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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【日曜特集】第4施設団52周年大久保駐屯地祭【3】師団施設大隊の観閲行進(2013-05-26)

2017-09-10 20:05:46 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■第3師団・中部方面混成団
 大久保駐屯地には第3師団隷下部隊と中部方面混成団隷下部隊も駐屯しています、第4施設団の隷下部隊と共にその観閲行進も始まりました。

 大久保駐屯地は第4施設団と第3施設大隊の駐屯地です。第4施設団、中部方面隊隷下の建設工兵です。第3施設大隊、第3師団隷下の戦闘工兵です。同じ施設科部隊ですが、戦闘工兵と建設工兵ではその任務が多少違います。ただ野戦特科と高射特科程は違わない。

 施設科部隊、工兵部隊は戦場の主役といっても過言ではありません。少なくとも普通科部隊は施設科部隊の支援が無ければ陣地構築から敵陣地攻略が難しくなりますし、戦車部隊も特科部隊も掩砲所等の陣地構築には自隊施設作業班だけでは達成できない任務が多い。

 工兵は中世ヨーロッパでは城塞攻略の主兵という位置づけにあり、具体的には王侯貴族を相手に直接降伏を談判する最終局面では野戦陣地ではなく永久築城の城塞を攻略する事が不可欠でした。そして、城塞攻略には工兵の存在が無ければ包囲戦のみとなってしまう。

 日本の名城百選や城郭探訪を扱うTV番組は多々あり、日本の城塞の入り組んだ形状が如何に外敵の侵入を抑え、防御を達成するかが紹介される番組構成のものが多いのですが、工兵が城塞を攻撃する際、城壁と郭を直接破壊する事で攻撃の主導権を握る事が出来ます。

 城塞攻略、工兵部隊が近現代軍隊にて地位を得るまでの戦史、長々と紹介しますと時間を要しますので現代の工兵部隊、建設工兵と戦闘工兵部隊について少し視てみましょう。工兵の任務は、障害構成、築城、渡河、障害処理、道路補修維持、架橋、施設建設、など。

 障害構成、師団施設や旅団施設等の戦闘工兵が実施するとともに、今日では方面隊施設の建設工兵が実施する任務です。障害とは防御陣地の前地戦闘等を担う陣地の外郭部分で、鉄条網や地雷原と対戦車壕や建築物に樹木や地形の造成等により敵接近を阻害するもの。

 戦闘工兵の任務としての障害構成は、防御戦闘における要諦となるほか、戦闘に際する撤退時の遅滞戦闘を強化し、また戦闘に敵を撃破した際の陣地奪還に際しての防御強化等重要な位置づけにあります。勿論、この際に敵歩兵と近接戦闘を展開する事は十分あり得る。

 築城、塹壕構築や特火点の建築に戦車や野砲を防護する掩砲所か掩蔽壕の構築、防御戦闘の要というべき任務を補強するのが施設科部隊です。現代戦闘において築城の意義を疑問視する方も多寡は別として有無は有り得るやもしれませんが地形防御の補強は鉄則の一つ。

 野戦築城と永久築城とに築城は分かれるのですが、自衛隊では主として野戦築城を戦術研究の主眼に置いている一方、永久築城に関する基本研究などが疎かになっていなかった、と云う事は自衛隊のイラク派遣に際するサマーワ宿営地建設等で最大限発揮されたもよう。

 渡河、地形障害の筆頭の一つに挙げられる河川を突破する事を云います。渡河は基本として敵前渡河を想定するものが多く、即ち河川は戦術上意義のある地形障害故に渡河部隊等を防御する戦術配置が基本となっており渡河中砲撃や航空攻撃に近接戦闘を想定するため。

 敵前渡河等は戦闘工兵部隊困難な任務の筆頭に挙げられるものですが、架橋装備や艀等を用いた応急架橋、舟艇を用いた小規模な渡河等を重ね、橋頭堡と橋頭堡を組み合わせ部隊を対岸に送ります。勿論、渡河点は敵の優先目標ですので渡河完了後の撤収は極めて早い。

 障害処理、敵が敷設した地雷原や対戦車壕に倒木や特火点等の防御物を処理する任務が障害処理です。何も準備せず敵防御陣地へ戦車隊を突入させれば障害物で停止した瞬間を対戦車火器で、白兵突撃を実施すれば装甲化部隊でも大損害を被る為、障害処理は重要です。

 攻撃に先立つ障害処理は小銃と銃剣を駆使する近接戦闘部隊の筆頭、普通科部隊の攻撃に先駆け、地雷原の位置把握や梱包爆薬と爆導索を駆使しての障害物や地雷原爆破処理等を担い、目の前に敵が現れれば施設科隊員が小銃と銃剣で始末する、極めて過酷な任務です。

 戦闘工兵の任務は以上、障害構成、築城、渡河、障害処理、というものでこの任務は近接戦闘部隊と重なる部分です。施設科を戦闘支援部隊と区分する訳ですが、相手から見れば普通科や機甲科部隊の先頭を前進する施設科部隊は、戦闘部隊そのものといえましょう。

 実際、戦闘工兵部隊は最後の予備兵力として師団や連隊戦闘団の予備隊という位置づけにもあてられることもあります。特に障害処理に用いる爆薬は特科部隊の砲弾に込められる爆薬よりも遥かに多く、対戦車地雷は一発で戦車を行動不能に陥れる。能力は侮れない。

 建設工兵は後方で、というわけではありません。現代戦闘は総力戦、兵站維持が作戦能力の要であり、輸送力と集積力、適宜適量の補給基盤と重装備から電装品に小火器に至るまでの整備や衛生基盤の維持、情報通信常続が求められ、この最初の基盤は施設科が創る。

 道路補修維持、戦闘支援における需要な任務は後方連絡線の維持です。第一線への普及物資が無ければ基本的に事前集積品頼りとなりますし戦力回復も後方連絡線頼りとなります。通常の建設工機に依存する任務ではありますが、砲兵攪乱射撃等想定しなければならない。

 師団主後方連絡線を維持する場合、施設小隊1個に器材小隊の建機増加支援を加えた場合15kmから20kmの後方連絡線維持が可能です。無論、主後方連絡線である為に複数の連絡線構築が必要とはなりますが、この能力が例えば震災や豪雪災害にも応用されている訳だ。

 架橋、建設工兵の重要な任務です。渡河任務と重複するように見えますが全く別もので、渡河任務は戦闘行動の一環として行われるもので、攻撃目標となる為に任務完了後速やかに撤収しなければなりません。しかし架橋は補給部隊の常続的連絡線としての任務をもつ。

 特に渡河任務と異なり架橋は持続性が需要視されるため、那珂川や木曽川等の川幅の長大な大河へも架橋が必要となり、師団施設や旅団施設の戦闘工兵部隊よりも器材が大型化します。通行車両数も多く、この為、綿密な測量と連絡線との連接性も配慮せねばならない。

 施設建設、駐屯地や車両デポ等の建設を行い野外集積地や野戦整備工場建設等もこの施設建設に含まれます。デポ等は一箇所区で対応できるものではありませんし、一カ所に集積し航空攻撃や迂回攻撃を受けた場合の損害は計り知れませんので当然、分散配置されます。

 施設建設は後方に配置され、更にデポや集積地等は連絡線等通路で結ばれますし、その途中に架線があれば架橋し連絡線を確たるものとします。施設建設は応急か恒久の違いはあれ建設会社に近く、この建機を駆使し任務に当る事から建設工兵と呼ばれる所以ですね。

 国際貢献任務において自衛隊は1992年のカンボジア派遣を契機として確たる地位を構築する事が出来ましたが、その任務は建設工兵としての能力が、カンボジアPKO、国連カンボジア活動UNTACから導入された国家再建などのインフラ整備任務需要と重なった為です。

 PKO任務は近年、その役割の拡大に合わせて国家再建などの任務に加え、紛争地域への展開による文民保護という地域防護任務が求められ、我が国としては派遣の主力は建設工兵部隊である為、需要は完全に合致しませんが、インフラ整備能力は高く評価されています。

北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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【日曜特集】第4施設団52周年大久保駐屯地祭【2】方面施設部隊観閲行進(2013-05-26)

2017-08-06 20:19:58 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■大久保駐屯地祭観閲行進
 大久保駐屯地第4施設団52周年記念行事、第二回は観閲行進の様子とともにその歴史をお伝えしましょう。

 92式地雷原処理車の地雷原を吹き飛ばす迫力の装備です。大久保駐屯地祭、第4施設団と第3施設大隊の駐屯地祭です。第4施設団は中部方面隊隷下、団本部、段本部付隊、第6施設群、第7施設群、第304水際障害中隊、第304施設隊、第305施設隊、第102施設器材隊、第307ダンプ車両中隊、との編成となっています。

 75式装甲ドーザ、敵の防御陣地を力任せに押し潰す。施設団は現在の編成に至る際、数多の改編を経ていますが施設団創設当時、全国の施設部隊は施設大隊と建設大隊を分けており、特に建設大隊の編成は陸上自衛隊創設当時の第二次世界大戦敗戦からの僅か数年という戦禍の記憶に配慮した部隊呼称となっていました。

 1973年、建設大隊と地区施設隊を統合する新しい改編が行われる事となりました。この当時の編成は第101建設大隊と第105建設大隊に第109施設大隊に地区施設隊と施設器材隊やダンプ車両中隊等を併せた編成でしたが、この改編により現在の施設群が誕生します。

 第101建設大隊が第6施設群へ改編され、第313地区施設隊と第318地区施設隊が統合された。第105建設大隊は第319地区施設隊と第323地区施設隊を統合し第7施設群へ改編、第109施設大隊を第320地区施設隊と第325地区施設隊とを第8施設群へ改編しました。

 団隷下、3個の施設群創設は、第一線工兵任務への能力集中という意味があり第102施設器材隊が新設されますが、併せて指揮系統が改編され地区施設隊を団直轄部隊へ改編される事となります。そして徐々に地区施設隊を施設群へ統合する一連の流れが形成されてゆく。

