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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会『メリー・ウィドー』(11/25)

2020-11-26 10:12:47 | オペラ
二期会『メリー・ウィドー』のプレビュー公演を日生劇場で鑑賞。日比谷はクリスマスツリーの電飾で華やぎ、レトロなアメリカンポップスが流れていた。二期会のオペレッタはいつもこの時期に上演されるような気がする。昨年の『天国と地獄』や、2014年の『チャールダーシュの女王』もクリスマス前の色づく東京の景色とともに記憶している。
日生劇場はいい劇場…今年は特に、射手座の季節にこの劇場に行くのが楽しみで、ビジューつきの替えの靴まで持って出かけてしまった。
自宅兼事務所から車で10分ほどの場所だが、近隣の帝国ホテルやペニンシュラを散歩したくて有楽町から歩いた。

日本語上演のオペレッタは発声もお芝居も大変だが、眞鍋卓嗣さんの演出はさらに芝居部分が多く、歌手陣は身体をフルに使ってコミカルな動き、お笑い芸人並みのボケとツッコミを披露していく。プレビュー公演のためか、冒頭の男性陣たちのお芝居には個々のテンションにギャップが感じられるふしもあったが、そこを屋台骨のように支えていたのがミルコ・ツェータ男爵役の三戸大久さんだった。膨大な台詞をこなし、ジュピター神のように舞台に君臨していい声を聴かせてくれた。

ヴァランシェンヌ箕浦綾乃さんはこの公演が二期会デビューとなるが、舞台初日はかなり緊張されていたように見えた。ヴァラシェンヌのパートは実はとても難しく書かれているのだ。不倫相手のカミーユ役の高田正人さんがよく支えていた。高田さんと箕浦さんは芝居の相性もよかったと思う。
ハンナ役の嘉目真木子さんが登場すると、すべてが一気に引き締まる。意外にもハンナは初役だという。どんな役も真剣に取り組まれる嘉目さんが、この未亡人役をシリアスに演じていたのがよかった。嘉目さんが舞台に現れた瞬間に、これからどんなドラマが展開されようと「右のものは右に、左のものは左に収まる」と思える。ヒロインが正義を握っている、と感じさせる真っ直ぐな存在感があるのだ。

ダニロ役は最初から泥酔している芝居で、与那城敬さんがいい味を出していた。眞鍋演出では、芝居と歌唱と台詞がめまぐるしく交差し、特にダニロ役の負担が多かったと思うが、与那城さんは誠実にこなしていて魅力にあふれていた。嘉目さんも与那城さんも真っ白な清潔感溢れるカップルなのだ。『メリー・ウィドー』は「大人になればなるほど恋は純粋になる」という話だと思っているので、お二人の演技には作品との本質的な相性の良さを感じた。ソーシャル・ディスタンス時代となって、密着した演技が出来なくなったことは、芸術にとってもひとつの「進化」だと考える。人と人とが直接触れ合うと、ある意味ただの物質になってしまう。触れるか触れないかの、静電気を感じるようなギリギリの距離感がむしろ男女の醍醐味だと思う。

ピットには期待の沖澤のどかさんが入り、東響を率いて期待以上のサウンドを聴かせた。弦の弱音の表現力、男性の感情の暴発を象徴するような打楽器、合奏の上品さ、どの場面にも指揮者の厳密な意図と美意識が行き届いていて、沖澤さんのオペラ指揮者としての適性を証明していた。6年前の『チャールダーシュ…』の三ツ橋敬子さんの指揮でも東響はいい音を聴かせてくれたが、若い女性指揮者に秘められている才能をきちんと汲み取って鳴らしてくれるのは有難い。音楽の未来を握っているのは沖澤さんや三ツ橋さんのような人たちなのだ。
レハールは歌手が歌う旋律と管楽器をシンクロさせ、弦楽器とシンクロさせたプッチーニと似たポップな大衆性がある。声量が控え目の歌手たちはオケの旋律線に歌がかき消されてしまう場面があったが、これは歌手が頑張るしかない。男性陣がバッカス神のように歌う「女、女、女のマーチ」では、指揮棒を振る沖澤さんが凄い笑顔で、思わずこちらも笑ってしまった。

