ジャスミン革命の舞台、チュニジア。デモ弾圧のために実弾が使用されている最中、時のベンアリ政権からの便宜提供を受けながらクリスマス休暇を過ごしたことで、非難の集中攻撃を受けていたアリオ=マリ外相(Michèle Alliot-Marie)。ついに2月27日、辞任に追い込まれました。
1946年生まれで、現在64歳。弁護士資格を持ち、政治家としては生粋のド・ゴール主義者。現与党・UMP(国民運動連合)の前身であるRPR(Rassemblement pour la République:共和国連合)の党首を1999年から2002年にかけて務めました。閣僚としても、1993年から95年に青少年・スポーツ担当相、そして2002年以降は女性初の国防相(2002~07)を皮切りに、内相(07~09)、法相(09~10)、そして外相(10~11)と重要閣僚を9年にわたって連続して務めてきました。外交・国防、内務、司法、財務が主要4分野と言われますから、そのほとんどを、今回辞任に追い込まれた件を除いて、大過なくこなしてきたわけで、政治家としては実に立派なキャリアです。
その政治家としての華やかなキャリアにピリオドを打つのではないかと思われる辞任。マスコミや世論の非難に抗することができず、半ばサルコジ大統領による更迭ともみられていますが、一応、アリオ=マリ外相から辞表を提出したそうです。その辞表が、2月27日の『ル・モンド』(電子版)に掲載されました。何を語っているのでしょうか。
日曜日である2月27日の午後早く、外相を辞任する旨をしたためた辞表(la lettre de démission)をミシェル・アリオ=マリは自らサルコジ大統領に手渡した。それが下記の文面だ。
共和国大統領閣下、そして親愛なるニコラ、9年来、まずはシラク大統領が、続いてあなたが私に委ねてくれた主要閣僚としての任務を誇りと喜びをもって遂行し、私たちの祖国に奉仕してきました。
それは名誉であり、同時に果たすべき責任です。
任務遂行に当たってはもちろん、個人としての振る舞いにおいても、合法かどうかだけでなく、威厳、モラル、誠実さが保たれているかどうかを自らに問いながら、託された名誉、責任を全うしようと努めてきました。
しかしここ数週間、私は政界からの、そしてメディアからの真実に反する、揣摩憶測の範囲を出ない嫌疑により、批判の矢面に立たされてきました。真実を明かすべく、批判や質問に一つ一つ答えてきました。
ところがここ数日、私の落ち度が明らかにならないことが分かるや、私の家族のプライバシーまでが一部のメディアによって追及され始めました。
こうした私を追求する、言ってみれば一つのキャンペーンも、諸外国との関係やあなたが私に託してくれた使命を完遂しようとする私の意思を妨げるものではありません。現に、最近ではブラジル、昨日は湾岸諸国がそのことを証明してくれました。しかしながら、一部の人が、フランス外交の弱体化を信じさせるためにこうした陰謀を行うことは断じて受け入れられるものではありません。
私は、私たちの国のために全身全霊を傾け、献身的に働く外務省職員のことを思うがゆえに、権謀まみれの工作が彼らの仕事に影響を及ぼしてしまうことを受け入れることはできません。
私は、フランスのために尽くす政治に対して高い価値を見出すがゆえに、こうした工作の口実として政治家たる私が利用されることを受け入れることはできません。
私は、あなたへの忠誠と友情を強く持つがゆえに、どのようなことであれ、あなたの国際的な活動が私をめぐる工作によって影響されることを受け入れることはできません。
それゆえ、いかなる違反行為も行っていないと確信するものの、私は外相としての職を辞することと致しました。
そこで、私の辞任を受け入れていただけるよう願い出る次第です。
共和国大統領閣下、どうか私の熟慮の結果をお認めくださいますように。忠実なる友情を込めて。
・・・という文面だったようです。冒頭の「親愛なるニコラ」(cher Nicolas)と最後の「忠実なる友情を込めて」(Avec ma fidèle amitié)は手書きだったそうです。その思いが真実であることを強調したかったのでしょうね。
こうした文面、日本ではどう取られるでしょうか。言い訳がましい。潔くない・・・そうかもしれませんが、それは日本ならではの価値観、あるいは感情なのかもしれません。あくまで自分は正しいと主張することが、西欧では当たり前なのではないかと思います。
限られた経験ですが、例えばソルボンヌ文明講座でも、誤った答えを教師に訂正されると、実は今先生が言ったように言いたかったのだ、と言い足す生徒がいました。彼らは決まってヨーロッパ出身でした。
どこまでも強い自己主張。謙譲とか謙遜の美徳とは、相入れないようです。ただし、主張の仕方やこだわる部分は異なるものの、自己主張は多くの国で行われているのではないでしょうか。引き下がることを美徳とする国の方が少ないのではないかと思います。日本の中では、謙遜は美徳ですから、そのまま保ち続けたい。しかし、一歩外に出れば、そこは程度の差はあれ、自己主張の世界。いかに論理的に自己の意見を言い張るか。そのためには、鍛錬が必要なのでしょう。一言で「国際化」と言いますが、やるべきことは多く、決して容易ではない。当たり前のことですが、改めてそう思います。
そして、自己主張の延長線上ですが、辞表も自分の書き方で、自分の言いたいことを述べている。決して書式に倣っただけではない。前例主義ではない。裃を着てはいない。あくまでも自分。どこまでも個性を大切にしているのでしょうね。個性か、前例・型か。これまた大きな違いなのではないでしょうか。差異は実に多い。
