緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

火山の恵み

2020年05月28日 13時24分31秒 | 民俗芸能
火山の恵み

雷雨が火山爆発を冷やし
やがて火山口に湖が出現
湖水は麓の湧き水となる
人は川魚を糧として生きる
Blessing of the volcano
Thunderstorm cools the volcanic explosion
A lake appears on a volcano after a long year
Lake water becomes spring water at the foot
After many years, people feed on river fish and live
https://www.photolibrary.jp/search/?p=%CC%B8%C5%E7%CF%A2%BB%B3














下長飯のジャンカン馬踊り

2015年03月09日 14時52分40秒 | 民俗芸能

3月9日(月)  下長飯のジャンカン馬踊り


2015年3月8日(日)9時30分より

恒例の鹿児島神宮初午祭が開催されました

都城市下長飯のジャンカン馬踊りも参加し

賑やかな人馬の郷土芸能が披露されました

今年の参加チームは市内及び近郷二一団体

室町時代より続く春の到来を告げる祭りです。

動画:http://youtu.be/sjflRmU4VvI


下長飯(しもながえ)のジャンカン馬踊り

2014年02月24日 18時12分56秒 | 民俗芸能

2月24日(月)  下長飯(しもながえ)のジャンカン馬踊り


花の母智丘(もちお)で ジャンカン馬 はずむ
にせ(青年)も おごじょ(娘)も コラ 出ておどれ

あねさん かたろや 小松の下で
松葉のごと コラ こまやかに

恋しい 小川で アユつる ちごは
アユは つらずに コラ コイをつる

泣くな スズムシ 声ふるわせて
ここは 道ばた コラ 人がしる

おまや なんと言うた はじめの晩は
つらい 別れは コラ せんと言うた

桜島より こちふく風は
好いた主さんの コラ においする  (歌詞集:内村弘子様提供)

 

動画:下長飯ジャンカン馬踊り







祭りの写真を編集して

2012年11月28日 17時28分37秒 | 民俗芸能
11月28日(水) 


 今年も、何となく慌ただしさが増す、師走がもうすぐやってきます。午前中に一時間ほど市内視察と銘打って、徒歩で巡回に出掛けました。人通りが少ないことと、高齢者を自分も含めてですが、数多く目にします。昔お会いした方が、年齢を刻まれた顔して、すれ違って行きます。街の雰囲気が穏やかと言えばその通りで、活気が少ないと言えばそれもその通り、一時間も巡回しますと、あらかた街の表情を掴んでしまいます。水辺の鴨がゆっくりと羽根を休めているのが象徴的です。

 静かに、そして確実に、街が沈み込んでいくのが見て取れます。昭和四〇年代頃から市街地膨張が登り坂であったのが、一九九〇年頃を頂点にして、その後の市街地膨張に緩やかなブレーキがかかり始めて、今日に至っております。既存住宅に空家が目立つようになったのはいつの頃か?そこまでならまだしも、古い家屋が撤去され始めて、今では空地が目立つようになりました。人口の空洞化のみならず、土地の空洞化も目立つようになります。都市が虫食い状態になっています。街の形態が緩やかな変化の段階に入り込んでいるのでしょうか。

 本日は気温も低くて、摂氏十度あたりか、一時間歩いても汗一滴も出ません。自分で自分を高齢社会という輪で縛りこむ事なく、日々を生き生きと生活するには、心身の健康管理に努める他に術なしです。そんな思いを抱いて、昼時間に曽於市住吉神社の流鏑馬写真を整理してみました。祭りの中で、日向市のひょっとこ踊りが披露される場面が有りましたが、こうして離れて撮影してみますと、故郷の香りが漂っています。この雰囲気は、背景が秋の色にくるまれているだけに、タイムスリップする気分に襲われます。田舎暮らしにはピッタリと心情が当てはまり、素人写真が短編動画にも見えて来ます。御酒なしでも恍惚となる場面であります。