オペラやオペレッタは、「感情的に腑に落ちる」ということがなければ、どうも観た感じがしない。「どうだ、凄いだろう」というものを見せられても、「情」が動かなければ何も残らない。日生劇場は凄い場所で、ここではエモーショナルな出来事が起こらないわけにはいかないのだ。『メリー・ウィドー』なら、上野の東京文化会館で観た2016年のウィーン・フォルクスオーパーのゴージャス極まる上演が忘れられないが、ある意味日生劇場は負けていない。とちらが凄くて、どちらが本物、などという議論はナンセンスだ。この2020年の東京で、ピットが宝石の音楽を奏で、日本語でレハールが上演されていることを俯瞰の目で見た時、狂おしく愛らしい至福の空間であると思った。

架空の国ポンテヴェドロ、という設定が既に、少女漫画『パタリロ!』の「常春の国マリネラ」に似ている。演劇・娯楽・オペレッタには「擬き(もどき)」の楽しさがあり、それは日本語上演のような「移し(写し)」の作法によってさらに大衆化する。大衆化しているから簡単、というのではない。与那城さんのダニロを、ヨーロッパの歌手は真似できないと思う。ラスト近くでの日本語での芝居と歌の高速切り替えの連続技は、最も高度な技術を要する。それを「楽しい!」と見ている自分はなんと幸せなのか…。

「ヴィリアの歌」は泣けて仕方がなかった。山の向こうから故郷が、先祖が、風のように語り掛けてくるメロディで、どの国でもその国の言葉で歌われるべきだと思った。満月はどの国から見ても満月。一休さんが水を張った桶に映し、将軍様のもとに運んだ月のように「みんなのもの」だった。
ダニロに「落とし物はないですか?」と問われる人妻たちを演じたシルヴィアーヌ内田智子さん、オルガ小野綾香さん、プラシコヴィア石井藍さんのコメディエンヌぶりも圧巻。マキシムの踊り子や官僚たちも熱演で、プリチッチュ役の志村文彦さんはもはや、日本のオペレッタの至宝だと認識した。
美術装置はシンプルだが、「ハンナの故郷を思わせる」緑に溢れたパーティの装飾は女心にぐっとくるものだった。大使館が舞台なので、なるほどどの国の大使館もああいう地下への階段や中庭があるよなぁ…と納得。特にあの階段はポーランド大使館そっくりだ。
二期会『メリー・ウィドー』は11/26.27.28.29にも日生劇場で上演される。






鈴木優人指揮 バッハ・コレギウム・ジャパン『リナルド』(10/31)

2020-11-03 13:55:04 | オペラ
神奈川県立音楽堂で上演されたセミ・ステージ形式『リナルド』初日。遅刻してしまったため(坂道をダッシュしたのだが)冒頭の25分は鑑賞できなかったが、休憩2回トータル4時間に及ぶヘンデルの世界を満喫した。
当初外国人キャストで予定されていた役も、渡航制限によりすべて日本人キャストに変更となり、主役のリナルドを藤木大地さんが歌われた。先日の新国『夏の夜の夢』オベロンに続く大役で、今年はたいらじょうさんとの『400歳のカストラート』もあったし、藤木さんの眩しい活躍がオペラを湧かせた年となった。神秘的な役どころが続いたが、このプロダクションではリナルドは現代の青年として描かれ、フィギュアやコミックが堆く積まれた部屋に暮らしている。コミカルだったり根暗だったり、色々な表情の藤木さんを見ることが出来、演技の幅の広さに驚いた。ほぼ出づっぱりで、ヘンデルの語り部として充実した歌を聴かせた。

