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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『セビリアの理髪師』

2020-02-11 18:00:13 | オペラ

現在上演中の新国『セビリアの理髪師』の初日(2/6)を観た。ロッシーニ・オペラ・フェスティバルで活躍する歌手たちが出演する文字通りのドリーム・キャスト公演で、ロジーナ脇園彩さん、アルマヴィーヴァ伯爵ルネ・バルベラ、バルトロのパオロ・ボルドーニャ、フィガロのフローリアン・センペイ、ドン・バジリオのマルコ・スポッティらが息ぴったりのアンサンブルを聴かせた。指揮はアントネッロ・アッレマンディ、オーケストラは東響。

 ヨーゼフ・E・ケップリンガー演出の回転するドールハウス(?)のプロダクションは何度か新国で観ているが、毎回面白く、特に今回は役者がよすぎたので最初から最後まで笑いっぱなしだった。オペラグラスを覗くと小道具までおかしい。ロジーナの思春期の女の子の部屋のようなインテリア、ヒトデのような形をした赤いチェア、バルトロの書斎(?)の救急箱みたいなものやスケルトンも笑える。あまりに笑いすぎて「自分は仕事をしているのか? それとも遊んでいるのだろうか?」と自問してしまった。稽古は見学していないが、準備の段階から素晴らしい空気感があったのだろう。それにしてもよく回る装置で、ソリストも合唱も運動神経がよくなければ務まらないと思った。子役のチビッコたちが可愛らしく、この演出では一番小さい子がたくさん演技をしなければならないが、今回もきびきびとよく動いていた。

 脇園彩さんは深くゆったりとした豊かな美声で、細かいアジリタもすべてど真ん中の音程に当てて歌っていた。オーラがイタリア人的で、曖昧さがなく、そこにいるだけで鮮やかな輪郭を見せてくれる。ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルでもこの栄えあるロジーナ役を歌われているが、聴衆を魅了する声で、歌わないときにも体力を温存したりせずエアーボクシングをしたりキックをしたりして「お転婆なロジーナ」を演じていた。ロジーナの後見人バルトロを演じたバリトンのパオロ・ボルドーニャがまた凄い役者で、日本語で便せんの枚数を数えたり、小刻みなギャグを絶妙のタイミングで醸し出したり、月並みではない面白さを連発した。バルトロは見栄えのしない老人役だが、実物のボルドーニャはお腹も出ておらず若々しい美男子で、若い頃のティム・カリー(『ロッキー・ホラー・ショウ』のフランケン博士)を思い出した。全員に尋常でない歌唱力を求めるオペラだが、今やこれくらいの演技力もなければ一流と呼ばれないのかも知れない。フランス人バリトンのセンペイが演じるフィガロも大活躍で、バルベラのアルマヴィーヴァ、スポッティのドン・バジリオも存在感があった。みんな軽々と歌っていて、一幕のぶっ続けの100分間が魔法のように過ぎていった。

ロッシーニは本当に変装が好きな作曲家だな、と思うオペラでもあった。アルマヴィーヴァはバルトロの邸宅に入り込むために酔った兵士(この演出では警官のような扮装)に変身したり、音楽教師ドン・バジリオの弟子になりすましたりするが、この「変身して忍び込む」という行為は、男性が修道女に化ける「オリー伯爵」でも過激な形で繰り返され、面白おかしいだけでなく何か「神業」的なものを感じさせる。ユピテルがダナエの寝室に侵入するため、金色の雨に変身したという神話を思い出すのだ。2013年にボローニャを訪れたとき、ロッシーニ博物館で見たロッシーニのかつらも思い出した。ステッキなどの日用品と共に、部分的に薄毛をかくすタイプの着け毛がさりげなく置いてあり、それはまさにロッシーニの抜け殻のようだった。毎朝、あのカツラをつけて満足気に鏡に微笑みかけていたロッシーニを想像した。

全員が意味のあるような、ないような内容を天才的な歌唱力で歌い、最後は神となって天上に吸い込まれていく…というのは『ランスへの旅』で毎回起こることだが、『セビリアの理髪師』も似た話に思えた。ストーリーの中に教訓的なものが感じられない。説教臭くもなければ、誰かに悲劇的な役割があるわけでもなく、ここまでドライなのは見事だ。『フィガロの結婚』でさえ、伯爵夫人(ロジーナの未来)には一抹の悲哀を感じずにはいられないが、『セビリアの理髪師』にはそういう陰影は感じられない。二幕で後見人のバルトロがいたぶられている間、この役に少しばかり同情してみようかとも思ったが、音楽がそのように出来ていないことに気づいた。非常に人間臭いものを扱っていながら、歌手たちは最終的に「神」になる。三角定規を置いたような装飾音をいくつもいくつも歌い、その結果全員が神話の世界の存在になっていく。あるいは、最初から神が人間に「変装」していたのかも知れない。ギャグの嵐を浴びせかけて神のいたずらを描くとは頭がくらくらする。ロッシーニは本当に人を食った作曲家だ。