鹿児島県曽於市末吉町住吉神社境内








山頂の姥石




飫肥城で眺めた泰平踊り

2012年10月15日 18時40分40秒 | 民俗芸能
10月15日(月) 


宮崎県日南市飫肥10丁目1-2 飫肥城跡

 秋の陽を稲穂に取り込もうとして、ギリギリまで稲刈りを控えている田圃が黄金色に染まっているサマは何とも絵になると言いますか、となりの田圃では稲刈りが始まっており、慌ただしさと天高く馬こゆる秋が混ざり込んでいます。収穫の後は祭りが控えており、飫肥城下祭りの下検分に義妹と姪っ子と愚妻を伴って、昨日は日南市へと国道二二二号線を山越えしました。

 来週の土日二日間、祭りは飫肥地区の国道二二二号線を封鎖して開催されます。メインイベントは日曜日正午に始まります踊り行列で参加者が二千人でしたっけ!伝統豊かな祭りです。飫肥城を中心にして豫章館(よしょうかん)と庭園、小村記念館、歴史資料館、旧山本家などを散策しますと、すっかり観光客気分になります。油津港には豪華客船パシフィック・グレイス号も着岸しており、客船の観光客もかなりな数になっております。

 お城の近くには飫肥服部邸もあり、ランチタイムの格好の場所でもあります。午後二時には飫肥城内で泰平踊りも披露されて見物客も結構な人数を数えます。季節も良くて観光気分にひたり、気づいて見ますと飫肥はすっかり昔の雰囲気を伝えた街に様変わりしております。ここまで来るには様々な下支えと住民意識の盛り上がりがあった事が予想されます。何とも悠長な泰平踊りをカメラに納めましたので、ご披露します。


http://www.youtube.com/watch?v=DSBStwIAHiQ&feature=youtu.be
泰平踊りの動画















http://www.youtube.com/watch?v=PKQlnbjoHPw&feature=youtu.be
泰平踊りの動画

祭りの始まり

2011年08月24日 17時28分02秒 | 民俗芸能
8月24日(水) 

 どうやら九月は奄美の八月踊り見物へ気持ちが傾いて来て仕事が片手間になります。八月踊りは大隅半島にも存在して数カ所を祭り見物した記憶があります。地元の民俗芸能へ関心が向くには何かの切っ掛けも必要です。宮崎県と鹿児島県という行政の境目が意外にも壁になっていた時期がありました。年頃や時代や環境で民俗芸能と言う誰でも目にしそうな光景が見えなかったりします。


佐仁の八月踊り、チジンを先頭に各屋敷を訪問して庭先で踊りと唄が繰り広げられます(撮影:2007.9.19)


祭りの本質は何で有ろうと考えますが、奄美市笠利町佐仁の八月踊りを写真で眺めますと、踊り連の皆さん、女性は和服であったりしてそれなりハレの装いをされています。祭りに装いで華やかさを求めるのは何処でも同じ。日本の祭りをテレビで眺める機会が有りましたが、昨夜は土佐のよさこい祭りが放映されて、参加する若者の多さと華やかな衣装の数々、大胆な踊りの振り付け、華やいだ顔と顔、テレビ画面から放射される熱気とは言え平成の祭り本場にいる気分になりました。


最初に出会った方々も高齢化の波が近づいてきて

昨夜放映された祭りの舞台は高知市でしたが、奏でる音楽も多国籍みたいな部分も有り、祭りの場面に若者の姿が次々と現れて驚くやら嬉しいやらでした。日常において活気がなければ人も国も前へは進みませんし、何事も次世代へ引き継ぎが肝心です。つい説教調になりがちですが、祭りには人の未来へかける願いが込められていると思います。何かしら午後の眠たい時間でも祭りに想いを馳せますと、何となく明るさが眠気の中から起き上がってきそうです。