アルミレーナ役の森麻季さんは前回のモンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』でもBCJと共演し、蠱惑的なヒロインを演じたが、アルミレーナも完全に役が入っていて、観客をリナルドの世界に引き込むガイドのような役割を演じた。リモート記者会見で演出家の砂川真緒さんが「アルミレーナはピーチ姫のイメージ」と表現していたが、森さんの可愛らしさ、美しさは確かに生身の人間としいうより、虚構の存在に近かった。聴衆を幸せにするためだけに生きているアーティストなのだろう。朗らかで清らかで、天使のようだった。歌手のステージ・プレゼンスがホール全体を埋め尽くし、深い癒しを与えた。

指揮の鈴木優人さんはチェンバロを見事に奏で、合奏に若々しい活力を与えつつ、細々とした演出にも参加。BCJの奏者たちも、人力の小鳥を操ったり、様々な形で舞台を支えた。バロック時代のオペラとは、こんな素朴で楽しい「人の手」に支えられていたのだなと楽しく想像する。凝った仕掛けはないが、舞台が素朴であればあるほど、人間はイマジネーションで片面を補足するのだ。

「聖なる二次元が火を噴いている」のだった。
この言葉を最初に使ったのは西洋占星術界の大御所マドモアゼル愛先生だったが、ヘンデルはまさにこの聖なる二次元と通じている。繰り返し歌われるフレーズが聖書や古い巻物を思わせるし、オタクのリナルドがゲームの次元から歴史の世界へと「鏡をすりぬけるように」シフトしてしまうのも、音楽から二次元的な何かをスキャンしてこの演出になったのだ。直感でそう思う。
二次元は果たして三次元より低級なのか? それは見事に逆なのだ。
美しい少女が「ルノワールの絵のよう」と称賛されるように、クラシックでスコアが至上の価値をもつように、二次元には神聖な価値が凝縮されている。無限の可能性を秘めている。
二次元は厳粛であると同時に、奔放であり、三次元よりよっぽど魔境だ。ヘンデルの音楽は自由自在に膨張し、巨大化し、最後は魔法のような大団円となる。モラルを超越した危険な作曲家なのだ。

森さんのアルミレーナの可愛さと見事に「合わせ」となったのが、毒をふんだんに振りまいて客席から大喝采を浴びたアルミーダの中江早希さんだった。自分の誘惑に堕ちないリナルドを激しく責め立てる歌は高音のオンパレードで、モーツァルトや後世のオペラ作曲家はヘンデルから多くを学んだのだと納得した。アルミーダがあまりに魅力的なので(演出も色々と過激)、個人的にはこの上演で一番心に残る役となった。歌唱力も見事だが、あの雷鳴のような演技が忘れられない。

アルガンテは急な変更で、この日のみ大西宇宙さんに変わってバスバリトンの加藤宏隆さんが演じられた。代役というには、あまりに歌うシーンが多い。引き締まった低音で、最後まで見事な歌唱だった。2014年頃加藤さんの存在を知り、控えめなお人柄と舞台での強靭な存在感とのギャップに驚いたが、こうした形で「再会」できたのも嬉しいことだった。

カウンターテナーが3人登場するオペラとしても期待が高まっていた『リナルド』。ゴッフレード久保法之さんとエウスタツィオ青木洋也さんも大健闘だった。魔法使い波多野睦美さん、セイレーンの松井亜希さん、澤江衣里さん、使者谷口洋介さんもクオリティが高く、女性たちは艶やかな衣装で目と耳を頼ませてくれた。

神奈川県立音楽堂はバロックオペラと相性がいいのだ。ホワイエの緑色のカーテンと壁が不思議な懐かしさを感じさせ、東洋でも西洋でもない場所にいるような心地にさせる。ヘンデルの長いオペラと、せかせかしか現代日本に何の接点があるのか? 理屈や功利主義で考えても仕方ない。4時間かけて上演されたヘンデルは楽しく愛らしく、このように柔らかく優雅にことの本質に到達するのが日本という方法なのだ。鈴木優人さんとBCJの懐の深さにじんわりした。

