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手塚治虫のこと・森有正のこと

2014-09-19 17:55:05 | 日記
A.手塚治虫さんの記憶
 「マンガの神様」手塚治虫については多くのことが知られている。でも、「鉄腕アトム」を読み返したら、少し確認したくなった。以下、とりあえずWikipediaから。
本名:手塚 治、1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日)は、日本の漫画家、アニメーター、アニメーション監督。 医学博士。血液型A型。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、現代にまでにつながる日本の漫画表現の基礎を作った。生まれ育った兵庫県宝塚市名誉市民。
  大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝などをはじめ数多くの人間が彼に影響を受け、接触し漫画家を志した。
学歴は阪大医学部卒の医学博士だけれども、専門は基礎医学でいわゆる病院で患者を治療するお医者さんではなかったという。「ブラックジャック」などの医者を主人公にした作品からは、医学知識はもちろんヒトの身体のみならず、生物一般の細胞から豊富なイメージが絵に取り込まれているし、手塚治虫の祖父は大坂適塾に学んだ蘭方医だったことも『陽だまりの樹』に描かれている。しかし、そこから必然的にマンガ家への道が繋がっていたわけではない。

「「鉄腕アトム」については、いまさらあらためてことの次第を書き述べるまでもありません。
 よく人に「代表作は鉄腕アトムですね」と念をおされますが、長い寿命といえばたしかにその通りです。ライフワークとしての評価もそうかもしれません。しかし「好きな作品」としてあげるなら「ジャングル大帝」や「ハトよ天まで」や、それ以上に「シャミー1000」「ライオンブックス」などの短編を入れます。
アトムは実のところ、初期の二、三年のあいだは、書いていて娯しかったのですが、あとは惰性の産物でした。ことに虫プロでアニメーション化してからは、怪物化したアトムを書いて、むしろ苦痛でした。
しかし、作品としての評価は別として、主人公の魅力の点では、いまだにアトムは、実の息子のように、いや、それ以上にぼくは好きです。なせならアトムは戦後二十数年をぼくの分身として、おなじような体験をし、おなじように育ってきたからです。アトムをみていると、僕の半生のさまざまな思い出や体験がよみがえってきます。そして、ここにマンガ家としての希望と意欲にもえていたかけ出し時代のぼくの姿が……。
ノスタルジア(昔を懐かしむ気持ち)の点では読者もそれぞれに少年時代アトムを読まれた思い出が、アトムを支持してくださる大きな要素かも知れません。」1969年12月 手塚治虫全集「鉄腕アトム」20巻(小学館)より。

 マンガというジャンルは、手塚が東京に出てきて職業的なマンガ家になった頃は、まともなアートとは認められていなかった。「鉄腕アトム」のヒットは、彼を少年漫画の第一人者として世間に認められるきっかけになったが、マンガ自体が日本文化のなかで、子ども向けのマイナーで低俗なものという偏見が強くあった。それを塗り替えたという意味でも、偉大な人だった。

 

B.森有正という人
 大学生の頃、「森有正」という名前を知り少し森の本を読んだとき、友人に森有正を神のごとく尊敬している男がいて、なにがそんなに凄いのかを聞かされたが、ぼくはよく理解できなかった。とにかく仏文的世界の英雄で、フランス・パリに住んでフランス人を妻とし、パイプオルガンを弾けばフランス人もびっくりする演奏をする哲学者だという、ことはわかった。とりあえずこれもWikipediaでみてみると・・。

 森有正:東京府豊多摩郡淀橋町角筈(現在の東京都新宿区西新宿)生まれ。明治時代の政治家森有礼の孫に当たる。父親の森明は、有礼の三男で、有馬頼寧の異父弟、キリスト教学者、牧師。母は伯爵徳川篤守の娘。祖母寛子は岩倉具視の五女。妹は世界平和アピール七人委員会の委員を務めた関屋綾子。生後間もない1913年に、洗礼を受けクリスチャンとなり、6歳からフランス人教師のもとでフランス語、後にラテン語を学ぶ。暁星小学校・暁星中学校から東京高等学校 (旧制)を経て1938年に東京帝国大学文学部哲学科を卒業(卒論は『パスカル研究』)、同大学院を経て東京帝国大学の特研生、副手、助手を歴任。傍ら東京女子大学や慶應義塾大学予科などで講師を務め、フランス思想・哲学史を講義。旧制一高教授を経て、1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任。第二次世界大戦後、海外留学が再開され、その第一陣として1950年フランスに留学。デカルト、パスカルの研究をするが、そのままパリに留まり、1952年東京大学を退職。パリ大学東洋語学校で日本語、日本文化を教えた。1962年にはフランス人女性と再婚(1972年に離婚)。デカルト、パスカルや、リルケ『フィレンツェだより』、哲学者アランなどを訳し、パイプオルガンを演奏しレコードも出している。晩年に、哲学的なエッセイを多数執筆し、注目を浴び、1968年に、『遥かなノートル・ダム』で芸術選奨文部大臣賞受賞。それらにより一時日本に帰国し講演・対談や短期の集中講義なども行う。日本に永住帰国を決め、国際基督教大学に教職が内定していたが、血栓症がもととなりパリで客死。