 施設団は元々建設工兵ですので大型ドーザ等を装備している。現在、自衛隊は水陸機動団新編へ自衛隊全体の定員を変えず、人員を部隊の整理縮小と改編拡大を併用する難しい施策を実施しています。しかし、現在度の部隊も任務に対し人員余裕が限られ難渋する様子が垣間見えますが、冷戦時代は地区施設隊が活躍しています。

 第8施設群第325地区施設隊は新編部隊への如何という形で上記命題へ対応しました。1981年、四国を防衛警備管区とする第2混成団新編に伴い、高知駐屯地へ新編される第2混成団施設隊へ管理替えの形で移管しました。第2混成団とは善通寺、現在の第14旅団ですね。

 第2混成団新編の1981年は陸上自衛隊に1962年の管区隊師団創設以来の部隊改編となった一年です。第1混成団は沖縄返還を以て先んじて那覇駐屯地に創設されていますが、第2混成団が新編された年は第7師団の師団改編、自衛隊機甲師団誕生の年でもあった訳です。

 四国の混成団は、基盤的防衛力整備という現在変革が進む従来型の防衛力整備の先駆けでもありました。現在では大津にある第2教育団が善通寺駐屯地に当時ありましたが、多くの隊員を自衛隊へ送る四国では定年間近になり郷里近くの駐屯地を希望する退院の受け皿がない一方、四国では防衛上着上陸脅威は少ないものの防災上の要求が多くありました。

 92式浮橋が展開して参りました、橋梁は地味な装備と思われますが、地図上で架線を渡れないと全く何もできず、作戦を考える程戦略上重要な装備と分かる。さて、善通寺に新しい混成団を創設する構想は、こうして第2教育団を大津駐屯地に移駐させ、善通寺に第2混成団を創設が実現する事となり、広島の海田市に司令部を置く第13師団より移管する善通寺第15普通科連隊を中軸として、四国に新しい混成団が創設されました。

 大久保駐屯地ですが、この四国の混成団創設と共に間接的に影響を受ける事となります。これは善通寺に在った第2教育団が大津駐屯地に移駐した事を受け、当時松山駐屯地に駐屯していました第4陸曹教育隊がのちにここ大久保駐屯地へ移駐する事となった訳です。

 浮橋本体と動力ボートの観閲行進、架線に橋節を浮かべて次々繋ぎ、動力ボートで流れに逆らって橋梁を維持する。中部方面隊の建設工兵部隊という位置づけにて日本第二の大都市圏京阪神地区の一角である京都府宇治市の大久保にて防衛警備任務の一端を担った第4施設団ですが、東西冷戦の終結や部隊の整理縮小、国際貢献任務の要求へ応じ、更なる改編が重ねられる事となる。

 1990年、第4施設団は隷下部隊の地区施設隊廃止改編を実施しました。地区施設隊の内、施設群隷下部隊は基本的に施設群隷下に置かれていますが、金沢駐屯地第302地区施設隊と山口駐屯地第304地区施設隊は廃止部隊となり、二部隊は、その歴史の幕を閉じました。

 1999年には第4施設団隷下の第8施設群が廃止される事となります。第8施設群は善通寺駐屯地に駐屯していまして、これにより善通寺駐屯地には第2混成団が唯一の部隊という位置づけとなった。他方、第2混成団は大幅に増強し第14旅団となったのはご承知の通り。

 第8施設群の廃止改編に併せ、出雲駐屯地に第304施設隊、善通寺駐屯地第305施設隊が新編される事となり、こちらは施設群に属せず施設団直轄部隊という位置づけとなっています。このあたり、北海道で第3施設団が北部方面施設隊に改編される等、混迷でしたね。

 道路整地車両、これで舗装道路へアスファルトを敷きます、有事の際に道路が維持できるとは解らず民間建設会社が砲弾落下の地域には来てくれません、その為に各国軍隊はこうした装備を持ちますが、自衛隊の装備は国際貢献で役立った。自衛隊の冷戦後の将来像を模索する中で、実はこの地区施設隊廃止改編と第8施設群廃止改編の中間期、自衛隊の任務に大きな変容がありました。これはPKO協力法に基づく自衛隊の国連平和維持活動への参加開始です。1992年、カンボジアへ自衛隊が派遣されました。

 建設工兵の実力は意外と知られていませんが、大型トラックが通行出来て数十年維持可能な橋梁や鉄筋コンクリートの建物にダムや堤防などの治水設備と用水路などの灌漑設備は建設工兵が簡単に建設できます、トーチカや対戦車壕と野戦陣地に架橋の応用ですからね。カンボジアPKO任務第一次派遣隊は、ここ第4施設団が主力となり編成、京阪神地区は革新自治体が多く、自治体防災訓練へ自衛隊の参加が府県知事要請により参加できずオブザーバーに留まるなど独特の価値観がある為、大久保駐屯地営門前は大変であった、とのこと。

 国際貢献での海外派遣と云えば現在では自衛隊の主要任務に数えられる時代ですが、当時は海外での大災害への緊急人道支援も社会党の圧力で実施できず、海外にて邦人が紛争地に取り残されても自力で運命を切り開くしかない、という特攻精神が国民に求められた。

 ダンプ中隊の観閲行進が始まりました、地対地ミサイルに見えますがダンプです、妙に迫力が凄い。さて、邦人救出ではイランイラク戦争にてイラク軍から無差別ミサイル攻撃の通告を行われたイランの首都テヘランに邦人が取り残され、運輸省の日本航空への邦人輸送要請が労組の反対で却下、自衛隊のC-1輸送機派遣は憲法上無理と国会で一蹴、最早これまでか、となる。

 イランに孤立した邦人はトルコ航空の人道精神、1890年に和歌山県串本沖で発生したトルコ海軍遭難事案、エルトゥールル号遭難事件へ日本側が地元住民の救助、遭難時は悪天候で地元にも食糧が枯渇した状況での生存者の治療と保護した歴史の返礼で、助けられます。

 イランイラク戦争にて邦人救出へ日本航空があてにならない事を痛感した政府はボーイング747ジャンボ機2機を政府専用機として導入する事となりました。しかし、この政府専用機が配備されたのは1992年で、カンボジア派遣はその年に執り行われた訳なのですね。

 無事カエル、とは大久保駐屯地に置かれているモニュメントがあります。これはカンボジアPKO任務へ第一次派遣部隊として展開する第4施設団が全隊員の無事帰還を祈念し設置したもの。カンボジア内戦はポルポト派による大量虐殺、戦闘も一部地域で続き懸念されました。

 しかし、一番大変だったのは輸送部隊の展開です。海上自衛隊に大型輸送艦は満載排水量4000tの輸送艦みうら型3隻のみ、現在のような満載排水量14000t輸送艦おおすみ型はまだ無く、フィリピン沖で台風に遭遇し、陸上自衛隊員は時化に不慣れ、船酔いが凄かった、と。

 ダンプ中隊の観閲行進は迫力がありますが、中隊32両のダンプは建設工兵の任務に不可欠で、これを通常のトラックとスコップで実施した場合は大変な事になる。国際貢献任務はPKO協力法制定時、相当左翼陣営がこれで外国を侵略し徴兵制や核武装が始まると相当脅していましたが、実際はそうならず、海外派遣先の国家と本当に人と人を通じた信頼関係を深め、今日に至っています。その第一陣は、大久保から派遣されました。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】第4施設団52周年大久保駐屯地祭【1】団長小野塚陸将補へ敬礼(2013-05-26)

2017-07-23 20:15:13 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■新特集:大久保駐屯地祭
 日曜特集、第4施設団52周年大久保駐屯地祭を今回から紹介しましょう。第4施設団長に小野塚貴之陸将補が着任していました時代です。

 写真特集第四施設団創設記念大久保駐屯地祭二〇一三、京都府宇治市の陸上自衛隊駐屯地で中部方面隊隷下部隊の建設工兵部隊である第4施設団と京阪神紀州を防衛警備管区とする第3師団隷下の戦闘工兵部隊である第3施設大隊等の部隊が駐屯している駐屯地です。

 京都府宇治市、大久保駐屯地は近鉄京都線大久保駅に隣接し、大久保駅ホームからは駐屯地の隊舎や施設器材と青々とした駐屯地の木々を間近に見る事が出来ます、駅舎には路線バスや高架下に飲食店街があり、京都市と宇治市の中心部の中間という立地にあるところ。

 駐屯地創設記念行事は例年五月下旬に執り行われ、施設部隊として戦闘工兵と建設工兵が駐屯する駐屯地ならではの行事が行われ、京都の桜花観桜の喧騒が新緑の涼やかな静寂を愉しめる風情と時期を併せ、開催されるものです。大久保駐屯地駐屯部隊は以下の通り。

 第4施設団本部及び付隊、第4施設団隷下、第7施設群本部及び第7施設群、第102施設器材隊、第307ダンプ車両中隊、中部方面後方支援隊第104施設直接支援大隊など。第3師団隷下部隊では、第3施設大隊、第3後方支援連隊第1整備大隊施設整備隊が駐屯する。

 大久保駐屯地は施設部隊駐屯地であり、その規模は比較的大きいのですが駐屯地運用と維持業務には中部方面会計隊隷下第397会計隊、中部方面通信群第318基地通信中隊大久保派遣隊、第131地区警務隊大久保派遣隊、大久保駐屯地業務隊等の部隊が当たっています。

 創設記念行事は広大な駐屯地の一角で行われます。大久保駐屯地は近鉄大久保駅から外柵に沿って用水路を少し駅から離れた場所に白壁の先に広がります、駐屯地入口を挨拶と共に通れば、国際貢献任務完遂を祈る蛙像、無事帰るを願掛けした像とグラウンドが見える。

 しかし、大久保駐屯地の駐屯地創設記念行事は広大なグラウンドでは行われず、もう少し駐屯地の奥まったところに更に広大な広場があり、此処が記念式典会場となっています。そして、その道中には施設部隊関連機材等が多数並び、施設科の任務の幅が垣間見えます。

