小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

都響×下野竜也(3/25) 無と創造の間

2021-04-02 08:37:29 | クラシック音楽

18時の開演に遅刻し、一曲目ドビュッシー『交響組曲《春》』はモニターで鑑賞。そろそろ桜の季節というのに、上野の東京文化会館の敷地内はほぼ人影がなく、静まり返った建物の中に入ると何人かのお客さんがモニターの前に集まっている。3/25はドビュッシーの命日でもあったが、隠れた名曲を壁越しに聴いた。ピアノ連弾はモニターではあまり聴こえず(残念)、管弦楽のホールトーンスケールの陽光のような響きが次々と空間に放たれていく様子が聴こえた。おかしな譬えだが、ドビュッシーの音楽には、露天風呂に裸で飛び込んでいくような解放感を感じることがある。この2楽章からなる『春』という曲も、窮屈な衣服を脱いで自然の官能性と一体化するような、ヌーディズム的な反骨精神を感じさせた。

下野さんには恩がある。初めてインタビューした指揮者で、読響の正指揮者から首席客演指揮者に代わるときに取材させていただき、ドヴォルザークの魅力について、「マーラー派とブルックナー派がいるとしたら、僕はブルックナー派」というようなことを語ってくださった。業界の楽しい裏話などできず、音楽の話しか出来ないつまらないライターにも、親切に詳しく対応していただいた。そのときのやりとりは詳しく覚えている。「ブルックナーは肉を食べているとき、油のついた手で他人に握手を求めるような人だった」野性的というのか、行儀がよくないというのか、人から好かれる術を知らないというのか…指揮者が語るブルックナーの印象はとても興味深かった。

ホールの中で聴いたプログラム2曲目が、スクロヴァチェフスキ編曲のブルックナー『アダージョ(弦楽五重奏曲ヘ長調WABより第3楽章』だったので、「僕はブルックナー派」という指揮者の言葉が思い出された。優しくて平和で、朝のように無垢な音楽で、コンサート・マスターの矢部さんの美音がダイヤモンドのように輝いた。

東京文化会館のアコースティックが、素晴らしかった。この日は、別の催しに行かれた評論家の方が多かったのか、二階席も一階席も空席が多く、そのぶん音が澄み切って聴こえた。音楽家と指揮者のやりたいことが率直に伝わってくる音響で、ブルックナーのパルジファルのような無辜の精神、修道士のような信仰心の中で夢見られた天国が、音の絵のように見えた。

後半のブラームスの『交響曲第1番 ハ短調』は荘重で厳密なはじまり方だった。こういう音楽の始まりを任されている仕事なのだから、指揮者という仕事には簡単に手を出すべきではない…と直観的に思った。プロは地獄の道を歩いている。下野さんの振った数々の難しい現代オペラ、現代音楽のことも思い出された。

交響曲の第1番とは、そもそも作曲家にとってどういうものなのか、考えさせられた。ブラームスの1番はなぜこんな不安を掻き立てる不穏な始まり方なのか。冒頭部分だけで何百回もアイデアを反古にし、五線譜を丸め、しつこく書き直した痕跡を感じる。交響曲1番とは、「自分はこのような気持ちで生まれた」という確認であり、ゼロから「在ること」への跳躍で、安易な楽観を許さない。ワーグナーはハ長調の交響曲を19歳のとき書いたあと交響曲を書かなかったし、リストは表題付きの交響詩は書いたが番号付きの「交響曲第1番」は書かなかった。ラフマニノフは1番の初演が失敗してノイローゼになった。最初の交響曲にはそうした意味合いがあり、特にロマン派以降は、単に若い頃に書いた最初の曲、ということとは別の重さがある。マーラー巨人の冒頭の不吉さなども思い出した。

同時に、2021年春に聴いた読響ヤマカズの魔法のような3つのブログラムのことも思い出していた。すべての曲が奇跡のように成功していた歴史に残る連続コンサートで、山田和樹さんがなぜ欧州であんなにも求められているのかが改めて理解できた。山田さんの指揮はヨーロッパが蓄積してきた文化の「重さ」の受け身をとっている、驚異的で奇跡的な発見だと思う。イデアや神、「在る」ことからの囚われといったものから、自由な場所で、価値を作っている。中心だと思われていたものが中心には存在せず、中心にあるのは空隙だ、という新しい正統派のアプローチがある。

下野さんの指揮はそれと全く対蹠的なやり方に思われた。独音楽のど真ん中に切り込み、固定された価値の実体に突き進んでいくブラームスで、切っ先鋭く、すべてが正確で、古典的な正統派の闘いであった。山田さんも下野さんも天才なのだ。音楽の現場に生きていない、板に乗っていない素人耳にはどうしてこういう音楽が創造できるのか神秘的というよりほかない。二人の指揮は全く違っていて、それぞれが驚異的で果てしない。

ブラ1の荘重さが、作曲家の苦痛と難産の切なさを伝えてきた。ブラームスの理想主義、たった一人の女性とその娘しか愛することの出来なかった我儘、頑固さと狭量さ、膨大な過去の歴史とともに生きたいという貪欲さの結晶が、この交響曲であると思った。
ブラームスの交響曲が魂の逆境の表現なのだ。生まれたかも知れないし、生まれなかったかも知れない…そんな際どいスリルも孕んでいる。創造する人が自殺や鬱に飲み込まれてしまう理由がわかる。

都響のレスポンスは徹頭徹尾冴えていて、指揮者の無意識までを読み込む緻密で卓越した音楽だった。アテネの哲学堂での対話のような3楽章からフィナーレに移行したとき、指揮者が「ここだ」と言わんばかりに、劇的かつ弁証法的な解決を行った。ゼロから創造への橋渡しが終了し、3楽章まではシリアスで神妙な表現だったのが、フィナーレで別の事柄が爆発した。2021年の「今」と「未来」が一気に訪れたような人類の混乱と苦痛、その後に来る祝祭が、指揮者の采配によって表されたのだ。この4楽章の間、ずっと呆然としていた。指揮者はこのように交響曲に魂を吹き込むことが出来る。地獄から天国への転換を見せられた心地がした。2020年の始めに、グバイドゥーリナの『ペスト流行時の酒宴』という曲を読響と演奏した下野さんの、都響との預言的なブラームスだった。

ゼロから1を築こうとしたら、何事も苦しい。子供は大人の真似をして育つ。それでは嫌だ、というところから何か創造は始まる予感がある。先に何も見えないが、批評をしたい自分にとって、東京文化会館の2階席で聴いたこの演奏会は貴重なものだった。



 

 

 

 

 

 



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