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仔羊の回帰線

詩と散文のプロムナード :Promenade

◎* アニマ・アニムス;  自己回帰への道

2025年07月19日 09時38分21秒 | *文学・学問・詩・余滴: Ⅰ-Goo

 イモヌス先生はスイス生まれの神父にして文芸学者。背は高く四角く細長い顔には、細い目に銀縁の眼鏡をかけ、少しとっつきにくい。そのためか、女子学生はちょっと陰険ね、などと時おり囁きあっていたものだ。   確かに、丸顔の骨太でピンク色した艶やかな顔に、やはり銀縁の眼鏡をしていたが、厳格にみえても親しみのある言語教育学者のProf.フェールケン先生と比べればそう云えなくもない。

 このイモヌス先生が書かれた数ある論文のひとつに「ドイツ文学における深層心理学的原型」というのがある。他の多くの論文中でとりわけ目に留まり覗いてみると、《アニマ・アニムス》という項目があり、《自分への回帰の道》という語句が目を引いた。

    少し読んでいくと、スイスの精神分析学者として有名なユングの学説に基づき、《アニマの原型が男の無意識層に作用する原型理解:》 に基づいて文芸学的に解釈を試みたものと知れた。    これは文学史上に名を留めた多くの作家やその作品に触れ、縦横に論じた70ページほどの論文で、こんなユングから引用された一節がある。: 

--《前半生における人間の課題は、外的現実への適応と、確固とした自我の形成にある。それは外へ向かう道である。 》

    ところが後半生では、この自我は大きく方向を変え、自我の根源から新たな生命力をくみ取り、今度は自覚的に、この根源に根を下ろさなければならない。 自我は無意識に、いつの間にか遠く離れた所へ来てしまっているから、根無し草にならぬために、もう一度 自分と繋がりをつけ、新たに結ばれなければならない、・・として この人生の転機はたいてい、人生の危機と結びついている、・・   というのである。

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*美と芸術:-禁断の欲望:.マン「ヴェニスに死す」

2025年06月09日 09時00分09秒 | *文学・学問・詩・余滴: Ⅰ-Goo

 「旦那はお残りになるのですね。例の病気は怖がったりは なさらないのですね・・」  アッシェンバッハは理髪師を見つめた。                             リドに滞在して4週間目にグスタフ・フォン・アッシェンバッハは周囲の世界に幾つかの無気味な経験をした。                             第一に、シーズンが真っ盛りだというのに客の数が増えるよりは減っている気がする。 とりわけ、周りからはドイツ語が聞かれなくなって、食卓や砂浜では外国語しか耳に入っては来ないのである。  

    「例の病気?..」とアッシェンバッハは聞き返した。お喋りの理髪師はすると、忽ち、口を噤んでしまった。                                                                         5の冒頭より---**

   ・アッシェンバッハは早熟な作家で50歳にして貴族の称号に値するフォンvonという敬称があたえられた。                              作品にはプロイセンのフリードリッヒ大王の生涯を詠った散文叙事詩や、アンチテーゼの雄弁によってシラーの「素朴文学と感傷文学」に比肩するといわれた論文「精神と芸術」などがあった。

           ・彼は新しきものへの憧憬や、自由を渇望する遁走の衝動から旅ごころに誘われヴェネツィアに旅立つ。                            そして そこで彫塑的に美しいタジオ少年に出逢い惚れこむ。                                      だが、そこではまた、疫病が蔓延しはじめ、なにか異変が漂っているのに気づくのである。> ---            ***     ->

*   トーマス・マンの「ヴェニスに死す」は深い情感と美学的探求を巡る物語で、貴族の称号を得た後の人生の危機に瀕した作家アッシェンバッハがヴェニスで自由と芸術的インスピレーションを求める旅に出る様子を描いて彼の内面の葛藤と、美少年タジオへの憧れが強烈な印象を与える。

 マンはアッシェンバッハを通じて、美への追求がもたらす可能性と危険性を探るのだが、ヴェニスの魅力的な景色とそこでの出会いが、アッシェンバッハの内面世界に深い影響を及ぼし、彼の創造性と人生観に変化をもたらしたこの物語は美と欲望、死と永遠のテーマを絡め合わせ多くの思索を促すのである。