だんだん夜が更けるとチジンの音もよく響いてきます

本日、本業の不動産物件調査で出向いた先の住宅地は空地が減り住宅の軒が並ぶようになりましたが、宅地造成が始まって二〇年は経過したでしょうか、それでも住宅街としては日が浅いのか屋敷を取り巻く垣根が少なくて、大半の屋敷が境界表示のブロック壁が一段か二段程度で済ませております。言葉が滑りますと、住宅ローンの支払いが続いており屋敷を守る垣根着工まで到らないのかと思ったりしました。


チジンの音色も人により微妙に異なります

これと同じ場面を体験したのが九月に出向く奄美市笠利町佐仁集落です。何回目か訪問の折りに不動産業者意識が祭り気分の中から蘇り、各屋敷の境界はどのようになっているか?目線で調査してみました。どの屋敷も隣接屋敷との境界は胸の高さほど有るブロック壁で仕切られており紛争の発生する余地は有りません。かっては垣根とは珊瑚礁の欠片なのか、その辺はすっきりとしませんでしたが、砂地の屋敷にブロック壁は情緒をあまり感じませんが、その反面で集落が存在するに必要な厳然たるものを見た思いでもありました。


サンシンの弾き手は毎年同じ人が弾いているようです

「集落の生い立ちは集落内各屋敷の境界を見ればわかる」。自分で言うのも何ですが!何かしら不動産業者の格言になりそうな感じがします。各家庭の敷地が明確に仕切られていてこそ祭りも発生するのかな!祭りとは共同体意識と個の意識がしっかりと根付いてこそ芽生える。ご先祖様がなん世代か住み着いて初めて祭りも生まれるのかもしれません。


四年前のニセどんと彼女たち・・・またお会いしたいもの!

近づく奄美大島の祭りアラセツとシバサシ

2011年08月23日 18時40分37秒 | 民俗芸能
8月23日(火)  

 黒糖焼酎のお礼に奄美市笠利町へ電話を入れてみました。電話の待ち時間に奄美の風景が浮かび上がり夏は南九州も奄美大島もおなじ位に暑さの中にあります。一回目の電話は不在、時間を置いて二回目の電話をしますと聞き慣れた声が聞こえてきました。お中元の御礼を申し上げて九月は奄美大島へ出向きたい旨を述べますと、歓迎の声が笑い声となって伝わってきます。


奄美市笠利町佐仁の海

八月踊りとアラセツとシバサシの違いはどのように区別するのか、細やかな説明をする事が出来ませんが、旧暦八月最初の丙の日を基準としてアラセツとシバサシはその年の祭り日程が決まります。八月踊りは筆者の想像する世界の事ですが、稲作儀礼の一つで秋の収穫を感謝する祭りで有ると認識します。狭い島内で稲の収穫高を上げる為に二期作が奨励されていたと、或いは裏作は芋類や根菜類の二毛作か。稲の収穫は集落の最大行事八月踊りで五穀豊穣・家内安全・集落平安と続きます。


佐仁のシバサシ(撮影:2007.9.19)

南島へ祭り見物に出かけて感じます事は、祭りの始まりにチジンの音や唄者の声に踊り手の体がすーっと吸い込まれるようにして、揺れ動き踊りとなっていく様は、何とも不思議な世界へ入り込んで行く始まりです。南島の小さな集落に故郷へ帰る気分の如く訪問の回数を重ねますのは、あのリズム感が自分の遺伝子にも繰り込まれているのかと思ったりします。


踊り衆の訪問先で振る舞われる料理

現地で個人の写真撮影の事を話しますと、八〇歳記念写真を奄美市主催で撮影して貰ったと電話先から返事がありました。近所の仲良し三人組で記念写真を撮影するという約束をして一段落。額入りの写真とはさまざまな場面で思い出の記念となり、プレゼントとしては申し分の無いものとして、そんな場面を撮影する事に心がけております。次にアラセツとシバサシの日程は如何に?アラセツが九月八日・九日でシバサシが十四日・十五日に決まりましたと。どうやら旧暦八月二回目と三回目の丙の日を祭り日と決定されたようです。


