その結果、1970年代には、誰でも大学生になって当たり前(現実には大学進学率は40%もなかったが)のような風潮が瀰漫し、学問の府とは裏腹に楽しく遊んでいても卒業できるレジャーランド化したのが、日本の大学になった。森嶋通夫氏はもちろん戦前の京大経済学部に学び、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで世界的な経済学者となった「本物のエリート」であるから、日本の大学で講義をやってみたら、あまりに悲惨な学生の実態にあきれ果てて、次のような文章を書いた。たしかに気持は分かる。

「前述したように、私は昨年まで数年間、関西のある一流私立大学で毎年秋に三カ月間大学院で講義した経験がある。国際関係学科のコースである。それは優秀な学生が集まっていると聞かされていたが、新企画のコースの学生は学部時代に適切な基礎訓練を受けてから、極めて教えにくいのが普通である。
 特に私が担当した経済理論の講義の場合には、学生がどの程度すでに教えられているかで、私の講義のレベルが決まる。何も教えられていない場合には、初歩から始めなければならないし、そのようにすると少しは教わっている人にはつまらなくなる。しかしそれならまだよい。初歩から教える場合でも、適性のない者はついてこれない。そのような人には理論を教えることは不可能で、経済のお話をする以外には講義らしいものをすることは不可能であった。
 しかし学生たちは真面目に講義を聴いた。一生懸命に聴いていることは私にも、ひしひしと伝わった。しかし二、三の学生を除いて彼らは質問をしなかった。議論らしい議論が私との間に、また彼ら同士ですることは殆どなかった。
 例外の一人は女子学生であった。他の女子学生よりも学生らしい雰囲気をもった人だったので話しかけると、台湾からきた人であった。もう一人、藤岡信勝の「新しい歴史教科書をつくる会」は危険だと教えてくれた学生がいた。その当時、私はまだ藤岡の名前を知らなかったから、その学生は月刊雑誌を読み、思想問題にも一応の関心を持っていた人だといえよう。
 最後の一人は、身体障害者の学生だった。いつも講義が終わった頃に、母親が教室に現われ息子の車椅子を押して帰った。この学生は読書好きであった。彼が最近読んだいろいろな本について講義のあとで質問した。この時が唯一私を緊張させた時であった。
 試験の代りに私は彼らにエッセイを書かせた。彼らは、問題をつくり上げ、それを分析したり議論するという学生が心得ていなければならない技術に無知だった。だからエッセイは小学生の書く綴り方とほとんど変わりなかった。イギリスでは中学高学年になるとエッセイをたくさん書かせ、先生が添削して、ここの箇所にはこういう反対意見があり得るから、反対意見を打ち破れるように、議論を強化せよと指導される。こういう指導を受けて学生は成熟してくるのだが、日本の学生は全くうぶであり、純真であった。だから教室から出るとすぐに野球や、ファッションや、漫画の話に直行することができるのである。京大の北門を出た所の四つ辻の対角線上に大きいパチンコ屋があるのに、びっくりしない外国からきた大学教師はいないだろう。平等主義が最も実現しやすい状態は全員が白痴化していることだ。
 私は数年前にハーバード大学とUCLA(カリフォルニア大学ロスアンゼルス校)を訪問した。ハーバードでは学生(大学院)が講師を選ぶことが出来、私は彼らに招かれてハーバードで私流の経済理論について話をしたのだが、学生の大部分はヨーロッパからの留学生であった。アメリカでの大学進学率は65%で、日本よりはるかに高いが、海外からの留学生のおかげで、アメリカ人の学生は一流大学には入学しにくくなっている。UCLAの場合も同様である。留学生は必至であり、大学に遊びにきているのではない。一つの教室から次の教室に行く時、学生の行こうとする教室は同じでないから、彼らはキャンパス中を右往左往する。一人で黙々と歩く学生がキャンパスで道が交差するところを、あらゆる方向に、また逆方向に孤独で歩いているのである。これが大学なのだ。
 日本の大学では昼休み時間には、太鼓が叩かれる、応援歌が歌われる。学生落語大会があるからきてくれとの勧誘が大声でされる。それだけでない。テニス・コートでボールを打つたびにヤーッ、ヤーッと叫ぶ女の子の声だけが聞こえる。よくよく「やかましいぞ」と怒鳴ろうかと思っていたら、「声が小さい。もっと大きい声を出せ」という男の先輩の声が聞こえて来た。「大学=ユニバーシティの方程式は正しいか。論ぜよ」と入学試験の問題に出し、正しいと答えたものは全員落第させたらよいのだ。
  2050年の土台 
