自民党新憲法案の中に“自衛軍”という呼称が出てくる。自衛軍という呼称に決まったのは自衛隊という呼称に国民の愛着があるからという理由付けが為されている。
しかし、自衛軍として軍に格上げしたらば例えば階級呼称の一尉二尉三尉というような呼称は大尉中尉少尉に戻すのか、普通科は歩兵科に特科は砲兵科に戻すのか、陸上自衛隊を陸上自衛軍に変えるのか、自衛艦隊は連合艦隊になるのかなど疑問点は多い。どうせならば防衛軍として統合運用の基盤を創り、内局と防衛軍司令部とを防衛省の元に置き、文民が出来る部門は内局が、国土防衛や海上交通路確保に関する任務には防衛軍が、そして防衛軍を新設される統合幕僚長指揮下に置き、防衛軍陸上自衛隊、防衛軍海上自衛隊、防衛軍航空自衛隊としつつ、階級や職種(兵科)呼称を現行のまま維持した方が現場には混乱が起こらないと考える。何となれ、略称は定着してしまっており、陸上自衛隊であっても陸上自衛軍であっても略称は陸自のままであろう。
加えて、憲法上の位置づけが変わる事(つまり防衛力の保持が合憲違憲という神学論争に終止符がつく事)による士気高揚は期待できるが、名称を軍に変えて『お前たちは自衛官ではなく自衛軍人だ、気合を入れろ!』といってもそれだけでは余程の体育会系でなければ士気は上がらないだろう。
大半の国では軍人は国家に対する献身として名誉あるものと尊敬されている。また、国家も国民の献身に対して軍人恩給や鉄道運賃や文化的行為(観劇)に対して割引を行うなどの有形無形の福祉を提供している。何となれ、人命の損耗に無頓着であった旧軍でさえも、厳しい中で恩給制度や割引制度を制度化し献身に応えている。こうした制度を整備するという考えはどの程度煮詰まっているのだろうか。
また、自衛隊は自民党の軍隊ではなく、日本国の自衛組織である。政争の道具として省格上げ論や集団的自衛権が取引されたが、そもそも国家の基盤であるべき平和・安全保障が党派同士与党野党間の取引材料にされる事自体がリアリストの提唱する“普通の国”ではありえないことである。例えば大統領選挙ごとに国を二分するアメリカでも対外政策では共和党民主党は協調路線を採り政権交代時もその目的への方策は異なるものの結果は基本的に踏襲されている。イギリスにあっても保守党・労働党は平時は基本的な支持階層の相違から対立が目立つが有事の際には協調を採る。
1992年から漸く戦闘防弾チョッキの支給が始まり、装甲化を全般的におし進めた軽装甲機動車は2000年に差し掛かってからの装備化であった。この間、隊員は有事の際には無防備な状態で戦闘に臨む覚悟を強いられた訳で、不完全ながらも有事法制が整備されたのは21世紀になってからであった。有事法制とは武力侵攻事態における文民統制を目指した本質を有しており、言い換えれば有事法制の未整備な状態であれば好むと好まざるとに関係なく、超法規の行動を強いられた訳である。
名称を軍に変える云々の話は一部の階層には重要な命題かもしれないが、実質的には実定法の法整備が遅れていた事が最も懸念すべき命題であった。
装甲化に関しては前述のように改善傾向にあるが、有事の際の予備動員制度は予備自衛官が定員の三割以下という状況であり、損耗を補填する事が制度上できない。これはどう足掻いても予備自衛官と雇用者を取り持つ補助金制度や法的取り決めが必要である。また、弾薬備蓄に関しては前々から言われた事であるが経年劣化と演習場での使用量を換算した規模の備蓄しかない。豪州や北米(既に小規模な派米訓練はなされているが)への演習場確保などの検討が必要である(信管などをのぞき保存状態が良好であれば弾薬の経年劣化は少ないといわれる、事実イラクでは不足する50口径機銃弾などを第二次大戦中に生産されたストックを充てて使用している)。防衛産業に関しても、三菱や川崎の防需に占める割合が非難されるがこれは本来国が負担するべき装備開発基礎研究費用を自腹で負担しているからであり、その分の上乗せは制度上当然である。これが問題というならば基礎研究費を国庫から負担するべきであろう。更に装備品を制式化に関する訓令という内部的な理由から近代化改修出来ない法的問題も是正されるべきである。
このように何より先に改正するべき問題が山積する中で、憲法さえ改正すれば何とかなるだろうという考え方は見当違いもはなはだしいと思える訳である。
憲法改正以降、上記のような現行の問題への打開案というような見通しは果たして存在するのだろうか。
先に列挙した現行で存在する問題に関しては、現行の憲法体制の下でも充分是正可能な内容である。付け加えるならば憲法上自衛権が充分行使できる状態が改憲により成立したとしてもそれはソフト的な問題であり予備人員や弾薬備蓄、戦時量産などの体制が確保できていなければハード面で本来的任務の遂行は難しい。確かに自衛隊(軍)が憲法上明確に有効なものとなれば法案審議その他でも革新勢力の反発は幾分かはおさまろうが、何となれ法整備不充分では結果的に超法規を許さざるを得ない状況が成り立ってしまう。この点に留意する必要があろう。
また、憲法で自衛隊を容認しようとも、集団的自衛権(これは国連加盟や日米安全保障条約締結により伝統的に許容されているとみる事も出来るが)の行使が容認されようとも、島国である日本にとり、いきなり取りうる選択肢が敵を本土に迎え撃っての本土決戦ではナンセンスである。航空優勢と海上交通路確保が日本という国家の死活的利益である以上、この双方の確保に重点を置かねばならない。こうした問題に関して、市民団体や学者、メディアは『平和平和』の連呼により済まそうとするが、果たしてこれが有効な代案たるのだろうか。
自衛隊とは定員は何人いるのか、どういった装備を持っているのか、どこにどれだけいるのか、こういった命題に答えられる国民は少ないだろう。また、有事法制で有事にあっては土地や個人資産などの提供(例えば陣地構築の為や物資輸送の為)に対して反発する声があるが、それでは外敵にならば差し押さえられても良いのか、自衛隊の行動により損害が生じれば国家賠償法二条により賠償の対象となるが文民保護を定めたジュネーヴ条約も保護までは書かれているが補償に関しては記載されていない。この点をどう見るか、つまり何故水際撃破や洋上阻止によって民生被害を局限化しようという議論に至らないかということである。
憲法改正憲法改正危機管理危機管理と叫ばれて久しいが、一度主権者たる国民としてこの問題を明確に議論し振り返る必要があるのではなかろうか。
HARUNA