*フローベルは自作の主人公を盾にマダム・ボヴァリーは私だと云ったが、その真意は:----
・==>*: ボヴァリーは田舎の医師の妻として平凡な生活を送るが、それには満足せず、却って夢や欲望に駆られ、不倫や浪費に走る。 このボヴァリー夫人のキャラクターに対して深い共感と自己投影を示している作者は、マダム・エマの内面的な葛藤や欲望、そして社会に対する反抗心を描くことで自身の感情や経験を反映させた。ということからして、この作品は単なるフィクションにとどまらず、作者自身の内面的な世界の反映したものとうけとめることもできる。
・それでは、作者の「ボヴァリー夫人」における批判とは:---
*=>:以下の3つが挙げられる。一つは当時のブルジョワ社会の偽善と価値観であり、それは夫人の現実の平凡さや虚偽に対する反抗として描かれ、その2.:は女性の地位と自由ということ。:つまり、女性が社会的に抑圧されていて、自由を奪われている現実批判であり、その3.:-はロマンティシズムの脆弱さということ、つまり、エマ夫人はそんな理想に憧れを持つ女性であったが、現実はかけ離れていて、却ってその虚構性が暴露されることによって現実の厳しき状況が描かれている。 */-72*--72*--/*
・何か解決策は示されたか。:---
*=>:却って、小説であればこそ、結局はエマの悲劇になっている。 とはつまり、彼女は現実を受け止められず幻想に逃避し続けた結果だが、夢や欲望は現実とどれほど乖離しているか、それ故に、破滅が待っていたということ、これは勿論、フィクションの通り相場であり、が、だとしても、これを描くことによって現実の厳しさや自己欺瞞の危険性が示されたのである。ということは、理想と現実のギャップを認識し自己自身の価値観をこそ尊び見つめなおすことの大切さも暗示されているのだが、どうであろうかは個々人の問題ということになろう。--



ケラー:Keller