アッレマンディの指揮は機知に富み、先日の『ラ・ボエーム』に続いて東響が絶妙で新鮮なサウンドを提供した。涙溢れる『ボエーム』を聴いたのはつい一週間前のことだったが、二作連続でレパートリー作品の有難さを実感した。勇敢でユーモラスな歌手たちの眩しい歌を浴びて、自分の人生はどこか間違っていたのではないかとも思った。「人生で恐れていたことは、実際にはほとんど起こらない。死に際に一番後悔するのは、思うように人生を生きなかったことだ」という誰かの言葉がずっと心にひっかかっていた。しかしそんなことさえも「出来ないことはやりたくないと思って当然だ。思うように生きられなくたって、人生は人生だ」と思う。悲観的な考えそのものが、無駄なのだ。ロッシーニの劇中の歌のタイトルを借りるなら「無駄な用心」だ。陽気な神々の歌に酔い、七色の照明の残像を瞼にチカチカさせながら、笑顔で劇場を後にした。

 

 


マリインスキー・オペラ『マゼッパ』(演奏会形式)

2019-12-04 01:15:32 | オペラ
『スペードの女王』が上野で二日連続上演された翌日、サントリーホールで行われたマリインスキー・オペラ『マゼッパ』を観た(12/2)。『スペード…』で陽気なトムスキー伯爵役を連投したウラディスラフ・スリムスキーがマゼッパを演じ、同じく二日間伯爵夫人を歌ったアンナ・キクナーゼがヒロインのマリアの母リュボフを演じた。ロシアの歌手の体力は並ではないことは知っていたが、合唱もオーケストラも全く衰えるところがなく、サントリーホールの残響も手伝って、実にパワフルな上演だった。予定では二回休憩のトータル3時間40分が、休憩が一回となり約3時間20分の上演となった。
 
 8月初旬に行われた記者会見でゲルギエフは『マゼッパ』がチャイコフスキー/プーシキンの最高傑作であること、歌手に大変多くのものを求めるオペラであること、72歳の老人と18歳の少女が恋愛関係にある物語であることなどを語った。3つめが凄いインパクトだった。老人と若い女の恋は悲劇か笑劇となるのがオペラの常で、マノンに恋したジェロンテ、息子が恋した女性と結婚したフィリッポ二世、ドン・パスクワーレやファルスタッフなどなど、「老いらくの恋の挫折」は数え上げればキリがない。『マゼッパ』は男の妄想の世界かと思いきや、プーシキンの物語詩は史実をもとにしており、18世紀のウクライナが舞台となっている。
 
 ステージに勢揃いしたマリインスキーのオケは以前より若返っており、ホールのP席の中央ブロックに並んだ男女の合唱(約60名)は疲れも見せずリラックスしたムード。『スペードの女王』は初日(11/30)のほうを観たが、オーケストラの集中度は『マゼッパ』のほうがさらに上だった。『エフゲニー・オネーギン』の次に書かれた作品だけあって、似た響きやフレーズが出てくる。「焼き鳥の串サイズ」の指揮棒を持ち、指揮台なしで振るゲルギエフは、オペラの中にちりばめられたチャイコフスキーのシンフォニーの断片、コンチェルトやバレエの断片を輝かせながら、この長いオペラを少しも飽きさせずに聴かせた。
 
 演奏会形式ではあるがセミオペラ以上の密度で、題名役のスリムスキーを始め、彼に恋するマリア役のマリア・バヤンキナ、父コチュベイ役のスタニスラフ・トロフィモフ、母リュボフ役のアンナ・キクナーゼ、マリアに恋する若者アンドレイのエフゲニー・アキーモフ、コチュベイの同志イスクラ役のアレクサンドル・トロフィモフ、マゼッパの腹心で残忍な処刑人であるオルリク役のミハイル・コレリシヴィリ(一度観たら忘れられない絵にかいたような悪役)など、声楽的にも高水準、演技力もアンサンブルも卓越していた。初めてこのオペラを観た自分は、大いに打ちのめされた。これは全員がロシア人でなければ歌えないし、本質にあるものを伝えられない。引っ越し公演だから可能になったクオリティなのだ。ゲルギエフが日本に持って来てくれたことが有難くて仕方なかった。
 
