緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

神道

2020年01月23日 17時28分39秒 | 宗教

神道

百済王を祀る神門神社
山間の郷に千余年佇み
村の守護神と崇められ
祭り火に映る素朴な人々
Shinto
Mikado Shrine dedicated to Kudara King
Standing for 1,300 years in a mountain village
Worshiped as the guardian deity of the village
Simple people reflected in the festival fire

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

水辺の鳥

2013年10月20日 17時00分50秒 | 宗教

10月20日(日)     水辺の鳥

 

警戒心たかき水辺の鳥

季節が巡れば旅に出て

北から南へ海陸を越え

まるで北半球が吾が庭

その飛翔は天の成せる技

 


空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、

然るに汝らの天の父は、これを養いたまふ。

汝らは之よりも遙かに優るる者ならずや。


Look at the birds of the air;they do not sow or reap or store away in barns,

and yet your heavenly Father feeds them.

Are you not much more valuable than they?

(マタイ伝第6章26節)

 

セイタカシギ


弟の追善供養で

2012年06月12日 18時39分24秒 | 宗教
6月12日(火)  

 退職されて余生を僧侶の道へ進まれた方が、午後の時間帯にお見えになり、弟の追善供養に読経を上げて頂きました。鹿児島市から奥様を伴いマイカー運転です。義妹宅に集まったささやかな親族での集い。弟が他界して早十二年が経過しました。弟が働いていた職場の人間関係が今でも続いています。一昨日に引き続き、読経を耳にして頭を垂れて数珠を握りしめる間は、故人を偲ぶと同時に、来世とこの世の関わりを静かに瞑想するひとときでもあります。 早く来世へ旅立つ者には、それなりの務めがあるのか、遺影の静かな表情にはこの世の役割を終えた顔にも見えてきます。

 こうして日常業務の中に思いがけない身内の追善供養の時間を持ちますと、それなりのリズムの中に人とは生きていると感じざるを得ません。未熟な表現ではありますが、人間とは年代により思考にも行動にもパターンが有るものだと、このパターンを早めに察知して体に受け入れます。無理な生活から遠ざかる第一歩と思ってしまいます。寿命が尽きればそれまでですが、年代の風に乗り日々の暮らしが爽やかに過ぎて行きますと、これに勝るものは無しでもあります。そんな仙人みたいな生活が営まれますと、理想にも思えます。

 しかし、来世へ早めに向かった弟の追善供養で、数珠を手にして僧侶の読経を耳にして、想いを数十年前へと泳いでいきますと、時間の感覚と言いますか、今世と来世の境に立ち止まって、想い出の世界を眺めますと、人間として行きとし生ける間の時間など、長短さほど変わらないものかもしれません。天から眺めますとささやかな時間でも、人間として生を受けている間は、何かにしがみついて、もしくは懸命に死から遠ざかろうとします。覚悟のほどはありませんが、それはそれです。

 今世と来世とのこと、手の届かない世界でもあり、まして語るほどの仏教作法も持ち合わせが無ければ、どこそで石にでも躓きそうでもあります。僧侶の読経には凡人を厳かな世界へ誘う力を秘めていそうです。一昨日の葬儀の中で、締めくくりに親族のご挨拶があり、内容は葬儀が始まる一時間ほど前に葬儀場内に一羽の小鳥が迷い込んで室内を飛び回っていたと、その有様が、まるで故人の魂が小鳥に乗り移って、親族へ最後の別れをしているみたいであったと。チベット仏教には死後、魂は亡骸の上で遊泳していると。亡骸から魂は抜け出て、来世へ向かう途上、今世の様子を見届けるひととき四九日が有ると言います。親族は故人の魂が小鳥に乗り移った様だと、故人への煩悩を迷い込んだ小鳥で表現しました。こうして今世と来世をつなぐものには親族の絆、いたわり、と、手の届かぬ来世への作法がいつしか出来上がっています。

 つい口が滑ってしまいますが、「オマエとオレの友だち仲よ!オマエサンが先に逝ったら、葬儀は必ず知らせてくれ!オレは必ず線香をあげに駆けつける。オレの顔に気づいたら、亡骸の上から大きな声を出して叫んでみな!良く来たと。きっと、オレの耳に届くはず!オマエとオレの仲だもの」。この世には、まだ目には見えねど、何かが有るはず。

日本語の読経を耳にして

2012年06月11日 17時48分38秒 | 宗教
6月11日(月)  

