◆東西冷戦下を振り返る
書架を整理していましたら三十年前の陸上自衛隊装備調達の数字が出てきました。ちょっと興味深いものですから紹介してみましょう。
三十年前の1980年といえば、ソ連がアフガンに侵攻し新冷戦が始まった時代。迷彩服も旧迷彩ですし、主力戦車は74式戦車で、陸上自衛隊には軽装甲機動車も高機動車も配備されておらず師団普通科部隊は輸送隊のトラックで一部が自動車化されている以外は徒歩、第七師団だけは唯一装甲化を行っていた時代で、第七師団の機甲師団改編直前、という時代です。
富士学校を中心に全国の各部隊は絶対的劣勢にあって、どういった戦術が、どの地形において最大限の能力を発揮できるかを真剣に検討して、どうソ連軍の戦車を撃破し、如何にソ連空挺部隊を降着と同時に無力化し、陣地をどのように構築すれば航空攻撃に耐え、米軍の増援まで持ちこたえられるかを研究していた時代です。
野戦特科部隊もFH-70榴弾砲の整備前ですから第二次大戦中の牽引式火砲を軸に北部方面隊だけは対岸のソ連を見据えて必死に近代化を行っていた時代。対戦車ヘリコプターAH-1Sも導入前の段階で、地対艦ミサイル等今日の根幹的な装備も構想段階のものが多くあった、そんな時代です。
74式戦車×60両、73式装甲車×9両、78式戦車回収車×3、78式雪上車×22、70式自走浮橋×2。車両に関しては以上の通りです。74式戦車は、81年、82年と72両が生産されていて、この年はやや少なかったようですが、現在の戦車生産数を踏まえて考えますと、この数量の多さは特筆できるでしょう。
73式装甲車は、いまや北海道に持っていかれてしまった装備、という印象ですが戦車に比べての生産数の少なさが目立ちます。普通科部隊の装甲化、というのは予算を戦車に重点配置している以上、難しかったようですね。主要車両は1980年ですから82式指揮通信車の配備開始も先の話、全て装軌車というのも今日的には驚かされます。
改良ホーク×1個群。・・・、ミサイル関係で地対空ミサイルを挙げると改良ホークだけとなりました。翌年から81式地対空短距離誘導弾の配備が開始され、初年度は6セットが、携帯式地対空誘導弾スティンガーも良く年度から配備が開始されて初年度には20セット、次の十年度には65セットが配備されます。これは言い換えれば、この時点で陸上自衛隊の師団防空には35㍉高射機関砲L-90など機関砲が中心であったと言う事が分かります。
OH-6D観測ヘリコプター×10、HU-1H多用途ヘリコプター×5、LR-1連絡偵察機×2、V-107A輸送ヘリコプター×1。航空機に関しては以上の通りです。V-107A輸送ヘリコプターについては1980年度が最後の調達となり、続いてCH-47J輸送ヘリコプターが配備されてゆくこととなります。
HU-1Hは翌年に8機が調達されます、HU-1Hとは、今日UH-1Hとして知られているヘリコプターで、今日のJ型の一つ前の型がH型になる訳ですが、同時期に米軍でUH-60Aの配備が始まっていた事を考えれば性能はともかくとして数は揃えられていたという印象。AH-1Sの本格調達はもう少し先となります。
64式小銃×5100、62式機関銃×51、74式車載機銃×38、84㍉無反動砲×188、79式対舟艇対戦車誘導弾発射装置×8、64式81㍉迫撃砲×65。64式小銃や62式機関銃が生産されていた時代です。迫撃砲は、供与の107㍉重迫撃砲とともに国産の81㍉迫撃砲を生産していた時代。
今日では駐屯地創設記念行事の訓練展示模擬戦でMINIMIの軽快な空包射撃を見学することが出来るのですけれども、62式機関銃はいたわるように発砲されているという印象と、幾つか射撃開始直後に射撃が止まってしまい排莢不良か装填不良か、故障排除できないまま後退、という情景と出くわします。
いろいろと言われる機関銃ですが新品は多少は確実に稼働したのでしょうか、ちょっと想像できませんね。64式小銃は戦闘職種では近年あまり見かけなくなりましたものの後方職種を中心に頑張っています。突撃銃よりも自動小銃として、二脚を用いて運用するとその精度は高い一方、振り回すには少々嵩張る小銃です。
この頃は普通科連隊への73式大型トラックの配備が大車輪で行われていたとのことですが、対戦車火力も強化されている時代で84㍉無反動砲カールグスタフは配備が開始されたばかりの頃です。朝鮮戦争時代の携帯ロケット発射筒通称バズーカ砲よりは命中精度や発射できる弾薬の汎用性で進んだ砲で、対戦車戦闘でも貫徹力が向上しています。