物語は裏切りと狂気と死に溢れている。ウクライナの富豪で貴族のコチュベイは、ウクライナの元首マゼッパに愛娘マリアを奪われる。18歳のマリアは祖父ほど年の離れたマゼッパのカリスマ性に惹かれ結婚を望むが、72歳のマゼッパはマリアの名付け親でもあった。スリムスキーはぞくぞくするような喜びに溢れて「若い綺麗な身体を自分に与えてくれた喜び」を、ヘンデルのアリアよろしく二重に繰り返し歌う。年甲斐もない身勝手な老人にマリアの両親は激怒し、コチュベイはかねてからマゼッパの謀反の計画を知っていたため、復讐として皇帝ピョートル一世にその計画を告げる。若いマリアを演じるバヤンキナは白いドレス姿で、老人に天国の境地を味わわせる無垢な美声を聴かせた。

 舞台に登場する歌手の8人のうち6人が男性、主要な役であるマゼッパがバリトン、コチュベイがバス、オルリクもバスであるため、印象として「ロシアのバスバリトン祭り」のような深い声の応酬が繰り広げられた。個人的に最も感情移入したのは、トロフィモフ演じる父親コチュベイで、2幕の冒頭から多少説明的な長い歌詞で、マゼッパへの復讐として皇帝に密告したこと、マゼッパは一度捕らえられたが逆に自分が謀られて牢につながれたこと、死の宣告を受けたことが歌われる。このバスの苦吟が、心が凍える表現だった。「レンスキーのアリア」などこれに比べたら可愛い(?)ものだ。トロフィモフの歌が、今まで聴いたことのない次元の表現で、これは一体何なのだろうと思った。残酷なオルリクによってコチュベイは財産のすべてを没収される拷問を受け、状況はいよいよ緊迫していく。娘への愛ゆえの復讐が、誇りを奪われた死へとつながっていく不条理は、見ていて胸が詰まるようだった。
 
 チャイコフスキーが53歳で早逝したのは、コレラが原因ではなく当局から死を強いられたせい(同性愛のかどで)ということはもはや自明のこととされている。チェコフィルとともに来日したビシュコフも「悲愴」の解釈においてその点が重要であることを述べていた。「不名誉で、不本意な死」が実際に身に降りかかる前に、こんなオペラを書いていたのだ。物語詩に暗示された悲劇に、さらに傷口に塩を塗るようにしてドラマを盛り込み、悲痛さに乗せて途轍もなく美しい音楽を書く。
 これがチャイコフスキーの真髄なのか…と思った。コチュベイの拷問と死は、物言わぬ無数の霊たちの記憶だ。数えきれない無念の死者たちが、ロシアの地中には埋まっている。世界中の土の中に埋まっている。チャイコフスキーはその無念の哀しみを、音楽を通して表現することのできる天才で、身を切り裂く悲運への共感が大きいほど、自分には美しい音楽が書けることを知っていた。超能力的ともいえる共感力は、聴く者の心を容易に揺さぶる。賞賛と名誉を集める。その結果、何が起こったのか…芸術家はキリストと同じ運命を辿るのだ。
 
 マリアに誠実な愛を寄せるアンドレイを名歌手アキーモフが歌い、見事なテノールだが内容としてはオネーギンの「グレーミンのアリア」を彷彿させる。ヒロインが本当に幸福になれる男は、アンドレイのほうなのだ。父を殺され、取り残されたマリアは発狂し、目の前のマゼッパの醜さ、白い髪を愚弄する。恋をしていた頃のマリアのほうが狂人で、マゼッパをののしるマリアは現実を正確に見ている。
 
 救いのない死を見せられ、人間の残忍さと矛盾が執拗につきつけられたにも関わらず、音楽とドラマの魅力は強烈で、長いオペラを観終わった客席からは熱狂的な喝采が湧き起こった。喝采は長く長く、なかなか止まらない。拍手をしながら「チャイコフスキーを分かったつもりでいた」自分の浅はかさに打ちひしがれる。華麗、ロマンティック、感傷的…などといった言葉だけでは全く足りない。作曲家の真髄を知るゲルギエフが、チャイコフスキーの稀有な才能と歴史的な重要性を全力で伝えてくれた名演だった。
「空気の中に、地中に、世界のすべての劇場に息づいているチャイコフスキー」を想い、この前日に亡くなった太陽のようなマリス・ヤンソンスのことを想った。この公演は、ヤンソンスに捧げられたものだったのだ。
 
