■白銀の飛騨雲龍寺
日本の風土は四季折々多種多様、奥深さの奥に新しい鮮やかな光景が広がります、白銀に輝く雪深い季節、敢えて別の窓を求め岐阜県飛騨高山へ歩みを進めてみました。

高山雲龍寺、岐阜県飛騨高山は日本の山間部でも別格といえる三千米の峰々に囲まれた山国の風情へ至る美しい風土を誇りますが、この地は小京都と愛称される通り、街並みは古都を思わせる情景で旅情を誘います。この市街地をやや離れ、山容の道中に寺院が並ぶ。

東山、高山中心部を東方望む際に峰々の中に一つ手前の小高い山に気付きますが、ここを東山といい、高山市の寺町、その中でも東に広がる信仰の回廊の一端を構成しています、高山雲龍寺は此処に位置し、奈良時代天武天皇年間に修験道極めた僧侶泰澄が開きました。

雪国飛騨高山ですが、当方が足を運んだ際には雪景色を目指して厳冬の季節に敢えて歩を進めたこと故積雪は承知とはいえ、少々雪深い季節に過ぎました、積雪は日本海側厳寒の舞鶴にて、とは思いつつやはり舞鶴は厳寒の玄関、市街地の本場雪国積雪には驚かされる。

泰澄は白山信仰を開いた加賀越前国白山を本拠に広く寺社仏閣の開祖と神仏を奉じた僧侶です、高山雲龍寺は加賀から山稜幾つ重ねて隔てた立地ですが、奈良時代養老年間の720年にこの地へ白山社創建を以て別当としたのが雲龍寺の始り、当時は妙観寺と称しました。

加賀国は中央とも北陸道を遠く隔てていますが、霊峰白山を奉じ今日に京都と金沢の北陸本線時代の結節が示す通り当時から繋がりは厚く、泰澄も加賀国の僧侶ですが717年に元正天皇病気平癒祈願として縁があり、佛功以て朝廷から神融禅師の称号を賜っています。

白山信仰を開いた泰澄、妙観寺は720年の建立ですが文武天皇より鎮護国家法師を任じられたことで越前豊原寺や越前霊応山平泉寺白山神社を開山、天平年間の737年には天然痘痘瘡大流行を平癒祈願にて鎮定し、称徳天皇から親しく国正一位大僧正位を賜りました。

室町時代応永年間の1395年、山深いこの地は一時大きく荒廃しましたが、この際に竹窓智厳が大和補巌寺を能登総持寺の住持へと赴く巡錫の途上、ふと立ち寄る機会がありまして、妙観寺堂宇を再興すると共に曹洞宗大本山総持寺門末の飛騨雲龍寺として再建しました。

曹洞宗大本山総持寺は今日横浜市鶴見の大本山との印象がありますが、北陸の地こそが曹洞宗の本山で、石川県輪島へ今日は總持寺祖院と称されています寺院が14世紀から20世紀までは曹洞宗大本山総持寺でして、曹洞宗もう一つの大本山永平寺は福井にあります。

竹窓智厳は再興に当たり奈良県磯城郡川の僧侶で師の了堂真覚を開祖として招き、飛騨最初の曹洞宗道場雲龍寺として高山雲龍寺を開いており、菩提達磨へ至る曹洞宗の坐禅に徹する黙照禅としての修験道の祈りはこうして日本で最も標高の高いこの地へ根付きました。

安土桃山時代、雲龍寺は高山藩初代藩主金森長近の保護を受けます。美濃守護土岐成頼の流れをくむ金森長近が織田信長と共に美濃を上洛の途へ就き、織田信長の没後、近江国野洲を経て柴田勝家へ付き従い飛騨高山を拝領、近江商人を招き高山の地を商都とします。

金森長近は柴田勝家と共に賤ヶ岳の戦いにて豊臣秀吉へ挑むも敗戦を余儀なくされ、その際に出家、高山は1586年天正地震により大被害を受け、復興へ東奔西走を余儀なくされますが隣国飛騨国の帰雲城が地滑りに城主内ヶ島氏理共々一族全滅程の被害はありません。

飛騨高山天領を経て高山城は廃城となりましたが、高山雲龍寺を菩提寺として熱く保護した金森氏は出羽国上山藩移封とともに城郭は破却された際、高山城内二之丸等その櫓や城壁等が雲龍寺へ移築され、高山初の曹洞宗寺院は城郭遺構として街を見守り続けています。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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日本の風土は四季折々多種多様、奥深さの奥に新しい鮮やかな光景が広がります、白銀に輝く雪深い季節、敢えて別の窓を求め岐阜県飛騨高山へ歩みを進めてみました。