 第4施設団、中部方面隊隷下の建設工兵部隊として1961年に新編された部隊で、新編当時からこの大久保駐屯地へ駐屯しています。旧陸軍飛行場跡地を米軍が接収し、その後警察予備隊創設と共に陸上自衛隊へ移管されました。中部方面総監部を置く構想もありました。

 1961年当時の編成、団本部、本部付隊、第101建設大隊、第109施設大隊、第305施設器材中隊、第307ダンプ車両中隊、第302地区施設隊、第303地区施設隊、第304地区施設隊、第313地区施設隊、第318地区施設隊、第319地区施設隊、第320地区施設隊、です。

 地区施設隊とは、方面隊管区毎に建設工兵部隊を100名規模で駐屯させていました部隊で、規模としては現在の施設中隊規模ではありますが、日本本土の道路整備が未発達であった時代には部外工事として民生支援等日本経済の発展にも寄与した独特の編成といえるもの。

 地区施設隊の配置を見ますと、第302地区施設隊は金沢駐屯地、第303地区施設隊が出雲駐屯地、第304地区施設隊は山口駐屯地、第313地区施設隊は豊川駐屯地、第318地区施設隊が久居駐屯地、第319地区施設隊は大津駐屯地、第320地区施設隊が松山駐屯地、と。

 建設大隊とは、施設大隊を示すものですが当時は施設大隊と建設大隊を分けていました。1960年代、日本は高度経済成長の真直中ではありますが僅か十数年前の太平洋戦争敗戦は日本の軍事という制度に対する拒絶性、しかし国家と不可避の命題に悩んだ時代といえる。

 60年代の自衛隊は同時に米軍供与装備が次々と国産化され、M-4戦車が61式戦車へ、M-3半装軌車が60式装甲車へ、M-40A1無反動砲が60式無反動砲と60式自走無反動砲へ、M-1小銃とM-1騎銃が64式小銃へ、M-1919A6機関銃が62式機関銃へ、転換してゆく。

 軍隊と国家の関係性ですが、61式戦車が開発された当時、戦車という呼称を避け61式特車という呼称を用いたくらいですし、64式対戦車誘導弾の英訳略称ATMが核ミサイルを彷彿させるというよく分からない理由でMATという怪獣攻撃チームのような名称もできた。

 自衛隊草創期が一段落した1962年、第4施設団隷下に、第105建設大隊、豊川駐屯地第321地区施設隊、大久保駐屯地第322地区施設隊、大久保駐屯地第323地区施設隊、三軒屋駐屯地第324地区施設隊、高知分屯地第325地区施設隊(高知駐屯地が一斉に新編される。

 1962年は陸上自衛隊改編の大きな一年となっていました。即ち、陸上自衛隊へ“師団”という制度が創設されたわけです。自衛隊は旧軍呼称との決別の意味もあり、管区隊、という呼称を師団に代えていました。しかし、管区隊は規模が大きく、小回りが利きません。

 管区隊はアメリカ陸軍型歩兵師団を参考に創設されたものですが、日本の国土には大型のアメリカ軍型歩兵師団は使いにくく、機械化混成団という現在の旅団規模となる連隊戦闘団を並列しておき、機動運用を行う構想が立てられました、しかし機械化予算が無かった。

 第7混成団だけは機械化混成団となりましたが、従来、管区隊の大きな防衛線構築により敵の行動を拘束し、その上で機動力を活かした機械化混成団の機動打撃を以て敵を殲滅、もしくは管区隊の防衛線構築までの機械化混成団の遅滞戦闘、と基本構想があった訳です。

 1962年、機械化へ60式装甲車が2500両くらい必要で、実質、機械化混成団が単なる小型の管区隊にしかなっていない実情に鑑み、師団を構成する普通科連隊を当時の2500名規模の編成から1200名規模の編成に小型化し、管区隊と混成団を共に師団へと改編し今日に至る。

 新しい駐屯地や分屯地が続々と強化されたのも1962年で、岐阜駐屯地、富山分屯地、鯖江分屯地、和歌山駐屯地、と。現在分屯地となっている駐屯地や逆に現在駐屯地となっている当時の分屯地の名前等が並びますが、地区施設隊は次々と全国へ駐屯していた時代です。

 第4施設団はこうして現在の編成へ数多の改編を経て完結してゆきました。現在の第4施設団編成は、団本部、段本部付隊、第6施設群、第7施設群、第304水際障害中隊、第304施設隊、第305施設隊、第102施設器材隊、第307ダンプ車両中隊、となっています。

 隷下施設群の編成を見ますと、第6施設群は、群本部、第369施設中隊、第370施設中隊、第371施設中隊、第372施設中隊という編成です。第7施設群の編成を見ますと、群本部、第380施設中隊、第381施設中隊、第382施設中隊第304水際障害中隊、という編成だ。

 方面隊隷下の施設団は建設工兵であった、とは前述のとおりですが、現在は必ずしもそうとは言い切れないものがあります。即ち、近年は戦闘工兵用装備の集約も行われており、障害処理や地雷処理の最前線へ展開する運用が多々、想定されるようになっている為です。

 大久保駐屯地祭では、こうした様々な経緯と共に重厚と多様性を増した施設科の各種装備品が、複雑な現代戦闘の第一線工兵任務や戦闘支援任務を訓練と戦術研究により会得した施設科隊員たちの手により観閲行進や訓練展示、装備品展示や体験試乗等に活躍します。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】木更津駐屯地創設45周年航空祭【07】痛コブラと銀幕の活躍(2013-05-12)

2017-07-02 20:12:26 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■痛コブラ!ファイナル
 痛コブラの女性自衛官が古賀沼美埜里さん、異世界自衛隊モノの最高傑作“アウトブレイク・カンパニー”のBL好き自衛官さんにしかみえない、今回の日曜特集です。

 ガメラ2レギオン襲来、1996年の作品ですが、特撮映画ながら日本SF大賞を受賞した作品で、ゴジラのような空想兵器や空想組織を敢えて省き、仮に現代日本に巨大生物災害が発生したならば、政府や自衛隊はどのように対処するのか、という壮大な作品でした。

 痛コブラのかわゆいマーキングですが、ガメラ2ではAH-1S対戦車ヘリコプターの編隊が作品最後にも重要な役割を果たします、ちなみにこの痛コブラ、痛オメガ共々大好評だったのですが、偉い人から怒られたので、この木更津航空祭の参加が自衛隊最後の参加です。

 1996年のガメラ2、木更津駐屯地がそのままロケ地として登場します。2016年のシンゴジラ、期せずしてガメラ2の二十年後にシンゴジラが制作されたわけですけれども、テーマとしては重なる部分も。ガメラ2での木更津駐屯地、霞目駐屯地という設定で登場します。

 木更津駐屯地、劇中で仙台市に非常事態が発生し、仙台市中心部から全面退避しなくては成らない状況へ、自力避難が困難な病人や負傷者を第1ヘリコプター団が広域避難輸送をおこなうという展開で木更津駐屯地にてCH-47に乗り込む避難民という描写が出てくる。

 広域避難支援、その瞬間、駐屯地内で激しい局地地震が発生し、駐屯地の外柵付近に地割れが、という迫真の展開をこの木更津駐屯地にて撮影、実は映画ではかなり長時間木更津駐屯地の場面が続き、木更津駐屯地祭にて格納庫や周りの樹木と風景をみますと、分かる。

 ああ、この角度からこの方角へカメラを回したのだなあ、ということがわかる。映画の部隊、いや、映画の舞台を訪問することを聖地巡礼というようですが、平成特撮へ一石を投じたガメラ2をしっかり観ました上で、足を運べば、新しい発見があるかもしれません。

 第1ヘリコプター団が長官直轄部隊であった時代の作品であるガメラ2は、今観てみますと発見というか思わず笑みがこぼれる描写がでまして、冒頭に三陸沖と北海道支笏湖へ隕石が落下し、自衛隊が災害派遣される情景で、第11師団・真駒内駐屯地、出てきます。

 第11師団・真駒内駐屯地と掲げられた営門から第11師団司令部付隊の化学防護小隊が化学防護車を先頭に続々出動する描写、現在は第11師団は第11旅団へ縮小改編されていまして、一方で化学防護小隊は師団司令部付隊から化学防護隊へ増強改編を受けました。

 第11化学防護隊は、さらに特殊武器防護隊へ拡大改編を受けています。化学防護隊は化学兵器への対処装備を中心とした化学科部隊ですが特殊武器防護隊は核兵器や放射性兵器と生物兵器への対処を想定、大都市を隊区に有する師団や旅団へ改編されているのですね。

 ガメラ2の冒頭だけでも、自衛隊の改編史を少しだけ俯瞰できた印象を受けるのですが、真駒内駐屯地の第11師団時代の表札は、そのまま真駒内駐屯地資料館、明治時代の屯田兵時代からの貴重な展示品が並ぶ資料館で、ガメラ2の思い出に浸ることができるかも。

 また、当時第11師団の第11戦車大隊は74式戦車を真駒内駐屯地においていまして、戦車駐車場も劇中にでてきますし、富士駐屯地の毎年駐屯地祭が行われるグラウンドもガメラ2にはしっかりと登場し、当時の面影はしっかり残っていまして、一寸驚かされます。

 ゴジラvsビオランテ、ガメラ大怪獣空中決戦、輸送ヘリコプターの大編隊が印象的な緊迫感を醸し出します、非日常の代名詞といいますか、航空部隊駐屯地の近傍以外では中々、ヘリコプターの大編隊はみられません、京都でも年頭飛行訓練始め以外ではみられません。

 シンゴジラでは第4対戦車ヘリコプター隊のAH-1S対戦車ヘリコプターが印象的な役割を果たしました、20mm機関砲を搭載したAH-1S対戦車ヘリコプター、20mm機関砲だけならば実際北海道で害獣の海獣駆除へ掃海艇搭載のものが使用された実例があるのですよね。