 このような現実を見ることは悲惨である。しかし私たちは、このような現実の彼らを前提にして、五〇年後の彼らの人生の絶頂期に彼らはどんなリーダーになっているかを推論しなければならない。もちろん彼らも変わっているであろう。よくなっているかも知れないし、度し難くなっているかも知れない。その時勝手な希望的観測は許されない。私たちに許されるのは、充分納得のいく変化を折り込むことだけである。そのためには、現在の彼らが出てきた背景をもう少し深く観察する必要がある。
 まず第一に戦後教育は、誰をも贔屓したり特に貶めたりしないように、完全に無差別の原理に則って行われたことを指摘しておかねばならない。全ての価値判断は排除されたが、そういう時代が続いた結果、日本人は価値判断を行う能力を失ってしまった。教育とは知識を詰め込むことだと考えられ、生徒たちは、なんでも丸暗記するのは巧みになったが、論理的思考は不得手で、したがって意思決定力もすっかり弱くなった。さらに、入学試験が簡単で大学進学率が上がったために、学生の教室での行儀はすっかり悪くなり、彼らは学ばず考えず、大声で私語した。学生たちは、大学生あることのプライドを持たず、一層正確には持つことを拒否した。今日の日本では、高等教育を受けていることは、少しもエリートたる証にはなっていない。
 「悪貨は良貨を駆逐する」の法則通り、こういう状態の進行を止めることは至難である。このような動きは、日本に非常に大きな打撃を与えるであろう。というのは、日本は儒教社会であり、国の存続のために知識人が主導的役割を演じるようにつくられた国家であるからだ。日本は、底辺からよりもむしろ頂点から崩れていく危険が大きいが、そういう事態は、現在の学生や子どもたちが社会のトップになった21世紀中頃にやってくるであろう。
 1970年代半ばから、多くの日本人学生が、米国に留学して大学教育を受けるようになったことは既に述べた。日本に留まっているよりも米国で博士号を取得するほうが、教育・研究、あるいは経営の良いポストに任命される可能性がはるかに高いからだが、それだけではない。60年代末期に小宮隆太郎が私に話したように、日本の大学(東大経済学部)自体が有能な学生を自分たちの大学院へ進学させず、アメリカの大学に行くことをすすめるようになったのである。つまり、自分たちの将来の幹部教育を米国の大学に委ねてしまっているのである。そしてこれは、社会の断絶を一層広く深くすることになるだろう。
 さらに次のような現在の青少年の特徴を忘れてはならない。金銭その他の資産の保有は、身の保全のための最も有効な手段であり、日本の若者が強烈な富への欲望を持っていても、驚くべきことではない。他方では、避妊手段の進歩により、種族の維持は性的快楽の追求から完全に切り離されている。今日の日本人は民族や国家への配慮が非常に弱く少ないが、肉欲に関しては強い刺激を受けている。殆どの先進国で日本と似たような現象が見られるのは事実だが、1996年12月の『ニューズウィーク』が指摘しているように、日本では性的なモラルが他国より桁はずれに頽廃していると見てよいであろう。このことは、日本人が無宗教であることと密接に関係しているであろう。16世紀に日本に来たキリシタンの宣教師が驚いたように、中世の日本婦人には貞操観念が希薄であった。現代の日本の女子高生も、自分の性的な楽しみのために、また自分が欲しいものを買う金を得るために、簡単に売春に走るのである。このことは、日本のティーンエイジャーの性欲と物欲がいかに強いかを示している。そしてこれらの欲の比重がバランスを失して大きくなれば、近代資本主義の原理にふさわしい健全な労働倫理を未来の国民が持つことはまずありえないであろう。
 競争経済の労働倫理は具体的な雇用主や会社に対する忠誠心を強要するようなものではない。労働者が尊重し従うべき忠誠心は、もっと抽象的なものである。労働者に、なにか抽象的・超越的なものに対する義務感や責任感を持たせるためには、現代日本の教育環境は標的はずれで不毛である。なによりも物質主義的な教育がなされているからであり、宗教的な環境――より高次な次元の倫理へのおそれ――は一切見られないからだ。家庭でも学校でも、真剣な議論が行われることはない。物質主義者・功利主義者になるための教育を受けた彼らは、倫理上の価値や理想、また社会的な義務について語ることに対しては、たとえ抽象的な論理的訓練としてでさえ、何の興味も持たないのである。例えば日本の若者たちは「愛」を知らない。