 年には何回?他人様のご葬儀に出かけるのか、何かしら若い時分に比べますと数珠を持って出かけるケースが年毎に増えて来た感があります。先日も友人の御尊父様が他界されて、どうにか葬儀の時間に間にあい合掌しました。こうして葬儀の場で親族より故人の生前について、その生涯を知らされますと、人にはその地に住むべく宿命があったのかと、見えない天からの糸を見る思いがしました。

 何はともあれ、男の生き方として生涯を誓った嫁、その育った地で生活することは、家庭をしかと支える大黒柱にも思えます。自分の嫁が育った地を生活の場にするには、それなりの試練があり、超えるべき峠が一つや二つあるもの。その地で生涯を捧げて、役目を果たしますと、何かしら次のステップが現れる!

 故人の遺影に頭を下げて、その様な事を思っていますと、僧侶の読経がいつしか日本語になっております。仏教経典の内容が良く伝わってきます。始めて仏教のお経で日本語を聞くようで、日本語に翻訳された仏教経典の意味がなんと素晴らしい事かと、気づきました。読経の中で日本語に翻訳された部分が有るとは、仏教徒として、始めて認識する事柄かと思いました。

 本来、宗教とは人間の住む地であれば、先住民が彼の地にとどまるならば、地球上の果てまでも出向くのが宗教人の姿だと思います。つまり、人間の住む地には宗教が果たす役割があります。到底、宗教関係者でなくては出来ない作業もあります。葬儀に於いて、浄土真宗の僧侶は親鸞上人の言葉を読経の後には必ず拝読します。その中で説く言葉とは、人間のはかなさ、無常の風が吹きますと、人はわが身すらこの世に残して旅立っていきます。魂は来世へ向かいますが、わが身はこの世に残されたままです。その身を荼毘へ伏して灰とする。灰にも出来ない処はインダス川へ亡骸を流す。流れ着いた所が安置場所となる。さらには大河も荼毘にふす薪もない国では鳥葬の風習があります。チベット仏教が誕生した高原の邦チベット、葬儀とはかようなものと聞きます。つまり、高原にすむハゲタカが人の亡骸のをきれいに片づけてくれると。

 ここでも僧侶の役目があり、鳥葬の邦チベットに於いては、葬儀を終えてコンドルが亡骸を迎えに来るまでに、僧侶の務めがあります。文明の利器も時には人間の風習を細やかに記録するものです。改めて、宗教とは何ぞや?宗教に携わる僧侶が長い年月を修行に当てるのは、死者との対峙、亡骸の処理を如何にするか、凡人の目には過酷な儀式であります。人間を深く見つめる宗教家には本来近よりがたいものがあります。現世と来世の橋渡しをする役柄、葬儀の場でふと気づきました事柄、日本語の読経がこれほど胸に響くとは始めて知りました。根本仏教蔵書も日本語へ翻訳の途上にあるのかと思います。

 こうして、同じ年代の方々が、ぼちぼち来世へ向かわれますと、意識しますことはこの世から来世にかけて、まだ認識しない事柄がかなりあるのではないか!どんな事柄か、人間を魂と亡骸に分けるからには、それなりの根拠がありそうで、日本語の読経にも想いが広がりましたので、機会を得ますと納得する場面が現れそうです!

地平線のかなたまで

2011年12月22日 18時04分16秒 | 宗教
12月22日(木) 

 今年は本日午後で仕事の一区切り山場を超えて、何とか年末年始を新年の英気を養う正月休暇として、沖縄で一週間をゆっくりと過ごせそうです。そのような目処が立ちやれやれです。沖縄休暇の魅力は元旦に催される首里城の正月儀式「朝拝御規式 」(ちゅうぬうぬふぇ)見学が第一に挙げられます。元旦に緩やかな昔風の時間が流れるのが何とも言えず、儀式の世界へはまり込んで行きます。出発日まで残り一週間、海一つで日本も気候風土が異なります。米軍基地問題と大きな課題が有りますが、長年の旅で感じますことは多くの面で沖縄には元気が満ち溢れています。仕事を終えて、パソコン前に座り込み、一日を顧みて思いをまとめて一筆啓上の時間となりました。
http://blog.goo.ne.jp/higasi_may/d/20110101


