小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『トスカ』(7/4)

2018-07-06 06:17:07 | オペラ
新国『トスカ』の3年ぶりの再演を7/4に観た。指揮はこのプロダクションの初演の指揮をした故マルチェッロ・ヴィオッティの子息ロレンツォ・ヴィオッティ。東響のゲストとして過去に二回ほど彼の指揮するコンサートを聴いたことがあるが、オペラは初めて。ここ数年で大出世を果たしている子ヴィオッティの音楽にも大いに興味があった。
スカルピアの恐怖和音から始まる冒頭部から、ドラマティックで圧のかかったいいい音だった。脱獄してきたアンジェロッティの獣のような声、堂守のユーモラスな歌、カヴァラドッシの「妙なる調和」とトスカの登場…と一幕冒頭だけでも空気がコロコロ変わるが、オーケストラはこの色彩感の変化をいとも自然に、かつ鮮やかに繋げていった。プッチーニは間違いなく映像世代の作曲家で、編集感覚がそれ以前のオペラ作曲家と全く違う。ヴィオッティはプッチーニのモダニティを最大限に浮き彫りにした、立体感のあるサウンドを東フィルから引き出し、オケも最高のリアクションで応えていた。

カヴァラドッシのホルヘ・デ・レオンはやや一本調子な歌手で、この日の調子はどうだったのか分からないが、ナルシスティックにルパートをかけすぎない過ぎない歌唱は好感が持てた。トスカのキャサリン・ネーグルスタッドは美声で歌唱力も高く、外見も美しいソプラノ歌手で、何よりプライドと知性を感じさせた。馬鹿っぽいトスカというのは耐え難い。あの執拗なジェラシーも知的な歌手によって歌われると女の可愛さが浮き彫りになる。絵のモデルとなった女を罵るときの「アッタヴァンティ!」の声も、鋭く怨念がブレンドされていてよかった。
それにしても、一幕でありがたいのは堂守の存在で、志村文彦さんが惚れ惚れするようなエキスパートの演技を見せた。足を引きずって歩く演技は毎回やっていただろうか…記憶が定かではないが、カヴァラドッシが絵筆で堂守の頭をペタペタするのは初めてのような気がする。教会のシーンで、堂守がしっかりしているとオペラにもいい空気が醸し出される。コミカルなだけではなく仄かな悲哀もあり、玄人の演技だった。

スカルピアのクラウディオ・スグーラは長身で見栄えのするバリトンで、2007年にデビューした歌手。豪華なコスチュームをエレガントに着こなし、独特の気迫を振りまいていて魅力的だった。トスカとスカルピアの一幕での関係は微妙で、カヴァラドッシとアッタヴァンティ夫人との浮気を信じて嫉妬の鬼になったトスカは、泣き崩れた後スカルピアの差し出した手を素直にとるのだ。その後にスカルピアがトスカの手にキスをすると、さっと手を引く。スカルピアの動きひとつひとつが優雅で確信に満ちていて、このキャラクターについて色々考えてしまった。

新国トスカの美術は素晴らしく美しい。デラックスな教会の装置が、スカルピアのテ・デウムでさらに華美な背景に転換されるくだりは、目の放埓=オプュレンスの美学そのものだ。全幕転換ありで、あるゆる瞬間にこのプロダクションの豊かさを味わうこととなった。

史実をもとにした残酷なストーリーを嫌う人もいるが、トスカの物語は素晴らしい「型」によって出来ていて、拷問も殺人もレイプ未遂も、すべて美しいものを見せるために仕込まれている。2幕で、別室で拷問されるカヴァラドッシの叫びを聞かせながらトスカに迫るスカルピアの演技はとてもよかった。スカルピアから逃れようとするトスカの動きも、バレエの振付のように厳密な型がある。究極のシチュエーションでありながら、二人の芝居には優美な形があった。スカルピアは心理的にトスカを追い詰めるが、物理的な暴力は一切使わないのだ。

クラウディオ・スグーラのスカルピアは「美しい女も思いのままになればあとは捨てるだけだ」と歌うが、トスカへの執着は特別なものだと思わせた。肉欲ではない…もっとねじれた衝動にとりつかれている。好きな女に不安と恐怖を与え、自分をとことん憎ませて、その上で肉体的に一体化しようとする…拒絶状態にある女と一心同体になることで癒されようとするのは、心理学的に分析するなら幼年期に問題があるからだ。母親から憎まれたか、もっとひどいことがあったからか…オペラではスカルピアの表面的な悪しか描かれない。トスカでなければダメなのは、同じ匂いを感じるからなのだろう。貧しい羊飼いの孤児から華やかな歌姫にのし上がった。トスカと同じ孤独と栄華を知っているのは、カヴァラドッシではなくスカルピアなのだ。
釈明されなかったスカルピアのトラウマを思いながら、トスカに刺されるシーンでは大きな哀しみを感じた。現世ではどうにもならないほどもつれてしまっているのだ。ラストでトスカが叫ぶ「スカルピア、神の御前で!」という言葉がここでも聞こえたような気がした。

3幕のサンタンジェロ城の装置も美しいが、ホルヘ・デ・レオンの「星は光りぬ」はそれほど冴えず、素晴らしいトスカとやや不釣り合いに感じられた。やはり調子があまりよくない日だったのかも知れない。プッチーニの音楽は最後の最後まで美しく、あのカヴァラドッシ処刑の空々しいワルツも個人的には大好きなのだが、天才の閃きというのは尽きることがなく、あの処刑の音楽は、尻尾まで餡の詰まった鯛焼きのようだなと思う。最後の最後まで美味しいのだ。

このアントネッロ・マダウ=ディアツの演出は大時代的でオーソドックスな点が素晴らしく、幕が下りるごとに主役たちがカーテンの前に登場する。二幕のあとで、殺されたばかりのスカルピアが笑顔で登場したときは鳥肌が立った。「あれは全部嘘でした」と両手を広げ、バリトンはダンディな笑顔を振りまいていたが、本当にオペラは最高である。
ヴィオッティは最後まで順調で「トスカ」のリッチなスコアの美点を隈なく照らし、歌手の大げさな歌唱をセーブさせて、均整の取れた建築のような音響の宇宙を完成させていた。プッチーニの音楽の本質は、こうした凝縮された知性であり、甘さやセンチメンタリズムはあくまでアイロニーなのだ。東フィルとはコンサートでも共演するが、このトスカはちょっと奇跡的すぎた。あと3回公演があるので、また観に行きたいと思った。