楽器はサンシンとチジン

今月十三日夜に客船にっぽん丸船上から眺めた関門花火大会の花火、海峡の夜空を赤く染め明かす一万三千発、ようも飽きもせずに打ち上げたものだと飽きもせずに見入った見物人の弁でもあります。それも東京電力の福島第一原発事故が収束の目処も立たない中で、全国いたる都市で花火大会は開催されており、どこかで奄美大島八月踊りと相通じるものは何で有りましょうと?考えます。


九州からも踊りに参加する人が結構おられます

祭りには勢いが有ってこそ祭りの醍醐味があり、祭りで何かの一区切りと子ども達へ伝えようとするものが溢れ出るもの。勢いを祭りの中心に持って行きますと、祭りへのとらえ方も微妙に変化するのではないか?むしろ勢いを男と女の表現から捉えますと祭りの雰囲気が伝わるようでもあります。何かしら混迷の中へ入っていきそうで、解明には祭りへ出かける事で混迷の糸口が見えると。


こうして写真を眺めますと故人となられた方もおられて感慨もひとしお

真冬の師走祭りを思い浮かべて

2011年01月10日 18時14分57秒 | 民俗芸能
1月10日(成人の日) 

 久しぶりに静かな休日を迎えようと遠出は避けて、取りこぼした仕事を午前中に済ませますと、残りは自室の清掃位で終えるとさっぱりします。朝から暖炉で火を焚いて物思いに耽ろうとしますが、働き者の相方が一言で阻止。物思いをぼそぼそと続けますに、六〇歳代後半から七〇歳代に掛けて、何かしら体力の衰えを自覚する現象があります。長距離の車運転が億劫になったり、行動力にバネが欠けるなと思ったりする事です。しかし、この様な現実は一部認めるとしても、それが全てであると決め込みますと、例え人それなりに年齢が達しているとは言え、まあ認識を変えた方が良さそうだと思ったりします。

地方生活で車は欠かせない足の代用ですので、車運転が難儀だと自覚症状が出ますと、萎縮して外出機会も当然の如く減少傾向になります。しかし、そのハンディをモノともせずに出向きたいモノは日向国の民俗芸能あるいは神事です。季節によりそれなりの特徴がありますが、近くは、今月二一日朝八時に木城町比企神社を出発します師走祭りの一行です。神職を始めとして集落氏子代表が当番で参加する行程はこの数十年間は小型バスが使われていますが、各地での神事は昔のままで再現されます。その追い掛けの場面々々が目に浮かび心がさわぎ、牧歌的と申しますか、魅せられた者は幸いです。

最近の師走祭りは、バスを足とする故に、行程三日間で初日に目的地である美郷町南郷区神門神社に到着します。この師走祭りについて深く研究した訳でも有りませんが、追っかけを数回繰り返しますと、地元温泉を楽しむ時間も作るようになり、祭りは人々の憩いのひとときでもあります。現地対応はその人の感覚にあり、それなりの楽しみ方を覚えていきます。その様な楽しみ方、つまり、地元で営々と連なる祭りの伝統を、例え追っかけという取り巻きの行動であっても、次世代の若衆諸氏に伝えられないものかです。

残念ながら、日向国に繰り広げられる民俗芸能や神事の楽しさを無理に人様に押しつける訳にもいかず、カメラを使いブログアップで孤独な追っかけを楽しんでおります。民俗芸能復活には、それなりに識者がおりますと、大いに盛り上がる場面があります。その様な場面に出会いますと民俗芸能がもたらす意義を自ずと理解するようになります。また、地元でも観光客と言いますか県外見学者を意識するようになり、神事とは言え対応が幾分変化してした面もあります。比企神社一行が南郷氏子衆に迎えられて、燃えさかる櫓の火の粉が降り注ぐ中を、粛々と神門神社へ向かう様は写真になります。一昨年の光景が下記に表記してあります。
http://blog.goo.ne.jp/higasi_may/d/20090125

