北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

三笠記念艦

2005-11-09 18:02:56 | 防衛・安全保障
 神奈川県横須賀市には、100年前の日露戦争における殊勲艦『三笠』が永久保存されている。
 今回は11月1日にこの記念艦を訪れる機会があり、その様子をお伝えしたい。
IMG_4163 戦艦三笠は、東郷平八郎連合艦隊司令長官の乗艦であり、ロシア太平洋艦隊・バルチック艦隊を撃破した艦で、大和・赤城と並び、日本国民に広く知られている艦艇の一つである。
 常備排水量15140t、全長131.7㍍、全幅23.2㍍、速力18ノット、40口径30.5㌢連装砲二門と15.2㌢40口径単装砲14門などを搭載する。
 三笠は戦艦、朝日・初瀬と同じく第二期海軍拡張計画に基づき建造された主力艦で、朝日・初瀬・敷島と基本的設計は共通しているが、船体により高い防御力を有するクルップ鋼を用いており、同じ装甲厚229㍉であっても総合防御力は20%向上している。
 したがって、三笠は日本海軍にあって最大最強の戦艦であった。
IMG_4178 イギリスのヴィッカース社バローインファーネス工場において建造され、明治35年に完成し、日露戦争においては連合艦隊旗艦を務めている。
 しかし、黄海海戦、日本海海戦においては旗艦ということで集中的な砲撃を被り、30.5㌢砲弾10発、15.2㌢砲弾21発の直撃を受け、特に30.5㌢砲弾がマストに命中し、一時信号旗による指揮不能に陥ったが、幸い火災に至るような損傷や水線下への命中は無く、戦闘を継続した。
IMG_4220 なお、1905年5月27日の日本海海戦は世界最初の主力艦同士の海戦であり、水雷戦隊との協力やT字戦法に代表される周到な兵力配置、艦艇の綿密な整備と訓練により主力艦に一切の損害が無いまま日本海軍は圧倒的な勝利を収めた。
IMG_4222 写真は有名なZ旗である。
 皇国の興廃、この一戦にあり!
 通常、複数の旗を組み合わせて形成される信号旗であるが、重要な意味を有する信号旗は、一種で意味を成すものが多く、このZ旗などは、その代表的な事例である。
IMG_4150 写真は海図室。GPSなどの航法手段が開発される以前では、海図と方位磁石により方向を定める以外方法が無く、また、一旦洋上に出た敵艦船を発見する手段は商船による通報か望遠鏡以外には無く、海上交通路防衛は日露戦争において突きつけられた重大命題であったが、上村彦之丞第三艦隊司令官は、ロシアの通商破壊艦隊を苦心の末捕捉し撃沈に成功している。
IMG_4148 なお、本艦は大正12年9月20日に除籍されたが、ワシントン海軍軍縮条約の例外として保存艦となり、今日に至っている。
 しかし、太平洋戦争敗戦以降水族館やキャバレーに用いられるなど荒廃を極めた時期があり、闇金属市場の高騰などから装備品の多くが持ち去られてしまい、写真の装甲部分などはレプリカである為、叩くと音がするのは残念である。
IMG_4151 また、殊勲艦として名高い本艦も、日露戦争終戦後、明治38年9月11日、佐世保港外において突如後部弾薬庫が爆発し大破着底する事故があった、その後、救難浮揚の後に佐世保工廠において本格的な復旧工事が行われ、同時に近代化改修などが行われた。
 また、大正7年からのシベリア出兵などに際しては高角砲や航空機搭載などが為された。
IMG_4206 シベリア出兵の後は第一次世界大戦に参戦している。
 日本海海戦における僚艦のその後を記すと、富士:特務艦、運輸艦を経て昭和23年に横須賀で解体、敷島:海防艦・練習特務艦を経て昭和22年佐世保にて解体、朝日:潜水艦救難母艦・工作艦を経て昭和17年5月25日米潜水艦サーモンに雷撃され戦没、という長い生涯をおくった。
IMG_4180 三笠記念艦への乗艦料は大人500円であるが、自衛官割引などがあり、当日も自衛官の一団が見学を行っていた。また、三笠に近い横須賀中央駅近傍には横須賀基地の他、防衛大学校があり将来の指揮官が日夜勉学訓練に励んでいる。

 HARUNA

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