小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

マリインスキー・オペラ『マゼッパ』(演奏会形式)

2019-12-04 01:15:32 | オペラ
『スペードの女王』が上野で二日連続上演された翌日、サントリーホールで行われたマリインスキー・オペラ『マゼッパ』を観た(12/2)。『スペード…』で陽気なトムスキー伯爵役を連投したウラディスラフ・スリムスキーがマゼッパを演じ、同じく二日間伯爵夫人を歌ったアンナ・キクナーゼがヒロインのマリアの母リュボフを演じた。ロシアの歌手の体力は並ではないことは知っていたが、合唱もオーケストラも全く衰えるところがなく、サントリーホールの残響も手伝って、実にパワフルな上演だった。予定では二回休憩のトータル3時間40分が、休憩が一回となり約3時間20分の上演となった。
 
 8月初旬に行われた記者会見でゲルギエフは『マゼッパ』がチャイコフスキー/プーシキンの最高傑作であること、歌手に大変多くのものを求めるオペラであること、72歳の老人と18歳の少女が恋愛関係にある物語であることなどを語った。3つめが凄いインパクトだった。老人と若い女の恋は悲劇か笑劇となるのがオペラの常で、マノンに恋したジェロンテ、息子が恋した女性と結婚したフィリッポ二世、ドン・パスクワーレやファルスタッフなどなど、「老いらくの恋の挫折」は数え上げればキリがない。『マゼッパ』は男の妄想の世界かと思いきや、プーシキンの物語詩は史実をもとにしており、18世紀のウクライナが舞台となっている。
 
 ステージに勢揃いしたマリインスキーのオケは以前より若返っており、ホールのP席の中央ブロックに並んだ男女の合唱(約60名)は疲れも見せずリラックスしたムード。『スペードの女王』は初日(11/30)のほうを観たが、オーケストラの集中度は『マゼッパ』のほうがさらに上だった。『エフゲニー・オネーギン』の次に書かれた作品だけあって、似た響きやフレーズが出てくる。「焼き鳥の串サイズ」の指揮棒を持ち、指揮台なしで振るゲルギエフは、オペラの中にちりばめられたチャイコフスキーのシンフォニーの断片、コンチェルトやバレエの断片を輝かせながら、この長いオペラを少しも飽きさせずに聴かせた。
 
 演奏会形式ではあるがセミオペラ以上の密度で、題名役のスリムスキーを始め、彼に恋するマリア役のマリア・バヤンキナ、父コチュベイ役のスタニスラフ・トロフィモフ、母リュボフ役のアンナ・キクナーゼ、マリアに恋する若者アンドレイのエフゲニー・アキーモフ、コチュベイの同志イスクラ役のアレクサンドル・トロフィモフ、マゼッパの腹心で残忍な処刑人であるオルリク役のミハイル・コレリシヴィリ(一度観たら忘れられない絵にかいたような悪役)など、声楽的にも高水準、演技力もアンサンブルも卓越していた。初めてこのオペラを観た自分は、大いに打ちのめされた。これは全員がロシア人でなければ歌えないし、本質にあるものを伝えられない。引っ越し公演だから可能になったクオリティなのだ。ゲルギエフが日本に持って来てくれたことが有難くて仕方なかった。
 
物語は裏切りと狂気と死に溢れている。ウクライナの富豪で貴族のコチュベイは、ウクライナの元首マゼッパに愛娘マリアを奪われる。18歳のマリアは祖父ほど年の離れたマゼッパのカリスマ性に惹かれ結婚を望むが、72歳のマゼッパはマリアの名付け親でもあった。スリムスキーはぞくぞくするような喜びに溢れて「若い綺麗な身体を自分に与えてくれた喜び」を、ヘンデルのアリアよろしく二重に繰り返し歌う。年甲斐もない身勝手な老人にマリアの両親は激怒し、コチュベイはかねてからマゼッパの謀反の計画を知っていたため、復讐として皇帝ピョートル一世にその計画を告げる。若いマリアを演じるバヤンキナは白いドレス姿で、老人に天国の境地を味わわせる無垢な美声を聴かせた。

 舞台に登場する歌手の8人のうち6人が男性、主要な役であるマゼッパがバリトン、コチュベイがバス、オルリクもバスであるため、印象として「ロシアのバスバリトン祭り」のような深い声の応酬が繰り広げられた。個人的に最も感情移入したのは、トロフィモフ演じる父親コチュベイで、2幕の冒頭から多少説明的な長い歌詞で、マゼッパへの復讐として皇帝に密告したこと、マゼッパは一度捕らえられたが逆に自分が謀られて牢につながれたこと、死の宣告を受けたことが歌われる。このバスの苦吟が、心が凍える表現だった。「レンスキーのアリア」などこれに比べたら可愛い(?)ものだ。トロフィモフの歌が、今まで聴いたことのない次元の表現で、これは一体何なのだろうと思った。残酷なオルリクによってコチュベイは財産のすべてを没収される拷問を受け、状況はいよいよ緊迫していく。娘への愛ゆえの復讐が、誇りを奪われた死へとつながっていく不条理は、見ていて胸が詰まるようだった。
 
 チャイコフスキーが53歳で早逝したのは、コレラが原因ではなく当局から死を強いられたせい(同性愛のかどで)ということはもはや自明のこととされている。チェコフィルとともに来日したビシュコフも「悲愴」の解釈においてその点が重要であることを述べていた。「不名誉で、不本意な死」が実際に身に降りかかる前に、こんなオペラを書いていたのだ。物語詩に暗示された悲劇に、さらに傷口に塩を塗るようにしてドラマを盛り込み、悲痛さに乗せて途轍もなく美しい音楽を書く。
 これがチャイコフスキーの真髄なのか…と思った。コチュベイの拷問と死は、物言わぬ無数の霊たちの記憶だ。数えきれない無念の死者たちが、ロシアの地中には埋まっている。世界中の土の中に埋まっている。チャイコフスキーはその無念の哀しみを、音楽を通して表現することのできる天才で、身を切り裂く悲運への共感が大きいほど、自分には美しい音楽が書けることを知っていた。超能力的ともいえる共感力は、聴く者の心を容易に揺さぶる。賞賛と名誉を集める。その結果、何が起こったのか…芸術家はキリストと同じ運命を辿るのだ。
 
 マリアに誠実な愛を寄せるアンドレイを名歌手アキーモフが歌い、見事なテノールだが内容としてはオネーギンの「グレーミンのアリア」を彷彿させる。ヒロインが本当に幸福になれる男は、アンドレイのほうなのだ。父を殺され、取り残されたマリアは発狂し、目の前のマゼッパの醜さ、白い髪を愚弄する。恋をしていた頃のマリアのほうが狂人で、マゼッパをののしるマリアは現実を正確に見ている。
 
 救いのない死を見せられ、人間の残忍さと矛盾が執拗につきつけられたにも関わらず、音楽とドラマの魅力は強烈で、長いオペラを観終わった客席からは熱狂的な喝采が湧き起こった。喝采は長く長く、なかなか止まらない。拍手をしながら「チャイコフスキーを分かったつもりでいた」自分の浅はかさに打ちひしがれる。華麗、ロマンティック、感傷的…などといった言葉だけでは全く足りない。作曲家の真髄を知るゲルギエフが、チャイコフスキーの稀有な才能と歴史的な重要性を全力で伝えてくれた名演だった。
「空気の中に、地中に、世界のすべての劇場に息づいているチャイコフスキー」を想い、この前日に亡くなった太陽のようなマリス・ヤンソンスのことを想った。この公演は、ヤンソンスに捧げられたものだったのだ。
 
 

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