 

新国立劇場『ドン・パスクワーレ』(11/13)

2019-11-16 01:59:35 | オペラ
新制作『ドン・パスクワーレ』の11/13の昼公演を観る。新国のレパートリーに新たに加わったベルカントものとして話題になっていたオペラ。最初から最後まで面白く、歌手と合唱の芸達者ぶりに驚いた。個人的に記憶に残っている「ドンパス」といえば、オットー・シェンク演出・ネトレプコ主演のMETのプロダクションなのだが、印象がずいぶん違った。MET版ではタイトルロールを今は亡きジョン・デル・カルロが歌っており、全体が「カントリー風味」だったが、ロベルト・スカンディウッツィの主役はもっと洗練された雰囲気を放つ。豪華なガウンを着て、美術品に囲まれた書斎で優雅な(老いているとはいえ)独身貴族を演じる。新国では過去にフィリッポ二世を演じ、震災の年に来日した(2回だけ公演して中止となった)フィレンツェ歌劇場の『運命の力』にも出演していた名歌手だが、生で聴くのは初めて。

ステファノ・ヴィツィオーリの演出はスカラ座でも絶賛された名プロダクションだけあって、ユニークな美術とモダンな芝居が優れていたが、稽古のハイライト映像を見て、今回の上演でますます磨かれたのではないかと想像した。歌詞に呼応した一挙手一投足の動き、極端に横長の大道具が左右を横切るスピーディな動きなど、すべてが見事で、歌手も合唱もダンサーも本気で集中しなければあのクレイジーなムードは出なかっただろう。稽古で見るオペラのほうがさらに迫力満点ということもある。これは準備段階から見学してみたかった。

ドン・パスクワーレを騙して甘い汁を吸う未亡人ノリーナは、つくづく悪女だと思った。ソプラノのハスミック・トロシャンはこの役を完璧に手中にしており、余裕さえ感じさせる表情で嬉々として演じていた。登場シーンの、セットが生き物のように左右に分かれて配置され、海のような背景が現れるところは何だか笑ってしまう。「ヴィーナスの誕生」のパロディのようなのだが、実際はとんでもないヴィーナスなのだ。胸が大きく開いた衣装で強調されているグラマラスなボディにもどうしても目が行く。ビアジオ・ピッツーティ演じるマラテスタが「老人も一目で恋に落ちる」と踏んだ若い女の役がぴったりで、長丁場のカバレッタでは歌手のきらびやかな技巧を次から次へと披露した。
 ノリーナの恋人エルネストを歌ったテノールのマキシム・ミロノフは、聖なる声の持ち主で、ボーイソプラノからすくすくとテノールに育ったのではないかと思わせるリリカルな響き。とてもシリアスなエルネストだった。透明に響き渡る貴重な声の持ち主で、一幕ではところどころこもりがちに聴こえた部分もあったが、次第に前に出てきて安心。こんな純朴な青年が、腹黒い未亡人とどのようにして夫婦になっていくのか、未来を想像すると少し不安でもあった(!)。

 ドン・パスクワーレはさまざまな人間関係の中で自分の性格を表していく役で、朗々としたアリアなどはないが、その分早口言葉のデュエットが多く、舞台で大量のエネルギーを発する。歌も芝居も本当の老人ではこなせない、という仕掛けになっており、深い声と健康な身体をもつ60代のスカンディウッツィのドンパスはまさに「歌い頃」であった。私などは、焼きの足りないロールパンのようなエネルストよりも、趣味のいい成熟したスカンディウッツィのドン・パスクワーレのほうが素敵だと思ってしまうのだが…物語ではとことんやりこめられ、馬鹿にされる。さまざまなハラスメントが告発される今のデリカシーでは、危険な歌詞もたくさん出てくる。

