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【京都発幕間旅情】小田原城(神奈川県小田原市)北条早雲の一大城郭は東海道新幹線小田原駅を眼下に収める

2024-01-31 20:10:13 | 旅行記
■小田原城をあゆむ
 新幹線ひかり号を降りたホームを歩んでいますとそのホームを見下ろしている純白の城郭があります。

 小田原城、もともと好きな城郭で幾度も探訪している城郭なのですけれども、COVID-19新型コロナウィルス感染症のあの2020年以降、もう五年目の2024年ですがますます親近感がわいてくるところです、こういうのもここは新幹線駅から非常に近いのだ。

 東海道新幹線、COVID-19新型コロナウィルス感染症とともに所用で首都圏に行く場合、前は別の用事も兼ねて東京駅へ直接行く事が多かったのですが、神奈川県での所用の場合は基本的に新幹線のぞみ号を利用せず、ひかり号で小田原駅から移動していました。

 新幹線の駅から小田原城は指呼の距離にあり、しかしもちろんの事それほど時間にも心にも余裕があるわけではありませんので乗り換えの時間だけでも少し散策しよう、となりますと、それはもうどうしても城郭の一部しか探訪できず、故に城へ通う事足繫く。

 城郭探訪も、城門はじめもともとここは明治維新の廃城後は天守閣も含め破却されてしまいましたが、幸いにして土塁や石垣や掘割のかなりの部分が残るとともに、城郭に観光地としての価値を見出す余裕が生まれますと次第に修復や再生が行われます。

 探訪して凄いなあと思うのは、小田原城は今も修復事業が進められているところですので初めて探訪したときには、もちろん天守閣はその威容を放っていたのですが、巨大な城郭を湛えるさまざまな櫓や城門などはまさに再生される過程、変化する様子が見れた。

 小田原城、その歴史を遡りますとそう築城年は応永24年、それは西暦でいうところの1417年に北条早雲が大森藤頼からこの一帯を奪い領有化した際の拠点として整備した城郭が、ここ小田原状の始まりと言われています。どうりで小田原駅からも近いわけです。

 伊勢宗瑞と名乗っていました後の北条早雲、室町幕府政所執事たる伊勢氏の出自で、当地では駿河館襲撃に堀越公方の家督争いと伊豆討ち入り、そして小田原城奪取と勢力を伸ばし巨大な北条家の基礎を固めた人物です。もっとも、歴史には小田原城奪取とある。

 明応地震という、1498年に発生した地震は北条氏が小田原城を最初に大改修した時代と重なりまして、これは推測も交じるのですが震災により破壊された部分を補修するとともに櫓などを増強することで城郭としての防御力を高めたのではないかと考えられます。

 平安朝末期、相模国豪族土肥氏一族であった小早川遠平の居館が、そもそもの小田原城の始まりという。そもそもの小田原城、というもったいぶった表現をしましたのは、小田原城は元々上記の北条氏が際限なく巨大化させたために主郭部分のみが城址であるゆえ。

 主郭部分、というのは、当初の小田原城というのは八幡山という、小田原城の向かい側に在ります稜線に沿って聳えていまして、現在は上司としてではなく小田原高校と。そして元々の小田原城と今の小田原城の中間に、東海道本線と新幹線が走る、小田急も。

 八幡山にも土塁などの遺構は残っているといいまして、要するにそれはもう一度や二度探訪しただけでは全容がつかめないほどに巨大な城郭であった、というのが小田原城の醍醐味といいますか、何度探訪しても飽きない場所でもあるのです。そして駅から近い。

 総構という、二の丸総堀と三の丸総堀そして総構堀という防御陣地に守られた城郭となっている小田原城、最盛期には全周で実に9kmにものぼる防御線が築かれ、その背景には武田信玄と上杉謙信、時期は異なるものの歴史に残る武将の侵攻を受けた為という。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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