 コンピュータ化、機械化、ロボット化は、さまざまな産業分野で進行している。労働者や管理職員のオフィスでの生活は全く単純化されてしまい、仕事はすべてコンピュータその他の機械がやってくれるから、何の判断の必要もない。したがって、動作を自分で選択することは殆どない。単純化された業務を繰り返し行うだけなのだ。最終的には、労働者同士が疎外され、言葉も交わさなくなる。労働者自身も、一種の機械と化してしまうのである。このような生活が、大学を卒業したら待っているのである。そこには高次元のものへの忠節心――抽象的なプリンシプルに対する畏怖心―ーは一切ない。
 では彼らは家に帰って何をするか。テレビの前に座って、多少なりとも気紛れにボタンを押してチャンネルを選ぶ。放映されている番組はどのチャンネルも似たり寄ったりであるから、選ぶという行為に意味はない。(テレビ局は、視聴率が最大になるように番組を決定しているから、番組編成問題への解が一つしかない場合には、どのチャンネルもほぼ同じような番組を放映することになる。)夕食後の家庭生活も、多かれ少なかれ似通っている。ここでもまた、機械のために、家族員相互間に疎外現象が生じる。家族員同士の会話がほとんどないからである。各家庭がこのような状況では、カリスマ性のある起業家や政治家の登場など全く期待できない。カリスマとは他の人に見られないような超人的・英雄的・天才的資質を言うが、人々が家庭でも職場でも相互の接触を絶ち、無言の生活を続ける時には、カリスマがある人かどうかはわかりもしないからである。
 けれどもこのような家庭生活でも、コンピュータ化と機械化の時代の生産様式によく適合した、社会構造の一環であることを忘れてはならない。だからこういう家庭のあり方は、将来簡単に変わると期待できないであろう。日本の経済を根本的に改革し、公正な競争に基づいた経済を築くためには、贈収賄や共謀・脅迫などを拒否する強力な倫理的バリケードが必要であるが、それらを構築して現在の若者を防衛するには時すでに遅しと見なければならない。日本は今の彼らの延長線上に2050年を迎えねばならない。」森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店(岩波現代文庫205)、2010年pp.42-49. 

 日本の大学で、長年講義をしてきたぼくとしても、高等教育の最低限の水準をどこに置くか、かつてのような知的エリート養成を基本にしたら、森嶋氏の言うように日本の大学の8割は落第だろうと思う。そして、戦後の大学拡張策によって、教育の内容だけでなく大学生の社会的存在の意味も変わってしまったのだから、これを改善するのは容易ではないと思う。しかし、実際に日本の大学生たちを見ていて、知的劣化をもたらしたのは、大学だけに責があるわけではないとも思う。高校までの中等教育の中で、学びの意味、知的であるとはどういうことかが、すでに欠落した環境にあるのではないかと思う。中学生くらいの段階で、勉強することの真の意味を見失い、ただ親や教師に合わせてやりすごすか、競争を勝ち抜く狭い勉強に賭けるしかないと思い込んだ学生を見ると、日本の未来はどうも明るくないし、いまの保守化した中年男性が、どういう教育を受けて来たかを考えると、危惧は深まる。


B.立ち読みの発見 
 ぶらりと書店をのぞいたら、雑誌の表紙に旧海軍の「巡洋艦」特集というへんなのがあって、手に取ってぱらぱら読むと、巡洋艦についてのやけにマニアックな記述が並ぶあとに、いきなり戦国時代の合戦、それも今川義元が死んだ桶狭間の戦いについて、さらに当時の三河の国人領主の状況などがこれもマニアックに説明されていた。NHK大河ドラマ「どうする家康」がらみの特集かと、ふ~んと読んでいくと、元康から名を変えた家康が、それまでの松平という先祖代々の姓を変えた事情が書いてあった。そういえば、どうして家康は「徳川」にしたのか、ぼくはかねがね疑問に思っていたのだが、なるほど、これは彼の意思によるのではなく朝廷に「三河守」の官位をもらう条件のためだったという。そうだったのか!立ち読みの発見は嬉しい。
 念のためネットで検索すると、以下のような記述があり、資料的な裏付けだけでは、元々得川だったものに戻した(復姓)と言うが、これは辻褄合わせの嘘だったという。

「徳川家康が、松平姓から徳川姓に変えたのはなぜか。家康は、永禄9(1566)年12月19日勅許を得て「松平」から「徳川」に改姓し、従五位下三河守に叙任された。各種史料では先祖が名乗っていた徳川姓にもどった(復姓)としているが、のちに姓を源氏とした家康は徳川改姓の際には藤原氏を称しており、叙位任官されやすい藤原姓徳川氏としたものと思われる。・『日本人名大事典』第4巻(平凡社 1979年)の「徳川家康」の項には「元亀元年家康は引間に徒り、これを浜松と改称した。これより先、家康は元康を改めて家康と称したが、ここに至り、勅許によりて旧姓徳川氏に復した」と記述がある。