 それでも、このオペラは面白い。それは、作品の中にどこか二次元的な感覚があり、現実と少し乖離した世界を描いているからだと思う。ドニゼッティはシリアスもコメディも傑作を書いた人だが、劇作家としてキレキレの感覚を持っていて、少女漫画の大御所がコメディタッチの連載から急にシリアスな物語を書き出すような振れ幅がある。50歳で死んだのに70ものオペラを書き残したことも驚異的だが、天性の演劇人の性で、「舞台では現実とは違うことがいくらでも起こっていい」と思って書いているふしがある。落語家の桂枝雀さんがいう「ホンマ領域とウソ領域」を往来して、リアリズムとは少し違う、コミックやアニメーションのような世界をオペラに投影しているのだ。頭が常に加熱していて、おでこに冷えピタシートを張りながら五線譜にへばりついていたに違いない。

ノリーナが注文した100個の帽子が乗っかった台や、どこまでも左右に長いダイニングテーブルには大笑いした。演出家のヴィツィオーリは装置にたくさんのギャグセンスを盛り込み、合唱は韋駄天のごとく東西を走ってセットを運ぶが、あれはひょっとしてベルカントのアジリタの16分音符を可視化したものではないか…と思った。呼吸が続くことが奇跡的に思われるような長い技巧的なフレーズを歌手のみんなが歌うが、それは物語が「ウソ領域」にまではみ出していることの表れで、オペラそのものがわざと書かれているし、歌手たちもわざと歌うことを求められる。「このオペラの教訓は、老人が若い女と結婚しようなんて思うのは愚かなことだということよ!」とノリーナは高々と歌い上げるが、その場面は「真夏の夜の夢」の森のような夢うつつの青緑色の世界で、ドン・パスクワーレは妖精王オベロンの寛大さで、意地悪な連中全員を許すのである。

指揮のコッラード・ロヴァーリスは序曲からすべての音が言葉であるような生き生きとしたサウンドを東フィルから引き出し、最後までドニゼッティのオペラの魔法を聴かせた。「オペラはイタリア人だけのものではない」と思いつつ、指揮者とバス、バリトンが渋いイタリアの底力を出しているのを聴くと、やはりイタリアは凄いと頭を垂れてしまう、このオペラではその「イタリア風味」が本当に洒落ていて、これ見よがしではなく、近づいた人にだけ香る大人の香水のように粋だったのである。
11/16と11/17にも上演が行われる。

photo:Fabio Parenzan

NISSEY OPERA2019 『トスカ』(11/9)

2019-11-11 04:47:15 | オペラ
NISSEY OPERA2019『トスカ』の初日(11/9)を観る。トスカは砂川涼子さん。カヴァラドッシ工藤和真さん。スカルピア黒田博さん。園田隆一郎さん指揮・読売日本交響楽団。粟國淳さん演出・砂川涼子さん主演の『トスカ』は2018年9月に東京文化会館小ホールのプロダクションで観ていた。小ホールの空間を効果的に使ったオペラ上演で、ピアノ、エレクトーン、パーカッションと合唱で構成されていた。人間心理を繊細に追った演出で、歌手の出来栄えもよく(カヴァラドッシ村上敏明さん、スカルピア須藤慎吾さん)、小規模編成ながら音楽もよく出来ていた。日生劇場では回転する大規模な美術も入り、照明もドラマティックになる。

カヴァラドッシの工藤和真さんは初めて聴く方で、思い切りのいい演技で、スターのオーラがあり、プッチーニ・テノールに求められるドラマティックな歌唱も見事だった。始まってすぐ、まだ舞台が温まっていないうちに歌う『妙なる調和』から、歌手の好調ぶりが伝わってきた。
 一幕は、何度見ても堂守の演技が好きだ。2013年のトリノ王立歌劇場の来日公演では、堂守の面白い演技見たさに4回通ったが、シリアスな物語に組み込まれたプッチーニのユーモアセンスをいつも感じる。晴雅彦さんが安定の演技だった。
読響が『トスカ』のピットに入るのは初めてのことらしい。園田隆一郎さんは細部までプッチーニの旋律を磨き込み、生き生きとした流れを作っていた。トスカの衣擦れを思わせる弦のさざめきや無邪気さを表すフルートも美しい。園田さんのプッチーニは藤原歌劇団の『蝶々夫人』でも拝聴していたが、脅かすような大袈裟なことはせず、ヒロインの魅力を際立たせ、演劇的に大切なことをオケに語らせる。先日METライブビューイングで見たヤニック・ネゼ=セガンの『トゥーランドット』を思い出した。園田さんもネゼ=セガンも基本の音色が明るく、細部の作り込みが丁寧で、各パートがクリアに聴こえる。プッチーニのオーケストラは、すべてが演劇の言葉なのだと再認識した。