 AH-1S対戦車ヘリコプターは、木更津駐屯地の駐屯地記念式典や飛行展示が行われましたこの場所にて、出動する状況などのロケが行われていまして、映画ではさり気なくAH-1S対戦車ヘリコプターのAH-64D戦闘ヘリコプターへの更新が完了しない状況もでています。

 AH-64D戦闘ヘリコプター、富士重工と国の製造中断を契機としての訴訟事案により、AH-1S対戦車ヘリコプター後継機調達そのものが宙に浮いてしまった状況ですが、特撮映画などですと見栄えを重視して例えばゴジラvsデストロイア等のように新装備で全て更新されているよう描かれる事が実際、多い。

 痛コブラ、しかし、痛コブラの状態のまま応急出動の必要が生じた際には痛コブラのまま航空打撃を展開しなければならないのですよね、実際、2004年の新潟中越地震では航空自衛隊のCH-47が航空自衛隊50周年記念塗装のまま災害派遣へ出動した事例もありました。

 防衛出動命令への痛コブラ応急出動、敵もTOWに20mm機関砲に70mmロケットを撃ちまくり襲いかかる痛コブラを見上げながら、流石は、俺の妹がこんなに可愛いわけがない、やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。、あっちこっち、きんいろモザイク、の聖地、千葉は木更津の部隊だ、と恐れおののく状況、ちょっとないですか。

 シンゴジラでの自衛隊描写は、東部方面隊幕僚長が陸将補なのはおかしい、第1普通科連隊長ヘルメットバンドしっかり装着しないと、会議の時に軽食かじらなければ何時ご飯食べるのだ、という現場からの厳しい指摘がありましたが、概ね良い作品だった、とのこと。

 巨大怪獣出現には第1ヘリコプター団のCH-47というよりは、ミサイルを搭載し航空打撃力の大きな第4対戦車ヘリコプター隊のAH-1Sしか出番がないよう思われるかもしれませんが、第1ヘリコプター団のCH-47輸送ヘリコプター32機は極めて重要な役割を担います。

 実際に膨大な火力と物量で巨大生物へ挑む場合にはそれは後方の弾薬集積所などから師団段列地区へたとえばミサイルや砲弾などをかき集めて輸送しなければならず、このために輸送ヘリコプターの迅速な輸送能力は不可欠ですし、優先度の高い資材は意外とおおい。

 CH-47の空輸能力はミサイルシステムやレーダーなどはもちろん、装甲車両などを敵接近経路などに展開させ、集合と分散を阻害し、我はかくする、敵にかくしむる、という原則、相手の選択肢を制限してゆく任務も重要な一つというよりも勝利への要諦といえましょう。

 このCH-47ですが、先頃川崎重工からライセンス生産100機目のCH-47がロールアウトしたとのことです。老朽機の一部は用途廃止されてしまいましたが、一部は勢力維持改修として延命が為されていまして、米陸軍などでも実施されている延命改修の日本版です。

 航空自衛隊と陸上自衛隊の機体をあわせて100機、という規模になりましたが、これだけの多数の輸送ヘリコプターを装備するのは自衛隊の他、アメリカ陸軍とアメリカ海兵隊くらいのもので、もう少し中型の機体を加えればロシア軍等とともにならぶ状況、です。

 この多数のCH-47は自衛隊の、というよりも、日本の至宝というべき装備で、島嶼部防衛はもちろん災害派遣にも輸送ヘリコプターの輸送力はきわめて大きな意味を持ちまして、これだけの部隊がしっかり整備維持されているのは意義が大きい、と考えつつ帰路に就き、アクアラインで富士へ帰る96式装輪装甲車と一緒に渋滞に巻き込まれました。これにて【日曜特集】木更津駐屯地創設45周年航空祭、全七回は完結です。最後までありがとうございました。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】木更津駐屯地創設45周年航空祭【06】機動飛行は銀幕の如く(2013-05-12)

2017-06-18 22:09:27 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■AH-1Sコブラ機動飛行
 AH-1S対戦車ヘリコプターの迫力ある、映画のような機動飛行が開始されました。

 木更津駐屯地、中央即応集団隷下となった第1ヘリコプター団ですが、中央即応集団は2004年に創設、その前までは長官直轄部隊、という位置づけでした。この木更津という立地、首都圏の航空部隊拠点となっていますが、東京湾沿岸にあり、対岸の横浜も見える。

 首都圏に万一の事態が発生した際には重要な拠点の一つ。また、CH-47輸送ヘリコプターにAH-1S対戦車ヘリコプター多数の航空機と格納庫を有するため、さまざまな映画の撮影地ともなっていまして、日本沈没、ゴジラvsビオランテ、ガメラ2、シンゴジラなどなど。

 1973年の映画”日本沈没”では東京直下地震により大被害がでた東京の救出拠点として登場しています。日本沈没の東京直下地震では350万もの犠牲者がでたという描写がでていまして、これは原作者で日本SF界の至宝、故小松左京氏が大量のデータから分析したもの。

 小松左京氏は大量のデータと取材に基づきSFに現実味を持たせる作風が素晴らしい世界観を構成しますが関東大震災の被害を元に東京の人口増大をうけ、仮に同程度の地震が発生したらば、という原作小説の描写をさらに映画化に当たって検証し示した数値とのこと。

 首都直下地震の発生に際し、東京都内は高速道路と歩道橋などの倒壊により交通網が途絶し、地盤陥没により地下街等を含め高層ビル群が次々と被害を受けるとともに、ダムの崩壊等が広域浸水被害を引き起こし、その後の初期消火失敗により都内が大火災に襲われる。

 巨大火災は沿岸部工業地帯や石油化学コンビナートの大火災を生み、逃げ場を失った被災者へ火災が襲うという状況をでした。一部特撮等はそのままゴジラの都市破壊シーンなどに転用されていますので、日本沈没、1973年版はいろいろな意味でお勧めな映画の一つ。

 首都直下地震による大被害を前に自衛隊へ災害派遣が要請され、木更津と立川の陸上自衛隊航空部隊が都内の火災消火へ、神奈川県知事要請で横須賀地方総監命令で厚木や下総に館山などの海上自衛隊航空部隊が横浜と川崎の火災消火へ出動するという描写でした。

 消防車が建物崩壊などによる道路封鎖により出動できないため、ヘリコプターだけが出動できるという劇中、消火弾という、おそらく液化炭酸ガスとハロゲン消火ガスを内蔵していると思われる特殊装備、勿論自衛隊の装備にこうした消火弾という装備はありません。

 東宝映画独特の東宝自衛隊特殊装備、消火弾についても東宝自衛隊装備ということになると思うのですが、積載し消火任務に当たっていました。もちろん、火災規模が大きすぎ、全く歯が立たない、という状況で、実際ならばバケットによる放水を続けるのでしょうが。

 しかしV-107輸送ヘリコプターとHU-1B多用途ヘリコプターが次々と離陸してゆく映像は、離陸の映像に自衛隊が協力していますから、一瞬ではあるのですけれども、消火弾を機内に次々と搭載し、燃え上がる都心へ、実機ならではの迫力という印象でもありましたね。

 小松左京氏は原作日本沈没において、東京直下地震の被害が拡大する様子を、日本人が災害文化という巨大災害においてその被害拡大を局限するための必要な文化を長く巨大災害が到来しないことで忘れられたことを東京直下地震被害拡大の要因として描いていました。

 そして犠牲者の数についても原作小説では、関東大震災の東京人口と比較した被害規模と比例して増大した結果、としていました。もちろん、首都圏の耐震技術や防災技術は関東大震災の時代には耐震構造という発想そのものがなく、今日とは比較は出来ない事も確か。

 関東大震災では特に煉瓦造りの中層建築物が簡単に崩壊し、建物への防火構造という概念が確立以前であったことから際限なく火災が延焼したという厳しい歴史がありまして、その上で東京大空襲などの被害から復興の都市計画改良をうけ、相当燃えにくくなっている。

 東京は燃える度に燃えにくく造りかえられ、それは江戸時代最初の大火からの復興へ檜葺屋根を延焼しにくい瓦屋根に作り替え、都市計画は災害と共に強靭に、その後も徐々に、という歴史はありますので、350万という犠牲者はSFの世界の描写ではありました。

 原作者の小松左京氏もこの点への認識はあったようなのですが、1995年の阪神大震災にて、高架道路の崩壊や日本沈没ほどの規模ではなかったものの地元を襲った災害に驚かされ、阪神大震災後のエッセイ"未来からのウインク”等、その作風まで影響があったようでした。

 ゴジラvsビオランテでは、自衛隊の最新鋭無人航空機スーパーX2の拠点飛行場として描かれていました、スーパーX2、現在岐阜基地で試験中の防衛装備庁X-2とは関係なく、1984年の映画ゴジラにて防衛庁が装備した首都防衛戦闘機スーパーXの後継機という設定です。

 スーパーXはカブトガニを装甲化したような大型のVTOL航空機で、これを首都でどうやって使うのか不安な航空機、核戦争を想定し核電磁パルス対応の構造を採用していたものの、ゴジラ対策用に特殊弾薬を追加搭載した際に急いで改造した状況での新任務付与です。

 VTOL機ですが航空力学を無視した形状の航空機へ特殊弾薬運用能力付与へ、急いで改修したため機体部分に電波吸収材を装着するまもなく、機体の電磁密閉構造に空隙を造ってしまい、その後いろいろあって核爆発が発生した際、脆弱部分が露呈してしまいました。

 ゴジラvsビオランテでは、この後継として新型航空機を陸上自衛隊が配備し運用しています。陸上自衛隊が運用している理由は不明ですが、高名な軍事評論家の方々と話し合った際に、多分、あれは断れなかったためではないか、という分析をはなしていただきました。

 新装備を運用するという事は所管する事を意味し、多額の予算を装備計画を変更し算出しなければならないことを意味します、たとえば現在導入検討されているという陸上配備弾道ミサイル防衛システムもTHAADならば航空自衛隊が予算を出さなければ成りません。

 しかしミサイル防衛、イージスアショアでしたら海上自衛隊が予算を出して人員と運用費用を捻出するため、航空自衛隊の懐は痛まない、という状況と重なるものがあるかもですね。原作ではアングラーという航空機に高出力レーザーを装備しゴジラに挑む展開でした。