なろう事なら騎乗人になり海辺を駆けたいもの

 さて、本日もダライ・ラマ十四世の「ゆるす言葉」の世界へ入り込んで行きたい気分です。話は飛びますが、先日、都城市議会十二月定例議会を二時間余り傍聴しました。その前には、この数年間で傍聴席へ何日間通ったことでしょう!記者クラブの皆さんより遙かに多いと言えば挑発的でしょうか!課題と言うか市議会と言う所はどの様な場所なのか?ほとんど関心も無かったと言うのがそれまででして、その後に大きな疑問が生じて、今では市議会の意義に対して何処か未解決の意識があります。知りたい事は身近な政治の役目と効果です。今更の感は有ります。昔、百年前の祖父や曾祖父の言葉の中に有るのは「政治には近寄らない」。お天道様と土を相手とする農家には政治が余りにアクの強さを放っており、シンプルライフの農家には肌に合わなかった面が有るのでしょう。

付け加えますに、ダライ・ラマ十四世の現状を知る上でも「ゆるす言葉」はチベット仏教入門書と見て良いでしょう。また、チベット仏教にあります「チベット死者の書」は何を意味するのか?振り返りますと二〇年前に同書が静かなブームになった事があります。おこがましくも申しますと、当時に同書を理解した日本人はごく限られたのではないか。その後、同書の噂も聞かなくなりました。筆者も数冊買い求めてパラパラとめくり栞がそのままになった状態です。死者に魂があり、死者の世界が存在すると説く同書です。日本の「まくら経」に相当するとも言われてます。当時、日本経済も頂点にあり、一時的な関心は高まったかもしれませんが、修行と言うものが無ければ、なかなか理解し得る世界ではありません。そのような独断の中で同書を思います。

 本題は、ダライ・ラマ十四世の「ゆるす言葉」に政治に関して何か書かれていないか?政治の基本と現状をどの様に捉えれば良いのか?Twitterの世界でもつぶやくが如くに人の道を説かれる同氏、経済や政治をどの様に捉えておられるか?「ゆるす言葉」には有るのか?です。政治も経済も有りました。政治については・・・・。

政治それ自体は何ら汚いものではありません。
人間が政治をそうしているのです。  第二章・自由と権力 より

思わず吹き出したくなるほど日本政治(中央&地方)の現状を現した「ゆるす言葉」の一節です。つまりは政治と言うシステムにさほど問題点は無い。問題が有るとすれば、政治に携わる人間の資質が、往々にして、見逃される事に有ると。人間の資質と言うより鍛錬か、政治家としての鍛錬が少なければ、横道に逸れてしまいます。そう、「ゆるす言葉」には人間の生きる道とは地平線の彼方まで続く何かが有ると説いています。 

師走の曇天日

2011年12月21日 18時48分18秒 | 宗教
12月21日(水) 

 朝から曇天の空模様、何処か沖縄辺りまで同じ空模様と思われるほど低く垂れ込めています。三日間晴れの日が続きますと、同じように曇空が続く南九州の空模様、山の先輩が伝えた言葉、雨が降りそうで降らないような、何とも見透かされるように中途半端な気持ちにさせる空模様です。海が近ければかかる天気模様が季節により続くのかと感じ入ります。ひょっとして、この天気模様は精神構造に何らかの影響を与えそうです。

 忙しさがまだ続く師走も大詰め、仕事で焦る心と現実の狭間が心身を痛めつけます。現役でおる身に重くのしかかる現実の厳しさ。なんぞ、救いの言葉は無いかと、弱音から逃れように、ダライ・ラマ十四世著書「ゆるす言葉」を紐解きます。本書は聖なる言葉と写真で綴られた一二五頁に及ぶ小冊子、背景にチベットの風土と人々の表情が印象に残る写真集でもあります。フリー写真家の野町和嘉氏が担当されています。

http://www.wephoto.jp/lives/special_nomachi.html

 頁を開きますとチベットの国土が背景となり、人々の純粋な表情、大地と信仰をテーマに取材されるカメラアングルが、いつし吸い寄せられるようにして、本書の世界へ入り込んでいきます。また、ダライ・ラマ十四世はツイッターでも英語で数日おきに呟いています。それなりのスタッフが周囲に存在することがうかがえます。
二二時間前のつぶやきは、
We need awareness of the ways we are connected with others, reflecting on the characteristics we share with others.

http://twitter.com/#!/DalaiLama

 師走の忙しさに包まれた本日の心境を表すかのような「ゆるす言葉」とは、「私たちは自分の苦しみの多くを自分の手で作っています。」と。苦しみの根源は自分の心の中に有ると言う。現実の苦しみの中で的を射る「ゆるす言葉」を聞きますと五臓六腑に染み渡るのでしょうが、その為に何かを持続せねばなりません。何とも何かにたどり着くにはため息が漏れます。また、同じ苦しみが襲ってきそうな夕方であります。