砂川涼子さんのトスカは言葉に尽くし難いほどだった。ソプラノ歌手は、人知れぬ凄い覚悟を持って生きているのだと思い知らされた。これまで、さまざまな役を演じられているのを観てきたが、今年に入ってからは「オペラ夏の祭典」の『トゥーランドット』のリューの渾身の演技が心に残る。砂川さんがリューとトスカを立て続けに歌われたことで、二人の女性の共通点が見えた。人によっては何の共通点もないと言うかも知れないが、愛する男性を守るために危険を冒す一途な性格は同じだ。
 トスカはスカルピアを刺して殺すが、本当に残酷な女なのだろうか…オペラを観て、全くそうは思えなかった。カヴァラドッシの拷問シーンは、何度見ても耐えがたい。自分の命より大切なものが、壁一枚隔てた向こうで死に瀕している(粟國演出では大きなイタリア地図の幕が透けて、舞台の左上で拷問が演じられた)。そこまで追い詰めて、その上自分を手籠めにしようとする相手にどういう感情を抱くのか。トスカの嘘のなさ、真っすぐにしか生きられない純粋さは、間違いなくリューと通じている。
 
 プッチーニは声楽的に「お上品」ではないから歌わないという海外のソプラノもいる。トスカはたくさん悲鳴を上げるし、歌唱的にも過酷で、米国の歌劇場ではワーグナー歌手が頻繁に歌う。先日の藤原歌劇団の『ランスへの旅』のようなベルカントも完璧に歌われる砂川さんにとって、トスカは歌手の命と引き換えに歌うような役だろう。それでも、砂川さんにトスカを歌ってもらわなければ困る。純粋な愛を舞台で演じる覚悟のある歌手だけが歌える役だと思うからだ。

スカルピアは猟奇的な性癖の持ち主で、権力を握り暴力的な欲望をエスカレートさせてきた怪物で、トスカが命懸けで守ろうとしている愛を理解しない。ねじれていて、孤独なのだ。真っすぐにしか生きられない若い男女はやすやすと策士の手にはまる。黒田博さんが憎まれ役を好演した。女性の内面の強さが理解されない時代に、ヒロインの敵役としてこういう人物を描いたプッチーニはやはり凄い。砂川トスカはスカルピアの心臓を思い切り刺した。音楽的な緊張が最も高まった瞬間だった。

トスカの聴きどころといえば「歌に生き、愛に生き」「星は光りぬ」だが、今回の上演ではそうしたハイライトが演劇的な流れに組み込まれ、喝采のタイミングを取らないまま曲が進んだため、「星は光りぬ」では歌手が歌い終わったか終わらぬうちに盛大なブラボーが飛ぶというハプニングもあったが、音楽作りとして新鮮な解釈に思われた。アメリカ人歌手のパトリシア・ラセットが「有名な『歌に生き…』だけを聴いてほしくない。プッチーニの書いたリッチなスコアのすべてが最高なのです」とインタビューで真剣に語ってくれたことを思い出した。

三幕のサンタンジェロ城のシーンでは、名物の天使像は出てこず、丘のような不思議な場所が舞台となった。「ローマでもどこでもない普遍的な場所」が描かれていたのかも知れない。ひととき希望を見出した二人が絶望の淵に襲われる処刑シーンは、オペラのあらゆる悲劇的な場面にもまして残酷で不条理だ。理想と純粋さが生きられるのはここまで、という「限界」をプッチーニは写実的に描いた。しかし、そんなことが許されるわけがない。地上で公平な裁きが行われなかったのなら、あの世で裁きを待つしかない。トスカが最後に放つ「スカルピア、神の御前で!」の声が心に響いた。トスカは背中から飛び降り、その見事な最期に敬意を表するように帽子を取った衛兵の演技が、演出家が思う「人間の高貴で普遍的な心」に感じられたのだった。


東京二期会『蝶々夫人』(10/3.4)

2019-10-04 23:35:31 | オペラ
宮本亞門演出の二期会『蝶々夫人』の初日(10/3)と二日目(10/4)を東京文化会館で観る。ザクセン州立歌劇場、デンマーク王立歌劇場、サンフランシスコ歌劇場との共同制作で、東京発信の新制作となる。黙役の「ピンカートンの息子」が、死の床の父親を看取る言葉のない芝居シーンから始まり、老いたスズキ、育ての母ケイト、医師と看護婦がピンカートンを囲む。父が息子に最後の手紙を渡す。「30年前の夏の終わり」に一か月だけ過ごした日本でのことが記され、息子がその内容に驚愕した瞬間に『蝶々夫人』の音楽が始まる。

