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韓国ムン大統領 任期満了まで1年 支持率最低水準に

2022-01-09 18:18:34 | 日記

韓国ムン大統領 任期満了まで1年 支持率最低水準に

韓国のムン・ジェイン(文在寅)大統領は、9日で任期の満了まで残り1年となります。

支持率が就任以来最低の水準に落ち込み、求心力の低下が指摘される中、冷え込んでいる日本との関係で任期内に事態を打開するのは難しいのではないかという見方も出ています。

韓国の大統領の任期は1期5年限りで再選は認められておらず、2017年に就任したムン・ジェイン大統領は、1年後の来年5月9日に任期満了となります。

ムン大統領は、北朝鮮との関係改善を最優先課題に掲げ、2018年には三たび南北首脳会談を行いました。
しかし、おととしアメリカと北朝鮮の2回目の首脳会談が物別れに終わってからは、韓国と北朝鮮の関係も行き詰まっています。

さらに、不動産価格の高騰などで支持率が就任以来最低の30%前後に落ち込んでいて、先月の首都ソウルと第2の都市プサン(釜山)の市長選挙ではムン政権を支える与党が大敗しました。

その与党内では、来年3月の大統領選挙に向けてムン大統領に近い主流派と非主流派がせめぎ合っており、大統領の求心力の低下が指摘されています。

ムン大統領としては、今月21日の米韓首脳会談などをきっかけに、北朝鮮との対話の再開に向けた機運を高めたいところですが見通しは立っておらず、厳しい政権運営を迫られそうです。
こうした中、冷え込んでいる日本との関係でも、慰安婦問題や太平洋戦争中の「徴用」をめぐる問題で、日本側にとって受け入れ可能な解決策を示すことができるのかは不透明で、任期内に事態を打開するのは難しいのではないかという見方も出ています。

ムン政権下で積み上がった課題

ムン・ジェイン大統領の支持率が就任以来最低の30%前後に落ち込んでいるのは、国民の生活にかかわる経済政策の失敗が影響しています。

世論調査で、ムン大統領を支持しない理由として最も多かったのが、首都圏を中心とした不動産価格の高騰です。

韓国では、ソウルやその近郊に全人口の半分が集中し、慢性的に住宅が不足していることに加え、低金利政策が続く中で不動産への投資が過熱したことなどから、ソウルではムン大統領就任後、マンションの平均価格が2倍近く上昇しました。

ムン政権は、不動産価格の抑制を図ろうとこの4年間にさまざまな政策を打ち出しましたが、価格上昇には歯止めがかからず、国民の不満につながっています。

こうした中、ことし3月、土地住宅公社の職員らが開発計画の発表前に値上がりが見込まれる土地を不正に購入していた疑惑が浮上。

ムン大統領は「公正な社会を実現する」と訴えていただけに、大きな反発につながりました。

また、ムン大統領は就任時から若者の雇用の確保に取り組むと強調してきました。

しかし、この4年間で雇用は改善せず、若い世代の支持離れにつながったと指摘されています。

新型コロナウイルス対策をめぐっても、批判や不満が高まっています。

去年前半は、徹底的なPCR検査などで感染の広がりを抑え、評価されましたが、去年12月に1日当たりの感染者数が過去最多になり、その後もさまざまな規制を行ってきましたが、感染者を大きく減らすことはできていません。

また、ワクチンの接種は2月下旬から開始しましたが、ほかの国にくらべてワクチンの確保が遅れたという批判も出ました。

最重要課題に掲げる南北関係も停滞したままです。

先月下旬に韓国の脱北者団体がキム・ジョンウン(金正恩)総書記を批判するビラを飛ばしたことに、北朝鮮が強く反発していて、事態打開の糸口すら見いだせていないのが実情です。

今月21日にワシントンで行われるバイデン大統領との首脳会談で、アメリカ側に対し、北朝鮮との対話の早期再開に向けた働きかけも行いたい考えとみられますが、北朝鮮の人権問題などで、双方の間には立場に差があるとの指摘も出ています。