経済は大切です。しかし、人間性はもっと大切です。
人権や環境問題など、経済より大切なことはたくさんあります。
利益を求めてビジネスの世界で関係を築いていくときも、
大儀を見失わないことが肝心です。(第二章・自由と権力)より

 こんな日は夕方の仕事から解き放たれた時間を短い読書の時間にしましょう。次に止まります「ゆるす言葉」とは経済の二文字が目に入り、やや気分がもち直ります。本日は「ゆする言葉」で師走の喧噪の中を走り回り、疲れ切った身が解されるようであります。 

衣服を着替えるようなもの

2011年12月19日 18時30分41秒 | 宗教
12月19日(月) 

 年末の月曜日、仕事に追われる日、あれこれと考える事が浮かぶかな!自分でも考え事まで単純になったかと少しがっかりします。そんな少ない考え事の一つが、本日は昨日に引き続きダライ・ラマ十四世著「ゆるす言葉」の第四章・再生、平和への道「死について常に意識しているなら、死が訪れても驚くことはありません。心配もいりません。死とは衣服を着替えるようなものです。したがって、死を迎えたとき心の平安を保ち続けることができるのです。」に有る「死とは衣服を着替えるようなものです。」と。


夜明け前の散歩道

 人間の死を「衣服を着替えるようなもの」と例えるダライ・ラマ十四世の言葉に、チベットの人々は日々を心の開放感に満ちた暮らしをしていると感じました。現実にはチベットは高原の国、標高四千メートル続く原野が広がる世界の尾根地帯、人の暮らしはヤクの放牧に依存した過酷な生活が著書の写真集からも伺えます。同じモンゴロイド系でも、海に周囲を囲まれた日本人とでは、生活基盤が大きく事なると思いますが、信じる宗教は仏教でも、チベット仏教は輪廻転生を宗教活動の中にしっかりと取り入れています。


下弦の月

 心の開放感とは深い瞑想の中から勝ち得て悟るのでしょうが、深い瞑想をするなんて、われながらも半世紀の中でも無かったこと。よしんば瞑想をしたとて、手足は何かしら動いていたはずです。これ古希を迎えた人間の吐く言葉かと思います。しかし、それがよしんばチベットでも日本でも庶民の日常生活です。人間の死を「衣服を着替えるようなもの」と説くチベット仏教、地球の何かを見つめる視点が有るのでしょう。

 一つの人生観に拘らないことは、心を何処かの時点で自由にさせるものが有るのでしょうか!一九五〇年代から続く中国によるチベット侵略、インドへの亡命を除けば、大半の人々は国内で生涯を暮らしているとみます。海外旅行なんて限られた人だけのも。死を「衣服を着替えるようなもの」と例えるとは、そのようなチベットの人々にこれ以上の幸福が有るでしょうか!とても、経済活動に主力を四〇年近くも置いてきた者には、辿り着けそうな心境ではありません。しかし、目を見開かせる大きな力の有る言葉です。

 汲々として余命を延ばそうとする日々の生活、先進国に広がる高齢化社会、それはそれで一つの世界の潮流でもあります。なろう事ならば、何処かの時点で、まだ元気な力が残っている内に生活スタイルを変えるのも残された人生の生き方かもしれません。どの様な生き方ですかと問われますと、実行しての話ですが、「二分は天へ」この言葉がまず浮かびます。

 こうしてみますと、自分を自分で拘束しているのは「わだかまり」だと気づきます。わだかまりとは些事に拘る心。ここまでたどり着いて、これから先の言葉が急には続きません。著書を追いますと、今まで気づかなかった厳しい世界の状況が広がっています。この世の悲劇と心の開放感は裏腹に有ると説いています。

事故は収束?