オペラ上演が復活して、観客と一緒にオペラを楽しむということが骨身に染みて嬉しく感じられる。今まで、ゲネプロ見学も本番もそれほど違いがないのではないかと思っていた。それは大違い。客席が湧く、笑う、しんみりしたり驚いたりする、その感覚を舞台に返し、舞台からも返ってくる…神奈川県立音楽堂のお客さんのリアクションは大人っぽく、いいシーンでたくさん笑っていた。客席で感じるテレパシーのようなものが、以前より強くなったような気がする。
『リナルド』は11/3にもオペラシティで上演される。










東京二期会『フィデリオ』

2020-09-10 20:45:14 | オペラ

新国立劇場で9/3から9/6まで上演された二期会『フィデリオ』のゲネプロと初日公演を観た。演出は深作健太さん、指揮は大植英次さん、東京フィル、合唱は二期会合唱団・新国立合唱団・藤原歌劇団合唱部の3団体の共演。ゲネと初日で両キャストを鑑賞したが、所要な役どころの歌手たちは台詞部分も含めてドイツ語の発音が美しく、歌唱のクオリティも高かった。ピットは舞台の高さまで上げられ、一階席からもオーケストラ全員が見える。大植さんの指揮はベートーヴェンの音楽の典雅な美しさを際立たせ、東フィルの反応も見事だった。東フィルは2年前にチョン・ミョンフン指揮による演奏会形式で『フィデリオ』を演奏しているが、その経験もあってかゲネから余裕を感じさせた。

このプロダクションでは、深作健太さんの演出が重要な位置を占めていた。ゲネの直前に行われたシーズン記者発表では、コロナ禍で当初予定されていた演出プランが大幅な変更を強いられ、いくつものアイデアを諦めなければならなかった経緯が事務局から伝えられた。1945年を起点にして、2020年までの激動の歴史(ドイツを主軸とする)が映像や絵画イメージとともに繰り広げられ、古今東西の哲学者や文学者、思想家の著述の引用が紗幕に投影される。『レオノーレ序曲 第3番』が冒頭に演奏されたが、ここで『フィデリオ』のダイジェスト的な無言劇が展開され、同時に多くの文章も映し出された。

演出の衝撃性も含め、ゲネでは驚きの連続だった。木下美穂子さんのレオノーレは勇敢でシリアスで、重い世界苦を背負った小原啓楼さんのフロレスタンも素晴らしく、物語の痛々しさと歴史の呵責なさを伝えてきた。深作『ローエングリン』でもこのお二人はよかった。小原さんはローエングリンでも深作さんの「創造する」物語に深く入り込み、演技を通じて何か心の急速な成長をはかっていたように見えたが、フロレスタンも歌手の「演劇的真実に向かって内向する心」が感じられた。本番初日のレオノーレ役の土屋優子さんは、太陽のような輝かしい声の持ち主で、夫が閉じ込められた暗い牢獄に差し込む光そのものの存在感が印象的。フロレスタン福井敬さんも、役の純粋さを強く伝えてくる歌唱と演技だった。

ラストシーンまで、何が起こるかわからなかった。「戦争犠牲者」の象徴のようなフロレスタンが車椅子から立ち上がり、「壁」と「分断」の歴史が明るい未来へとつながっていくという奇想天外にも思える展開は、実はとてもベートーヴェン的だと思う。2020年の夏に聴いたいくつかのベートーヴェンの交響曲では、同じようなことが起った。悲観が一瞬で楽観に変わる。ベートーヴェンの弁証法とは、つねに光の爆発によって結論づけられる。電撃的な「楽観」を最後に置いたことが、見事だと思った。混沌の中にいる人間にとって、強力なメッセージをもつエンディングだった。