次期大統領候補 注目の2人

韓国の次の大統領選挙は、10か月後の来年3月に行われます。

各党の候補者選びはこれから本格化しますが、7日に発表された韓国ギャラップの世論調査で、次の大統領にふさわしい人物として1位(25%)になったのは、革新系の与党「共に民主党」に所属し、ソウル近郊のキョンギ(京畿)道知事を務めるイ・ジェミョン(李在明)氏です。

前回の大統領選挙の際は、党内の候補者選びで敗れましたが、パク・クネ(朴槿恵)前大統領を激しく批判するなど、歯に衣着せぬ発言で注目を集めました。

人権派弁護士出身のイ・ジェミョン氏は、わかりやすいメッセージや大胆な行動力で支持を広げていると指摘されています。

国民の関心が高い経済対策では、一定額を無条件で支給し、最低限の所得を保障するベーシック・インカムの導入を掲げています。

道知事として新型コロナウイルス対策では2度にわたり市民に支援金を支給しました。

また、就職支援などにも力を入れ、SNSを積極的に活用し、若い世代にも浸透しています。

ただ、ムン大統領とは距離があるとされ、党内での支持をいかに広げることができるかが課題となっています。

このほか与党内では、ことし3月まで与党の代表を務め、韓国政界きっての知日派としても知られるイ・ナギョン(李洛淵)氏や、先月まで首相として新型コロナウイルスへの対応などを率いてきたチョン・セギュン(丁世均)氏の名前もあがっていますが、世論調査での支持率は、それぞれ5%と1%にとどまっています。

一方、世論調査で3ポイント差の2位(22%)になったのは、検察のトップ、検事総長をことし3月まで務めたユン・ソギョル(尹錫悦)氏です。

ユン氏は、政党に所属せず政治経験もありません。

検事総長として、ムン政権をめぐる疑惑の捜査を指揮し、大統領の側近だったチョ・グク元法相を辞任に追い込むなど政権側と激しく対立。

政権の圧力に屈しない姿勢が公正な社会を求める有権者から支持を集めているとみられます。

検事総長を辞任する際には「今後、どんな立場にあっても、自由民主主義と国民を守るために全力を尽くす」と述べ、政界に進出するのではないかという見方が広がりました。

検事総長を辞めてからは表舞台にほとんど姿を見せておらず、韓国メディアは、専門家との会合を重ねるなどして、大統領選挙に向けた準備を進めているとの見方を伝えています。

また、ユン氏の考え方を探ろうと、関連する書籍が相次いで出版されるなど、その動向が注目されています。

政権交代を目指す保守系の最大野党「国民の力」は、先月の2つの市長選挙で圧勝しましたが、大統領選挙に向けては世論調査で上位に入るような有力な人物がいません。

このため、野党の支持者などからは、ムン政権と対じしてきたユン氏への期待が高まっています。

専門家「選挙後も日韓厳しい」

日韓関係に詳しい韓国のソンゴンフェ(聖公会)のヤン・ギホ(梁起豪)教授は、太平洋戦争中の「徴用」をめぐる問題や慰安婦問題などについて、「両国間の立場の違いが大きく、来年3月には大統領選挙があり、ムン政権が日本に完全に譲歩する解決法を提示するのはかなり厳しい」と述べました。

また、次の大統領選挙の後についても「過去の歴史の争点について、すでに司法が出した判断があるため、これを前提に韓国政府は可能な方法を探さなければならず、革新政権でも保守政権でも大きな違いはないだろう」と分析しました。

そのうえで、日韓関係の改善に向けては「朝鮮半島の非核化や中国への対応は、両国が共有している認識だ。北東アジアの国際情勢の中で、両国が戦略的な利益を共有できるよう対話と意思の疎通を通じて交渉していく努力が必要だ」と指摘しました