 カブトガニのつぎにはアンコウで挑むという展開は、しかし東宝的にはおもしろくなかったようで特殊ミラーを搭載した潜水可能な無人航空機として登場しました、木更津駐屯地とスーパーX2ですがスーパーX2の格納庫との設定で木更津駐屯地の格納庫が出てきます。

 ゴジラvsビオランテでは第1ヘリコプター団のVー107輸送ヘリコプター大編隊も登場していますね。1995年の映画ガメラ大怪獣空中決戦の劇中では高射教導隊がガメラを東富士演習場に撃墜し、このガメラを害獣として駆除するべく第1師団と富士教導団が出動する。

 この自衛隊出動に弾薬輸送などの支援へ第1ヘリコプター団が支援に向かう大編隊が描かれているのですが飛行するのはCH-47,ゴジラvsビオランテは1989年の作品でガメラ大怪獣空中決戦は1995年の作品ながら、編隊はV-107からCHー47に機種転換していました。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】木更津駐屯地創設45周年航空祭【05】訓練展示&機動飛行(2013-05-12)

2017-05-21 22:56:46 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■陸上自衛隊,空中機動の威力
 木更津駐屯地創設45周年航空祭,第五回は前回に引き続き訓練展示の様子と、AH-1S機動飛行の迫力とともにヘリコプター団の歴史と自衛隊航空史をお伝えしましょう。

 第1ヘリコプター団の新しい歴史は2007年に新編された中央即応集団の隷下部隊となった事で始まりました。防衛庁も防衛省へ改編され、長官直轄部隊から中央即応集団隷下部隊へ、巨大な空中機動能力を機械化連隊や空挺部隊と特殊部隊支援へ専従させる事になる。

 中央即応集団は司令部及び司令部付隊、第1空挺団、第1ヘリコプター団、中央即応連隊、特殊作戦群、中央特殊武器防護隊、対特殊武器衛生隊、国際活動教育隊、以上4500名を基幹とする自衛隊緊急展開部隊で、空挺団以外警備隊区を持たず日本に世界へ展開可能です。

 第1空挺団は自衛隊最精鋭、習志野に駐屯する自衛隊唯一の空挺部隊で3個普通科大隊9個中隊と特科大隊に施設中隊や通信中隊と後方支援隊を加えた1900名規模の部隊で、精鋭無比、厳しい訓練と専門教育に数段上の体力練成から日本唯一の旧陸軍、とも称される。

 中央即応連隊、宇都宮に駐屯しており中央即応集団創設と共に全国の普通科部隊から選抜した隊員を以て新編、軽装甲機動車に96式装輪装甲車や輸送防護車といった装甲車両により高度に装甲化された普通科連隊で、本部管理中隊と3個普通科中隊を基幹としています。

 特殊作戦群、自衛隊初の特殊部隊で指揮官以外の名前は公表されず300名程度の部隊です、米軍は1765名の特殊作戦群5個を有していますが自衛隊の場合2004年に新編されたばかりで、作戦分遣隊規模での部隊強化と実任務対処能力構築が進められているのでしょう。

 中央特殊武器防護隊と対特殊武器衛生隊、大宮駐屯地と朝霞駐屯地に駐屯するNBC防護部隊で地下鉄サリン事件や東海村臨界事故と福島第一原子力発電所事故等世界で最も経験を積むNBC防護部隊で、アメリカがCBIRF化学生物事態対処部隊新編時に参考としたとも。

 国際活動教育隊、駒門駐屯地に駐屯する自衛隊の教育訓練部隊で各国のPKO任務への研修や全国の自衛隊部隊の海外派遣に先んじての教育訓練等を専門とする部隊です。中央即応集団は陸上総隊創設への過渡的編成とされますが、緊急展開部隊編制へ先鞭を付けました。

 多数のヘリコプターを目の前にして、自衛隊は装甲車が不足故に近代化が遅れていると誤解されますが、実はヘリコプターを買い過ぎただけではないか、と思ったりも。CH-47を10機以上持っている国は稀ですし専用の攻撃ヘリコプターを100機近く持つ国も少ない。

 AH-1S対戦車ヘリコプターと89式装甲戦闘車、量産が進んでいる時期では其々27億と5億円ですので、AH-1S一機と89式FV縮小2個小隊の費用は同じ程度で、ミサイルに機関砲で武装は似ているもAH-1S90機調達という事は89FV440両に匹敵する費用を要する。

 CH-47JA輸送ヘリコプターと96式装輪装甲車の比較では、CH-47JAが50億円に対し96WAPCが1億円弱、つまりCH-47が1機で96WAPCを三個中隊と本部管理中隊施設作業小隊や情報小隊に充足させられるだけの費用が掛かりまして、これを50機もっている。

 陸上自衛隊にはもう一つ、改良ホーク地対空ミサイルが8個高射特科群全国に配備され戦域防空を担っていましたが、高射特科群整備費用が甲師団全装備費用に匹敵し、これを改善Ⅰ型に改善Ⅱ型と改善Ⅲ型と改修していましたが、これも各群230億円程掛かった、と。

 改良ホーク改善費用だけで73式装甲車230両と96式装輪装甲車240両や89式装甲戦闘車46両に匹敵して、これが8個群、無論改良しなければ現代戦に対応できませんが、もう少し航空自衛隊の防空戦力が頼れれば、3個群分程普通科の装甲化に回せたのになあ、とも。

 撮影位置について。木更津駐屯地は飛行場ですので、撮影可能な立地は比較的広く様々な撮影場所を何年かに分けて撮影する事も出来るかもしれませんが、大編隊がどの方向から飛来するかを正確に把握していませんと、いきなり後ろから大編隊飛来となりかねません。

 実は2006年に、この場所空いているから最前列確保出来るよね、と充分吟味せず撮影しまして、大編隊は後ろの格納庫から飛来して、肝心のチヌークやコブラ大編隊が電線や電柱と重なってしまったよ、という大失敗、してしまった事も、ありましたので気を付けたい。

 改めて足を運んでみますと、その前回失敗した撮影場所は、実は正門からかなり近いのですね、そこで空いているというあたりにその撮影立地のアングルが難しい、ということ、気づくべきだったのかもしれませんが、ただ同行の友人が開口一番、この場所いいね、と。

 チヌークのエンジン出力が凄い事は冒頭に九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機と比較しても高出力だという表現で示しましたが、その凄さは実は日本海軍機はもとより、エンジン出力だけ比較すれば四発重爆撃機のB-29戦略爆撃機よりも高出力で、つまり離陸も凄い。

 2006年に何気なくチヌークの編隊を真後ろから撮影しようとしていましたらば、周りに他子供たちが一斉に逃げ出しまして、千葉っ子は軟弱だなあ、と千葉愛が凄い作家さんなどが聞けば激怒しそうな印象を持ちましたが、カメラのファインダー視ていると何か変だ。

 大編隊離陸という決定的な瞬間を撮影するのにファインダーが芝生色で覆われていくので何だろうと思い直に見ますと、なんとローターが巻き起こす後方気流が芝生を掻き集め直径50cm以上ありそうな芝玉となって幾つもこちらに走る如くの速度で迫ってくる、という。

 会場に設定された安全地域ですし、芝生が玉になって大半は空気で重さは無く問題ないのですが、一発が子供に纏わりつきチヌークと子供たちの雪合戦ならぬ芝合戦状態に、知識でエンジン出力の凄さは知っているが、編隊離陸となると芝生が凄いことになるのだなあ。

 幸い当方は芝生玉にも当らず風に向かって頑張っていましたけれども、今度は足元に置いていたカメラバックが無い、置き引きかよ千葉治安悪いなあ、と千葉愛が凄い作家さん等が聞けば激怒しそうな印象でしたが、そうではなくカメラバックが風で動いていたもの。

 カメラバック待って、と追いかけていますと、何故か航空愛好家で遠巻きに撮影していた方々の白レンズ群がチヌークではなく当方を視ているようにも、面白いかこっちは必死だ、と、まあそんなことがありまして最初の撮影は教訓が多かったのですが今回は大丈夫だ。

 痛コブラ、痛オメガ、最後の年、と言いますか特別過ぎた記念塗装により、市ヶ谷の偉い人たちから怒られ、その意味で注目が集まったのが木更津航空祭二〇一三でした、当方は京急沿線に一泊しまして友人と東京湾横断橋を経由し、木更津駐屯地へと展開しました。

 横須賀基地へ練習艦隊近海練習航海部隊が入港しており、前日に撮影を併せて、一寸横須賀で美味いネイビーバーガーと夜にホッピーでも頂こう、という旅程、期せずしてCH-47地上滑走にも乗る事が出来、その後中折れ帽を無くしましたが満足できた写真が撮れた。

 木更津駐屯地祭当日は快晴に恵まれ祝賀飛行大編隊、空挺団と協同しての訓練展示、対戦車ヘリコプター機動飛行、一通り撮影できました。近年大編隊指揮官が減っていると言われるものの、木更津興味深い行事と展示を撮影する事が出来ました。さあ機動飛行開始だ。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】木更津駐屯地創設45周年航空祭【04】ヘリボーン訓練展示(2013-05-12)

2017-05-07 22:27:52 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■中央即応集団模擬戦闘展示
 木更津駐屯地創設45周年航空祭、第1ヘリコプター団と第1空挺団の協同によるヘリボーン戦闘訓練展示の様子を紹介しましょう。

 木更津駐屯地祭で主役の一翼を担うのは第1ヘリコプター団と共に第4対戦車ヘリコプター隊です。第4対戦車ヘリコプター隊、立川駐屯地東部方面航空隊隷下に在る対戦車ヘリコプター部隊でAH-1S対戦車ヘリコプターとOH-1観測ヘリコプターを装備しています。