2011年12月17日 16時26分26秒 | 宗教
12月17日(土) 

 好天が続き始めたのはこの二、三日の事か、さっぱりとした気分になる朝からの晴れ模様です。そんな中で、今朝の地方紙一面には昨日の野田佳彦首相、記者会見内容を発表して、「冷温停止ステップ2完了」福島第一原発・首相「事故は収束」住民帰郷月内に方針、「原子炉は冷温停止状態に達し、事故そのものが収束に至ったと確認された」と写真と解説付きで報じられています。今まで事故の経緯を眺めて冷温停止状態の用語の解説を誰かして貰いますと、透けて見える現実があります。これが野田首相の何度目かの誤報記者会見だなと、国民として自国の首相発表を疑わねばならいとは、何とも情けない気持ちになりました。なぜ、正確な情報を国民へ知らせないのでしょう?その為に選挙で選ばれたはずです。

http://jp.wsj.com/Japan/node_361580?mod=WSJ3items

 WSJ日本版にも記者会見の記事が報じられており、やや厳しい意見が少なめの記事内容です。こちらは首相記者会見発表に関係する記事をネットで探して回りますと、野田首相の発表に否定的な意見が多くて、その後の福島第一原発事故の様子が伺えます。ショックなニュースは福島県は言うに及ばず首都圏三千万人の人口減少を生じているとあります。原因は外部への住民流出です。何とも後世に長く影響する暗いニュースです。

http://prepper.blog.fc2.com/blog-entry-113.html

 思い込んでしまって自分でもどうしようも無いときがありますが、福島第一原発事故で日本現状の暗部までのぞき見したようであります。人間エゴの有象無象が続く世の中から身を守るためにはどんな具合に身構えれば良いのか?考え込んでしまいます。われながら生涯を凡人で過ごす身です。

 こんな時は何か心境の変化を及ぼすような人、神頼みならぬ、ダライ・ラマ十四世の著書「ゆるす言葉」をひもといてみました。心の安寧を求めて「ゆるす言葉」をブログへ写経します。「人類、さらにはすべての生きとし生けるもの-人間も動物も-には、幸福を求め平和に暮らす権利があります。これとは反対に、他人へ痛みや苦しみを与える権利を持つ者など一人もいません。」と。すんなりと心の中へ入り込んでくる言葉で、原発事故の悲惨な状況への対応基準が出来そうです。

 この教えのタイトルは「思いやり、愛すること」とあります。二頁目を開きますと教えは続いて、「ゆるしの気持ちを身につければ、その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことが出来るのです。ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、「自分を自由にする手段」です。」とあり、ゆるしを「自分を自由にする手段」と拝聴して、心のわだかまりとは、表現が不適切でもありますが、人間を不幸にする大元だと感じ入りました。

八月の休日に思い浮かぶこと

2010年08月29日 18時10分48秒 | 宗教
8月29日(日) 

 どうやら夏の疲れが出て来たようで、終日を自宅休養に充てて静かな一日を過ごしました。さすがに思い浮かぶ事もなくて雲の流れが一日の慰め相手で、内之浦のえっがね(伊勢エビ)祭りも来週へ持ち越しとなります。八月の終わりはこんなものと、つまり、体力消耗に気をつけて無理を持ち込まない事であります。体に無茶をしますと内蔵に負担をかけて秋冬へ発病の原因を抱え込む事になります。無茶とは判断を迷うほど夢中になる事であります。


東串良漁港の光景(撮影:2010.8.28)

田舎暮らしの良さは人様の意向をあまり気にせずに生活出来る事でしょうか。マイペースを比較的に多く保てます。この辺が長寿への分かれ目でも有りましょう。どなたかも申しておりましたが、善悪の判断など所詮は人間の取り決め事にしか過ぎず、ところ変われば神様まで替わります。人間の行う事などその時代の都合次第か。余談ですが、雲の流れが目に染みるとは少年の日を思い出す光景です。



開聞岳登山の感想を、この際に、申して見ましょう。つまり、開聞岳に神が鎮座されておわすのかどうか?です。感想ですから答えを先に申しますと、神はおわします。それが登山後二週間での感想であります。神がおわす証明をどのようにしたら良いか?答えは開聞岳登山に挑戦されてみる事です。至って簡単でありますが、筆者にも若さが有るならば開聞岳登山百回に挑戦してみたいものです。



まだ、登山後二週間ですから、神が居りますという答えの本質まで説明がたどり着くかどうかですが、開聞岳登山の五時間半は登るにしろ降るにしろ脚力を求められます。それに登山道の行程は大半が無風状態ですから、体力の消耗が著しく激しいものです。水分補給が無ければ脱脂状態間違い無しです。あのように激しい運動で体力を著しく消耗する機会など日常生活には滅多にありません。霧島縦走登山にしても、行程に要する時間は同じ五時間半ほどでありますが、救われる事は風が有りますし大半の箇所で周囲の風景が見えます。