この黙役の息子(牧田哲也)はずっと舞台にいる。オペラのラストはどうなるか、観客は知っている。「自分はどこから来たのか」を見つめる役として、残された息子を物語の証人にするのは凄いアイデアだ。控えめな照明が当たり、一日目は前方列で観たので「彼」の存在感をずっと間近で感じていたが、二日目は少し舞台から離れたので時々見過ごした。ライトは少し明るくなったりほとんど見えなくなるほど弱くなったりするが、どんな場面でもほとんどいる。ほつれた金髪が根本の黒髪と混じり、真面目そうなメガネをかけた平凡な「ハーフのピンカートン・ジュニア」が、あまりに現実に存在していそうな外見だったので、感情移入せずにはいられなかった。
ずっとアイデンティティを求めていた彼にことの発端を見せるためにオペラは展開されていく。自分の存在の根幹に愛があった、と認めさせ、父親のかつての姿を見せることで、「彼」は衝撃を受けながらも癒されていくのだ。

初日の蝶々夫人は森谷真理さん。ピンカートンは樋口達哉さん。森谷さんの蝶々さんは2017年にも観ており、そのとき「声楽的には素晴らしいがこの話がラブストーリーに見えない」と書いた。自分が書いたことはよく覚えている。亞門版での森谷さんは、世界で今一番この役を「歌える」歌手なのではないかと思わせた。水を得た魚のように、鮮烈で誇り高かった。樋口さんもピンカートン得意役だがいよいよ磨きこまれて、二人の歌唱はヴェリズモ的というより、「プッチーニのオペラが特別に求める」演劇的でドラマティックな声だった。

『蝶々夫人』は「誤解」のオペラだというのが、過去のほとんどの演出で描かれてきたことで、最も好きなアンソニー・ミンゲラのMETのプロダクションでは、「悲しみ」と名付けらた息子を文楽の人形が演じる。あの文楽の人形には不思議なデリカシーがあったが…。名演出家をもってしても、9割9分誤解の話として語られてきたストーリーを、宮本亞門さんはすべてひっくり返し「男にとっても永遠の愛」にした。ピンカートンが日本を離れたのは日清戦争に参戦するためで、負傷して米国に帰国してケイトと結婚するが、彼らの関係は最初から冷えている。男の心の中にずっと別の女性がいたから…こういう筋書きをこのオペラに与えるのは大きな危険でもある。ある種の「前提としての敵対関係」が、ずっとこの物語の芯にあると思われてきたからだ。

演出家は「このような愛があると、自分は思う」ということが出来る人で、男のバイアスも女のバイアスも知り尽くしている。一幕ラストの愛の二重唱は宇宙に包まれた巨大な男女の愛の凱歌で、この二人のつながりは国籍や性をも(!)超えた魂のつながりであると表現した。あの二重唱は、核融合のような世界だった。
神奈川芸術劇場で2012年に上演された『マダムバタフライX』で亞門さんは既にそのアウトラインを強く把握していた。ピアノ伴奏で、プッチーニの音楽の前衛性と国際感覚が素晴らしく浮き彫りになり、物語は「震災後の日本」が舞台だった。嘉目真木子さんが嘉目さんとして登場するのも面白かったが…そこでも既に母と子のつながりがメインテーマになっていた。恋愛の問題はやがて「家族」の問題になる。

スズキは両日とも若いメゾ・ソプラノ(3日/藤井麻美・4日/花房英里子)が演じ、どちらも老けメイクをして樹木希林さんのように見せていた。花の二重唱ではスズキと蝶々さんの女同士の絆のハイライトが描かれることが多いが、亞門版では息子と蝶々さんの幸せな関係をスズキが自分のことのように喜ぶ、「父の帰りを待つ家族の愛の歌」になる。子役はたくさんのことを正確にしなければならず、両日とも小さな子だったが稽古の成果を見せ、立派に演じていた。

二日目の大村博美さんの蝶々さんは、観ていて心が爆発しそうだった。ヒロインの心模様が全身から溢れ出し、声楽的な体裁などどうでもいいというぎりぎりの表現で、涙を流しながら渾身の演技をされていた。それを「正しくない」とは言わせない。「プッチーニは泣かせればいいと思っているから嫌いだ」という意見にも私は大反対なのだ。プッチーニが流させる涙は最高の涙で、他にこんなのはない。「男は泣いてはいけない」という教育、人前で感情は慎むという教育…そんな抑圧を拭い去った素っ裸の心と向きあわせてくれる。スコアを見れば、作曲家がどんな脳外科医よりも精密な知性を持っていたか一目瞭然だ。

