*東西文学に見る超然たる境地と人間の内面を問いかける精神と:---
文明が発達してグローバル化が進むにつれ、西洋は西洋、東洋は東洋とばかりは言えなくなってきて久しい。
西洋が例えば、シェイクスピアやゲーテに見られるように、問いかけ人間の内面に深く入り込んでいくのに対して、東洋は陶淵明に見られるように、超然とした境地に心が年齢と共に落ち着いていくのも理にかなっている。
若いころは あんなにも知識への渇望に強く共鳴し西洋文学の精神に惹かれたものだが、年を重ねるにつれて、自然との調和や静謐なこころのあり方により深く目が行くのも自然かもしれないのだ。
例えば、シェイクスピアのハムレットは「生か死か、生きるのかそうでないのか、それが問題だ」To be,or not to be,-that is the ques-tionと悩み、ファウストは魂を悪魔メフィストに売ってまで賭けをし知へのあくなき探求をしたのに対して、陶淵明は詩において全てから脱却し穏やかに自然と共に生きるのを理想とした。そのような点から漱石は「草枕」で、知に働けば角が立つ、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だと文頭で述べ、非人情の世界を理想の境地として描いた。 */-62*--62*--/*+*+