韓国の盧泰愚元大統領の遺影と遺族ら 文大統領も葬儀欠席

2022-01-09 17:53:48 | 日記

ジャーナリスト・崔 碩栄

 去る10月末、韓国の盧泰愚元大統領が亡くなった。享年88歳。

1987年の大統領選で当選し、88年のソウル五輪を成功に導いた彼は、冷戦が終わった90年代にソ連(90年)、中国(92年)との国交正常化を成し遂げ、朝鮮半島の緊張緩和に寄与したと評価される政治家だ。

 一方、80年に軍首脳の一人として軍部の政権掌握に深く関与したという批判が常につきまとった。

全ての人間に功と罪があるように、彼にも五輪と外交的成果という「功」と、軍事政権の誕生に関わったという「罪」があった。

 ◆文大統領も葬儀欠席

 韓国政府は彼の葬式を「国家葬」として行った。国家葬は政府が費用を負担し、首相が葬儀委員長を務める。

官庁には葬儀期間中、弔旗が掲揚される。かつて大統領を務めた人物に対する礼遇だ。

 しかし、その中身と韓国社会の反応は国家葬というには、あまりにもかけ離れていた。

 まず、文在寅大統領は葬儀に姿を見せなかった。欧州歴訪直前だったとはいえ、出発前に1日の時間があったにもかかわらず、弔問に行かなかった。

 2019年1月に元慰安婦の金福童氏が亡くなった時、文大統領自ら葬儀場に足を運び、故人の写真の前でひざまずいて頭を下げた姿とは、あまりにも対照的だ。

 文大統領の不可解な行動は、欧州歴訪中にも続いた。

ローマで開かれたオーストラリアのモリソン首相との首脳会談で、お悔やみの言葉をかけられる場面があったが、それに対して、文大統領は「お礼」の一言も言わずに沈黙したのだ。

これには豪州側も戸惑っただろう。

 韓国政府の非礼は、それにとどまらなかった。

故人が韓中修交に貢献したことから、中国の習近平国家主席から韓国外務部に弔電が届いたが、これを外務部が遺族に伝えなかったのだ。

 遺族はその事実を駐韓中国大使の電話を受けて知り、政府に問い合わせると、政府は弔電を受けてから3日後に伝えたという。

 韓国政府は「外国から『遺族に必ず伝えてほしい』という要請がなければ、必ずしも伝える必要はない」と説明したが、これは遺族だけではなく、中国側にも大変失礼な対応だ。

 ◆メディアも露骨

 このような非礼は、韓国メディアも同様だった。

盧元大統領の死を伝えるニュースでは「逝去」「他界」のような敬意を込めた表現の代わりに、一般人の訃報や事故記事で使う「死亡」という表現を使用。

 さらに「元大統領」という称号さえも惜しかったのか、テレビのテロップには「盧泰愚氏死亡」、そして呼び捨ての「盧泰愚永眠」という表現まで登場した。

現政権もメディアも、敬意ではなく、敵意を露骨に表したのだ。

 現政権とメディアが非礼な反応を見せたのは、彼が軍人出身の大統領だったからだ。

 現政権の中枢は80年代の学生運動を主導した勢力、つまり過去に軍事政権を「敵」として戦ってきた人々だ。たとえ20年以上の時間が経ったとはいえ、過去に軍部の中心人物だった彼のことを依然として根に持っているのだ。

 それにしても、韓国政府とメディアが今回見せた行動については、やはり大人げないと指摘せざるを得ない。

故人には罪があったかもしれないが、87年の民主的な選挙によって国民に選ばれた大統領だ。

 ◆日本に必要なのは

 87年当時の有権者は、後に大統領になった金泳三、金大中の両氏よりも彼を支持した。

文政権は強引な政策を進めるとき、よく「民意」を名分としていたが、本当に民意を尊重するなら、自分たちの恨みを抑え、国民が選んだ大統領に対しても敬意を払うべきだった。

 実は、今回の盧元大統領の逝去に対する韓国社会の反応を見て、私の頭に最初に浮かんだのは日韓関係だった。

 

 自国の大統領の「功」を評価し、負の記憶は水に流すという「内輪の和解」ができない韓国が、35年間の朝鮮を統治した日本に対して客観的な評価を下すのはまだまだ先のことに思われたのだ。