 加藤周一もフランスやドイツなどヨーロッパに長くいて、日本語だけでなく英仏独語で著作をした人だが、森有正とも親しく、『日本文学史序説』でも森をとりあげている。
「明治維新に始り、西洋を手本として、日本の社会制度・工業技術・学問の方法などを更新する長い過程は、一方で、多数の西洋語の概念の翻訳と日本語への同化を意味すると同時に、他方では、日本人が日本の歴史や社会を考えるのに、参照の集団として西洋社会を用いる習慣を生んだ。戦争と超国家主義によって中断されていたその過程が、敗戦後に、再び始ったとき、西洋文化に対する強い好奇心と共におこったのは、従来の日本における西洋理解の浅さに対する反省である。反省の内容は、翻訳された概念と言語の概念とのくい違い、輸入された思想的体系と人間とのつながりの弱さ、思想を生みだした西洋社会そのものについての経験の貧しさなどを含んでいた。西洋に学んできたこと、および学ぶことを前提にするかぎり、その学び方をもっと徹底させなければならないだろう、――という考え方は、たとえば森有正(一九一一~七六)の場合に、徹底していた。
 戦争中から戦後にかけて、パスカルPascalについての論文を発表していた森は、デカルトDecartesの研究を志して、一九五〇年に被占領下の東京を去り、パリに移り住んだ。四〇歳まで日本で生きていた森が、はじめて西洋社会と直接に出会ったとき、その「文化的衝撃」は大きかったにちがいない。その「衝撃」を克服することは、フランス哲学の研究を生産的にするためにも、必要な前提である。「衝撃」を超えるためには、どういう道があり得たか。森がとった道は、異文化への知的な接近ばかりでなく、その文化のなかでの感覚的な経験を自分自身のなかに定着させることであり、日本での経験によってフランス語の概念を解釈するのではなく、――それが翻訳ということである――、フランス文化のなかでの経験によってフランス語の概念を理解する、あるいは、森自身がいったように、、自己との関係においてその概念を定義しなおすことであった。それは文化的順応acclimatizayionの長い道であり、意識的に択ばれた第二の社会化socilaizationの過程でもある。それが森有正の「出発の準備」(「遠ざかるノートル・ダム」一九七四)であった。
 しかし「出発の準備」は「出発」ではない。二五年間フランスに住んでいた森は、遂にデカルトについてフランス語で書くことはなかった。また日本の文化について日本語で一冊の本を書くこともなかった。『バビロンの流れのほとりにて』(一九五七)から『遠ざかるノートル・ダム』(一九七六)まで、彼が絶えず書き続けたのは、彼自身の「出発の準備」について、フランスでの経験が彼自身のなかに起こした波紋について、異文化との接触のなかで何が彼自身にとってもっとも決定的であったかという問題について、である。その一連の著作は、フランス文化についての豊富な教養と、鋭い感受性と、抒情的であると同時に分析的で明瞭な散文において、際立っている。どの文章も体系的でなく、構成的ではないが、個別的な部分は、美しい叙述と深い洞察に富む。これは内省的で哲学的な「随筆」の傑れたものである。日本人と西洋文化との接触または対決の内面的な証言として、これほど詳細で、これほど綿密な文章は、おそらく他に類がない。
 森はその内面的な世界の基礎に「経験」があるとし、全く主観的な「経験」の概念から出発して彼自身の哲学を建設しようと考えていたらしい。また他方では、その「経験」に超越する客観的な世界の秩序をも意識していた。しかし内面的な「経験」と外面的な世界との間の理論的な関連には説き及ばないうちに、病に倒れた。
 森有正は西洋へ向って進み、そうすることで彼自身の内面へ向ったが、日本の文化を立ち入って論じなかった。あるいはそこへ立ち入ろうとしたときにはすでに遅すぎた。しかし戦後もこの国のなかで西ヨーロッパの文学的遺産を吸収しながら、同時に日本の伝統のなかに創造的な仕事の支えをもとめようとした文学者たちも少なくない。たとえば劇作家木下順二(一九一四~)は、ヨーロッパの科白劇に学びながら、民話との長いつき合いを重ねて、『子午線の祀り』(初演一九七九)に及び、現代日本の舞台に科白劇を実現することに成功した。」加藤周一『日本文学史序説』下、ちくま学芸文庫、1999. pp.514-517.

 「西洋かぶれ」というのが昔はよくいたが、とにかくフランスの方が日本よりあらゆる面で優れている、と信じ込んだ人がかなりいた。フランス文学、フランス映画、フランス演劇、それはたいがい軽薄なレベルだったと思うが、森有正級になると誰も文句は言えないほどフランス人になっていて、ただの西洋に詳しいインテリ知識人とか学者とかいう連中とは毛並みが違う。東京にパイプオルガンが数台しかなかった頃、ぼくの今いる大学のチャペルにもパイプオルガンがあって、よく森有正が練習に来ていたという伝説があった。ぼくもそのパイプオルガンで少しだけ練習したことがあるが、世俗のあれこれからは超越していて、こういう人がエリートというんだろうな。でも、彼は加藤の言うように日本を捨てたのかもしれない。
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