小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京交響楽団×ジョナサン・ノット『ゲロンティアスの夢』

2018-07-15 05:50:14 | クラシック音楽
東響×ノットによるエルガー『ゲロンティアスの夢』をサントリーホールで聴く。遅咲きの作曲家エルガーが才能を爆発的に開花させた40代の作品で、32歳のときに結婚した8歳年上の作家の妻キャロライン・アリス・ロバーツの結婚祝いにカトリックの枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンから贈られた長編詩を音楽化したもの。初演された1900年当時のイギリスではカトリックは異端視されていたが、バーナード・ショーやR・シュトラウスが高く評価したため『ゲロンティアス…』は英国ではヘンデルの『メサイア』やメンデルスゾーンの『エリヤ』と並ぶ三大オラトリオと呼ばれるようになった。
ノットがこの作品を振るのは今回が初めてだという。冒頭のサウンドから震えるほど美しく、その美は二時間近い公演の最後の瞬間まで持続した。ひたすら優美で陶酔的で、これまで聴いた東響の演奏の中でも特殊な雰囲気が感じられた。

第一部では、死に瀕したゲロンティアスが燃え尽きていく自分の命を惜しみながら、これから向かう先への恐怖を歌う。テノール歌手のマクシミリアン・シュミットが闇を切り裂く光のような声で歌った。「友よ私のために祈ってください、私にはもう祈る力もないのです」というソロのあとに、友人たちによる「キリエ」がはじまる。この繋ぎ目の見事さにため息が出た。P席を埋め尽くした東響コーラスが清冽な合唱を聴かせ、サントリーホールの天井に美しい壁化が浮かび上がったような心地がした。
ゲロンティアスは虫の息で、今まさに個体を失おうとしている。内部と外部を隔ててきた鉱物のように堅牢な肉体が崩れ去り、大いなる全体が表れようとしている…それにふさわしい合唱であり、オーケストラだった。まったくオーケストラがこんな霊力に溢れたサウンドを出すなんて信じられない。各パートが溶け合って、一枚のシルクのようにゆらめいている。よくお互いの音を聴いて、歌手の歌声を引き立てることを第一の役目として奏でられていた。コントラバスとハープと打楽器が姉妹のような音を出し、弦楽器は洗練された響きを次から次へと解き放った。
これは死の恐怖の音楽なのだろうか…天国の揺り籠のような音楽であり、人間が想像する死の世界を超えた大いなる全体性を暗示するハーモニーだった。

エルガーは19世紀の終わりに、とても個性的なオラトリオを書いたのだ。まずゲロンティアスという人間の「個」が強調され、彼の葛藤や恐怖が描かれる。その間に典礼的な音楽が挟み込まれ、なおかつ合唱は「友人たち」になったり天使になったり悪魔になったりする。ゲロンティアスも第二部では固有名詞を失い「魂」となる。ソロと合唱がこれだけ変幻自在に関係性を変え、異なるネットワークを表現するのはミステリアスとしか言いようがない。ゲロンティアスは死によって形という緊張を失うが、「存在」はそのまま魂として持続していくのだ。
不安げに彷徨うゲロンティアスの魂に「死を迎えよ!」と雄々しい声で語りかけるのは司祭役のバリトン、クリストファー・モルトマンで、最初から聴く者を麻酔にかけるような高次元の声だった。この作品を熟知した歌手で、包容力のある洗練された低音でそれまでの時間にはなかった新しい質感を作り出した。彼の声が合唱と溶け合う瞬間も心が震えた。

第二部で天使役のメゾ、サーシャ・クックが現れた瞬間「彼女の名は『救済』!」と思った。薄いブルーのラメのドレスをまとい、優しい眼差しで、立っているだけで天使の気配を漂わせている。魂の存在となったゲロンティアスにこれから行われる審判についての説明をし、悪魔の声に耳を傾けないでとガイドする。このやり取りが、不思議なことにとても現世的に感じられた。オラトリオというよりオペラの感触で、ところどころ「トリスタンとイゾルデ」を思わせるオーケストレーションも人肌のドラマティックを放っている。天使と魂になったゲロンティアスの間には、不思議な愛の成立している。おそらく生きていたときの男性が経験しなかったような霊力に溢れた愛の形だ。

人間は生きている間は、横軸の世界にとらわれている。外敵から身を守り、名誉や財を追究し、異性の愛を貪ろうとする。虚しいアイデンティティの格闘である。その横軸の世俗の愛に対して、神との愛は縦軸の愛だ。生きているうちにこの愛をとらえられる人々は幸福だ。凡庸な悪魔にならずに済む。日本というほぼ無宗教の国に生まれて、芸術から宗教の次元を学ぶことは枢要だ…と重ねて思った。宗教ということを理解しないと、何も始まらないのだ。エルガーの審美的なオラトリオは、飽きっぽい横軸の世界の愛ではなく、縦軸の神の愛を覚醒させてくれるもので、目先の利益に翻弄されて本質的な軸を持たない日本人には必要なアートだ。美というものが介在してこれを理解できる。美よりも重要なものはないのだ…という発想をつきつめると神性や聖なるものにつながる。このラインには百のシニシズムを持ってしても抗えないのだ。

エルガーの『ゲロンティアスの夢』はさまざまなドラマが描かれるが、テンポはほぼ変わらず、メトロノーム指定は人間の心臓の鼓動と同じBPMらしい。そのために、二時間のあいだ長い長い夢を見ていたような気がする。オラトリオなのに東洋的な時間が流れていた。それは東響がそう感じさせてくれたのかもしれないし、ノットがそういう時間軸を引き出していたのかもしれない。飛び降りて亡くなる人は、数秒の間に一生のすべてを見るというが、私もこの音楽を聴いて自分の一生を振り返っていた。子供時代の夏の日の、ポプラの木のざわめきや冷たいぶどうのことが懐かしくて泣きたい気分になった。自分が生きてきた様々な四季の彩が蘇った。

半円だと思っていた世界が、死によって完璧な球体であることが明らかになる…というエンディングだったと思う。カトリック信者だったエルガーが作品で行ったことはとても洗練されていて、カトリシズムの死生観について熱弁を揮うのではなく、「すべての福音書記者」「すべての罪なき異端殉教者」「すべての修道士たちと聖なる乙女たち」に祈りを求めるユニヴァーサルなメッセージを放っていた。融合すること、個体の外の意識に出て、壁を超えることがこのオラトリオの存在意義なのだ。
ノットは新たな挑戦で、さらに初々しく精妙な音楽を創り上げることに成功した。英国人である彼がエルガーを振ることには、ルーツ回帰の意味もあるだろう。ラトルもロンドン響に帰ってくる。スピリチュアル的にはすべてそのサイクルの説明がつくが、遠慮しておこう。
エルガーはホルストのような神秘家でもあったはずで、英国という国には不可視のものに対する独自のコンセンサスがある。現世も天国も夢のようなものなのかも知れない。ユニークな「軽やかさ」もこの演奏会にはあったのである。