『フィデリオ』は、同じ新国のこの劇場でカタリーナ・ワーグナーが予想を裏切る悲劇的結末の新演出を行ったように、いくらでも書き込む余地のあるオペラだと思う。演出の「正解」はすべて、たったひとりの個人である演出家に委ねられるが、これは本当に凄いことだと思う。観客と演出家、という図式は多勢に無勢だ。ゼロから新しい価値を生み出す演出は、模倣や教育に依拠した演出(そんなものは見るだけ時間の無駄なのだが)より明らかに価値があるが、なぜか今現在のこの世の中は、過度に保守的で、新しいことに対して文句が多すぎる。創造について何か言いたいのなら、もっと近づいてそのプロダクションを見るべきだし、どのような思念とアイデアの積み重ねによって構成されているのかを観察するべきだ。

演出には歴史への考察と音楽の理解が求められる。この二つが真摯に行われていることが重要だが、さらに演出家の「個」のパワーが勢いよくオペラを貫いていることが重要だ。それ以外に、何を根拠にするというのだ。過去になされた演出を模倣したりコラージュしたり、目利きの客のご機嫌をとったりする演出は最悪だ。オペラ演出家は、自分でそうなろうと思った時点で偉大なのだ。深作さんの歴史考察、音楽の洞察、魂を剥き出しにした演劇の造形は高い完成度を見せていた。この方の特性として、ベートーヴェンにはない強烈な宗教性のようなものが端々に見えることがあるが、その二つの個性の「交差」も観ていて快かった。

最後の最後に舞台に登場する合唱はディスタンスを保ち、マスクをおもむろに外して歌った。「あ、これは本当に2020年のフィデリオだ」と思った。オペラ歌手たちが、今この瞬間にすべてを出し尽くし、次々と「今」を生きていくように、演出家も今という時間を惜しみなく生きる。この演出は「賛否両論」という説もあるが、表舞台とバックステージから押し寄せる肯定的な気分は、途轍もなく明るく大きなものだった。模倣や忖度によって「ちいさなオペラ」を見せられても仕方ない。無数の制約の中で、巨大な思想を見せてくれた深作さんは、この先たくさんのオペラを創造していく演出家だと確信した。

 

 

 


闘うオペラ 東京二期会『椿姫』(新制作)

2020-02-21 00:32:49 | オペラ

二期会の『椿姫』の初日(2/19)を東京文化会館で観る。指揮は世界中の一流オペラハウスに次々と登場している若き鬼才ジャコモ・サグリパンティ、新制作の演出は宝塚歌劇団で活躍する演出家・原田諒さん。ヴィオレッタ大村博美さん、アルフレード城宏憲さん、ジェルモン今井俊輔さん。オーケストラは都響。

最も強く印象に残ったのは、指揮者がこの作品で見せたトータルな世界観だった。歌手もオケも合唱もすべて指揮者の緻密な設計図の中に納まっていて、矛盾したところが全くない。圧政的…というのとも違う。古いようで新しい、21世紀の指揮者が現れたのだと思った。

第1幕への前奏曲から、都響の弦が際立った音を出した。まさに散りゆく花、崩れた花芯と壊れた花びらを思わせる、弱弱しく哀れっぽい詩的な音だった。これから繰り広げられるヒロインの悲劇にこれほど相応しい序奏はない。ほつれた感じのヴァイオリンの響きが「過ぎ去りし昔むかしの物語」を語っているようで、移ろいゆく音の面影が走馬灯のように巡り、古びた鏡台に置かれた白粉の香りを薫らせた。
そこから一気に、ヴィオレッタのサロンの喧騒がはじまる。木管が、わざと垢抜けない音で舞踏会に集まった人々のドタドタした雰囲気を醸し出す。音量は大きく、指揮者の指示でてきぱきとテンポを切り替え、勢いよく合唱とソロを乗せていく。チェロの室内楽的な音も、大正ロマン的な(?)レトロムードに満ちていて、この場で起こっていることがすべて「モダンではない」時代遅れなことであると音楽が暗示しているようであった。

