北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】長浜城-梅花(滋賀・長浜)歴史地震の復興が警鐘ならす能登半島地震復興と中央の関係

2024-03-27 20:22:52 | 旅行記
■復興には中央の熱意が
 湖北の直ぐ北側には福井県があり隣接してその先は石川県となっていまして能登半島までは遠いのですが。

 能登半島地震、地方自治に関する憲法の条文など問題が大きくなることは承知ですが、長浜城から遠く能登半島を思い浮かべますと、政治主導、特に中央が石川県を圧すというよりも、多少平時の手法を乗り越えてでも強引な復興計画が必要になるとおもう。

 南海トラフ巨大地震など次の災害を考えなければならない以上、地域復興に関する指揮権の問題を明確化して前例を一つでも創り復興を実感できるような体制を構築しなければ、ほんとうにこのニッポンという国は戦前の様な事になってしまうぞ、と警鐘を。

 長浜城と天正地震、わたしはその後の歴史などを大きく俯瞰すると、長浜は復興できなかった事例の一つになるのかもしれない、と考えています。そう元々は長浜は浅井長政の小谷城の資材を流用して、山城から港湾要塞へ造り替えた、新しい城郭であった。

 小谷城の資材を流用したのは工期短縮のためで浅井氏滅亡から織田信長による羽柴秀吉の当地拝領まで三年ほど、工期を短縮化する必要がありました。ただ、天正地震で全壊したのは前述の通りで、城内にいました山内一豊の娘が倒壊により亡くなっています。

 西浜千軒遺跡という琵琶湖湖底遺跡群の一つはその際のものなのですが、長浜城は倒壊したまま、なにしろ地盤ごと持っていかれたので再建できないのが痛い。江戸時代に入り徳川家康の異母兄弟である内藤信成が当地を所領に与えられ、仮復興はしたのだが。

 城郭の石垣は、しかし天守閣の再建が為されたかが、これは長浜城の城郭資材がそのまま彦根城に転用されてしまった一方で櫓などには現在明確な長浜城の城郭をおもわせるものが見当たらず、結局豊臣秀吉時代ほど大きな城郭は再建されなかったことを示す。

 彦根城の話題を振りましたが、内藤氏は長浜入城の数年後には大坂の陣への勲功を以て摂津高槻に移封されることとなり、長浜城は廃城となります、そしてそのまま彦根藩の所領となっているのですね。故に長浜市内を散策しますと寺院などに井伊家の影響が。

 湖南地方、いま長浜城にのぼりますと円形に、晴れていればという条件は付くものの、彦根城はみえます。ここ長浜はそのまま彦根藩の一部になりまして、もちろんいまは仲良く滋賀県の一部で、彦根駅も長浜駅も特急停車駅となっているのですけれども。

 佐和山城の城下町であったものを街道防衛のために新しい城郭として彦根城を造営した、こうした事実はあるのですは逆の見方をしますと天正地震の後に長浜の戦略要衝としての価値が被災により消失し、そのまま彦根に湖南地方の拠点が遷ったともいえる。

 能登半島地震、もちろん国家としての注げるリソースが限られるという反論は理解できるのですが、一つの地域が復興に失敗した場合はリソースの源流となる経済圏が一つ縮小するという認識も必要です。なにか施策が必要だ。例えば国家防災備蓄処など。

 国家防災備蓄処を挙げましたが、震災復興の際には次に利用可能な施設を、現地雇用に繋がる形で設置するなど、なにしろ平時の無駄と見えるものに災害時の冗長性があるのだから、施策を考えてはどうか、と思うのですね。自然に復興など、ありえないのだ。

 天正地震、震源地を考えると現在では最も地震リスクの低い地域にある、原発が幾つも並んでいるほどですからね、しかし歴史地震の事例はある、故に何処でも起きうる以上何処でも備えが必要ですし、また復興は中央が青写真を引く覚悟も必要なのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【京都発幕間旅情】長浜城-梅... | トップ | ウクライナ情勢-ロプチャー型... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

旅行記」カテゴリの最新記事