高山雲龍寺、岐阜県飛騨高山は日本の山間部でも別格といえる三千米の峰々に囲まれた山国の風情へ至る美しい風土を誇りますが、この地は小京都と愛称される通り、街並みは古都を思わせる情景で旅情を誘います。この市街地をやや離れ、山容の道中に寺院が並ぶ。

東山、高山中心部を東方望む際に峰々の中に一つ手前の小高い山に気付きますが、ここを東山といい、高山市の寺町、その中でも東に広がる信仰の回廊の一端を構成しています、高山雲龍寺は此処に位置し、奈良時代天武天皇年間に修験道極めた僧侶泰澄が開きました。

雪国飛騨高山ですが、当方が足を運んだ際には雪景色を目指して厳冬の季節に敢えて歩を進めたこと故積雪は承知とはいえ、少々雪深い季節に過ぎました、積雪は日本海側厳寒の舞鶴にて、とは思いつつやはり舞鶴は厳寒の玄関、市街地の本場雪国積雪には驚かされる。

泰澄は白山信仰を開いた加賀越前国白山を本拠に広く寺社仏閣の開祖と神仏を奉じた僧侶です、高山雲龍寺は加賀から山稜幾つ重ねて隔てた立地ですが、奈良時代養老年間の720年にこの地へ白山社創建を以て別当としたのが雲龍寺の始り、当時は妙観寺と称しました。

加賀国は中央とも北陸道を遠く隔てていますが、霊峰白山を奉じ今日に京都と金沢の北陸本線時代の結節が示す通り当時から繋がりは厚く、泰澄も加賀国の僧侶ですが717年に元正天皇病気平癒祈願として縁があり、佛功以て朝廷から神融禅師の称号を賜っています。

白山信仰を開いた泰澄、妙観寺は720年の建立ですが文武天皇より鎮護国家法師を任じられたことで越前豊原寺や越前霊応山平泉寺白山神社を開山、天平年間の737年には天然痘痘瘡大流行を平癒祈願にて鎮定し、称徳天皇から親しく国正一位大僧正位を賜りました。

室町時代応永年間の1395年、山深いこの地は一時大きく荒廃しましたが、この際に竹窓智厳が大和補巌寺を能登総持寺の住持へと赴く巡錫の途上、ふと立ち寄る機会がありまして、妙観寺堂宇を再興すると共に曹洞宗大本山総持寺門末の飛騨雲龍寺として再建しました。

曹洞宗大本山総持寺は今日横浜市鶴見の大本山との印象がありますが、北陸の地こそが曹洞宗の本山で、石川県輪島へ今日は總持寺祖院と称されています寺院が14世紀から20世紀までは曹洞宗大本山総持寺でして、曹洞宗もう一つの大本山永平寺は福井にあります。

竹窓智厳は再興に当たり奈良県磯城郡川の僧侶で師の了堂真覚を開祖として招き、飛騨最初の曹洞宗道場雲龍寺として高山雲龍寺を開いており、菩提達磨へ至る曹洞宗の坐禅に徹する黙照禅としての修験道の祈りはこうして日本で最も標高の高いこの地へ根付きました。

安土桃山時代、雲龍寺は高山藩初代藩主金森長近の保護を受けます。美濃守護土岐成頼の流れをくむ金森長近が織田信長と共に美濃を上洛の途へ就き、織田信長の没後、近江国野洲を経て柴田勝家へ付き従い飛騨高山を拝領、近江商人を招き高山の地を商都とします。

金森長近は柴田勝家と共に賤ヶ岳の戦いにて豊臣秀吉へ挑むも敗戦を余儀なくされ、その際に出家、高山は1586年天正地震により大被害を受け、復興へ東奔西走を余儀なくされますが隣国飛騨国の帰雲城が地滑りに城主内ヶ島氏理共々一族全滅程の被害はありません。

飛騨高山天領を経て高山城は廃城となりましたが、高山雲龍寺を菩提寺として熱く保護した金森氏は出羽国上山藩移封とともに城郭は破却された際、高山城内二之丸等その櫓や城壁等が雲龍寺へ移築され、高山初の曹洞宗寺院は城郭遺構として街を見守り続けています。
北大路機関:はるな くらま
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