 ヴィオレッタ大村博美さんはおおらかな美声で、前田文子さんデザインの白い贅沢なドレスがよく似合っている。ヘアメイクも絵や写真で見る19世紀のクルティザンヌそっくり。1幕でヴィオレッタが歌う歌は針の筵だ。「花から花へ」を歌い切ったところでアレルギーで卒倒してしまう歌手もいるし、歌唱崩壊を恐れて危険なパッセージを安全運転に変えて歌う歌手もいる。大村さんは書かれた音符に敬意を表し、ひとつともこぼさずに勇敢に歌われていた。
アルフレード役の城さんは、ゲネプロから珍しく抑え気味の歌唱だったが、本番では恋する青年貴族のうぶな心を清らかに歌った。サグリパンティは『椿姫』をヴェルディの中でも「ベルカント的」と位置付けているので、それに応えようとすると、感情過多な声や勢いだけの声は出せなくなる。今回のアルフレードは、まるでモーツァルトの延長線上にあるかのような贅肉のない歌唱で、外連味が全く感じられないストイックで透明な声だった。

『椿姫』はどの様式で演奏されるべきか、という選択は指揮者の采配に任せられているのだろう。哲学者のミシェル・セールは『椿姫』を「ヴェリズモ第一作」と名付けていた。サグリパンティは、40代のヴェルディ作品をヴェリズモ的な劇的表現から遥か彼方に置き、ベッリーニと並列させる。彼がトークで語っていた「ジェルモンが歌うバナルな旋律は、当時の古い社会を象徴している」という指摘は面白かった。オケはこのバナルな~垢抜けない凡庸な音をわざと出し、乾いた音や錆びた音、バラエティに富んだアンティークな音を出す。しかしなぜか全体としてその響きはとても新鮮で、斬新でさえあった。

一幕では、オケの音ひとつひとつにサグリパンティの強力なポリシーが埋め込まれていて、正直オケばかり聞いてしまいそうになった。歌手の声量よりオケが大きく聴こえて「煩く」感じられた瞬間もあった。それも含め、指揮者にとっては恐らく計算済みのことなのだ。「オペラのすべてを、自分の理念で動かし完成させる」という、巨匠的な理想を彼は持っている。それを過激なまでに突出させることで、出世街道を驀進しているのだ。

オケが歌手の伴奏ではなく、強い主張を持ったもうひとつの独立した生き物になってしまったとき、歌手は歌手で自分の身を守らなければならなくなるのではないだろうか。調和しているというより、それぞれが闘っていた。大村さんも城さんも、大切な自分の声を守りながら闘っていたし、ジェルモンの今井さんは侍のように闘っていた。今井さんはゲネプロのときから堂々とした美声だったが、本番ではさらにパワーを増し、あの雷神のような圧倒的な声に完全に会場は魅了された。私も心の中で「ジェルモンは、サグリパンティに勝利した(!)」と拍手してしまったほどだ。指揮者が「垢抜けないつまらない歌」と語った「プロヴァンスの海と陸」は、このオペラのハイライトといっていい出来栄えだったのである。

 サグリパンティのような強靭なイデアリストは久々に現れたような気がする。若いオペラ指揮者は皆才気にあふれているが、この人は驚くほど透徹した知性の持ち主で、同時にかなり変わっている。イタリア伝統主義者を自称しつつ、やり方が際立ってアグレッシヴでバンキッシュなのだ。スコアから様式を厳密にあぶり出し、自分にとってのプロトタイプを創る。そこには演劇性もすべて含まれていて、演出家の出番はほとんどないほどだ。