 日韓の関係改善を促すことは結構なことだが、日本に必要なのは早急に結果を期待することではなく、まず韓国が「内輪の和解」ができることをじっくり見守る「余裕」ではないかと思う。

 (時事通信社「金融財政ビジネス」より)

  ◆【崔さんの眼】記事一覧へ◆

 【筆者紹介】

 

 崔 碩栄(チェ・ソギョン) 1972年生まれ、韓国ソウル出身。高校時代から日本語を勉強し、大学で日本学を専攻。1999年来日し、国立大学の大学院で教育学修士号を取得。大学院修了後は劇団四季、ガンホー・オンライン・エンターテイメントなど日本の企業に勤務。その後、フリーライターとして執筆活動を続ける。著書に「韓国人が書いた 韓国が『反日国家』である本当の理由」「韓国人が書いた 韓国で行われている『反日教育』の実態」(ともに彩図社)、「『反日モンスター』はこうして作られた」(講談社+α新書)、「韓国『反日フェイク』の病理学」(小学館新書)など。

 (2021年12月13日掲載)


韓国経済が近頃日本経済を超えるとよく聞きますが、本当でしょうか?

2022-01-09 17:33:21 | 日記

韓国経済が近頃日本経済を超えるとよく聞きますが、本当でしょうか?

 
 
回答数: 7件
 

正直、そんなわけないでしょう。

と言うのも、国の成長性や将来性を図る重要な要素の一つに人口動態があり、その中で将来的な人口の増減を予測する最重要な指標が「(合計特殊)出生率」です。

 

で、この出生率ですが、2020年のデータで日本は1.34です。かなり低いですね。

平均して夫婦二人から子供が1.34人生まれるので、人口は親→子と1世代交代すると0.67倍になります。

親→子→孫の2世代交代だと0.45倍ですね。

単純計算ですが、60年くらいで人口は12,600万人→5,400万人と半減してしまいます。

国力の維持にはある程度の人口が必要な事を考えると、実はかなりヤバいです。

一方、韓国は0.84!です。

親→子の1世代交代で0.42倍、親→子→孫の2世代交代だと0.18!倍です。

これも単純計算で、60年後は人口が5,100万人→900万人です。

日本のヤバさとは桁違いにヤバいです。

そもそも国として維持できるのか?というレベルですね。

人口の自然減だけでこのレベルですが、社会減を加えるとさらにこの傾向の差は加速します。

高等教育を母国語ではなく英語で行えば、当然優秀な人材ほどアメリカなどの英語圏に流出しますし、若年層の失業率の高さはこの傾向に拍車をかけますので、さらに加速度的に少子化による人口減少が進んでいきます。

そして、このデータは公表されてます。

なので、世界中の企業や投資家は常にアクセスしています。

 

ますか?データを見る限り、外国企業はもとより韓国の企業でさえ、国内を見限って外国へ投資するでしょうね。

さて、韓国経済に成長性はあるでしょうか?

むしろ、韓国と言う国そのものに将来性はありますか?と僕は問いかけたくなります。

このように、見かけ上のドル換算GDPも大事な指標ですが、出生率に着目すると、別の側面からその国の真の姿が見えてくると思います。


戦勝国が敗戦国を裁く政治的セレモニー

2022-01-09 17:14:30 | 日記

近刊『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)が発売4日でたちまち重版・4万5000部突破の気鋭の戦史・紛争史研究の山崎雅弘による新連載です。

日本の近現代史を世界からの視点を交えつつ「自慢」でも「自虐」でもない歴史として見つめ直します。

『5つの戦争から読みとく日本近現代史』からそのエッセンスを紹介しています。第9回は政治的セレモニーだった「東京裁判」の実相を解説します。

政治的セレモニーだった「東京裁判」の欺瞞

戦勝国が敗戦国を裁く政治的セレモニー

天皇の人間宣言から5ヵ月後の1946年5月3日、東京の市ヶ谷にある旧陸軍士官学校の講堂で「極東国際軍事裁判」と呼ばれる、歴史的な出来事の幕が開かれました。

この「裁判」の基本的な構図は、日本が第二次大戦中に犯した「戦争犯罪」を、戦勝国であるアメリカ、ソ連、イギリス、中国、フランスなどの計11ヵ国の「連合国」代表が裁くというものでした。

