政治の世界にも、鬼門とでもいうべきところはあるようです。例えば、日本では農水相のポスト。一時期、辞任が相次ぎました。政治資金収支報告書、不正経理、汚染米の処理・・・理由は異なりますが、相次いで辞任に追い込まれました。それ以前にも、何かといわくつきのポストではあったようです。
今年のフランス、特に外務省にとってはチュニジアが、方角が悪いのか、まるで鬼門になっているようです。外相自身のベンアリ前政権との癒着問題、ベンアリ政権の崩壊を見抜けなかったことによる駐チュニジア大使の更迭、そして後任大使の着任早々の失言問題・・・ここ1月半の間にこれだけ続いています。
上記の最後の問題にスポットを当てて、20日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。
16日に着任したばかりの駐チュニジア仏大使、ボリス・ボワイオン(Boris Boillon)は数日来、多くのチュニジア国民の怒りを買っている。原因は着任早々、17日の記者会見で、アリオ=マリ外相(Michèle Alliot-Marie)に関する質問を、こんなくだらない質問には答えられないと言い放ち、席を立ってしまったことだが、あまりの抗議の激しさに、19日夜、自分の態度は居丈高であったと反省していると、テレビの全国放送を通してチュニジア国民に謝罪した。
その弁明より先、19日の昼には数千人のチュニジア人がチュニスにあるフランス大使館の前に集まり、ボワイオン大使の更迭を求めた。大使はベンアリ政権の崩壊後、新たに駐チュニジア大使に任命されたばかりだが、チュニジア国民は“Boris Boillon, dégage”(ボリス・ボワイオン、さっさと失せろ)とベンアリ前大統領へ向けた抗議よりも強い口調で不満を表明した。
大使への抗議にも、ネットが活躍した。18日以降、フェイスブックには次々と怒りのメッセージが書き込まれ、それに対しボワイオン大使も鎮静化を図るべくツイッターで釈明のメッセージを発信した。
一方、パリでは、アリオ=マリ外相が問題の拡大を必死に防いでいる。外務省の報道官も、これは特殊な出来事であり、落ち着いて客観的に見る必要がある。ボワイオン大使はチュニジアですでに多くのジャーナリストや政府高官に会っているが、彼らは新大使への支援を表明し、励ましているのだから、と述べている。
ボワイオン大使は、41歳で前任地はバグダッド(駐イラク大使)。アラビア語に堪能な、中近東のスペシャリストだ。チュニジアのジャスミン革命の際の判断ミスにより詰め腹を切らされたメナ前大使(Pierre Ménat:60歳)の後任として着任している。
・・・と言うことなのですが、前駐チュニジア大使の判断ミスとは、抗議のデモが拡大し、鎮圧のため実弾が使用されている時期にも、ベンアリ政権が崩壊するようなことはないと判断し、その判断に基づきアリオ=マリ外相がクリスマス休暇をチュニジアで過ごした。しかも、ベンアリ大統領に近い実業家からの申し出でプライベート・ジェットを利用し、さらには外相の両親(90代の高齢)も同行し、ビジネスの話をしたと言われ、非難の矢面に立たされることになりました。即、更迭されたようです。
さて、後任のボワイオン大使ですが、駐チュニジア大使の前に、39歳で駐イラク大使になっています。かなり早いような気がしますが、どのような経歴なのでしょうか。
ボリス・ボワイオン、1969年12月9日生まれ。両親は“pieds rouges”(赤い脚)と呼ばれる、独立を果たしたアルジェリアを支援するために移り住んだ左翼の人々の仲間で、父親は英語の教授、母親も教員でした。なお、アルジェリアが植民地だった時代に、ヨーロッパから植民した人々は、“pieds noires”(黒い脚)と呼ばれています。ボリス少年も幼少期をアルジェリアで過ごしています。この経験がアラビア語につながっているのでしょうね。
フランスに戻り、グランゼコールのパリ政治学院(l’Institut d’études politiques de Paris)と国立東洋言語文化研究所(INALCO:l’Institute national des langues et civilisations orientales)を卒業。1998年に外交官に。駐アルジェリア大使補佐官や駐イスラエル公使代理などを務めた後、2007年には当時内務・海外領土相であったニコラ・サルコジの外交顧問に。サルコジ大統領誕生後は、大統領の北アフリカ・中近東担当補佐官に。2007年12月には、リビアのカダフィ大佐のフランス訪問をアレンジ。カダフィ大佐はかつてはテロリストだったかもしれないが、今や自己批判を経てもはやテロリストではない、とカダフィ大佐への支持を表明しています。余談ですが、パリでもカダフィ大佐はテントを設営して、そこに滞在していました。
2009年7月に駐イラク大使に。その指名には、驚きと危惧の声が上がったそうです。実際、イラクは中東に民主主義が根付くかどうかの実験室だとか、いろいろ物議をかもす発言も多くしていたようです。
そして、今回の対応。エリートではありますが、早い出世にはサルコジ大統領の後ろ盾が効いているのではないでしょうか。しかしその後ろ盾が、横柄、居丈高、言いたい放題と取れるような言動に繋がっているのかもしれません。
チュニジアで、エジプトで、リビアで・・・権力者とその一族、および繋がりのある一部の人々が、程度の差はあれ、富を一人占めしてきました。しかし、民主主義の国と言われる欧米でも、権力にある人とのコネクション、つまりコネは強いようです。政治がどうであれ、人間の性として、知己を贔屓するということが息づいているのかもしれませんね。言うまでもなく、日本も例外ではありません。その結果は、吉と出る場合もあれば、凶と出る場合もある。どちらかと言えば後者の方が多いような気もしますが、それはコネのない人間の僻みに過ぎないのかもしれません。
