小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『セビリアの理髪師』

2020-02-11 18:00:13 | オペラ

現在上演中の新国『セビリアの理髪師』の初日(2/6)を観た。ロッシーニ・オペラ・フェスティバルで活躍する歌手たちが出演する文字通りのドリーム・キャスト公演で、ロジーナ脇園彩さん、アルマヴィーヴァ伯爵ルネ・バルベラ、バルトロのパオロ・ボルドーニャ、フィガロのフローリアン・センペイ、ドン・バジリオのマルコ・スポッティらが息ぴったりのアンサンブルを聴かせた。指揮はアントネッロ・アッレマンディ、オーケストラは東響。

 ヨーゼフ・E・ケップリンガー演出の回転するドールハウス(?)のプロダクションは何度か新国で観ているが、毎回面白く、特に今回は役者がよすぎたので最初から最後まで笑いっぱなしだった。オペラグラスを覗くと小道具までおかしい。ロジーナの思春期の女の子の部屋のようなインテリア、ヒトデのような形をした赤いチェア、バルトロの書斎(?)の救急箱みたいなものやスケルトンも笑える。あまりに笑いすぎて「自分は仕事をしているのか? それとも遊んでいるのだろうか?」と自問してしまった。稽古は見学していないが、準備の段階から素晴らしい空気感があったのだろう。それにしてもよく回る装置で、ソリストも合唱も運動神経がよくなければ務まらないと思った。子役のチビッコたちが可愛らしく、この演出では一番小さい子がたくさん演技をしなければならないが、今回もきびきびとよく動いていた。

 脇園彩さんは深くゆったりとした豊かな美声で、細かいアジリタもすべてど真ん中の音程に当てて歌っていた。オーラがイタリア人的で、曖昧さがなく、そこにいるだけで鮮やかな輪郭を見せてくれる。ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルでもこの栄えあるロジーナ役を歌われているが、聴衆を魅了する声で、歌わないときにも体力を温存したりせずエアーボクシングをしたりキックをしたりして「お転婆なロジーナ」を演じていた。ロジーナの後見人バルトロを演じたバリトンのパオロ・ボルドーニャがまた凄い役者で、日本語で便せんの枚数を数えたり、小刻みなギャグを絶妙のタイミングで醸し出したり、月並みではない面白さを連発した。バルトロは見栄えのしない老人役だが、実物のボルドーニャはお腹も出ておらず若々しい美男子で、若い頃のティム・カリー(『ロッキー・ホラー・ショウ』のフランケン博士)を思い出した。全員に尋常でない歌唱力を求めるオペラだが、今やこれくらいの演技力もなければ一流と呼ばれないのかも知れない。フランス人バリトンのセンペイが演じるフィガロも大活躍で、バルベラのアルマヴィーヴァ、スポッティのドン・バジリオも存在感があった。みんな軽々と歌っていて、一幕のぶっ続けの100分間が魔法のように過ぎていった。

ロッシーニは本当に変装が好きな作曲家だな、と思うオペラでもあった。アルマヴィーヴァはバルトロの邸宅に入り込むために酔った兵士(この演出では警官のような扮装)に変身したり、音楽教師ドン・バジリオの弟子になりすましたりするが、この「変身して忍び込む」という行為は、男性が修道女に化ける「オリー伯爵」でも過激な形で繰り返され、面白おかしいだけでなく何か「神業」的なものを感じさせる。ユピテルがダナエの寝室に侵入するため、金色の雨に変身したという神話を思い出すのだ。2013年にボローニャを訪れたとき、ロッシーニ博物館で見たロッシーニのかつらも思い出した。ステッキなどの日用品と共に、部分的に薄毛をかくすタイプの着け毛がさりげなく置いてあり、それはまさにロッシーニの抜け殻のようだった。毎朝、あのカツラをつけて満足気に鏡に微笑みかけていたロッシーニを想像した。

全員が意味のあるような、ないような内容を天才的な歌唱力で歌い、最後は神となって天上に吸い込まれていく…というのは『ランスへの旅』で毎回起こることだが、『セビリアの理髪師』も似た話に思えた。ストーリーの中に教訓的なものが感じられない。説教臭くもなければ、誰かに悲劇的な役割があるわけでもなく、ここまでドライなのは見事だ。『フィガロの結婚』でさえ、伯爵夫人(ロジーナの未来)には一抹の悲哀を感じずにはいられないが、『セビリアの理髪師』にはそういう陰影は感じられない。二幕で後見人のバルトロがいたぶられている間、この役に少しばかり同情してみようかとも思ったが、音楽がそのように出来ていないことに気づいた。非常に人間臭いものを扱っていながら、歌手たちは最終的に「神」になる。三角定規を置いたような装飾音をいくつもいくつも歌い、その結果全員が神話の世界の存在になっていく。あるいは、最初から神が人間に「変装」していたのかも知れない。ギャグの嵐を浴びせかけて神のいたずらを描くとは頭がくらくらする。ロッシーニは本当に人を食った作曲家だ。

アッレマンディの指揮は機知に富み、先日の『ラ・ボエーム』に続いて東響が絶妙で新鮮なサウンドを提供した。涙溢れる『ボエーム』を聴いたのはつい一週間前のことだったが、二作連続でレパートリー作品の有難さを実感した。勇敢でユーモラスな歌手たちの眩しい歌を浴びて、自分の人生はどこか間違っていたのではないかとも思った。「人生で恐れていたことは、実際にはほとんど起こらない。死に際に一番後悔するのは、思うように人生を生きなかったことだ」という誰かの言葉がずっと心にひっかかっていた。しかしそんなことさえも「出来ないことはやりたくないと思って当然だ。思うように生きられなくたって、人生は人生だ」と思う。悲観的な考えそのものが、無駄なのだ。ロッシーニの劇中の歌のタイトルを借りるなら「無駄な用心」だ。陽気な神々の歌に酔い、七色の照明の残像を瞼にチカチカさせながら、笑顔で劇場を後にした。

 

 


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