しかし、実際に裁判が始まってみると、そこで日本の「罪状」とされた条項の中には、当時の国際法ではきちんと定義されていない「平和に対する罪(戦争を始めた罪)」や「人道に対する罪」などの新しい概念が含まれていたため、被告となった日本の戦争指導者の弁護人はもとより、連合国の側にいる人間からも「この裁判はおかしいのではないか」という疑問の声があがっていました。

東京で開かれた極東国際軍事裁判(以下「東京裁判」と略)は、この前年の1945年11月20日にドイツのニュルンベルクで開始された、ナチスドイツの戦争指導者に対する同様の国際法廷「ニュルンベルク裁判」と対になるもので、第二次大戦は「日本とドイツという二大侵略国」によって引き起こされた戦争だと、国際社会で強く印象づけることが、その主な目的でした。

つまり、この二つの裁判は、第二次大戦の勝者である連合国が「善」、敗者であるドイツと日本が「悪」であるとのわかりやすい図式を、国際法廷という権威づけの形式をとって歴史に記録する、いわば戦勝国主導の「政治的セレモニー(儀式)」でした。

これらの裁判の発端は、玉音放送から一週間前の1945年8月8日に、米英仏ソの四ヵ国代表者がロンドンで調印した「国際軍事裁判所憲章」で、まずドイツの戦争指導者を対象とするニュルンベルク裁判の準備が進められました。

この憲章の第六条において、戦争犯罪の定義を「平和に対する罪」「(通例の)戦争犯罪」「人道に対する罪」の三種類に区分することが決定され、これがニュルンベルク裁判と東京裁判における罪状判断の基準とされました。

ここで言う「平和に対する罪」とは、侵略戦争の計画・準備・実行、既存の国際条約に違反する形での戦争の計画・準備・実行などを指し、「人道に対する罪」とは、殺人や虐殺、奴隷化、国外追放、その他の非人道的行為を指すものと規定されていました。

また、被告となった日本の戦争指導者も、この三種類の区分に分けられ、「平和に対する罪」の被告がA級戦犯、「(通例の)戦争犯罪」の被告がB級戦犯、「人道に対する罪」の被告がC級戦犯と呼ばれました。つまり、A級・B級・C級という戦犯の区分は、罪状の軽重ではなく、その内容によって規定されたものでした。

A級戦犯として訴追された日本の戦争指導者は、計28人で、東條英機元首相をはじめ、板垣征四郎(満洲事変当時の中心人物)、松井石根(南京攻略時の中支那方面軍司令官)、松岡洋右(日独伊三国同盟締結時の外相)などでしたが、日中戦争開始時の首相だった近衛文麿は、A級戦犯として訴追されると知らされた後、裁判が始まる前の1945年12月16日に服毒自殺しました。

また、戦前戦中の日本で最高決裁者とされていた昭和天皇は、裁判の始まりから終わりまで、一度も訴追の対象にはなりませんでした。

東京裁判に代表を送った連合国の中で、オーストラリアと中国は天皇の訴追を強く求めましたが、当時大きな権限を握っていたマッカーサーは、前記したような「日本統治の方針」に基づき、占領政策の円滑な遂行には協力が不可欠だと考えていた天皇が戦犯として訴追されないよう、取り計らいました。

こじつけ、人違い、事後法……
「東京裁判」の欺瞞の正体

東京裁判で、日本の戦争指導者や日本軍人に対する訴因として挙げられた55項目の中には、事実関係から見て明らかに「おかしいもの」も含まれていました。

例えば、1938年の張鼓峰事件と1939年のノモンハン事件は、どちらも満洲国とソ連およびモンゴルの国境認識の相違が原因で生じた「国境紛争」であり、共に戦闘終結後の外交交渉で決着がつけられた問題でした。