 AH-1S対戦車ヘリコプターといいますと2015年の超大作映画“シンゴジラ”にて巨大生物へ20mm機関砲とTOW対戦車ミサイルで二度に渡り挑んだ機体ですが、第4対戦車ヘリコプター隊はシンゴジラに出演しました部隊で映画の撮影場所も木更津駐屯地そのもの。

 第4対戦車ヘリコプター隊、空飛ぶ馬車から空飛ぶ騎兵へ、としまして陸上自衛隊が導入しましたAH-1S対戦車ヘリコプターを装備します、これは地皺と錯綜地形にあふれる日本国土を防衛するには航空打撃力を重点的に整備しなければならないという視点に基づく。

 対戦車ヘリコプターという装備は、アメリカ軍がヴェトナム戦争中に多用途ヘリコプターへ重武装を施し、対地攻撃支援に充てるガンシップを強化したものです。実は対戦車ミサイルをヘリコプターに搭載するという発想は欧州ではそれほど新しいものではありません。

 フランス軍は1957年からSE.3130アルエットII軽ヘリコプターへSS-11対戦車ミサイルを搭載し運用していまして、観測ヘリコプターに有線誘導ミサイルを運搬し空中から発射する簡便なものながら草創期の西ドイツ連邦軍等NATO加盟国では広く使用されました。

 64式対戦車誘導弾をH-13観測ヘリコプターに搭載する実験は自衛隊でも実施されました、M-1919A6軽機関銃を機外に装着し、日本版ガンシップの研究も実施されています。この他、UH-1B多用途ヘリコプター用70mmロケット弾発射装置を10機分調達しています。

 AH-1,愛称コブラは、ヴェトナム戦争において単純な対戦車ミサイルの空中運搬手段を超えた攻撃ヘリコプターとして開発されました。元々の構想はアメリカ軍の正面戦場、欧州においてソ連軍機甲軍団を撃滅するという新型空中火力支援システムAAFSS計画に基づく。

 新型空中火力支援システムAAFSS計画では、対戦車ミサイルによる攻撃に加え、機関砲による軟目標撃破やロケット弾による地域制圧を付与し、且つ地上からの防空火力下での生存性を確保する、単純な観測ヘリコプター派生型では対応できないものが提示されました。

 AH-56攻撃ヘリコプターとしてアメリカ陸軍は高速飛行性能を持つ非常に先進的な航空機を開発していたのですが、先進的過ぎ各種不具合と開発費高騰に見舞われます、この中で同時期に大量生産されたUH-1多用途ヘリコプターの改良型が陸軍に注目されたかたち。

 AH-1は生存性を高めるべく操縦席をタンデム構造として胴体幅を1m以下まで圧縮し、主要部にチタン装甲を配置、一方で駆動系や降着装置と胴体尾部等可能な範囲内でUH-1の構造を流用する事で徹底的に費用を抑えた点が特色、この点も陸軍に評価された点の一つ。

 1967年にアメリカ陸軍はAH-1G攻撃ヘリコプターの暫定攻撃ヘリコプターとしての部隊運用を開始、AH-56の正式開発中止を受けAH-1は米陸軍の本命の攻撃ヘリコプターとなり、1977年には改良型のAH-1Sがアメリカ陸軍での運用を開始し、日本も注目しました。

 1977年に陸上自衛隊は財政難下の大蔵省を説得し研究用にAH-1Sを調達、その有用性の高さは北海道大演習場での第2戦車大隊を仮設敵とした実動実験により証明され、1982年度より調達が本格化します、機体は富士重工によりライセンス生産され部隊配備が始まる。

 富士重工は1961年よりHU-1B,UH-1多用途ヘリコプターのライセンス生産を開始しています、有翼高速型HU-1等独自改修なども実施した富士重工はUH-1系統の製造に豊富な経験を有していまして、AH-1のライセンス生産はある意味自然と云えたかもしれません。

 対戦車ヘリコプター隊は、各方面隊隷下の方面航空隊に各1個が置かれる事となり、1986年、帯広駐屯地に第1対戦車ヘリコプター隊新編、1988年には八戸駐屯地に第2対戦車ヘリコプター隊新編、1990年に目達原駐屯地へ第3対戦車ヘリコプター隊が新編されました。

 第4対戦車ヘリコプター隊は1992年に木更津駐屯地で編制完結し、続いて明野駐屯地に最後の第5対戦車ヘリコプター隊が編成されたのが1994年のことでした。対戦車ヘリコプター隊の定数は16機、教育用を含め実に96機ものAH-1Sが陸上自衛隊へ配備されています。

 方面航空隊、これは北部方面隊、東北方面隊、東部方面隊、中部方面隊、西部方面隊に直轄部隊として置かれている部隊ですが、諸外国の軍団直轄航空部隊に当たる航空部隊で、保有機数や航空機数から見ても世界的にかなり高度な航空部隊といえるかもしれません。

 方面航空隊は隷下に隊本部と本部管理中隊、対戦車ヘリコプター隊と方面ヘリコプター隊、方面管制気象隊と方面航空野整備隊よりなり、AH-1Sを16機とUH-1Jが20機にOH-6Dを10機装備、近年西部方面隊へCH-47が配備され、来年度に中部方面隊も増強予定です。

 TOWミサイルは、AH-1S対戦車ヘリコプター最強の装備で、射程は3750m、有線誘導により敵戦車等を攻撃します、同時に70mmロケット弾38発と20mm機関砲を搭載、TOWは低空飛行する敵航空機への制圧へも転用可能、自衛隊航空打撃力は大幅に向上しました。

 実戦でのTOWミサイルは湾岸戦争等で多数の戦車を撃破してきましたが、複合装甲を備えた第三世代戦車に対しても、イエメン内戦へ介入したサウジアラビア軍のM-1A2戦車がTOWミサイルに上部を破壊され全損する映像があり、今日的に見ても威力は充分でしょう。

 20mm機関砲弾も装甲車両の上部を射撃すれば、ヘリコプターですので上部を狙えるのは当然ですが、貫通できます。70mmロケット弾も展開した歩兵や陣地と兵站車両の制圧に非常な威力を発揮出来ますが、AH-1Sは装甲に守られ防護構造、簡単には撃墜されません。

 2個飛行隊は各8機のAH-1S対戦車ヘリコプターを装備している為、64発のTOWミサイルを以て対戦車戦闘へ対応します、ロケット弾と共に敵戦車大隊を随伴歩兵共々制圧できる能力で方面隊毎に対戦車ヘリコプター隊が整備された事、意味の大きさが分りましょう。

 富士重工によりライセンス生産されている為、運用基盤と共に夜間戦闘能力強化やデータリンク機能実験など近代化改修も継続的に実施でき、その能力を高度なものとしていますが、近年は老朽化により除籍が進んでおり、徐々に部隊定数が割れ、問題となっています。

 後継機としてAH-64D戦闘ヘリコプターが選定されましたが、60機の取得計画を示したものの価格高騰と政権交代の余波で突如調達が中断され有償調達部品取得や生産治具整備費用の支払いを富士重工が国に求め訴訟事案に発展、後継機調達は停滞してしまいました。

 AH-64D戦闘ヘリコプターは自衛隊仕様が最新のAH-64Eに近い水準で、島嶼部防衛や統合機動防衛力整備へ航空打撃力は必要なのですから、ここは政治決断として既に調達された13機に加え残る47機を補正予算にて一括調達してはどうか、とも思うのですが、ね。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】木更津駐屯地創設45周年航空祭【03】観閲飛行大編隊(2013-05-12)

2017-04-23 20:12:33 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■木更津航空祭大編隊
 木更津駐屯地創設45周年航空祭、最大の迫力を誇示する大編隊による観閲飛行が遂に頭上に展開します。

 大編隊がもう間もなくこちらの頭上へやってきます//第1ヘリコプター団は2008年に規模な編成改編を行い、航空機を充実させました。団本部、本部管理中隊、第1輸送ヘリコプター群、第102飛行隊、特別輸送ヘリコプター隊、第1ヘリコプター野整備隊、連絡偵察飛行隊、新しいヘリコプター団編成は以上の通り。

 観閲飛行は一回限り、このための撮影場所を選んだ//第1輸送ヘリコプター群は第1ヘリコプター隊と第2ヘリコプター隊を統合改編史誕生したもので、CH-47J/JA輸送ヘリコプターを運用する第103飛行隊、第104飛行隊、第105飛行隊、第106飛行隊を隷下に有しています。各飛行隊は8機のCH-47を装備している。

 CH-47が空を覆う//増強改編となったのは第102飛行隊の新編です、UH-60JA多用途ヘリコプターとOH-6D観測ヘリコプターを運用する部隊で、中央即応集団発足と共に特殊作戦群の支援任務が第1ヘリコプター団へ付与され、特殊作戦や強襲任務へ対応する装備として配備されたもの。

 AH-1S,記念塗装機の編隊//特別輸送ヘリコプター隊はEC-225LP輸送ヘリコプターを以て要人輸送に当たります、AS-332L輸送ヘリコプターの後継機として導入されたものですが、改良型です。フランス製で日仏貿易不均衡への改善策として1986年に導入、今ではすっかり自衛隊の一員です。

 広角レンズでも左右を編隊が長い長い機影を並べる//V-107輸送ヘリコプター、第1ヘリコプター団と共に陸上自衛隊航空史を俯瞰すれば、この万能ヘリコプターの存在を欠いて話す事は出来ません、バートル社が開発したタンデムローター型ヘリコプターはそれほどに自衛隊、そして日本航空産業へも影響がありました。

 AH-1SとOH-1の編隊//自衛隊とV-107輸送ヘリコプターですが、陸海空自衛隊が導入しており、その導入総数は110機という非常に大きな調達が実施されました。陸上自衛隊は輸送ヘリコプターとして、海上自衛隊は掃海ヘリコプター、航空自衛隊は救難ヘリコプターとして、運用しています。

 快晴という名の通りの青空には編隊が良く映える//バートル社がV-107を初飛行させたのは1958年ですが、自衛隊での運用開始は1962年の陸上自衛隊での配備から開始され、調達は非常に長く継続、最後の機体が除籍されたのは航空自衛隊救難ヘリコプターとして運用の機体で2008年にラストフライトを飾っています。

