緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

市議会傍聴して現地確認へ

2010年09月15日 18時25分27秒 | 都城市政
9月15日(水)  

 午後から曇り空となり、まるで季節の移ろいを告げるかのような静かな雨が降り始めました。見渡しますと入道雲もすっかり遠のき何の変哲もない雨雲が広がっております。秋の足音とは今日の雨降りみたいに気づきました時には周囲は秋の香りに包まれております。柿の実も段々熟して来ますし、昨日は山の栗が届けられて小粒ながら鍋で湯がかれて食卓を飾っております。やや水気はありますが初物の味がします。


庭の紫式部

一昨日午後に城市議会を傍聴しまして、三人目つまり最後の一般質問者が西川洋史氏でした。市議の質問事項は二つあり、まず「中心市街地の活性化対策について」と「サブシティ構想の健康医療ゾーン計画について」です。関心を引きましたのは城市街地形成についてであります。城島津家が今の市役所に位置する場所に館を築きましたのが、戦国の世が終わり世の中が安定した西暦一千六百十五年、城島津家の館と伴に築かれた商人町が西町であったり、平江町や中町の唐人町であったりと、何故に複数あるかと申しますと商人町が移住者により形成されたからと見ます。西町は豊後方面からの移住者であり、明人の開いたのが中町で往時の町名が唐人町でしょうか。

そもそも城盆地の商人町の発生は、大隅半島内之浦に本国の難を逃れて大陸よりたどり着いた明人、中国の戦乱が人々をポートピープルとして本国を脱出させました。彼らが内之浦から北郷家領土に移住を命ぜられたのは、かって内之浦が短い期間ながらも城の飛地であったのも何か関係しているかもです。この辺は素人のアテズッポウもあります。最初は庄内秋永の地に移住させたと説明されます。やがて明人の商才を買われて領主館近くで商人町を繁盛させるようになったと続きます。つまり行政と商人町が一体となり往時の賑わいを支えたと説明されます。

商人町が移動した原因の一つは大淀川を含む盆地河川の洪水もあったと筆者は想像します。町の賑わいは往時から動いていました。繰り返しますが理由は河川の氾濫に原因すると見ました。当時は城盆地の地下水の水位も高くて河川の水辺は芦原が広がっていたと想像します。長年の開墾が続いて城盆地全体に農耕地つまり田圃と畑が広がって行きました。盆地の比較的に水はけの良い高台、今の都城市役所界隈が中心地となり周囲を商人町が西と北に連なって行きました。それを囲むようにして湿地の開墾が広がり農地が連なったのがこの五~六百年の大まかな歴史と見ます。取り留めが無くなって行きそうですが、続きを書きます。

都城市が今月二日に市議会全員協議会で発表しました「城地域健康医療ゾーン整備基本構想・基本計画の方針及び概要」で示された医師会病院計画地を視察しました。城ICから西へ約二~三キロ離れていますでしょうか。金田町と太郎坊町の間に位置します大型ほ場整備地の中にあります。海抜一三七mの低地にあります。かって大淀川に轟木ダムが存在した頃に洪水が盆地を襲い、現地は水没した広瀬集落ぎりぎりの隣接地です。現市役所より距離で九キロは離れた場所であり、ここに総事業費七一億二千万円を掛けて平成二六年度には開院すると計画書にあります。

原稿用紙三枚ほどの文字数に納める話しでなくなったようですが、だいぶん端折った話しになりますが、どういう訳で人間の健康を守る医療施設を盆地の低地に、そして周囲を農地に囲まれた地に建設するとは!西岳地区の集中豪雨も一般質問で質疑がなされておりましたが、現医師会病院を北部へ移転するのであれば、西川洋史議員が前回提案した城IC近くにある工業団地空地四ヘクタールを予定地とする案を、城市民は大いに比較するべきであり現地見学もすべきです。

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