「ヴェニスに死す」Der Tod in Venedigはトーマス・マンの代表作の一つで、文学としての美しさとともに人間存在の複雑さを浮き彫りにしている。---    トーマス・マンの「ヴェニスに死す」は美と芸術、そして禁断の欲望を探求する作品で、主人公のアッシェンバッハはヴェネツィアの美しい景色と静寂の中で若きポーランド貴族の息子タジオに心を奪われタジオの美しさに魅了されるのであり、彼の姿を追いかけることに夢中になるが、これは彼の内面の葛藤と欲望の象徴でもあり、少年タジオへの深い憧れはアッシェンバッハの芸術家としての理想と現実の間の狭間を表し、彼の精神的な苦悩を深める要因となる。***

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*ゲーテとメンデルスゾーン:

2024年05月10日 08時42分53秒 | *文学・学問・詩・余滴: Ⅰ-Goo

     今はあまり知られていない作曲家ツェルターは、ゲーテの晩年に10年ほど親交のあった友人である。    そして彼との書簡によく出てくるフェリックスというのは、メンデルスゾーンのこと。

 彼が若干21歳、ゲーテは晩年の80歳のころの親しき交流で、フェリックスはイタリアのローマから手紙を送る。

 メンデルスゾーンの作曲に「イタリア」があるが、イタリアはゲーテに多大な影響を及ぼした国である。                            というのも、ゲーテは37歳の時、秘かにヴァイマールから脱出してローマに辿り着くと、古典主義の大作 「イフィゲーニエ」 Iphigenie auf Taurie や  「トルクワード・タッソー」 を書き上げている。

    太陽の燦燦と降り注ぐ南の明るい国イタリア。: それに比して、暗い北国のドイツ。・・・  イタリアは当時、ゲーテ憧れの地であり、いかに素晴らしき国におもえたことかは、彼の個々の詩や詩集「ローマ悲歌」 Rom-ische Elegienなど見ても分る。

 ところで、ゲーテが今,どの程度、浸透しているかは問うまい。        当時も、大衆作家で人気のあったイフラントやコッツェブーと比べれば遠く及ばなかったという事実もある。                          だが、今なお読み継がれ、ゲーテ全集が年を追って幾度も編纂、出版され、深く研究されてきたことを見れば、ゲーテは偉大なる詩人であることは疑いもない事実なのである。

 

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*ハムレットは金髪:「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」より

2024年03月16日 12時30分50秒 | *文学・学問・詩・余滴: Ⅰ-Goo

「処で、シェイクスピアはハムレットをどんなふうに描いているのでしょう」---「何よりもまず、金髪なんですね」  とヴィルヘルムは云った。---「穿鑿しすぎよ」  とアウレーリア。   「どこから そんな考え浮かぶのかしら」---「北国デンマーク人であれば、生まれつき金髪で青い目に決まっていますからね」       「シェイクスピアはそんなことまで」---「はっきりとは書いてはいませんが・・」

フェンシングは彼には骨が折れ汗も流れる。ですから王妃も、〈太っていらっしゃるのですから、ひと息 おつきなさいな> ・・などと声をかける。---      ですから、ハムレットは金髪の太っちょと、それに憂鬱症で涙もろく、実行は乏しく、あれかこれかで悩んでばかり  優柔不断な性格、 つまりHamlet, der Zaudererというわけなのです。

  でね、すらりとした栗色の髪の青年とは考えにくい。・・  すらりとした栗色の青年でしたら、果敢で敏捷ですからね・・---  「太っちょの金髪のハムレットなんて、まっぴらね。太った王子なんて」 と アウレーリアは云った。   「それよりか、原作者よりも魅了させてくれる人物像をみせてほしいわ。 魅力あるほうが素敵ですもの 」