人がほとんど住んでいない場所が戦場だったため、一般市民の死者も全くいなかったはずでした。

しかし、東京裁判では、張鼓峰事件とノモンハン事件は共に「平和に対する罪」の「侵略戦争の遂行」と、「殺人とその共同謀議」の「ソ連・モンゴル軍人およびソ連の一般人の殺害」の両方で、罪状として挙げられていました。

これを罪状に含めたのは、紛争の相手国だったソ連でしたが、国境紛争という性質上当然のことながら、張鼓峰事件とノモンハン事件の戦場において「ソ連兵に殺された日本兵」も大勢いました。

また、訴因の中の「侵略戦争の計画準備」「戦争の開始」「侵略戦争の遂行」「宣戦布告前の攻撃による殺人」の4項目において、太平洋戦争の開始時にはまだ独立していなかった米領フィリピンや、太平洋戦争の最初から最後まで日本の同盟国であったタイについても、あたかも独立国あるいは連合国の一つであるかのように扱われていました(タイに対する「侵略戦争」については、後に証拠不十分として訴因から除外される)。

裁判が進むにつれて、こうした連合国側主張への疑問点が法廷でも議論の的となり、アメリカ人の弁護士の一人は法廷で「ではアメリカ軍が行った広島と長崎への原爆投下はどうなのだ、人道に対する罪には当たらないのか」と、戦勝国(連合国)が行った非人道的行為については一切触れない態度に疑問を呈する意見を述べていました。

また、連合国側の判事として裁判に参加した、インド人の法律家ラダビノド・パルは、裁判自体の欺瞞性を鋭く指摘する意見書を提出し、「戦勝国であっても、事後に戦争犯罪を裁く法を作って公布する権限は持たない。よって、この裁判自体が有効かどうか、疑いを差し挟む余地がある」との理由で、被告全員の無罪を主張しました。

この東京裁判と並行して、シンガポールやフィリピンのマニラなどの計四九の法廷で、BC級戦犯の裁判が行われ、ここでも大勢の日本軍人が死刑判決を受けていました。訴因の多くは、現地住民の虐殺や、連合軍捕虜の虐待であり、1942年にフィリピンで起きた「バターン死の行進」(捕虜となったアメリカ兵とフィリピン兵が、病人も含めて炎天下の中で長距離を歩かされ、アメリカ兵約1200人とフィリピン人約1万人が死亡)や、タイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道建設(連合軍捕虜とアジア各地から徴用された労務者が一九四二年以降、苛酷な環境で鉄道建設に従事させられ、連合軍捕虜約1万3000人とアジア人労務者四万人以上が死亡)を含め、さまざまな出来事に基づく裁判が、5700人近くの被告に対して行われました。

捕虜虐待で告訴された日本軍人や朝鮮・台湾出身の軍属は、捕虜の処遇に関する国際条約(ジュネーブ条約)を上官から全く教えられておらず、多くの兵士は自分がなぜ裁かれているのか理解できませんでした。戦争中の日本軍で常識とされた「敵の捕虜となるのは屈辱」という考え方も、日本軍人による捕虜虐待をエスカレートさせた原因でした。

また、審理時間がわずかである場合も多く、ある試算によれば被告全体の四分の一ほどは「人違い」で告訴されたという不運に遭っていました。このBC級裁判によって、最終的に約1000人の日本軍人・軍属が死刑判決を受け、日本に帰国できないまま、アジア各地の刑務所で処刑されました。

以上のように、東京裁判は当時の国際法に基づく公正な「国際法廷」とは言えず、戦後の早い段階から「一方的で不当な勝者の裁き」ではないのか、という声が海外でも国内でも湧き起こりました。しかし、戦勝国の「人道に対する罪」が裁かれていないから「当時の日本に罪はない」という論理が成立するはずもなく、仮に不公平な裁判であったとしても、日本の戦争指導部が戦前・戦中に行った行動の責任が消えるわけではありませんでした。