原田諒さんの演出は、ローマ歌劇場の来日公演でも上演されたソフィア・コッポラ演出の『椿姫』を彷彿させた。オーソドックスで衣裳が美しく(コッポラ版の衣装はヴァレンティノ・ガラヴァーニだった)、全体的に古めかしい優美さが勝っている。理念が強い指揮者にとって、あまり物語をいじらない演出家は都合がいい。
 その点でベストなマッチングのプロダクションではあったが、棒立ち正面向きで歌うジェルモンの退屈な演技は我慢できるとして、2幕2場から天井につけられた丸い鏡は、なくてもよかった。45度の傾斜をつけられた鏡は床のさまざまな様子を万華鏡のように映し出すが…オリジナルは92年にデザインされたチェコの作家Josef Svobodaのアイデアで、著作権が切れたのか最近では「椿姫」といえば判で押したように鏡が登場する。
宮本亞門演出から新しくなったのだから、新演出はもっと「闘う演出」であってもよかった。アイデアが新しすぎたとしても、再演のたびに新鮮な表情を見せる演出というものもある。初演がピークで、再演の段階で既に古びた感じになってしまうタイプの演出にならないよう、鏡は使わないで欲しかったのだ。

 メインキャストの歌手の高潔な「闘い」と、指揮者の完全装備に応えた都響の実力にはオペラの明るい未来が見えた。都響とサグリパンティは、仲良しムードではなかったと思うが、新鮮で意義深い共演をしたと思うし、他のヴェルディ作品やプッチーニ作品でも共演してほしい。ルスティオーニとは別のケミカルが生まれると確信する。指揮者とオケのマッチングに関しては、二期会のやることは毎回外れがないのにも驚いた。22.23日にも公演が行われる。




METライブビューイング『蝶々夫人』

2020-02-13 16:23:23 | オペラ

METライブビューイング『蝶々夫人』を東劇で鑑賞。もう上映が終わってしまうが、アンソニー・ミンゲラ演出の2006年のプロダクションをMETが上演し続けてくれることが改めて有難いと思った。蝶々さんを、日中友好記念オペラ『アイーダ』にも出演したホイ・ヘー、ドミンゴが降板したシャープレスをショスタコーヴィチ『鼻』などで活躍したパウロ・ジョットが歌い、ピンカートンも直前の交代劇でロール・デビューとなるブルース・スレッジが演じた。

「蝶々夫人」はあらゆる意味で「誤解」のオペラだ。作品の価値も演出も膨大な誤解に見舞われて、今でもまだ正当な価値を認められていない。初演からして盛大な野次が飛び、失敗作の烙印を押された。あらゆるオペラの中で好きなものを3つ挙げるとしたら、迷わずトスカ、ボエーム、蝶々さんの3つを選ぶが、スコアの重厚さにおいてトスカに勝るものはないと思いつつ、ライトモティーフの使い方はボエームと蝶々さんこそが超越的だと確信する。蝶々さんには小さくて可愛らしいメロディがいくつも登場するが、それがいつしか大海原のような巨大な音楽に発展する。

 このオペラでは、初演当時(ライブビューイング開始からまもなくして上演された)から文楽の人形が蝶々さんの息子を演じることが話題だったが、人形たちはスズキ登場のシーンから顔を出していて、料理人やその他の使用人たちも人形が演じている。間奏曲では人形のバタフライがバレエダンサーのピンカートンと二人で踊る。
スズキの着物はピンクと黄緑のバーコード模様で、帯も着物と同じ柄という「まちがった」姿。仲人のゴローも雛人形の五人囃子のような衣裳で、着物というものを「西洋人が観た東洋人」の誤解のシンボルとして使っている。日本人の演出家は、鬼の首をとったかのようにスズキに作務衣を着せたりするが、映画監督のミンゲラが衣装を厳密に扱わないわけがない。スズキは後半で振袖のようなデザインの着物を着て出てくる。すべては意図的なのだ。