前期高齢者ならずとも、開聞岳登山とは、比較対象でないかもしれませんが、霧島登山より遙かに危険が伴うとみました。しかし、登山中はどの登山者も必死であります。まさに登山者が必死とは危険が近寄り難い状況にあります。あの必死で登山する状況とは、つまりは何かに念じている状況と同じだなとみました。夫婦して我が子二人をそれぞれの肩に背負った登るさまなど、これこそ、何かに念じているさまそのものであります。



神とは念じる者に救いの手を差し伸べん。何処かで記憶した言葉です。開聞岳の麓に出向きこの山にあの男が申した如く神がおわすかどうか?自問自答するのも夏の日ならではの行事になります。神様を装飾品に見立てるのも如何と考えますが、開聞岳と開聞岳大神とを重ね合わせて思い起こしますと、これは一段と山容が栄えて見えるものです。

ささやかな感想

2010年06月29日 19時00分46秒 | 宗教
6月29日(火) 
 雨で行動もままならず、なんぞ思いにふけるものは無いかな?ダライラマ法王来日法話を思い返しておりますが、まずは法王の情報整理から入って見ましょう。情報はわずかですが、法王の生年月日は一九三五年と言いますから今年で七五歳で、がっちりとした体躯と程よい体重に色艶の良い肌具合から健康状態は素人目にも良好であると推察できます。今月中旬に来日、インドからの長旅で疲れも有るだろうにと思いますが、法話や講演の中から言葉の衰えを感じることは有りませんでした。


The strangely shaped rocks of Mt. Takachihonomine.高千穂峰山頂手前の奇岩(撮影:2002.10.5)

筆者夫婦の指定席は演台からはやや離れた場所でしたが眼前には大型スクリーンが設置されておりカメラは法王の表情や仕草を克明に捉えて観衆に生き仏をまるで隣人の如く伝えます。ついつい観察癖が出てきて、結果から申しますと法王は人間の生理現象に極めて従順と申しますかあくびの出るときは祈りの時間でも小さくあくびをして、にこやかな表情を絶やすことがありません。


Ama no sakahoko.高千穂峰山頂の天の逆鉾

また、観衆の真剣な表情に答える意味合いも有るのでしょうか、日本語通訳が会場に響く法王の沈黙時には笑顔で言葉を表現されていると理解しました。自然体とはかかる状態を指すのかと感じ、なるほど、仏教とは神を信じない宗教と言う意味合いが伝わり、絶える事の無い笑顔はチベット僧侶として長年修行のたまものと理解しました。


Torii in which a sanctuary is shown.天の逆鉾がご神体であることを示す鳥居

また、インド・台湾・韓国・モンゴル・チベット・日本と各国僧侶が唱える声明にはひたすら聴き入ると申しますか、楽しんでおられる様子さえ伺えて法話による出逢いの喜びが観客席まで伝わってきます。この声明の時間を昼食後一時から二時までの一時間設定されて、その中でアジアの仏教を紹介する場に変えるなど、それなりに主催者の意図も見えてきます。ダライラマ法王法話の元では声明が映えます。お国柄と言いますかアジアの仏教がどのような歴史を積み重ねて来たのか、声明を通じてご披露している如く思えました。


I looks down at Mt.Ohati.帰路の山頂から眺める御鉢

さて、では人間とは何なのだ?と日頃考える事について、法話でどのような知恵を頂いたのか、自分なりにお復習いをしてみます。人間とは頭形からして両手の平一杯の頭脳、これは万民全て同じです。その頭脳により人はそれぞれに何らかの課せられた役目を担っているはず。人の頭脳には無駄と言う言葉は通じません。周囲の人は対象となるその人が果たす役目に遅かれ早かれ気づくべきです。凡人の悲しさ、まずはその人が果たす役目を理解しないとその対象となる人を理解仕切れません。この辺りが修行の無さか。


A green mountain trail.緑の林を高千穂河原へ

午後の講演で法王が申された事の一つは「今世紀は世界を一つに捉えて物事を考える」と続きます。この辺り筆者の理解度で解釈しますと、ダライラマ法王も世界の旅人。人の世に有情が存在する限り人間は英知を傾けて宗教を創造したと理解します。人類が宗教を持つようになって幾千年を経たのでしょうか?新世紀も早十年が過ぎてなお宗教を必要とする人々は減少しないさまを会場に見ました。


The way back is one hour and 15 minutes.古宮から振り返る御鉢と高千穂峰山頂