古来より未来にかけても、人は日々を如何に暮らすか、その事に専念してきたのだと思います。その証拠でもありませんが、仕事の中で遺書や遺言書の存在にあまり巡り会いません。かと言って裁判所や公証人役場で確認した訳でも有りません。もっとも最たる個人情報を確認する術がある訳でもありません。片や民俗芸能や古来から伝わる神事と片や遺書や遺言書の存在、舌足らずの感はありますが、果たして何らかの繋がりがあるのか?と思います。

神楽が長寿の秘訣に見えて

2010年12月22日 17時53分32秒 | 民俗芸能
12月22日(火)  
 人間の体はそんなに簡単に壊れるものなのか?病院検査で血圧が通常より四〇越える数値を示して、高血圧の治療が必要と宣告されて、半信半疑になってしまいました。今朝、訪れたクリニックでロビー設置の血圧計、腕を差し出すだけで後はスイッチオンで、暫くすると血圧の収縮期と拡張期が表示されて、いずれも前回と同じ高値です。再度、測定してみました。やや低めの数値が検出されました。それでも高値。その後、診察室で看護師の測定を受けますと、見事、平常値に戻っております。なんだ!まさにどういう事か?です。



医療機器を基準に置くのか、それとも自分の体か?人間の体は絶えず変動状態にあり、体内状態を示す各種検査値は、それなりに変動があり、たまには数値が危険領域に入り込む事もあると認識すべきでしょう。要は健康な生活を日々たもつには規則正しい生活、昔流だと晴耕雨読、今流だと一日万歩計と適正な食事、知的な部分が欠けますが、社会が進化して複雑化しますので、マイペースを如何に保つか、健康な生活を維持するにマイペースとは大いなる秘訣です。

銀鏡神楽仮面舞-1


そんなんで、クリニック看護師の血圧測定で目の前が明るく開けて来ました。天気も良し、こんな日は物事もスムーズに捗るものです。仕事をする上で大切な事は手順、段取り。この辺が綺麗に整理されますと、体の調子も円滑なサイクルの中に入り込んで未来が明るく見えます。人間とは気の持ちようで、前期高齢者ともなりますと、手の空いた時間帯はなるべく歩く事です。つまり体内に溜まり込んだエネルギーを発散させて絶えず身を軽くする事です。明日には自然の空気を求めて、山か?海か?です。取り敢えずは三~五時間は自然へひたる。体と頭をリラックスさせて天へ生きている感謝をのべます。

銀鏡神楽仮面舞ー2


ところで、何かをきっかけにマイナス方向へ思考力を使いますと、人間益々落ち込むと言いますか、閉鎖空間に飛び込んでしまいます。そんな中では目も当てられません。閉鎖空間に入り込まないためには、何をするのでしょうか?自分の英知を信頼すること。次に自由こそ人間が置かれた環境の中で最も大切にすべきこと。余談、日本の現状をつらつらネットを介して眺めますと、大きくいびつになっていると最近では認識するようになりました。

銀鏡神楽仮面舞-3


十四日に徹夜で見物しました西都市銀鏡神楽、一つは小中学生の山村留学生が増えて、当然の如く、神楽に参加する生徒が喜びの顔でずらりと列になっています。見物者にも心温まる光景です。こうして夜神楽を見物していますと、古より山村の民とは共同生活が基本であった。牛馬よりも人手が動力源となった狭い棚田や畑、それなりに生きてきた術とも言うべきスタイルを見ます。

