平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

三島由紀夫と2・26事件(1)

2005年11月28日 | 三島由紀夫について
 2・26事件というのは、1936年(昭和11年)2月26日に起こった皇道派青年将校らによるクーデター事件です。

 その当時、陸軍の中には、対外問題(満州問題、対米英問題)と国内問題(貧富の差の拡大、とくに農村の疲弊)をめぐって、統制派と皇道派と呼ばれる二つの派の対立がありました。統制派(軍幕僚ら)は、官界・財界と連携しながら、軍主導による国家改造を目指しましたが、皇道派(主として青年将校)は、官界・財界と天皇取り巻きの重臣らこそが腐敗の元凶であるとして、既存支配体制を打倒し、天皇親政の「昭和維新」を目指しました。皇道派の理論的背景は北一輝の『日本改造法案大綱』だと言われています。

 昭和天皇はこのクーデターに激怒し、クーデター軍を反乱軍と見なし、鎮圧を命じます。結局、クーデター軍は天皇に否認され、2・26事件は失敗に終わり、首謀者らは非公開の軍事裁判で極刑に処せられます。しかし、この事件をきっかけに、軍部の政治介入がいっそう強まり、議会制民主主義は完全に息の根を止められ、日本は戦争に突入していくことになります。

 三島由紀夫は2・26事件に関心をもち、この事件に関係した作品を数篇書いています。彼は1966年(昭和41年)に、『英霊の声』、『憂国』、『十日の菊』という、2・26事件関係の3篇を合わせた本を河出書房から出していますが、この本は今年、河出文庫版『オリジナル版・英霊の声』として刊行されました。

 この本に三島は、「二・二六事件と私」という解説文をつけています。

 これを読むと、2・26事件が起きたとき、三島は11歳で、学習院初等科の生徒でした。彼は子供心に、蹶起将校らを「英雄」として憧れ見ていたようです。

 ちなみに、三島は大正14年=1925年生まれで、彼の年齢は昭和の年号と同じになります。まさに昭和とともに生きた作家でしたが、あとでも述べるように、彼における最大の問題は昭和天皇その人であったのです。

 文学者になってからも、彼は2・26事件に関心をもちつづけ、ときどき関係文献に目を通していたようです。その彼がこの事件と本格的に取り組むようになったのは、4部作の長編『豊饒の海』を書き始めたときだと、「二・二六事件と私」(1966年)に書いています。

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たまたま昨年〔1965年、昭和40年〕からかかった四巻ものの長篇の、第一巻を書いているうちに、来年からとりかかる第二巻の取材をはじめた。たわやめぶりの第一巻「春の雪」と対蹠的に、第二巻「奔馬」は、ますらおぶりの小説になるべきものであり、昭和十年までの国家主義運動を扱う筈であった。それらの文献を渉猟するうち、その小説では扱われない二・二六事件やさらに特攻隊の問題は、適当な遠近法を得て、いよいよ鮮明に目に映ってきていた。
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 しかし、彼の2・26事件関係の最初の本格的作品である『憂国』は、それ以前の1960年に書かれています。戯曲『十日の菊』は1961年の作です。『英霊の声』は1966年です。


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