 自衛隊高等工科学校生徒の頭上を往く大編隊//CH-46中型ヘリコプターとしてアメリカ軍が制式化されていまして、興味深いのは中型であったためアメリカ陸軍ではほぼ評価されなかったものの、中型機種としては輸送力が大きい為、強襲揚陸艦からの運用に最適とされアメリカ海兵隊への大量配備が決定しました。

 観閲飛行の大編隊は一航過を経て着陸態勢へ入る//アメリカ海兵隊には300機以上が配備され、この内275機が改良型のCH-46Eへ改修、海兵隊の強襲ヘリコプターとして長期にわたり運用され、傑作機故に後継機開発が難航し、後継機MV-22可動翼機が配備された2015年まで長期に渡り第一線部隊で運用されました。

 UH-60とCH-47,着陸へ編隊が重なる瞬間を撮影//V-107はバートル社により開発されましたが、日米での運用に加えてカナダとスウェーデンやサウジアラビア等で多数が運用されています。カナダ軍ではCH-113,スウェーデン軍ではHKP-4として運用され、バートル社に加え川崎重工がライセンス生産した機体も多い。

 機影が其処此処で重なる//日本の航空産業との関係が深いと前述しましたが、これは川崎重工においてライセンス生産が行われていた為です、更に特筆すべきは武器輸出三原則拡大運用以前には、川崎重工製V-107に当たるKV-107がスウェーデンやサウジアラビアへ軍用として輸出されたこと。

 この情景の編隊だけで人員だけならば空挺大隊を空輸可能だ//川崎重工は1962年にノックダウン生産を開始し1966年にライセンス生産権を取得、日本での生産を本格化させました。自衛隊への配備開始は陸上自衛隊向けの機体が1966年からですが、警視庁KV-107や民間用ヘリコプターとしても多数が生産され、供給されています。

 AH-1SとCH-47//007は二度死ぬ、英国秘密諜報員ジェームズボンドが日本を舞台に秘密結社スペクターと戦う1965年の映画にもKV-107はタイガー田中率いる日本公安調査庁作戦機として登場し、その力の入れようを伝えます。KV107は神戸のカワサキミュージアムでも見る事が出来る。

 CH-47、同じ機体なのですが距離が違えばこれほど見え方も違う//自衛隊がV-107を導入した背景には、CH-46とともに同時期に開発されていましたCH-47、現在の陸上自衛隊主力輸送ヘリコプターとなっているCH-47の導入も併せて検討されていました、しかしCH-47は大型過ぎ、大量に調達するにはV-107の方が現実的と判断された。

 一眼レフ二台で二種類のレンズを駆使し状況の展開を撮影//600機のV-107輸送ヘリコプター導入計画、現在見ますと突飛な話ですが、自衛隊が多数の輸送ヘリコプターを導入する構想は過去に在ったとされます。600機のV-107とは相当驚かされるところですが、元々川崎重工には膨大なV-107の生産構想があったといいます。

 自衛隊高等工科学校生徒隊はこの後、ライフルドリルの展示を行う//東京大阪ヘリコプター航空路線、東海道新幹線開通は1964年で、これにより0系新幹線が東京と大阪を多数の新幹線特急電車で結ぶに至りましたが、実はこの東海道新幹線以上に、ヘリコプターを東京大阪間に多数飛行、東海道本線特急こだま号に対抗する構想があった。

 撮影は短時間なのですが枚数はどんどんと積み重なる//全日本ヘリコプター空輸、現在の全日空は、首都圏中心部から大阪までのヘリコプター旅客輸送を検討、この為に注目したのがフェアリーロートダイン複合ヘリコプターとバートルV-107ヘリコプターです。V-107はアメリカでの旅客機としての運用も実際あります。

 UH-60JAが二機着陸へ//フェアリーロートダインはイギリス製複合ヘリコプターで48名の定員と共に航続距離830kmと巡航速度350km/hという高速飛行が可能です、ただ、複合ヘリコプターは騒音と整備性の問題や離陸滑走の問題があり、V-107はその点で実績があり現実的といえたもの。

 旋回し着陸へ//V-107の東京大阪航路に導入されますと、V-107の利点として空港のような滑走路を必要とせず、高層ビル最上部のヘリパットなどを利用すればそのまま飛行場施設とできました。これは都市部に高層ビルが増えれば増える程、多数の空港施設を置けることを意味します。

 CH-47は着陸も迫力がある、遠景の掩体は戦時中に海軍が建築したもの//アメリカでの旅客機としてのV-107はニューヨーク航空やパンアメリカン航空で運用実績があります、1968年の映画“ニューヨーク無宿”劇中でクリントイーストウッドがニューヨーク航空V-107を利用する印象的な描写もありましたが、それだけ期待されていたもの。

 自衛隊高等工科学校生徒隊によるライフルドリル、同時に訓練展示準備が進む//東京大阪間の旅客需要は非常に大きく、最高速度200km/h以上の高速鉄道を大量運行させる事は鉄道そのものが旧時代の交通手段と見られていた点も踏まえ現実性がないと思われ、特に空港設備が土地不足により厳しい日本でのヘリコプターへの期待が大きかったのです。

 状況開始、UH-60のローターが会場上空の大気を切り裂き訓練展示がいよいよ開始されました//0系新幹線vsKV-107ヘリコプターの一騎打ちですが、しかし東海道新幹線の営業運転開始となりますと、その利便性の高さ、運転制御装置の先進性から大量の輸送需要に対応できるという点から0系新幹線が勝利を手にし、ヘリコプター航路は結局実現していません。

 UH-60の重機関銃射撃掩護下でCH-47が進入を開始します//600機V-107構想、これは仮に東海道新幹線に代えて川崎重工が大量のヘリコプター航路を東京大阪間に運行開始すれば、量産効果によりV-107の製造単価も当然低下しますから、自衛隊が安くなったV-107輸送ヘリコプターを大量調達する事はある意味現実的といえる。

 巨大な輸送力をもつCH-47は高機動車を吊下げ空輸し、訓練展示へ戦闘加入する//川崎重工がV-107のライセンス生産権を早い時期に取得した背景は民需の大きさがあり、一方、V-107に勝利した0系新幹線は3216両が量産、最盛期2338両が運用されました、仮にV-107が勝利していれば、もしかしたらば3000機以上のV-107旅客機が生産されていたのかもしれません。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】木更津駐屯地創設45周年航空祭【02】祝賀飛行編隊一斉離陸(2013-05-12)

2017-04-09 20:06:38 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■木更津航空祭大編隊祝賀飛行
木更津駐屯地創設45周年航空祭、記念式典に続き観閲飛行準備の号令が掛かりました。

CH-47の列線を背景に観閲飛行へ向かう要員//第1ヘリコプター団、長官直轄部隊時代の編成は第1ヘリコプター団、その隷下に団本部と本部管理中隊、第1ヘリコプター隊、第2ヘリコプター隊、ヘリコプター野整備隊、特別輸送飛行隊、という編成でした。当方が初めて木更津航空祭を撮影した際の編成です。

三機編隊の離陸、CH-47の編隊離陸は迫力が凄い//部隊編制は、団本部と本部管理中隊は隷下にLR-1連絡偵察機を装備、第1ヘリコプター隊は第1飛行隊と第2飛行隊、第2ヘリコプター隊は第3飛行隊と第4飛行隊、という2個飛行隊編成で、CH-47輸送ヘリコプターとOH-6D観測ヘリコプターを装備していました。

青空を示す航空科部隊旗が快晴の下で眩しい//ヘリコプター団の特別輸送飛行隊は当時AS-332L輸送ヘリコプターを運用していまして、政府要人の特別輸送を任務とする飛行隊です。AS-332L輸送ヘリコプターは第1ヘリコプター団のみ装備されていますが、これは元々ヘリコプター団が特別輸送任務に当ったため。

CH-47の列線、これだけ並ぶ大型輸送ヘリの迫力は世界でも見れるところは限られる//その後、本部管理中隊にはLR-1連絡偵察機が新型のLR-2連絡偵察機へ、特別輸送飛行隊はAS-332L輸送ヘリコプターからEC-225輸送ヘリコプターへ、機種転換を受けています、AS-332Lの改良型がEC-225でして、加えてLR-1連絡偵察機は2016年まで現役でした。

京葉工業地帯の工場群を背景に//木更津駐屯地祭へ当方が初めて足を運んだのは2006年、そして今回掲載している木更津駐屯地際は2013年、この中で非常に大きな部隊改編が行われていまして、長官直轄部隊から中央即応集団へ、UH-60JA多用途ヘリコプターのヘリコプター団配備等も行われています。

編隊指揮官が搭乗するOH-6が離陸する//自衛隊とヘリコプター団の関係、というものまで、一つ遡ってみてみる事としましょう。第1ヘリコプター団の歴史は陸上自衛隊ヘリコプター部隊史と緊密に関係しており、いわば自衛隊航空史の縮図を第1ヘリコプター団史に見る事が出来るといっても過言ではない。

OH-6は陸上自衛隊航空を支えた観測ヘリコプター//自衛隊創設当時は1950年代半ば、航空機と云えば回転翼航空機よりも固定翼航空機が基本の時代であり、実は自衛隊にも連絡機や観測機と固定翼機の保有数の方が回転翼航空機よりも多く、ここからヘリコプター増勢を続け、現在の陸上自衛隊航空体系が育まれました。

現在運用されるのは改良型のOH-6D//ヘリコプター導入は、旧陸軍にはカ号観測機オートジャイロと共に生産を担当した萱場工業は終戦間近に横浜工業専門学校と協同でヘリコプター特殊蝶番レ号を試作、初飛行前に横転大破し、飛行に至っていません、萱場工業は戦後ヘリプレーン1型を開発しています。

CH-47の編隊離陸は次々に//しかし、歴史は繰り返すといいますか、このヘリプレーン1型も地上試験中に横転していまして飛行には至りませんでした。航空史を視れば1930年代に無尾翼近距離戦闘機かつをどり計画を進めており、これは先進的な無尾翼ラムジェットエンジン方式の航空機でした。