銀鏡神楽仮面舞-4


こうして動画や写真で銀鏡神楽を眺めますと、人間の健康には、精神的健康!長生きする秘訣を支える基本が有るのだと改めて悟ります。それが有る故に山村留学生も増えているし、シキタリだと言って故郷休暇を取り、神楽を舞う人々、長生きを願うのは古今東西これからも変わらぬ人間の願望です。

銀鏡神楽仮面舞-5


銀鏡神楽を鑑賞して

2010年12月15日 17時58分59秒 | 民俗芸能
12月15日(水) 

 銀鏡神楽が始まって奉納者を晩餐へ招待する時間が午後八時から始まり社務所の大広間が晩餐会場となります。この時間になりますと、見物客もほぼ出そろった感があります。神殿を背にして観客の座り込んで見物出来る神楽殿は右手で、晩餐会場は左手にあり、二つの建物の中央部に神楽舞台があります。そこへ開宴時間を待って、隣席の年配カメラマン氏と一番乗りで出かけてタタミに座り込み、一段落して神楽舞台を眺めますと、丁度、式四番花の舞(結界)が十名の少年達で舞われております。



解説書に寄りますと「烏帽子をかぶり素襖を着し背に小幣を十時に差し、右手に鈴、左手に扇子もって舞う。」「現在は四人で舞うが古くは二人舞である。結界とも言われ、小中学生の年少者(古くは十二、三歳の正常な乙女が神にお供えする神楽)によって舞われる。この神楽は結界と献饌をかたどった神楽である。」とあります。結界と献饌とは日常用語として使われなくなっておりますが、神楽の格調を高める事と、後継者である子ども達に集落の芯を体で教える最初の舞とでも解説しましょう。



この花の舞に最初に出会いましたのは、二十年前でしょうか、椎葉村大藪神楽見物に出掛けた折りに、集落集会所を神楽宿にして小学生少女が色紙を刻んで冠状にした飾りを頭上に頂いて神楽舞を舞う姿が印象に残りました。当時、同じ年齢の娘たちを同行させたのか、記憶も定かでありませんが、神楽で女子が舞う姿を初めて体験したのか、なるほど、古色蒼然とした郷土の民俗芸能と思い込んでいた神楽舞が、子ども達の教育にも一役買っている事に気づきました。



神楽で舞う花の舞は前回は四名であったと記憶しますが、十名の少年達は何処から銀鏡に出向いてきたのか?僻地と過疎に悩む集落の小中学校へ山村留学した全国の少年達と後で分かりました。銀鏡神楽が大藪神楽と同じく子供の情操教育に一役買っているのは、何も珍しいものではなくて、時間を超えたものがあります。



師走中旬のウイークデイに仕事を放り投げて、車で二時間の距離を、それも五〇分間は道路整備が整いつつあるとは言えカーブの多い山道をものともせずに、訪問する動機は何であろうと思います。今回、銀鏡で知り合った臨席の年配カメラマン氏は二〇数回訪問していると告げます。晩餐会場でも神楽舞台が気になるカメラマン氏、同じ質問を投げ掛けてみました。返答で返って来たものはにこやかな笑顔です。



晩餐会場から少年達の舞う「花の舞」を眺めていますと、今年のビッグテン、人生を明るく楽しみの心で、生きて行くに大いに励ましとなるイベントの一つ、それが銀鏡神楽である事に気づきました。今更、神楽の解説を求めても、それは今までの事です。九州山地の川沿いの小さな集落で延々として神の舞を継承して幾年か?一千年や二千年は続いているでしょう!毎年鑑賞できるなどと世の中には楽しい事が多いものです。





曽於市住吉神社の流鏑馬(編集版)

2010年11月26日 19時01分10秒 | 民俗芸能
11月26日(金)

