ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

強制収容所の元看守、91歳。それでも、人は追い詰める。

2011-05-24 22:14:04 | 社会
言ったり、やったりした方は、すぐ忘れても、言われたり、やられた方は、けっして忘れない。日常のちょっとした事柄にも言えますが、それが民族の大殺戮ともなれば、そう簡単に時の彼方に追いやることなどできません。決して歴史の波間に消え去ることはありません。

ショアー(Shoah:ホロコースト)もその一つ。ナチの戦争犯罪人を執拗に追及するユダヤ人たち。例えば、ナチ・ハンターと呼ばれたサイモン・ヴィーゼンタール。彼の名を冠したユダヤ系人権団体、「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」がロサンゼルスにあり、さまざまな活動を行っています。その報告書によると、

「現在も世界各地に住むナチス関係者の追及は続いており、2009年4月~10年3月に世界各国で実施された捜査は852件。このうちドイツ当局は08~09年の約6倍にあたる177件を捜査した。」(毎日新聞:5月13日)

ということですが、戦後も65年以上。逃げおおせた犯罪者たちも、かなりの高齢。すでにこの世を去っている場合が多いのではないでしょうか。そうした中、最後の戦争裁判のひとつと言われる裁判の判決が、先日、ミュンヘンで行われました。

ヴィシー政権下、多くのユダヤ人を国内の収容所に隔離したり、アウシュヴィッツへ送ったりした記憶をもつフランス。その裁判結果について、12日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

12日午後0時半、ジョン・デムヤンユク(John Demjanjuk)は禁固5年の判決を言い渡されたが、判決文の陳述が終えた3時半には拘束されることなく裁判所を後にした。この日、ミュンヘンの重罪裁判所は、18か月に及ぶ裁判の後、2時間の最終討議を経て、数十ページの調書に基づき、非常に難しい判決を下すことになった。

ジョン・デムヤンユクは、ウクライナ出身の赤軍兵士だったが、1942年にドイツ軍の捕虜となった。その翌年、ポーランドのソビブル(Sobibor)にあるナチの強制収容所で看守となっていたが、そこで28,060人のユダヤ人が殺害された。現在91歳のジョン・デムヤンユクは、その共犯として有罪宣告を受けたのだった。

しかし、裁判所は、ジョン・デムヤンユクの高齢、無国籍(1952年からアメリカに住んでいましたが、今ではその国籍を剥奪されています)を考慮すれば、ドイツ国外に逃亡する恐れはないだろうと判断して釈放した。ジョン・デムヤンユクはすでに2年間、ミュンヘンの医療刑務所に収容されているが、判決に従い再び刑務所に収監されるべきかどうかを、今後、司法当局が判断することになる。その決定までは、数カ月、あるいは1年以上かかるかもしれない。「判断が出る頃には92歳で、その年齢を考えれば、今更刑務所に収監するという判断がなされる可能性は低い。しかも、すでに5年という刑期の半分近くを終えているのだから」と、歴史家でバイエルン州の公共ラジオ局のコメンテーターも務めているライナー・フォルク(Rainer Volk)は語っている。

強制収容所送りになり、ソビブルで殺されたユダヤ人の子どもやその家族、30人ほどのオランダ人が今回の原告団なのだが、彼らは判決に満足し、明らかに感動した面持ちで裁判所から出てきた。「私たちにとって満足のいく判決だった。大切なことは、彼が有罪となったことだ」と、二人の肉親を1943年に収容所で失ったダヴィッド・ファン・ユイデン(David van Huiden)は静かに語った。ジョン・デムヤンユクの公判を最初に担当した裁判官のトマス・ワルター(Thomas Walther)は、「2008年にこの公判に取り組み始めた時には、裁判所が2年以上の禁固刑を彼に科すことになるとは想像もできなかった」と述べている。

いつものように、ジョン・デムヤンユクは平然としていた。公判の場でもベッドに横たわり、青いハンチングを頭に載せ、白い毛布を被っていた。判決の前に何か言いたいことがあるか尋ねられた際に、ウクライナ語で「いいえ」と答えただけだった。15年の禁固刑になる可能性もあったが、検察が求刑したのは6年の禁固刑で、弁護側はもちろん無罪を主張した。法廷を後にする際、カメラのフラッシュの中で、ジョン・デムヤンユクは始めて静かにサングラスを外した。有罪とはいえ釈放となった人間の、あたかも最後の虚勢であるかのように。

・・・ということで、「時間との戦い」となっているナチの戦争犯罪者追跡。今回のジョン・デムヤンユクの件は、ナチスの戦争犯罪を調査するドイツの団体 “Fahndungsstelle fuer NS-Verbrechen”がその追跡調査を担当したそうです。

戦争犯罪、決して風化させたくはありません。最後の一人になるまで追跡することはもちろんですが、その過去を後世に伝えて行くことも大切です。「負の世界遺産」に認定されているアウシュヴィッツの収容所跡、パリ4区にある“Mémorial de la Shoah”(ショア記念館)をはじめ、各地に多くの施設があります。

しかし、ホロコーストはなかったという意見も出てきます。あってほしいと願うことが幻として見えることがあるように、あってほしくないと念じると見えるものも見えなくなってしまうのでしょうか。大切なのは、真実を知り、そこから目をそむけないこと。真実から逃げず、しっかり受け止めることなのだと思います。簡単ではないですが、そうしたいと思います。そして、この真実を直視することは、私たちにとっても、決して他人事ではないのだと思います。

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