   Goethe: Wilhelm Meister's  Lehrjahre  ゲーテより

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*「ヴェニスに死す」:トーマス・マン より

2024年03月03日 09時53分56秒 | *文学・学問・詩・余滴: Ⅰ-Goo
 「ヴェニスに死す」という映画でも知られているトーマス・マンの短編に、同名Der Tod in Venedig がある。
これは中年の避暑にきた作家が、若くて美しい青年にプラトニック愛を抱くテーマを扱ったものだ。:
  リドに滞在して4週間目、グスタフ・フォン・アッシェンバッハは、周囲の世界に、幾つかの不気味な経験をした。
シーズンが頂点に近づいているのに 海水浴場に臨むホテルの客は減ってくるばかり。   周りで話されているドイツ語が少なくなり、竟には、一言も聞かなくなっていた。
食事の際も浜辺でも、耳に入ってくるのは外国語ばかり。
或る日のこと、理髪師のところで話していると、妙な一言を聞いた。:---     理髪師は旅立っていったドイツ人家族を話題に、云った。
「旦那はまだ、お残りで?.. 例の疫病のこと、気になさらない?..」
 すると、アッシェンバッハは見返し、
 「えっ?...何のことかね?...」
理髪師は途端、口を噤(つぐ)み、聞こえぬふりをした。 だが、・・
    *- *-  (((   *
Sie haben ,mein Herr, Sie haben keine Furcht vor dem Ubel  ?
Dem Ubel?.. Aschenbach sah ihn an und sogleich wiederholte er .
Der Schwatzer verstummte doch,und tat beschaftigt.
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*憧れと美徳: ソクラテスと美少年:マン「ヴェニスに死す」より より

2024年02月05日 08時50分40秒 | *文学・学問・詩・余滴: Ⅰ-Goo

   芸術は より高められた生活である。:--- 醜い老賢者ソクラテスが美少年パイドロスに延々と、憧れと美徳について教えを垂れていた: ---"... なぜなら パイドロスよ、ただ 美だけが 愛するに値すると同時に眼に見えるものだからだ。 美こそが 感覚的に受け入れ 耐えることのできる 精神的な ただ 一つの形式だからだ。   --- もし そうでなくて理性や美徳や真理が、それ以外の姿で 顕れたとしたら、われわれは どうなってしまうであろう。 :   ---  昔、セメレーが ゼウスの前で 身を焼き尽くしたように、我らも 愛のために 身を焼き尽くすのでは なかろうか。  したがって、美は 感じやすい人間が 精神に至る 道なのだ。道であり 手段にすぎない。      ---                                       パイドロスよ、 それから このソクラテスは 最も 微妙なことを口にした。:よく 聴くがいい。愛する者は 愛される者より  神に近い。  なぜなら 愛する者には 神が宿っているが、愛される者には  そうではないからだ。>>>   ---

   蓋し芸術は人生より深い幸福を 感じさせるが、また、より疲れさせる。                            

 トーマス・マン「ヴェニスに死す」より                                              T. Mann: Der Tod in Veneig

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*酒飲み判事 :ホフマンについて

2024年01月09日 13時05分37秒 | *文学・学問・詩・余滴: Ⅰ-Goo

「悪魔の霊液」や「砂男」「雄猫ムルの人生観」など、幻想怪奇文学で知られるホフマン。     -   彼はナポレオン軍侵攻によりプロイセン判事の職を失ったばかりでなく身辺の苦境にも耐えつつ、交響団の楽長となるも指揮者としては成功せず。   が、逆境のなかから文学者としてのホフマンが生まれてくる。が、また、声楽の愛弟子の少女ユーリア・マルクとの恋愛体験も作家ホフマンの誕生には見逃せない。 --**)) *

 「もしもし、お嬢さん、お疲れのよう。・・さては 乙な一夜の朝帰りですかな」  ふと見れば 娘の目には泪が浮かぶ。

「私、お馬鹿さんね」と云うや顔をこちらに向けた。頭痛を訴えてもいる。「神経性の頭痛には 泪も道連れですからな。となれば こいつに限る。この泡なる良薬は如何ですかな」というとシャンペンを注いでやる。始めは遠慮したが一口飲む。 堪えきれない泪が判ってもらえたのが よほど嬉しかったのだろう。だが、心が晴れていくとみえたその時、グラスをぶっつけるへまをやらかした。 鋭く響く音。と顔が蒼ざめた。グラスの触れ合う音が あの廃屋の狂った女の声と重なったからだ。   ホフマン短篇「廃屋」より

