小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ロレンツォ・ヴィオッティ×東京フィルハーモニー交響楽団(7/24)

2018-07-26 02:44:48 | クラシック音楽
ロレンツォ・ヴィオッティと東フィルのフレンチ・プログラムをミューザ川崎で聴く。同じ内容のコンサートを19日のサントリーでも聴いたばかりだったが、今のヴィオッティの演奏を強く耳に焼き付けたくて川崎へ向かった。高校生の鑑賞教室も含む新国とびわ湖での『トスカ』を終えて、ヴィオッティと東フィルの相性の良さは決定的になったように思う。最初に彼を呼んだ東響は寂しい想いをしているかも知れないが、来年1月にはヴェルディのレクイエムで再び東響とも共演する。まだ28歳の、棒のように細いこの美青年指揮者の何が特別なのか…ミューザではそれを確かめたかった。

ラヴェル『道化師の朝の歌』は、冒頭のピツィカートからミューザの空間に鮮烈に響き渡った。でん六豆が一粒転がっても正直に響くこのホールで、ヴィオッティのアプローチははっきりと浮き彫りになった。この曲では各パートのソロにひやりとするような一瞬の見せ場があり、クラリネットやチェロが秒単位でカラフルな表情を聴かせなければならない。パートとパートのダイアローグが積極的で、赤・青・黄色という原色がその都度並びあって新しい色を次々と生み出していくようだった。こういうときに、オーケストラの誰一人として消極的であったり及び腰であったりしてはならないはずだ。ヴィオッティは別段、強引に煽るわけでもなく、自然に立体的なサウンドを引き出していた。短い曲だが、オケの積極的な性格がよく出たいい演奏だった。

もう一曲のラヴェルは『ピアノ協奏曲ト長調』で、サントリーでも素晴らしい演奏をした小山実稚恵さんがソロを弾いた。コミカルな(?)1楽章と3楽章もいいが、この夜は2楽章のアレグロ・アッサイが美しすぎた。フルート、クラリネット、オーポエの木管トップ奏者たちが正確で安定した演奏を披露し、この楽章でフルートとオーボエがこんなふうに重なっていたことに改めて驚いた。指揮者の耳が恐ろしく鋭敏なのだろう。それぞれのパートのキャラクターが明快で、合奏では素敵な色彩のコントラストの花束のようなハーモニーになった。小山さんも愛情を込めて弾く。この聴いていて胸が震えるような感覚は、どこから生まれるのだろうか…プレイヤーたちも心の奥底から感動して演奏していたのではないかと思う。

このコンチェルトが終わった後、嬉しいサプライズがあった。椅子がもう一台運ばれ、ピアノに譜面も載せられて、小山さんとヴィオッティによる『マ・メール・ロワ』の「Le jardin feerique」の連弾が始まったのだ。ヴィオッティ家の居間に招かれたようなアットホームな雰囲気で、小山さんはヴィオッティを助けながら愛らしいラヴェルの曲を一緒に弾いた。シンプルな中にラヴェルの魔法がふんだんに詰まった曲で、子供が夜眠るときにみる夢のような無邪気なファンタジーが繰り広げられた。コンチェルトの余韻がこのアンコールによって、さらに薫り高いものになった印象だった。

後半のドビュッシーは『牧神の午後への前奏曲』から始まり、フルートのトップの方が一瞬緊張した表情を見せたが、この曲でフルートにプレッシャーがかからない方がおかしい。木管セクションが力を合わせ、特にオーボエのトップの方が最初から最後まで冷静で豊饒な音を出していたのが良かった。「ドビュッシーは好色な男で、彼の半径何メートルかに暮らす女性たちは皆注意が必要だった」と何かの本で読んだが、なるほど脳内がつねに恋愛状態にあったような音楽だ。ニジンスキーの「牧神の午後」の牛柄のエロティックな全身タイツ姿を思い出す。「悪魔の3和音」で過激に始まっておきながら、最後は「アーメン」というフレーズで終わる…というバーンスタインのこの曲についての講義も思い出した。
ヴィオッティの指揮では、この曲はひとつの円環を描いているようにも聞こえた。始原から終末まで、神話の中の永遠の時間が音楽の中に息づいているような「輪」の感覚があった。

交響詩『海』は、ヴィオッティのもつ音楽の潮流の大きさを感じさせた。このプログラムの中で強弱と緩急も最も激しい演奏となったが、その呼吸感に不自然なところはなく、指揮者が曲に対して行うことの凄さを様々な瞬間に体感した。大胆かつ繊細であり、微妙な感覚がたくさん集まっていて、奇跡的なバランスを保っている。ヴィオッティはピアノと打楽器を学んでいたというが、ピアノの響きがペダリングによってくどくなったり野暮ったくなったりする感覚をよく知っているのだと思った。大胆でありながら、つねに上品で優美な響きが保たれ、「風と海との対話」ではサウンドの中に真空のような静けさが息づいているのを感じた。
そうしているうちに、28歳のヴィオッティが若者に見えなくなってきた。実は彼の内面はとても成熟していて、外から見るのと違う時間が流れているのかも知れない。人生のどの段階で、こんなふうに外の世界が自分自身と親密になったのだろう…指揮者の精神が作品と融合し、その確信は揺らぎようもなかった。指揮者である亡くなった父上のことも思い出し、20代のロレンツォがこの世界で引き受けた使命を考えてしまった。彼が宿命的に抱えている底なしの愛情が、音楽から透けて見えたのだ。