小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

奇跡のメルヘン 新国『夜鳴きうぐいす/イオランタ』(4/6)

2021-04-08 12:15:47 | クラシック音楽

新国のダブルビルはロシアオペラの『夜鳴きうぐいす』(ストラヴィンスキー)と『イオランタ』(チャイコフスキー)。初日に続く二回目の公演(4/6)を鑑賞した。初日もこんなに凄い舞台だったのだろうか? 新国のステージから溢れ出すパワー、歌手たちの渾身の演技、スタイリッシュな演出、オケピからふんだんに飛び出してくる宝石のようなサウンドに驚いた。ピットでは一体何が起こっていたのか…二つとも、この劇場で聴く初めての音ばかりで、高関健さんと東フィルが醸し出す魔法の響きにただただ陶酔した。

演出・美術・衣裳はアテネ生まれの演出家ヤニス・コッコスによるもので、今回のオール・リモート演出においては、演出家側と日本側の時間帯が合うのが夜だったため、通常とは異なる夜間の時間帯にリハーサルが行われ、演出家のほうでもどんどん新しいアイデアが湧き出すため、毎日変化に富んだハードスケジュールの稽古だったと聞く。『夜鳴きうぐいす』は、歌手がパペットを持って水の中で歌うルバージュ演出が印象深いが、コッコスは新国の最新のテクニカルを縦横無尽に使い、「日本むかし話」を思わせる冒頭の背景から奇想天外なヴィジュアルを次々と見せてくれた。電飾の記号のような鳥、立体的に重ね合わされる波の描写、中国の人々の伝統的で奇抜なファッション、京劇を思わせるバレエダンサーたちの活躍、ディアギレフのような人物…一瞬たりとも目を瞑ってはいられなかった。新国のステージでは、青と黄色と赤がいつも鮮やかなのだ。照明と美術のほか、アレキサンダー・マックィーンの生前のコレクションを思わせる衣裳にもこの3色が印象的に使われ、目を楽しませてくれた。

夜鳴きうぐいすの三宅理恵さんの高音は鮮やかで、歌詞のないヴォカリーズの旋律を耳で追っていると、歌手の中でどのように記憶されている音なのか不思議に思われた。見事なうぐいすだった。ストラヴィンスキーは初期において復調を採用し、シェーンベルクを筆頭とするウィーン前衛派の高踏的なスタイルに反抗していたが、「旋律が命をもつ」ことに深い探求を行っていたのだと改めて思った。

世俗の者たちとは違う、異なる世界からの使者はつねに鳥なのだ。中国の皇帝役の吉川健一さんは、老いたフィリポ二世のように夜鳴きうぐいすを手中に入れて健康と若さを取り戻そうとする。うぐいすは「捉えられない官能性」の表徴であるようにも思えた。サロメは見事な踊りを見せて、ヘロデ王にヨカナーンの首を求めるが、うぐいすは皇帝から何も求めようとせず、飛び立っていく。本当に美しいと思うものを、人は手の中に閉じ込められない。

ストラヴィンスキー・オペラの後半からは演出家のアイデアが爆発し、巨大な「ムンクの叫び」そっくりの人形が空を覆い、「千と千尋…」を彷彿させる人形も舞台をのし歩く。ロシアの不思議物語は、日本と何かが地続きだ。「日本からの使者」も面白い装束で登場する。3人の使者のうち2人の使者がユニゾンで歌う不気味な歌は、モーツァルト『魔笛』の二人の武士が火と水の責め苦について歌う件を思い起こさせた。

演出は最後まで、相当凄かった。日本の新国立劇場で何が出来るか知っており、客席の最後列より奥行きのある舞台(客席より広い舞台)、照明・美術スタッフの完璧さ、夢を形にする執念を信じていた。子供のイマジネーションが大人の力で叶えられているのだから、起爆力がある。これは子供にも見て欲しいオペラだが、リアルなお化けたちの姿は本当に恐ろしく、夢に出てきそうで怖すぎるかも知れない。漁師役の伊藤達人さん、死神の山下牧子さん、一目で志村さんだと分かった(!)僧侶役の志村文彦さんも好演だった。

東フィルはプレトニョフとの数々の共演で鍛えられてきたのか、ストラヴィンスキーの描く世界観をよく表し、オケの底力を感じた。高関さんの指揮にも、迷いがなかった。後半のチャイコフスキーでは、圧縮されたピアニシモというのか、真剣で演劇的な弦の合奏が、最小の音に閉じ込められるような表現があり、なんという音なのだろうかと驚かされた。チャイコフスキーの本質を感じた。

『イオランタ』は演出的には前半のストラヴィンスキーよりも静的だが、音楽の深さをより伝えてきた。イオランタ役の大隅智佳子さんは、盲目の役なのに急な階段を降りて来る場面が多く、歌唱も見事だが演劇的な集中力も素晴らしい。METライブビューイングで見たネトレプコもそうだったが、イオランタ役には歌手をのめり込ませる何かがあるのかも知れない。大隅さんのロシア語の歌唱は圧倒的で、ロシアの魂の強さがあった。目が見えないイオランタを愛し、光に導くヴォデモン伯爵を演じた内山信吾さんは、苛酷なパートを粘り強く歌い、ヴェリズモ的な強靭さを求めるチャイコフスキーの旋律を見事に歌い切った。チャイコフスキーが内山さんを応援しているのだ…と思う箇所が何度かあり、胸が熱くなった。

『イオランタ』はメルヘンの体裁をとった、脱メルヘンの話である。装置も、盲目のイオランタがいる「小さな世界」がどれほど限定された世界であるかを、電飾の枠線で強調する。見事なルネ王を演じた妻屋秀和さんは、娘の目のためなら命を奪われてもいい、と圧巻の独唱を聴かせた後、外部からの侵入者に対しては血も涙もない罵倒をする。「内側を守りたい者が、外側に対して行ういびつさ」を、チャイコフスキーは容赦なく表す。メルヘンは「外の思考」と溶け合わなければならない。

チャイコフスキーがイオランタに向ける同情は音楽のすべてに満ち満ちていて、冒頭の女性たちのやりとりなどは『エフゲニー・オネーギン』も思わせたが…愛情が強すぎると思った。チャイコフスキーの最大の不幸は、書きかけの『エフゲニー・オネーギン』のタチヤーナを愛しすぎて、才能のない歌手の卵の女性からのラブレターに同情して結婚してしまったことだった。愛と憐憫の区別がつかない。鳥が飼い主を愛して、自分を人間だと思ってしまうように、相手と自分の区別がつかなくなる。
そういう宿命を背負った魂からしか、生まれえない芸術の美がある。高関さんと東フィルの音楽は、悲愴よりもオネーギンよりも「イオランタ」に作曲家の本質が閉じ込められていると感じさせた。

苛酷な目の手術に耐えたイオランタが最後、生まれて初めての光を見るシーンでは、ピットに存在しないはずのオルガンの音が聴こえるようだった。ロシア正教ふうのエンディングは、チャイコフスキーが望んでいたものなのか、当時のロシア政府からの要請なのかは分からないが、力強く崇高だった。愛することになりふり構わぬ人間の姿に感動し、ロシアの魂は途轍もない重力と引き換えに、空へ昇天していくものだな…と思った。これはフランス人にもイタリア人にも真似が出来ない。ロシア人が書いた音楽なのだった。

新国で観たオペラの中でも、ベストの感動作だった。一瞬たりとも瞬きできない莫大な熱量の上演で、できればもう一度見たい。公演はあと二回。8日と11日。

(『夜鳴きうぐいす』ヤニス・コッコスの舞台スケッチ HPより)

 

 

 


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