     *** )))  19世紀ドイツの小説家ホフマンは幻想文学の旗手。 が、痩せて蒼白く落ち着きのない小柄の男。 彼は昼間は王立大審院で判決文を書き、夜になればベルリンのカフェや居酒屋に出没する大酒飲み。そして梯子酒が好き。 -- とはつまり、精励な判事と大酒のみの両面を持ち合わせる変わった男。とはいえ、作曲もし 劇場監督もこなす並外れた才能の持ち主でもあった。

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*プロメテウスの寓話とホフマン短編 より

2023年08月14日 07時51分14秒 | *文学・学問・詩・余滴: Ⅰ-Goo

    〈プロメテウスの寓話〉というものがある。:                              創造主をもくろんで 天の火を盗み、命あるものを生み出そうとしたプロメテウスの話である。                                      驕慢にも 神を気どったプロメテウスはどうなったか。周知のように、劫罰を受けたのである。神に成り上がろうとした野望を抱いた報いとして、禿鷹に ついばまれても、死は訪れない劫罰。 **

  天上を望んだ者は 永劫の罰を受けるのです。
「然し、それが 絵画とどんな関係があるのです」
「たとえば 至高のものを求めるとしますね、ティツィアーノのように豊満な裸婦像をモテイーフに 独自の官能美を求めた肉体の至高ではなく、神々しい 自然の中の最高のもの、風景画でも歴史画でもいい、人間の中のプロメテウスの火に当たるもので、これは苦しい道です。・・       
そこでは奈落が 大きな口を開け、 頭上では 猛禽が待ち構えているのですから・・」 
     ホフマン: G町のイエズス教会 より

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*泉の畔の傷ついた鹿: というトポス

2023年08月12日 10時31分33秒 | *文学・学問・詩・余滴: Ⅰ-Goo

    文芸作品の創造は詩人の個性的な感情体験に基ずく、とばかりはいえない、といったら意外でろうか。                       「晩夏」Nachsommer などで知られる19世紀ドイツの作家シュティフターの作品の一節から:

 水澄みし谷川のほとり 息絶えた鹿は                            狩人に撃たれ 脇腹には弾丸の痕                             鹿は 苦痛から解放されようと 水を求めてきたのだ

鹿は川辺に倒れ 前脚を澄んだ流れに 突き出し                       だが 鹿の眼は まだ濁っていない                             いや その眼と表情は しずかに 語りかけてくる・・                     辺りは涼やかに 静寂に満ち・・

     ここで歌われているように、《泉のほとりの傷ついた鹿》というのは、型にはまった風景のひとつの舞台装置であり、古来からの常套的思考と表現の型で、これを称してトポスというのである。

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*「ドゥイノの悲歌」第二歌: リルケ より

2023年06月29日 08時03分13秒 | *文学・学問・詩・余滴: Ⅰ-Goo

   恋するものは寄り添い 満ち足りる                                                   されど われらが存在とは ?..                                                                いかに  身も心も浸りきっていようと                                                      それはひと時の 幻覚?!.--                                                                  それゆえ問いたい : 存在とは ?..                                                                      愛撫が時を止め                                                                              永久なるものと錯覚し                                                 そして なお憧憬し 期待はおおきく・・

けれども 歓びと憧憬と寄り添ふ時は 瞬時にすぎゆく                            されば 永遠とは何か それは信じ得るか                                                          その実態は仮象の行為か ・・

   Rilke  ;Die duineser Elegien                                                                                 Die zweite Elegie                                                                            リルケ 「ドゥイノの悲歌」 第二の悲歌 より

    ** ドゥイノの悲歌」は10篇よりなり、1912年から完成までに10年間を擁した。 その意とするところは、人間の存在は無常で悲歌的であるとしても、存在の肯定に努めたリルケの内的葛藤であった。

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