 午前中にカメラ屋で受け取った流鏑馬のDVD(動画)とCD(写真)を午後から射手が在学中の高校へ持参する事にしました。それぞれ射手四人分があります。事前に電話で高校に連絡しますと午後二時半には校内全体集会が終了するとの事で、取り敢えずその時間を目指して隣市まで出向きます。校門を入りますと広々とした校庭が広がっております。気づきます事は高校を訪問する機会など滅多にありません。母校特別授業の講師以来か、高校生との出会いも新鮮なものがあります。そんな意味でも良い訪問です。

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受付で訪問者簿に記帳して待ちます。時間が来て担当教諭から校内放送して頂き、現れた高校二年生の射手へ四人分のDVDとCDを渡しました。にこやかな顔が印象に残ります。そこには流鏑馬の張り詰めた顔はありません。素直でニキビが美しい高校生の顔です。割と早めに渡すことが出来て、これでやれやれです。動画と写真で来年へ向けての流鏑馬練習に大いに参考にして下さい、と。

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こうして行き帰りに鹿児島県大隅半島界隈を眺めますと、火山灰土壌地帯とは言え田畑は耕作されて見渡す限り耕地が広がっております。定年を迎えた同窓生が帰って来るはずだと納得する郷土の風景です。この地は流鏑馬に限らず様々な歴史を秘めているのでしょうが、大地は黙して語らず。手元に届きましたニューズウィーク日本版12・1号の表紙には「アジアが洗浄になる日」見出しには「問題児は中国と北朝鮮だけ?アジアに広がる軍拡中毒と戦争の現実味」とあり、どんな悪夢が広がるのか、時代錯誤もはなはだしいと思います。アジアも広い。

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流鏑馬を編集して

2010年11月24日 17時49分15秒 | 民俗芸能
11月24日(水)  

 昨日の曽於市末吉神社流鏑馬、同じ場所に四時間余り立ちん坊になって、カメラ撮影場所の確保、カメラマンも昨年より多かった感がしますが、境内にそろそろカメラマン席が欲しい頃です。ダウンコートを羽織って行きましたが、昼食抜きで日中ながらも帰路では体に寒気を覚えて来ました。好事魔多し、こんな時にも使える諺か?

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それでも本日は時間が取れましたので流鏑馬の動画を再生して見ました。撮影時に種類を一段階落としてHD720p(1280×720)からVGA(640×480)に設定しました。再生して見ますと綺麗な動画に音声までしっかりと録音録画されており、取り敢えずはパソコン画面上で写真と動画を選択してSDカードにまとめます。この様な作業でも自分で体験する事が肝心です。SDカードを媒体にして行き付けのカメラ屋さんでCDに動画と写真を焼き付けて貰う事にします。

選定した動画も再生して画像状況をチェックしますと次回への参考になる箇所が多々あります。かって四〇年以上前に「仕事は道具がするのだ」と教示して頂いた貨物船機関長がいました。仕事が捗るにはどの道具を使えば良いか、仕事の流れや的確な作業手順があります。長年のキャリアーから生まれた言葉です。経験というものは実社会では貴重なもの、経験なき社会は軟弱化するか。

射手について述べますと、今年は見習いに女子中学生が登場です。昨年の見習いの小学生は射手に昇格、これで射手三人での流鏑馬行事となります。動画を再生して拝見しますと、先輩格の女性二名は腕を上げて、馬上の動作にも無駄がありません。きびきびとして的確の手順、なるほどここまで上達するものかと感心します。さしたる練習時間もなかろうに、若者とは環境と指導者次第かなと思うことしきりです。

つまり、あのきびきびした動作を拝見しますと、流鏑馬見物で何かを得た気分になり、心の中で重しの如く垂れ込めていた暗雲が晴れた気分になります。つまり若者育成を祭りが担っている。的確な指導の元で訓練に励めば女子中学生が射手となり三本の的を射止める。若者が大きな自信を得る場面です。