バッティストーニは、ずっと前にフィレンツェで代役として振って以来、全幕のバタフライを振るのは初めてだったという。二期会では「バッティはヴェルディ、ルスティオーニはプッチーニ」という暗黙の役割分担が出来ていたが、2014年のバタフライもバッティストーニはとても振りたがっていたという話も聞いていた。東フィルは見事にバッティストーニの夢をかなえ、ダイヤモンドの輝きをピットから放っていた。レスピーギやマーラー、プロコフィエフの断片も感じられた。今年6月のレンツェッティとの共演でもオーケストラはこのオペラについての特別な知性を得ていたのだと思う。世界で一番美しい音楽が、次から次へと聴こえてきた。

シャープレスは脇役のようでいて、このオペラのすべてでもある重要な役で、78歳のドミンゴが今年METでロールデビューを切望していた役だった(降板になってしまったが)。黒田博さんは思慮深さの中に天地をひっくり返すような激しさを忍ばせ、ピンカートンを後悔の渦に落とし込むラスト近くの場面も迫力だった。一幕の再現部の美しいフレーズで、ピンカートンは松葉杖をふっとばして床に倒れこむ。あのシーンはあまりに見事だった。苦悩する役で大きな魅力をみせる小原啓楼さん(4日)のピンカートンも忘れ難い。久保和範さんのシャープレスも心に残る。

髙田賢三さんの衣装はカラフルで華やかで、芸子たちの色とりどりの衣装には特に目を奪われた。その一方で舞台美術は潔いほどシンプルで、可動式の小さな木枠で出来た部屋が色々な表情を見せる。なんとラジコンで動いているらしい。「ある晴れた日に」は、その木枠の部屋のてっぺんに上って歌われる。木枠の大きな円の輪郭は、太陽のようにも日本国旗のマークのようにも見える。間奏曲のあとの、小鳥がちゅんちゅん泣く朝のシーンで、スライドが見事な朝焼けを映し出したときに、木枠の円がもうひとつの太陽に見えた。あの朝日のシーンは素晴らしい。希望に燃える朝の太陽を、最後の日に全身で蝶々は浴びる。西欧の男性を愛すると、今まで意識しなかった「東の女」である自分を意識するものだと思う。太陽が昇るところに生まれたヒロインの「血潮」が空全体に漲っていた。

ラストはどの演出より悲痛だった。小さな「自分」が母親の死を見ないで済むよう、32歳の息子は彼を抱きかかえて目をふさぐ。自決のシーンは隠されていて見えないが、同一人物である息子が母の死を認識するという設定は、心が割れそうになった。最後のピンカートンの「バタフライ!」の一声まで、演劇は諦めない。敵対も誤解もなかった。全く新しく生まれ変わった物語だった。

こんな愛の物語を作り上げてしまえるのは、明らかな天才だが、その直観の源にあるのは、やはりその人の受けてきた愛にあるのではないか。2007年に『週刊朝日』で亞門さんと、お父様の亮佑さんの親子対談をさせていただいたときのことを思い出した。これは『親子論』という単行本にもなっているが…お母さまの須美子さんは松竹歌劇団のレビューガールで、12歳年下の亮佑さんと出会ったときは43歳で前夫との間に二人のお子さんがいた。「お前の母ちゃんは綺麗だったから一目ぼれだった。第一、俺は着物に弱いんだ」と父上。最愛の母君は、亞門さんがパルコ劇場で役者デビューを飾る前日に亡くなった。張り切って、色々なところに電話をかけて、血圧の薬を飲むのを忘れてしまったのだ。風呂場の水が流れっぱなしで、お母さまは亞門さんの洗濯物を握りしめていた。
「お父ちゃんは死んだお母ちゃんに最後、キスしたんだよ」「20年以上たつのにますますお母ちゃんが大好きになる」という会話を聞いた。そのときは、12年後の今日のことは想像しなかった。
東京ではあと2回、これからドレスデン、デンマーク、サンフランシスコで上演が続く。それぞれの国の観衆、そして誰より指揮者、歌手、オーケストラがどのようにこの新しい『蝶々夫人』を受け入れるのか、胸が高鳴る。