1946年生まれで、現在64歳。弁護士資格を持ち、政治家としては生粋のド・ゴール主義者。現与党・UMP(国民運動連合)の前身であるRPR(Rassemblement pour la République:共和国連合)の党首を1999年から2002年にかけて務めました。閣僚としても、1993年から95年に青少年・スポーツ担当相、そして2002年以降は女性初の国防相(2002~07)を皮切りに、内相(07~09)、法相(09~10)、そして外相(10~11)と重要閣僚を9年にわたって連続して務めてきました。外交・国防、内務、司法、財務が主要4分野と言われますから、そのほとんどを、今回辞任に追い込まれた件を除いて、大過なくこなしてきたわけで、政治家としては実に立派なキャリアです。
その政治家としての華やかなキャリアにピリオドを打つのではないかと思われる辞任。マスコミや世論の非難に抗することができず、半ばサルコジ大統領による更迭ともみられていますが、一応、アリオ=マリ外相から辞表を提出したそうです。その辞表が、2月27日の『ル・モンド』(電子版)に掲載されました。何を語っているのでしょうか。
日曜日である2月27日の午後早く、外相を辞任する旨をしたためた辞表(la lettre de démission)をミシェル・アリオ=マリは自らサルコジ大統領に手渡した。それが下記の文面だ。
共和国大統領閣下、そして親愛なるニコラ、9年来、まずはシラク大統領が、続いてあなたが私に委ねてくれた主要閣僚としての任務を誇りと喜びをもって遂行し、私たちの祖国に奉仕してきました。
それは名誉であり、同時に果たすべき責任です。
任務遂行に当たってはもちろん、個人としての振る舞いにおいても、合法かどうかだけでなく、威厳、モラル、誠実さが保たれているかどうかを自らに問いながら、託された名誉、責任を全うしようと努めてきました。
しかしここ数週間、私は政界からの、そしてメディアからの真実に反する、揣摩憶測の範囲を出ない嫌疑により、批判の矢面に立たされてきました。真実を明かすべく、批判や質問に一つ一つ答えてきました。
ところがここ数日、私の落ち度が明らかにならないことが分かるや、私の家族のプライバシーまでが一部のメディアによって追及され始めました。
こうした私を追求する、言ってみれば一つのキャンペーンも、諸外国との関係やあなたが私に託してくれた使命を完遂しようとする私の意思を妨げるものではありません。現に、最近ではブラジル、昨日は湾岸諸国がそのことを証明してくれました。しかしながら、一部の人が、フランス外交の弱体化を信じさせるためにこうした陰謀を行うことは断じて受け入れられるものではありません。
私は、私たちの国のために全身全霊を傾け、献身的に働く外務省職員のことを思うがゆえに、権謀まみれの工作が彼らの仕事に影響を及ぼしてしまうことを受け入れることはできません。
私は、フランスのために尽くす政治に対して高い価値を見出すがゆえに、こうした工作の口実として政治家たる私が利用されることを受け入れることはできません。
私は、あなたへの忠誠と友情を強く持つがゆえに、どのようなことであれ、あなたの国際的な活動が私をめぐる工作によって影響されることを受け入れることはできません。
それゆえ、いかなる違反行為も行っていないと確信するものの、私は外相としての職を辞することと致しました。
そこで、私の辞任を受け入れていただけるよう願い出る次第です。
共和国大統領閣下、どうか私の熟慮の結果をお認めくださいますように。忠実なる友情を込めて。
・・・という文面だったようです。冒頭の「親愛なるニコラ」(cher Nicolas)と最後の「忠実なる友情を込めて」(Avec ma fidèle amitié)は手書きだったそうです。その思いが真実であることを強調したかったのでしょうね。
こうした文面、日本ではどう取られるでしょうか。言い訳がましい。潔くない・・・そうかもしれませんが、それは日本ならではの価値観、あるいは感情なのかもしれません。あくまで自分は正しいと主張することが、西欧では当たり前なのではないかと思います。
限られた経験ですが、例えばソルボンヌ文明講座でも、誤った答えを教師に訂正されると、実は今先生が言ったように言いたかったのだ、と言い足す生徒がいました。彼らは決まってヨーロッパ出身でした。
どこまでも強い自己主張。謙譲とか謙遜の美徳とは、相入れないようです。ただし、主張の仕方やこだわる部分は異なるものの、自己主張は多くの国で行われているのではないでしょうか。引き下がることを美徳とする国の方が少ないのではないかと思います。日本の中では、謙遜は美徳ですから、そのまま保ち続けたい。しかし、一歩外に出れば、そこは程度の差はあれ、自己主張の世界。いかに論理的に自己の意見を言い張るか。そのためには、鍛錬が必要なのでしょう。一言で「国際化」と言いますが、やるべきことは多く、決して容易ではない。当たり前のことですが、改めてそう思います。
そして、自己主張の延長線上ですが、辞表も自分の書き方で、自分の言いたいことを述べている。決して書式に倣っただけではない。前例主義ではない。裃を着てはいない。あくまでも自分。どこまでも個性を大切にしているのでしょうね。個性か、前例・型か。これまた大きな違いなのではないでしょうか。差異は実に多い。