今年のフランス、特に外務省にとってはチュニジアが、方角が悪いのか、まるで鬼門になっているようです。外相自身のベンアリ前政権との癒着問題、ベンアリ政権の崩壊を見抜けなかったことによる駐チュニジア大使の更迭、そして後任大使の着任早々の失言問題・・・ここ1月半の間にこれだけ続いています。
上記の最後の問題にスポットを当てて、20日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。
16日に着任したばかりの駐チュニジア仏大使、ボリス・ボワイオン(Boris Boillon)は数日来、多くのチュニジア国民の怒りを買っている。原因は着任早々、17日の記者会見で、アリオ=マリ外相(Michèle Alliot-Marie)に関する質問を、こんなくだらない質問には答えられないと言い放ち、席を立ってしまったことだが、あまりの抗議の激しさに、19日夜、自分の態度は居丈高であったと反省していると、テレビの全国放送を通してチュニジア国民に謝罪した。
その弁明より先、19日の昼には数千人のチュニジア人がチュニスにあるフランス大使館の前に集まり、ボワイオン大使の更迭を求めた。大使はベンアリ政権の崩壊後、新たに駐チュニジア大使に任命されたばかりだが、チュニジア国民は“Boris Boillon, dégage”(ボリス・ボワイオン、さっさと失せろ)とベンアリ前大統領へ向けた抗議よりも強い口調で不満を表明した。
大使への抗議にも、ネットが活躍した。18日以降、フェイスブックには次々と怒りのメッセージが書き込まれ、それに対しボワイオン大使も鎮静化を図るべくツイッターで釈明のメッセージを発信した。
一方、パリでは、アリオ=マリ外相が問題の拡大を必死に防いでいる。外務省の報道官も、これは特殊な出来事であり、落ち着いて客観的に見る必要がある。ボワイオン大使はチュニジアですでに多くのジャーナリストや政府高官に会っているが、彼らは新大使への支援を表明し、励ましているのだから、と述べている。
ボワイオン大使は、41歳で前任地はバグダッド(駐イラク大使)。アラビア語に堪能な、中近東のスペシャリストだ。チュニジアのジャスミン革命の際の判断ミスにより詰め腹を切らされたメナ前大使(Pierre Ménat:60歳)の後任として着任している。
・・・と言うことなのですが、前駐チュニジア大使の判断ミスとは、抗議のデモが拡大し、鎮圧のため実弾が使用されている時期にも、ベンアリ政権が崩壊するようなことはないと判断し、その判断に基づきアリオ=マリ外相がクリスマス休暇をチュニジアで過ごした。しかも、ベンアリ大統領に近い実業家からの申し出でプライベート・ジェットを利用し、さらには外相の両親(90代の高齢)も同行し、ビジネスの話をしたと言われ、非難の矢面に立たされることになりました。即、更迭されたようです。
さて、後任のボワイオン大使ですが、駐チュニジア大使の前に、39歳で駐イラク大使になっています。かなり早いような気がしますが、どのような経歴なのでしょうか。
ボリス・ボワイオン、1969年12月9日生まれ。両親は“pieds rouges”(赤い脚)と呼ばれる、独立を果たしたアルジェリアを支援するために移り住んだ左翼の人々の仲間で、父親は英語の教授、母親も教員でした。なお、アルジェリアが植民地だった時代に、ヨーロッパから植民した人々は、“pieds noires”(黒い脚)と呼ばれています。ボリス少年も幼少期をアルジェリアで過ごしています。この経験がアラビア語につながっているのでしょうね。
フランスに戻り、グランゼコールのパリ政治学院(l’Institut d’études politiques de Paris)と国立東洋言語文化研究所(INALCO:l’Institute national des langues et civilisations orientales)を卒業。1998年に外交官に。駐アルジェリア大使補佐官や駐イスラエル公使代理などを務めた後、2007年には当時内務・海外領土相であったニコラ・サルコジの外交顧問に。サルコジ大統領誕生後は、大統領の北アフリカ・中近東担当補佐官に。2007年12月には、リビアのカダフィ大佐のフランス訪問をアレンジ。カダフィ大佐はかつてはテロリストだったかもしれないが、今や自己批判を経てもはやテロリストではない、とカダフィ大佐への支持を表明しています。余談ですが、パリでもカダフィ大佐はテントを設営して、そこに滞在していました。
2009年7月に駐イラク大使に。その指名には、驚きと危惧の声が上がったそうです。実際、イラクは中東に民主主義が根付くかどうかの実験室だとか、いろいろ物議をかもす発言も多くしていたようです。
そして、今回の対応。エリートではありますが、早い出世にはサルコジ大統領の後ろ盾が効いているのではないでしょうか。しかしその後ろ盾が、横柄、居丈高、言いたい放題と取れるような言動に繋がっているのかもしれません。
チュニジアで、エジプトで、リビアで・・・権力者とその一族、および繋がりのある一部の人々が、程度の差はあれ、富を一人占めしてきました。しかし、民主主義の国と言われる欧米でも、権力にある人とのコネクション、つまりコネは強いようです。政治がどうであれ、人間の性として、知己を贔屓するということが息づいているのかもしれませんね。言うまでもなく、日本も例外ではありません。その結果は、吉と出る場合もあれば、凶と出る場合もある。どちらかと言えば後者の方が多いような気もしますが、それはコネのない人間の僻みに過ぎないのかもしれません。