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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

少し美術のことを考えようか・な

2014-09-21 00:36:48 | 日記
A.絵画のこと
 絵を描くのが子どものときから好きだった。その頃はまだ世の中一般が貧しく、画用紙などは貴重だったので、母がもらい物の包装紙などを大事にとっておいたので、ぼくはそういう紙の裏に鉛筆やクレヨンでいろんなものを描いていた(らしい)。そのうちマンガを読むようになって、手塚治虫やうしおそうじや小松崎茂なんかの絵に惹かれて、夢中で真似して描いた。もっとも小松崎茂はリアルな水彩画なので簡単には真似できなかったが。
 ぼくの隣に住んでいた叔父、つまり父の弟は、いちおう画家で、へんなわけのわからない絵を描いていたのだが、たぶん生活のために「子ども絵の会」という絵画教室を初めて、木造の自宅兼アトリエに子どもを集めて絵を教えていた。だからぼくの身近に、デッサン用の石膏像とか木炭とか、絵具やポスターカラーやイーゼルなんかはよく見ていたのだが、ぼく自身は叔父に絵を教わったような記憶はない。叔父よりもむしろ、その生活を支えていたレタリング職人の叔母さんの方を尊敬していた。今のように文字のフォントをパソコンで簡単に選べる時代ではなく、ポスターにせよ雑誌の表紙にせよ、人が手で丁寧に描いていて、叔母さんは毎日ガラスのデスクに下からライトを当てて綺麗な文字を筆で書いていた。
 レタリングの道具とか、イラストの画集などは叔父の家に行けばたくさんあった。そういう仕事があるということは、子どものぼくには不思議だった。それに牛の骸骨とか、ピストルの残骸とか、妙なものが散らばる部屋には、いつもつ~んと絵具の匂いがした。ぼくはその部屋が好きだった。でも、絵について何かを教わったわけではない。小学校に行き、中学校に行くと、みんながぼくの書く絵を「うまい!」と褒め、それはぼくが絵画教室の先生の甥で、絵がうまいのは当然だと思っていることに驚いた。先生に習って描ける絵などろくなものではないことは、ぼくははじめから気がついていた。それも環境のせいといえば、そうかもしれない。
 「日本文学史序説」が終わったので、少し美術史についても考えてみようかな。



B.フランスと日本美術
 近代日本における芸術のありかたは、明治維新以来、それまでの東アジア的な創作と鑑賞システムを捨てて西ヨーロッパに価値の標準をおき替えた。しかし、日本の明治以後のアーティストは完全に西洋の美意識に同調するかにみせて、いつのまにか「日本的なもの」を内容的というよりは社会的に、戦略的というよりは無意識の領域で、大真面目に追及することになった。美術の場合、19世紀から20世紀初頭の時点では、国家と市民社会のための美術アカデミーが確立したフランス・パリが、いわば世界標準の中心だった。画家や彫刻家として世界に躍り出るにはまずパリに行って修行しなければ駄目である、という観念が、東京の美術学校から普及した。しかしそれはそのまま、画家を志す日本の青年には、一時代前の西洋の流行を必死で学習することを意味し、そこから先は見えていなかった。
 西洋を身につけたふりをした帰朝者は、気がつけば伝統的な徒弟制度や、囲い込んだ骨董屋的な流通システムを築き上げ、一部の上流階級に取り入って縄張りのなかで権威を振り回すようになる。画壇、文壇、楽壇、それぞれのタコ壺で威張るドメスティックな世界。そこを抜け出て、本気で世界と勝負しようとした人間はどういう道を歩いたのか?

