北大路機関

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【京都幕間旅情】松尾大社,四条通の西端に嵐山と都の鎮め“東の八坂神社と西の松尾大社”

2017-05-31 20:45:28 | 写真
■旧官幣大社,松尾大社探訪
 京都、その街並みは洛中洛外で様相を一変するとは今は昔、しかし、嵐山まで歩みを伸ばせば、やはり一風風情は模様替えします。

 松尾大社、京都の静寂を冷涼と共に湛える西京区嵐山、そして桂に至る嵐山宮町に境内を敷く神社です。阪急嵐山線沿線にあり、阪急が広く開発した嵐山へは京福電鉄嵐電の電車が結びます。神社は旧社格では官幣大社に並び、現在は神社本庁が示す別表神社の一つ。

 四条通を西へ西へ進めばこの嵐山に達し、松尾大社へと達します。四条通の東端はかの八坂神社で、一方が大社というのは一種不可思議ですが、これは終戦後の1950年に松尾神社から改称されたとのこと。東の八坂神社と西の松尾大社が都の鎮めを為しているのですね。

 大山咋神と中津島姫命を祭神とする松尾大社は、山神として巨大な山岳を司る神であると共に醸造を司る神様との事で、神々の酒奉行であるとして境内には奉納の菰樽の山が参拝者を迎えます。酒を愛する我らにもご利益を願いたく、清めて参拝へと歩みを進めます。

 霊泉亀の井、というものがあり、松尾大社には大社のご神体である松尾山からの湧水を湛える井戸があります。ここの湧水を醸造時の酒樽へ滴らすならば異常発酵から酒樽を守る事が出来るとしまして、日本全国に1300近い末社を広め酒造に関わる方々の崇敬を集める。

 秦氏、酒造と神社の関わりですが、古代渡来系氏族が奉斎し造営した神社という事で、この秦氏は秦の始皇帝末裔を自称する氏族なのですが、併せて我が国の大陸からの醸造技術伝来へ大きな役割を果たした事から醸造を司る神、という解釈が為されているのでしょう。

 社殿は現在平成の大改修が行われています。元々は室町時代初期の1397年に造営されたものなのですが、これは13世紀末の火災により焼失したものを再建したとのことで、桁行三間梁間四間一重檜皮葺というもの、両流造と呼ばれる大社独特の建築様式となっています。

 両流造の本殿ですが国の重要文化財に指定されています。しかし、神社の歴史は遥かに遡り、記録によれば701年には神社の造営を朝廷より認められているとの事、平安遷都に遥かに遡る歴史を有し、桓武天皇長岡京遷都に際し松尾大社へ格段の階位を送ったとのこと。

 拝殿と中門を経て本殿を遥拝しますが、両流造は奥に鎮座し、参拝に際しては平成の大修理によりその姿が少々奥深いものとなっています。中門は北の北清門と南の南清門とに続き、本殿と並ぶ形で神庫が広がる様子を望見でき、拝殿は檜皮葺を冠する入母屋造の造り。

 亀の井と境内には多くの亀が並びます、松尾大社の神使は亀で、北の守護を担う玄武を思わせますが四条通の西端にあります。しかし、この松尾大社、長岡京遷都と平安遷都という歴史を振り返れば長岡京市の真北、玄武の位置にあり京都と位置関係にも気付かされる。

 社格は貞観8年866年に正一位勲二等まで昇叙された歴史がありまして、長岡京遷都と平安遷都に併せて朝廷からの保護が手厚く進められています。崇徳天皇や近衛天皇に後鳥羽天皇と行幸は実に十数回を数えるとの事で、四条通とはいえ洛外では破格の扱いでしょう。

 松風苑という庭園がありまして、松尾大社は現代を歩む神社、という気風を感じる事が出来ます。昭和庭園の代表といわれる松風苑は近代作庭家の重森三玲最晩年の造営として1975年に完成しました、古代の上古之庭と平安調の曲水之庭に鎌倉風の蓬莱之庭が並ぶ。

 松尾大社の縄張りは広く境内を参拝と共に拝観しましても庭園などは奥深く時間が過ぎるのを忘れる程です。しかし、併せて醸造の神を祀る大社は参道には現代風の店も並び、阪急嵐山線に乗れば京都か、または大阪での酒杯へと思いを募らせる事も出来るでしょう。

北大路機関:はるな くらま
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