丁度、流鏑馬が行われた同じ時間帯に、朝鮮半島西岸の延坪島で南北両国の砲撃戦が勃発しており死者まで出ています。台湾高雄市に集いましたライオンズクラブ会員二万人の事を考えました。北朝鮮の国民は国のみならず心まで一握りの集団に収奪されておるのか、国の外には奉仕の力を信じて集う人々がおるのに!元気を出して愚かな指導者群を追い出せば!です。

一日足りとも変化の無い日はありません。情報がこれほど交差しますと、物事の判断、おおよその見当はつこうというものです。どのような手順を経て判断するの人それぞれです。「仕事は道具がするのだ」と細やかな点から出発するのもその人の体験にもとづけば致し方のないこと、それなり物事を見極める事が肝心です。

曽於市住吉神社の流鏑馬

2010年11月23日 21時44分48秒 | 民俗芸能
11月23日(祝)
  
 秋も深まり行き耳を澄ませますと、どこそこの祭りが聞こえて来ます。祭りとの出会いは永い期間なかったと気づいたのはやはり椎葉村夜神楽との出会いであった頃と記憶します。大藪神楽が浮かび上がりますが、同神楽の花の舞、少女が踊る何とも優雅な舞に見えました。頭に色紙を刻んで冠状にした花飾り、手には扇子を持ち、白い衣装をまとい、笛と太鼓に合わせて踊る様が今でも浮かんできます。



夜神楽との出会いが民俗芸能とは何か?を考えるきっかけにもなりました。ホシャドンとは夜神楽を支える奉仕者、舞手であったり笛や太鼓の奏者であったりします。そのホシャドンが「しきたりジャケン」と言って祭りの数日間は故郷に帰り夜神楽の担い手となります。当時は「しきたり」と言う言葉に何か別世界を見る思いがしました。日本経済がばりばり上向きの頃ですから、祭りで職場を離れるなど、企業戦士の頭にはみじんもありませんでした。



だんだん、祭りの世界へ入り込みますと、迷路に入った心地がして祭りとは何か?の連続が始まります。とどのつまり、北は山形県黒川能を見物に出掛けたのが最北端で、南は首里城の元旦儀式をこの六年ほど欠かさず見物しています。今では祭りとは心安らぐ場と認識しています。



さて、そんな意識を背景に本日は曽於市末吉町住吉神社の流鏑馬見物に出掛けました。今年が三年目か、三年通い続けますと、何事も何かが見えて来ると言うのが筆者の持論です。祭りが続く理由はそこに何かショックをカルチュアショックと言って差し支えないものがあります。そのショックとは何か?住吉神社流鏑馬の射手は少女も参加しております。むしろ少女が主役と思うほど馬も弓もなかなかの腕前と見ました。



昨年は食い入るように見つめて、シャッターチャンスをカメラにも捉えて一満足でした。記念の写真を射手にもプレゼント。さあ、今年は動画と写真とに納めようと現地到着は午前十一時十分、流鏑馬の開催まで約三時間近くあります。撮影場所の確保のためです。流石に午後二時までは時間があります。まだカメラマン席と言う洒落たものはありません。この辺は長閑です。その分だけ立ちん坊の時間を要します。



カメラh二台とレンズも予備を一個。射手は見習いまで含めますと四名、その内の三名は女性で中学生高校生も混じっております。馬は四頭、どちらか言いますと農耕馬、今の時代に農耕馬は見られませんので、さてどこから調達して来たのか、馬の出自が不明なだけ人間や走行に不慣れな処があり要注意です。



約一時間二〇分の流鏑馬は司会者の緊張感を解そうとする努力もあり、住吉神社流の流鏑馬になっています。安全第一、全体の流れの中に主催者と観客が一緒になる雰囲気が段々高まってきました。どうやら射手に失礼を申しますが落馬や怪我もなくて何より、むしろの手慣れたものだと感心する場面を多く観ました。馬をねぎらう場面など堂々したものでした。今年で三年目、どうにか住吉神社の流鏑馬も何かを得た思いになりました。