79式対舟艇対戦車誘導弾は、射程4km、かなり大型の弾頭を搭載しているので上陸用舟艇に対しても大きな打撃を与えられる装備、ソ連軍の上陸に備えている陸上自衛隊としては心強い装備だったでしょう。しかし、今日では一部普通科連隊に対戦車中隊が置かれていますが、当時は師団に一個対戦車隊のみ、師団長最後の手札と言われていました。
75式自走155mm榴弾砲×26、75式自走多連装130mmロケット弾発射機×8、75式自走地上風測定装置×3。203㍉自走榴弾砲は翌年から本格調達が開始されます。FH-70榴弾砲の配備が開始されていないということで、本土師団の野戦特科部隊は非常に旧式の火砲を中心に運用していました。
特科連隊の中では105㍉榴弾砲を直掩火力として師団連隊戦闘団に配属して、第五大隊として師団直轄火力として全般火力支援に用いる部隊にのみ155㍉榴弾砲を配備していた、という時代ですね。105㍉砲の射程は約10km、普通科連隊の直接掩護と迫撃砲の無力化が任務でした。
75式自走榴弾砲は自動装てん装置を搭載し、リボルバー式給弾装置二基を砲塔内部に備えていたことから素早い射撃が可能で、砲身は30口径とFH-70の39口径に比べれば短いですが、この時点ではその射程は155㍉榴弾砲の中では優秀といえました。とにかくソ連軍と比べて火力で負けている陸上自衛隊師団では、車両そのものを高性能とすることで対応することが強いられていた、という事が出来ます。
今日では、日本国内で明日にも大隊規模の戦車戦が発生するという可能性や、師団規模の着上陸が、という想定は少し難しく、島嶼部防衛、ゲリラコマンド対処に重点が置かれているのですけれども、ほんの三十年前には、とにかく装備品の数を揃えなければならない、という状況があったことは忘れてはならないでしょう。
HARUNA
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このブログをよく閲覧させていただいております、三菱えんぴつと申します
陸自は、1979年には770両の戦車を保有していて、これが90年頃には1200両程度に増加していますから、是が非でも戦車を増やしたかったのでしょうかね
それに、北海道の新編機甲師団の第七師団や、他の北方師団の戦車定数増強のため、調達数の増加が必要だったのですかね
あと、いや~1980年の装備調達とは、よく調べられましたね
「自衛隊史」という本では、74~79年の装備調達が詳細に掲載されていますが、80年~2000年までは白書くらいにしか、掲載されていなくて
装備調達の詳細が不明です…
コメントありがとうございます
1980年といえば、M-41戦車も残っていた時代、流石にあの戦車でT-62に対抗するのは厳しかったでしょうから、なんとか74式と61式で揃えようとしていた時代。当時は日本国土で国産戦車がソ連の新鋭戦車を迎え撃つ、と言われていた時代ですから、緊張感が違います。航空優勢をとられた中で掩砲所に置かれた戦車が、防御の要、という考えだったのでしょうね。
ちなみに第七師団は、第一戦車団を解体して二個戦車群と第七戦車大隊を統合したうえで三個戦車連隊を編成していた、とのことです。
自衛隊史、あのハードカバーに収められていて副題に“日本防衛の歩みと進路・・・・・・”とある一冊でしょうか。
あの本、作者の意気込みが違います…
確かに当時、ソ連軍の脅威は増大し、新冷戦の時代でしたね
それに対し、陸自は、定員割れの師団、貧弱な特科・高射特科装備に悩まされていましたね
ここら辺の問題は、故・栗栖・元統幕議長が、自身の著書で指摘されていますね
第七師団や他師団に関しては、戦車の定数割れが顕著だったそうです…
ちなみに56年度中業策定時には、大綱の機甲師団数を2個に増強することも検討されたそうです
いや~、昔の自衛隊がどんな体制で冷戦に望んだかは、忘れ去られつつありますね…
ちょうど手元に1980年版があったので取り出してみましたら78年度の空自装備計画(228頁)にF-15×23、F-1×15、T-2×3、と。・・・、時代の違いを痛感しました。機甲師団の増強ですが、道南で地形障害が少なく防御が難しい第5師団あたりを考えていたのでしょうかね?
栗栖元統幕議長の本は何冊か読みましたが、普通科連隊に1個中隊のFVを配備して戦車の支援まで持ちこたえる運用とか、今からでも必要な提言もあるのですが、山陰地方への奇襲上陸などソ連軍が執り得る選択肢などを明示しており、成程仰る通り日本政府に圧力を掛けるとすればそういう方策もあり得たのか、と唸らされました。