 ゴローもスズキも神官も西洋人なので、東洋系のホイ・ヘーが孤独な蝶々さんを演じることはヴィジュアル的にも意味があった。底力のある強い声が魅力的な歌手だが、大村博美さんや中嶋彰子さんのバタフライを知っていると演劇的に物足りないと思ってしまう個所もある。それでも、スタミナが要求される過酷な役を果敢に歌い、特に息子役の人形が登場してからの歌には熱がこもっていた。

ピンカートンのスレッジは終始緊張していたが、演技は真剣でピッチもよく、最後まで立派だった。ピンカートンをマフィアのボスみたいに描く演出家もいるが、本当は生真面目な凡人なのだ。人間として経験が足りていない。このオペラを好きになりはじめた頃、蝶々さんが長崎の丘を上って登場する旋律が何よりお気に入りだったが、「あれでもない、これでもない、これよ!」と転調を繰り返すメロディは、その前のピンカートンとシャープレスのやり取りでも相似形が描かれている。「この初めての感情が自分でもよくわからないのだ」という若者の狼狽をプッチーニは調整の定まらない旋律で表現するのだが、それは粋がった風来坊のものでも女たらしのものでもなく、うぶな未熟者の歌なのだ。

 心優しいシャープレスや献身的なスズキ、好色なヤマドリや抜け目ないゴローを含め、『蝶々夫人』には悪役が一人もいない。なのになぜ世界で一番悲惨なオペラなのかというと、それはやはり「誤解」のオペラだからだ。ミンゲラはそれを人形で表現する。「人形のように可愛い…!」と蝶々さんを抱きしめたピンカートンに対して「人形に、心がないとでもお思いか」と問い詰め、日本の文楽のアートをそこに置く。幕間インタビューでは子役の人形を操る3人の人形師が登場し、中腰で操るため腰がやられるのか、休憩ギリギリまでストレッチをしていた。

 初演当時の稽古の映像が見られたのも有難かった。亡くなったマルチェッロ・ジョルダーニがピンカートンを演じている。ミンゲラはこの2年後に54歳で亡くなったが、映像で見ると若々しい情熱に溢れていて、まだまだオペラを作りたかったはずだと思わずにはいられない。アカデミー賞を受賞した『イングリッシュ・ペイシェント』では、戦地で兵士の誰かが一瞬「冷たい手を…」のひとふしを歌う場面がある。戦火とプッチーニは不思議なミスマッチだった。

 指揮のピエール・ジョルジョ・モランディは急遽変更となった歌手を気遣うような指揮で、音楽そのものを牽引していく感じではなく、3幕のスズキ、シャープレス、ピンカートンの三重唱もあっさりとしていて、あまり理念は感じられなかった。管もMETとは思えないような音を時々出していた。このオペラの主役はあくまで演出なのだ。ホイ・ヘーが感情を爆発させるラストでは、彼女が音楽を作り上げていた。「蝶々夫人」の漢字が背景に描かれるラストまで、感動的だった。

 西洋と東洋の溝、人形に心がないという誤解、などと色々挙げてはみるが、一幕のあの巨大な愛の二重唱では、ピンカートンが蝶々さんを人形だなどと思っていたとは信じがたい。紛れもない愛の賛歌で、宇宙的な規模のデュエットだ。このオペラにはいくつもの神秘が隠されている。後から登場するケイトが、善良そうで退屈な女性であることも含め、ミンゲラは「男は本物の愛の瞬間を忘れようとする習性がある」ということを伝えているようだ。これまでの短い人生の中で、いくつもの無念を抱えてきた15歳の女性にとって、愛に身をゆだねることは新しく生まれ変わることだった。そんな核爆発のような想いと一体化して、愛を経験する男性は幸福なのだが、それほど激しい愛をもつ女性を妻にするのは難しい。究極の愛とは、忘却する愛のこと…ミンゲラはそこまで見据えていたと思う。