「佐伯祐三(一八九八~一九二八)といえば、パリを描いた画家として、日本では非常に名前の知られた画家のひとりである。しかしフランスの美術界では、おそらく無名の画家であろう。彼がパリで制作していた時代の、1920年代について書かれた書物にも、その名前すら記録されていないにちがいない。先輩の藤田嗣治が、エコール・ド・パリの美術界の一角で、はなばなしい活躍をしていたのと比較するのは、とうていできない相談であるが、彼我の美術史的な条件のちがい、という問題はあるけれども、こうした偏向を修正すべき時期にあるのではないだろうか。つまり、佐伯が、いかにすぐれた画家であっても、また日本で高い評価を得ていても、世界的な視野のなかでとらえられることはなく、少なくとも今日まで、佐伯がそういった意味での、正当な評価を得る機会はなかったといっていいからである。
 近代美術史の研究が、世界的な視野のなかで、新しく加味すべき論点があるとすれば、単にヨーロッパ諸国だけではなく、世界各国の美術家を同じ地平で考察してみる、ということではないだろうか。例えば、同じヨーロッパといっても、わたしたちは東ヨーロッパの画家たちについては、ほとんど知らない、といっていいし、ましてやヨーロッパ、なかんずくフランスの美術愛好家たちにとっては、中国やインドや日本の、近代美術史の画家たちは、まったくご存じないにちがいない。
近年、こうしたかたよりのなかでつくられてきた近代美術史にたいして、例えばアメリカや日本の研究者たちが、是正の意図をもちつつ、再構成の機会をもち、相互の検討作業に入っているのは、まさに近代美術史の研究が新しい段階にきていることを示しているのではないだろうか。
わたしは、数年来、探訪の機会をフルに活用して、いわば「辺境の近代美術史」を、わたしなりに考察しているわけであるが、こうした試みは、恐ろしく時間が掛かるという実感をもつにいったっている。わたしの小さな経験のなかで、いくつか思いつく画家の名前をあげれば、例えば、アイルランドのジャック・バトラー・イエーツ、ルーマニアのニコラエ・グリゴリスク、ドイツのマックス・リーバーマン、アメリカのトマス・イーキング、メキシコのホセ=グアダルーペ・ポサダ、イギリスのロレンス・S・ローリー、ロシアのイリヤ・レーピン、中国の徐悲鴻、ハンガリーのミハーイ・ムンカーチ――等々である。
みな、それぞれ自国では敬愛され、高い評価を得ている画家たちである。これらの画家たちを同一視界でながめようとするのは、一九世紀以降の近代美術史の、いわゆる「公式」の図式にたいして、世界各地のそれぞれ固有の歴史的な背景をもった画家たちを、同じ「空想の美術館」へ誘ってみようとする試みでもある。
しかし、この試みは、恐ろしくグローバルな側面をもっていると同時に、それぞれの国情と近代の歴史を重層的に考察しなければならない、という限定された側面をもつので、ひとつの集約された図式を描くのは、非常に困難であるかもしれない。が、こうした視点を導入しないかぎり、日本の近代美術史のなかで位置づけられている画家たちを、諸外国の画家たちと比較検討することはできない、ということもまた事実なのである。」酒井忠康『早世の天才画家 日本近代洋画の十二人』中公新書、2009.pp.184-186. 

 佐伯祐三はパリを描いたことで日本では有名だが、東京にいた時のアトリエは、下落合にあり、今もその建物が記念館として残っている。その付近は目白にも近く、昭和初期のここの風景を佐伯は絵に描いている。ぼくは割合その近くに子どもの頃から住んでいるので、昔の東京郊外の崖や丘のある風景が実際どこなのか想像がつく。佐伯は大阪西成の寺院に生まれた次男だったという。東京やパリに家族で画家修業ができるなど、ずいぶん裕福な家であっただろう。

「佐伯祐三は一八九八(明治三十一)年、大阪に生まれている。なくなったのは一九二八(昭和三)年、三十歳の生涯であった。その間に制作された作品は四百点を超えるものと思われるが、現存するのは三百五十余点である。
 一九二三年に東京美術学校を卒業。同年に妻子をつれて渡欧。よく一九二四年から二五年の暮れまでパリに滞在。一時、日本に帰国し、再び一九二七年秋からパリに滞在して翌二八年夏、ヌイイ・シュル・マルヌのエヴラール精神病院で死亡。画家としての制作期間は、わずか四年数ヶ月のことである。宿痾の結核をかかえた身で、たえず死の不安とたたかっていた画家であるが、晩年の生き方には、まさに壮絶な印象をあたえるところがあって、日本の美術愛好者たちは、深い哀惜の情をもって、彼のことを追想する。
 それはちょうど、ファン・ゴッホの生涯とその芸術が投与する、何か悲劇的な運命を想起させる場合とも似ていて、いわば天才にこそふさわしい、ある劇的な行為の姿を、そこにみるからである。晩年の佐伯もまた、ほとんど狂気と身を接して生きていた。その狂気が彼の死を早めたことは事実である。しかし、狂気が画家の創造的エネルギーと密接なものであったとすれば、それはあきらかに創造行為と別のものではありえない。少なくとも短い生涯の間に、四百点を超える作品を描いているのであるから。また、その作品の緊迫した造形の内側から放射する想像的エネルギーには、この画家の、きわめて強靱な意志の反映を感じさせるものがある。」酒井忠康『早世の天才画家 日本近代洋画の十二人』中公新書、2009.pp.194-195.

 天才画家は早逝する、というのは必ずしも統計的な事実とはいえないが、若い時代の数年間だけ花のパリで憑かれたように絵を描いて死んでしまった、というのは、伝説になる要素は大きい。しかし、それも辺境の日本から見た場合のことであって、パリの中心から見れば作品の価値だけが問題になるのであり、東洋から来た画家など記憶するほどの価値はなかったのだ。
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