ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

パリ、1962年2月8日。誰が、9人を殺したのか。

2012-02-09 21:30:15 | 社会
1962年2月8日、その時、あなたは・・・ま~だ、生まれてな~い! という方が多いのではないかと思いますが、中には、よちよち歩きだったとか、小学校生だった、あるいは中学でクラブに熱中していたとか、そうした記憶をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんね。

かく言う私は、小学校入学を直前に控えた、病弱な幼稚園児でした。病弱と言っても、風邪をひきやすいとか、すぐ熱を出すとか、お腹をこわすとか、そういった程度でしたが。それから50年。半世紀ですね。もう歴史の一部なのかもしれませんが、決して風化させてはいけない事柄もあります。

あの日に殺された9人を忘れてはいけないと、50周年に当たる2月8日にデモ行進を行ったのは、フランスの労働組合。そこには、左派の政治家も加わりました。

9人は、なぜ、誰によって、どのように、殺されたのでしょうか・・・8日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

平和裏に行われたデモをパリ警視庁が暴力で排除してから50年、この2月8日に労組・CGTは(Confédération générale du travail:1895年に設立されたフランスの主要労組、組合員数70万人、委員長はメディアによく登場するBernard Thibault)、メトロの「シャロン」駅(Charonne:9号線、Nationの近く)で警棒によって命を落とした9人の組合員を偲んでデモ行進を行った。

OAS(Organisation de l’armée secrète:反独立、特にアルジェリアの独立に反対するナショナリスト団体)によってパリで行われた新たな一連の攻撃の翌日、すなわち1962年2月8日、労組のCGT、CFTC(Confédération française des travailleurs chrétiens)、FEN(Fédération de l’éducation nationale)、SNI(Syndicat national des instituteurs)、UNEF(Union nationale des étudiants de France)は合同で反ファシズムとアルジェリアの平和を願うデモを組織した。しかし、パリには非常事態宣言(état durgence)が出されることとなった。

時の政府はデモを禁止した。「デモが禁止されていることはよく知っていたが、いつものように殴られる程度だろうという気持ちでみんな参加した。まさか殺されるとは考えてもいなかった」と、当時、高校生だった社会学者のマリーズ・トゥリピエ(Maryse Tripier)は事件を振り返っている。

大急ぎで組織されたそのデモは、いくつかの行進に分かれて進行したが、合計で2万人から3万人が参加した。そのうちのいくつかの行進はナシオン広場(place de la Nation)へと向かうヴォルテール大通り(boulevard Voltaire)で合流した。しかし、目的地のナシオン広場は、バリケードでブロックされていた。夜の帳が落ち始めた頃、労組側はデモの終結を発表した。参加者たちが解散を始めたその時、メトロのシャロン駅の近くで、警察が群衆に襲いかかった。

警棒を振り回し、メトロ駅の換気扇の蓋や街路樹の柵を投げつけてきた警察によって、駅へ降りる階段へ、出口へと殺到したデモ参加者たちは、折り重なるように押しつぶされた。その中で、女性3人を含む9人が死亡した。負傷者も多数出た。

警察に命令を出したのは、誰だったのか。時の大統領、ド・ゴール将軍(général Charles de Gaulle:大統領在職は1959-1969)なのか、首相のミシェル・ドゥブレ(Michel Debré:首相在任は1959-1962、その後財務相、外相、国防相を歴任)なのか、あるいは内相のロジェ・フレイ(Roger Frey:内相在任は1961-1967)か、それともパリ警視総監のモーリス・パポン(Maurice Papon:予算相だった1981年、ナチス占領下、ジロンド県でユダヤ人を強制収容所送りしたことが暴露され、1983年に人道に対する罪で起訴、1998年に有罪の判決を受ける。いわゆる、パポン事件・l’affaire Papon)だったのか。いまだ解明されていない。いずれにせよ、時の権力は、挑発と見做される行為に屈したくはなかったのだ。

歴史家のアラン・ドゥヴェルプ(Alain Dewerpe)は、2006年に自ら著した“Charonne, 8 février 1962, Anthropologie d’un massacre d’Etat”(シャロン、1962年2月8日、国家による虐殺にみる人類学)のタイトルにある「国家による虐殺」(massacre d’Etat)について、学際的季刊誌“Vacarme”(『ヴァカルム』)とのインタビューで、「内戦一歩手前の状況で起きたのだ」と語っている。FLNが(Front de libération nationale:民族解放戦線、アルジェリアの独立を求めて戦った政党で、現在の党首は、ブーテフリカ大統領・Abdelaziz Bouteflika)警察に対して行った活動で死者が出、一方、OAS(前出)によるテロが連続するという状況下、「政権側は共産党が力を誇示することには大きな関心を払わなかった」と、歴史家のオリヴィエ・ル=クール=グランメゾン(Olivier Le Cour Grandmason)は分析している。そして、こうした対応は完全な失敗となる。1962年2月13日、犠牲者たちの葬儀に、数十万人が参列したのだ。

それから50年後、労組・CGTは、フランス共産党書記長のピエール・ローラン(Pierre Laurent)、パリ市長のベルトラン・ドラノエ(Bertrand Delanoë:社会党)の参加も得て、長年国家が無視してきたこの歴史的事件を風化させないために、悲劇の舞台となったシャロン駅でデモ行使を行った。

・・・ということで、荒れる60年代の一端を垣間見ることになりました。フランスは内戦一歩手前の状況。パポン警視総監のもと、言ってみれば「弾圧」が繰り返され、68年には「五月革命」が。

その時、日本では・・・60年安保でデモ参加者側に死者が出、岸首相が重傷を負い、浅沼社会党委員長が暗殺されました。70年安保では、新左翼が台頭。東大紛争で、1968年度の東大入試が中止になりました。

しかし、その一方で、『鉄腕アトム』、東海道新幹線、東京オリンピック、霞が関ビル、川端康成のノーベル文学賞受賞、そして高度成長。ビートルズの来日、ミニスカートの流行もありました。荒れることもありましたが、明日が見えていました。明日は、今日より豊かになる・・・

そんな時代がありました。もう、半世紀も昔のこと。両手に掬った砂が落ちていくように、記憶の中から消え去っていくものも多いのですが、それでも、忘れていけないことはある。風化させてはいけないことがある。

はたして、語り継ぐべき相手は、いるのか。語り継ぐ勇気はあるのか。かく言う、お前はどうなのか・・・い~え、世間に負けた。唇に浮かぶのが、『昭和枯れすすき』だけでは、哀しいものがあります。

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