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大好き!藁科川

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「坂本姫之碑」除幕

2010年11月10日 | 地名の由来
先日11月3日の文化の日、藁科川上流の清沢地区・坂本で「坂本姫之碑」の除幕式が行われたとのことで、その石碑を訪ねてみました。

この坂本地区の地名の由来には、800年ほど前から人の往来のあった藁科街道の要所のひとつ「肘打峠」の下(しも)にあたるため坂の本=坂本という地名がついた(この峠のかみが坂ノ上)という言い伝えの他に、栃沢で生まれた聖一国師の母親にあたる坂本姫が没した場所から“坂本”という地名になった(死亡1250年慶長二年)という伝承も残っています。

一旦は、埋もれかけた地域の伝承も、地元の方々のご尽力や、2007年に「安部七騎」(浅羽勝典氏)という小説が出版されたことを一つの機会として掘り起しが進み、「坂本姫の顔洗い場と腰掛石」や「赤沼」までの歩道整備や看板設置、そして今回の「坂本姫之碑」の造営に繋がってきたようです。

県道60号線を寺島の清島橋を渡った所で右に折れ、坂本の集落を過ぎて、一色まで登りつめ、その先の林道を上がっていった先、NTTゲートの手前に真新しい造営されたばかりの「坂本姫之碑」がありました。

この碑は地元の自然石が使われているとのことで、その隣に置かれた「坂本姫伝説と由来」では、京の都からやって来た米沢官女を母にもつ坂本姫、そして、その子が茶祖聖一国師であることなどが紹介されていました。

地域の方々の想いが、このようなしっかりとした形となって、坂本の集落が点在する谷状の風景を、上からいつまでも眺め下ろしているのでした。


“はんば”じゃなくて“はんま”だよ

2010年10月10日 | 地名の由来
現在、藁科川の中流と下流を分けるどてっぱらあたりに、第二東名の工事が進んでいます。

先日、藁科川右岸の飯間という地区を「この辺に、以前見た資料で水車の記述があったような・・・」と思い、飯間谷川にそって、ずっと峠に向かって車を走らせてみると、お目当ての水車は一向に見当たらず、それどころか山あいのはずの場所で、ぱっと眼前に見通しの聞く裸地が開けて、トラックが行き来する広大な工事現場に行き当たりました。

(なんじゃ、ここは・・・1?)

知らなかったのですが、ここに第二東名の静岡サービスエリアが出来るとのことで、道路工事中の看板を見ると、平成18年から続いていた工事も、来年のこの月には6年越しでの完成予定となっています。

高いところから改めて眺めてみると、山一つぐらい削り取ったのでしょう、広大な敷地が広がっていました。

それは置いといて、山の奥地での土木工事の場所や、作業現場のごはんを食べるところ・休憩所のことなどを飯場(はんば)と言います。今回水車を探した飯間(はんま)という地区も、地元では“はんば”と呼ぶ人が大勢いるそうです。

けれども、この地名の由来は、工事の飯場(はんば)から来ているようではなく、隣の集落である小瀬戸に山城があったことにちなんで、こんな言い伝えが残っているそうです。

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飯間(はんま)
 小瀬戸が御所の谷に象徴されるように宮様を中心とした形態がとられたのに対し、飯間は城兵の為の住居や武術の訓練場、その他の諸施設があったと想像されます。城兵や城に居候する近隣の将士及び兵馬の食料の準備は常に村人の労力に負う事が多く、雑用等にも駈りたてられたことでしょう。ある時、そんあ村人の献身的な奉仕作業を見つめていた某武将が感に打たれて「あなた方のご奉公は、我々が武器を持って戦う以上の価値ある尊い仕事だ、今日からこの村を飯間と言うが良い」と筆と板を選ばせ、墨黒々と飯間と大書して与えたと言われます。飯間とは飯すなわち食料を与える間ー村との意味だそうです。

『南藁科とその周辺』(小野田護.昭和52年)p196より引用

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