・『徳川幕府事典』(竹内誠編 東京堂出版 2003年)「徳川家康」の項には「松平元康から徳川家康に」の項があり、「…家康は「源元康」を自称するほど源氏志向であったが、徳川は清和源氏系の得川をもじったものである」との記述がある。
 ・『世界伝記大事典』日本・朝鮮・中国編 第4巻(ほるぷ出版 1978年)、国史大辞典』第10巻(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1989年)、『日本史大事典』第5巻(平凡社 1993年)には、改姓についての記述はあるがその理由に関する記述はみあたらない。
『徳川家康(ちくま新書)』(二木謙一著 筑摩書房 1998年)p40-46には「徳川改姓と従五位下三河守叙任」の項があり、「国主大名となった宗家松平が、一族の上に立つことを明示するために徳川と改めて他の松平諸家とは区別したもので、叙任は三河国主としての肩書きと、社会的な公認を必要としたからであろう」、また、「藤原姓を称したのは、叙任されやすい藤原氏に目をつけてのことで…」などと考察している。
 ・『詳細図説家康記』(小和田哲男著 新人物往来社 2010年)p31には、「各種史料には「復姓」とみえ、先祖が名乗っていた徳川姓にもどるという体裁をとってはいるが、これが系図詐称であることは明らかである」との記述があり、p178「なぜ徳川を名乗ったか」の項には、「…松平という苗字のままでは叙位任官ができないということがわかってきた。当時の習慣として、源氏か平氏か藤原氏か橘氏といったいわゆる「天下の四姓」につながらなければ叙位任官がかなわなかったのである。」「そこで、はじめ家康は、先祖が称していたという源姓新田一族の徳川氏に結びつけようとして申請したが、間に入った近衛前久の意向で、藤原姓徳川氏となった。のち、源平交代思想を意識し、改めて源姓徳川氏に鞍がえをしている」などの記述がある。徳川氏は、松平氏(安祥松平家)当主の徳川家康が得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりである。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない. 
 また、「永禄9年(1566年)、官職を得ていて朝臣でもあった松平家康が朝廷の許可を得て、家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)し、従五位下三河守に叙任された。このとき正親町天皇は先例のない申請に対して躊躇し不信を述べたが、吉田兼右が万里小路家の文書を改鋳し、得川氏が二流に分かれ、一方が「藤原姓」となったという先例が発見されたとした。この件には近衛前久が関与しており、その経緯を子である近衛信尹に送った書状が現存している。
ここで重要なのは、松平一族が徳川に改姓したのではなく、「徳川」は家康個人のみに許される称号であったことである(嫡男の信康については、名乗った説とそうでない説、徳川氏を名乗っていたが没後に江戸幕府の後述の方針でその事実が抹消された説がある)。「徳川」姓は、家康個人が松平氏内部で専制権力を確立して、派生した松平一族と家臣団を統制するために使われたと考えられる。初代家康が慶長10年(1605年)に将軍職と当主の座を辞して隠居するまでに徳川姓を許されたのは、世子の秀忠ただ一人であった。公認される限り11人いた家康の男子で徳川姓を許されたのは、三男で世子の秀忠、及び御三家の祖となる九男義直・十男頼宣・十一男頼房(1636年(寛永13年)7月、徳川賜姓し、松平姓から改姓した)の4名にすぎない。後の3名は、秀忠が二代当主(将軍)になって以後に元服したものである。その後も将軍家のほかに徳川姓を許されるのは、家康直系の子孫(親藩)のうちでも特に徳川御三家(尾張家・紀州家・水戸家)、御三卿(田安家・一橋家・清水家)およびこれらの後嗣のみ(但し、一時期これら以外に駿河徳川家、甲府徳川家、館林徳川家も存在した)だった。 それ以外の親族は松平氏を称し、また武士は徳川氏を名のることは憚り、農民・町人は原則として苗字の使用を許されなかったため、徳川の苗字は絶対的権威を持つこととなった。」 

 なるほど「三河守」の官位が欲しかったので、松平ではだめだから新田源氏(新田義貞の家系)が祖先にいた、ということにでっちあげたわけか。しかも、当時武家の官位などは朝廷に室町将軍を通して申請する手続きを踏まなければならなかったが、将軍足利義輝は殺されてしまった時で、将軍は不在。将軍に頼めなかったという特殊事情もあったようだ。官位ひとつ貰うのもなかなか面倒だったんだな。
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