小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京都交響楽団×アラン・ギルバート 首席客演指揮者就任披露公演

2018-07-18 01:34:36 | クラシック音楽
都響の新しい首席客演指揮者に就任したアラン・ギルバートのお披露目公演をサントリーホールで聴いた(7/15)。プログラムは前半がシューベルト『交響曲第2番 変ロ長調』後半がマーラー『交響曲第1番 ニ長調《巨人》』。カジュアルな黒のシャツ姿で登場したギルバートは、前半のシューベルトでは指揮台なしで演奏し、譜面台も置かれていなかった。体格のいいギルバートに指揮台は不要という感じで、編成が少し大きくなった後半のマーラーでは指揮台が用意されたが、譜面台はなし。二曲とも暗譜だった。
シューベルト17歳の作『交響曲第2番』は細かいパッセージが寄木のように積み重なった楽譜で、実際に聴いているとモーツァルトを思い出した。典雅で華麗で、木管の朗らかさにパステルトーンを感じた。思春期のどきどきいう鼓動のようにテンポが加速していく第1楽章では、音楽の中に恋愛のような微発砲する感覚を感じた。ギルバートの指揮には、いつも具体的に感じられる心理的な快楽があり、2014年のNYフィル来日公演のアメリカン・プロにも過去の都響の客演のときにも実感した。フレーズが生き物のように息を吹き出し、勢いよく泳ぎだしたり飛翔したり駆け巡ったりする。快楽主義者の音楽というのもとは違うが、プレイヤーたちの呼吸や動きがとても自然で喜びに溢れ、高揚した身体感覚の上に精神的なものが乗っかっているという印象。
シューベルトは無窮動的なヴァイオリンが忙しそうで、奏者たちは真剣に演奏していたが、全体としてオペラ・ブッファ的なユーモアや「お洒落さ」も感じられた。ギルバートが就任披露公演でこの曲を選んだ理由は何だろう。都響とのパートナーシップの起点となる記念すべき曲がこのシューベルトの10代の無邪気な曲だった。

 演奏家に対してレッテルを貼るというのは便利な行為で、ある固定化したイメージがあるとそれを叩き台に「想定通り」「想定外」などのジャッジが可能になる。プロフィール・データや国籍などもその助けをする。しかし、そのやり方ではどうにも本質は捕らえられないと最近強く思う。音楽家の精神とは蝶のようにつかまえるのが難しい。演奏によって何が明らかになったのか、ある瞬間の響き、テンポや強弱から類推したり、小さなミスや不調和から判定しようと聞き手は工夫を重ねる。
アラン・ギルバートは一言で言い表すのが容易ではない「逃げ去る」指揮者だと思う。生粋のニューヨーカーでドイツでも活躍し、自由と厳密さをあわせもつ音楽家。ジャズの愛好家でもあり、ピアニストの小曽根真さんと表参道のジャズ・クラブにドラマーとして出没したこともあった。それらの情報の断片を積み重ねても、彼の実体は現れない。

都響のサウンドが本当に冴えていた。都響に対して漠然と抱いているイメージというのも、とても頼りないものなのだと実感した。このオーケストラも「逃げ去る」オーケストラで、理知的でノーブルで格別に演奏能力が高いということだけにとらわれていると、つまらない聴き方になってしまう。この演奏会では、過激にアナーキックな反骨精神と、子供のような無邪気さと、何にでも変身できる柔軟性を感じた。猫のようだが犬のようでもあり、女性性と男性性を併せ持つ。そしてつねに何か巨大なものがやってくるのを待っているオケだと感じた。指揮者が型にはまっていたり、臆病だったり、冒険心に欠いていたら、誇り高い彼らは納得しないのだ。

アラン・ギルバートと都響はとても相性がいい。マーラーは過去にやった5番もよかったが、「巨人」はさらに深い次元でのパートナーシップを感じた。何かを一緒に乗り越えたとか、苦労をともにしたという形で深まる絆もあるのだろうが、指揮者とオケとは恋愛しかないとも思う。魂がひかれあう、理屈を超えた感覚でお互いを好きだと思う。あまり多くの言葉は要らないというテレパシーの次元が存在するのだ。
ツィクルスを重ねてきた都響にとってマーラーがどのような意味をもつか、第1番から始めるのには何か挑戦的な意味があるのか、色々邪推していたが、演奏を聴いてみると面倒なことは一切頭から消えた。音楽の生理というか、生命潮流にぴったりと沿った緩急で、意外性もふくめて官能的で壮麗であった。
マーラーはなんのために交響曲を書いたのか、ということが直観で伝わってくる演奏で、身体・感情・思考という三つの次元からはみ出してしまう過剰な存在がマーラーだった。はみ出していくマーラーは、永遠の命を求める。霊感や着想を作品にしたことで、マーラーは無限の分身を作ることを達成したのだ。指揮者の数だけマーラーがいる。
ギルバートのマーラーには違和感がまったくない。違和感だけで卓越したものを完成させてしまうインバルとは正反対の指揮者だ。土臭さも崇高さも矛盾なく同居し、狂気も分裂症も「まったく自然なこと」と丸呑みにしている。ギルバートの巨大な才能のひとつが天才的な直観力だろう。雷に打たれるように本質をキャッチする。アプローチを「簡単に完結しない」という未来志向も感じられた。安住したり古いものに寄り添ったりせず、毎秒アップデイトされる感覚を信頼しているのだ。素晴らしい宇宙感覚をもっていて、彼を見ていると指揮者の役目は「オーケストラを変身させること」ではないかと思ってしまう。

5楽章の最後のあっけない二つの音を、ひどく即物的に演奏する人もいるが、ギルバートの音は何とも言えない真理に溢れていて「天国と、地獄」と言い放っているかのような確信に満ちていた。
マーラー『巨人』は2014年クービク新校丁版が使われ、ハンブルク稿をもとにした「花の章」が演奏されたが、このトランペットの哀しげなメロディが吹き荒れる章には大きな魅惑を感じる。曲の由来には諸説あるが、マーラーの2楽章には素朴な花やノスタルジーが溢れているのが相応しいと思う。フルシャのパンベルクでの3番を聴いたばかりだからそう思うのかも知れない。ヘンゲルブロックや山田和樹さんも花の章を復活させていたことを思い出した。

音楽が逃げ去るもので、小さな籠に閉じ込めておけないものだという認識を与えてくれるアラン・ギルバートは、都響とめざましい蜜月時代を築いていくような予感がする。人生は不可知なもので、予定調和にはならない…彼自身が人生に託したいと思っている冒険も、このパートナーシップでは見ることが出来ると思う。強い印象を残した就任披露公演だった。