陸上自衛隊では冷戦後の改編連続期を経て現在、大編隊指揮を担える指揮官が減っているとのこと//世界航空史を視れば、1939年にシコルスキー技師がヘリコプター研究機をアメリカにおいて初飛行させています、しかし、1923年に固定翼機補助揚力として回転翼を上部に付けたオートジャイロが開発され日本も導入、将来的に回転翼航空機の誕生が見込まれています。

編隊離陸の後方は激しい突風に曝され、文字通り後塵を拝する//草創期のヘリコプターは、着弾観測や対潜哨戒に負傷兵輸送と様々な用途を研究し、1940年代には既にソナーを搭載し空中から検聴する対潜ヘリコプターの研究も開始、アメリカ軍では朝鮮戦争時代には既に航空救難に急患輸送や山岳戦空輸支援等に活用しています。

成田空港に程近い木更津駐屯地からは時折国際線の大型旅客機が頭上をゆく//新しい装備体系ヘリコプター、日本は自衛隊創設に先立ち1952年の保安隊時代に保安隊航空学校を浜松に創設しています、この保安隊航空学校は1954年自衛隊創設に際し、航空自衛隊創設式典を実施している航空自衛隊始まりの部隊ですが、陸上航空の始まりでもある。

航空機の価格としてこのAH-1S対戦車ヘリコプターやCH-47輸送ヘリコプターの価格はボーイング737-800旅客機やエアバスA-320旅客機よりも若干高価だ//1954年の防衛庁設置法により保安隊が陸海空自衛隊へ改編されると共に、保安隊航空学校より分れ、陸上自衛隊航空学校が創設されています、後に航空自衛隊は飛行教育集団と現在の航空教育集団へ発展しました。即ち陸上自衛隊航空学校起源は自衛隊創設前まで遡る。

LR-1連絡偵察機とLR-2連絡偵察機の離陸、LR-1は昨年最後の一機が除籍され今日では貴重な情景だ//陸上自衛隊航空学校は航空自衛隊発足と共に浜松駐屯地から新設の明野駐屯地、ここは明野陸軍飛行学校で戦時中は新鋭試作機評価試験と実戦試験により本土防空を担った明野教導飛行師団の拠点で陸軍航空総本山の一つでしたが、ある意味、本場へ拠点を移しました。

EC-225要人輸送ヘリコプターの地上展示機//航空学校は、陸上自衛隊航空の強化と共に分校を建設していまして、1959年に霞ヶ浦分校を霞ヶ浦駐屯地に新編、1964年に仙台岩沼分校を岩沼駐屯地に、これは現在の北宇都宮分校に当たる分校ですが、新編しています。航空科の学校の規模から航空重視が垣間見える。

大編隊が離陸し編隊を組み終えて祝賀飛行までの時間は地上展示航空機を散策する貴重な時間といえる//第1ヘリコプター団に話を戻しますが、1959年に航空学校霞ヶ浦分校へ航空学校第1ヘリコプター隊が新編され、陸上自衛隊はこの第1ヘリコプター隊を直轄部隊としたわけです、当時はH-19ヘリコプターやH-21ヘリコプター等今は保存機も珍しい機種が主力でした。

S-92ヘリコプター、警視庁航空隊の機体だ//1959年創設の霞ヶ浦第1ヘリコプター隊は、自衛隊初のヘリコプター部隊として成長を続け、師団飛行隊や方面航空隊として陸上自衛隊航空の増勢支援も含め重責を担ってきましたが第1ヘリコプター隊増強改編が決定、1968年に第2ヘリコプター隊が創設されました。

S-92はUH-60と同程度の調達費用でV-107規模の空輸能力を付与する事が主眼の航空機、UH-60はC-130輸送機へ搭載する要求から設計がコンパクトであるためS-92はこの制限を取り払った設計だ//木更津とヘリコプター部隊の関係ですが、アメリカ空軍が旧海軍木更津飛行場に進駐しアメリカ空軍木更津基地として運用していましたが、自衛隊創設後の1959年に航空自衛隊木更津基地が第1補給処を置き、東京湾臨海の日米共用飛行場として運用を開始しています。

CH-47の大編隊が行く、その狭間に1機の国際線旅客機が飛行する様子が見える//アメリカ空軍木更津基地ですが、横田基地と立川基地へ統合方針が定まり、1968年に陸上自衛隊へ移管される事となりました、この頃に横田基地拡張工事が行われ旧陸軍福生飛行場に起源をもつ横田基地は米軍有数の国外戦略拠点へ発展した訳ですがこれは別のはなし。

映画のような一幕、しかし、自衛隊が協力している映画を除けば高価なCH-47の大編隊が飛行する様子はCG以外中々見られない//1968年、陸上自衛隊木更津駐屯地が航空自衛隊木更津基地に隣接して創設され、霞ヶ浦第1ヘリコプター隊の移駐が行われました、木更津飛行場は戦時中九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機の基地でしたがロケット戦闘機秋水の試験も実施、航空施設は充実しています。

輸送ヘリコプターの大編隊というと映画ゴジラvsビオランテやガメラ大怪獣空中決戦を思い出す//木更津移駐に先立つ同年春に、第1ヘリコプター隊は新編の第2ヘリコプター隊を以て第1ヘリコプター団へ拡大改編を受け、木更津駐屯地正門には高々と第1ヘリコプター団と掲げられ、陸上自衛隊航空の新しい拠点として木更津はその名を轟かせる事となりました。

編隊が大きく旋回を完了しこちらへ向かう//名を轟かせた第1ヘリコプター団ですが、ヘリコプターを運用すればエンジン音も周辺に轟きます、しかし元々木更津は木更津海軍航空隊の街であり謂わば軍都、臨海部にありましたし、古くからの住民は米軍以上に自衛隊、ヘリコプター団を好意的に迎えたとのこと。

この写真に写る輸送ヘリだけでも空挺大隊を空輸可能だ//立川飛行場へ移駐したアメリカ軍ですが、他方、置き土産と云いますか迷惑なものも一つありました、有事の際、移駐したのがヴェトナム戦争中の1968年ですので第二次朝鮮戦争か第三次世界大戦を意味するのでしょうか、再度使うべく格納庫区画一部返還しなかった。

大編隊の祝賀飛行、いよいよ木更津駐屯地上空へ飛来する//2006年に初めて撮影に展開した際には物凄く邪魔な場所に1968年以降放置された廃墟格納庫が並んでいましたが、米軍区画、完全に忘れられた施設廃墟がありました。ただ、2013年には更地、返還された模様、これが米軍再編の施設返還成果の一つなのかと思いました。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】木更津駐屯地創設45周年航空祭【01】中央即応集団航空部隊(2013-05-12)

2017-03-26 20:33:36 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■新特集:木更津航空祭二〇一三
 日曜特集木更津航空祭二〇一三、日曜特集は今回から千葉県木更津のヘリコプター部隊による壮大な航空祭の様子をお伝えしましょう。

 ヘリコプターの大群が並ぶ木更津飛行場地区//写真特集木更津航空祭二〇一三、千葉県木更津市の陸上自衛隊駐屯地です。陸上自衛隊最大で世界最大の輸送のヘリコプター部隊である第1ヘリコプター団が駐屯している駐屯地で、CH-47輸送ヘリコプターだけでJ型JA型併せて32機もの多数が配備されています。

 UH-60JAにCH-47、勿論式典参加航空機の一部です//世界最大とは言い過ぎと思われるかもしれませんが、世界最大です。中央即応集団隷下部隊の第1ヘリコプター団と東部方面航空隊第4対戦車ヘリコプター隊が、CH-47J/CH-47JAやUH-60JAにEC-225とAH-1SにOH-6D等、各種ヘリコプター70機を配備しています。

 此処に並ぶ航空機の調達費用だけでヘリ空母が建造できるほどの規模//アメリカ第101空中機動師団が2013年まで世界最大の輸送ヘリコプター部隊を有していましたが、アメリカ予算均衡法緊急歳出削減措置により隷下の第101航空旅団と第159航空旅団の内、第159航空旅団が管理替え一部予備役化されまして保有機数で下回ったかたち。

 UH-60JAを先頭に並ぶ//ヘリコプター、自衛隊はヘリコプターを特に重視しています。これは日本国土の特性が大規模な機械化部隊の戦闘以上に機動力を重視し緊急展開により初動での対処能力が戦域優位を確保する上で必要とされた為で、早い時期から空中機動部隊編成に努めてきた為です。

 特殊作戦群支援等の任務に当る故のUH-60JA//世界最大のヘリコプター部隊は、限られた予算を空中機動部隊編制に用いるとの選択と集中を以て実現したもので、陸上自衛隊では1961年の富士統合演習、現在の富士総合火力演習において初のヘリボーン訓練を各国駐在武官へ展示、その能力構築を誇示しています。

 AH-1S対戦車ヘリコプター//V-107とF-104は同額、防衛予算からヘリコプターは決して安価な装備ではありません、自衛隊が25名乗りのV-107輸送ヘリコプターを調達開始した当時、航空自衛隊の最新超音速戦闘機F-104と同じ四億円もの調達費用がかかりました。61式戦車は1億円とのこと。

 東部方面隊の第4対戦車ヘリコプター隊の航空機で木更津に駐屯//自衛隊空中機動部隊の一大拠点となっている木更津駐屯地ですが、その歴史は古く1936年にまで遡ります、勿論1936年には陸上自衛隊はありません、1936年、木更津駐屯地は海軍木更津飛行場として創設されました。滑走路は埋め立てですが、これも1936年の造成だ。

 陸上自衛隊配備のUH-60JAは気象レーダと赤外線暗視装置を標準装備//海軍木更津飛行場、この木更津飛行場を起点として日中戦争と太平洋戦争でアジア太平洋狭しと大活躍したのが木更津海軍航空隊です、南京渡洋爆撃や成都爆撃と1930年代の長距離爆撃を担い、マレー沖海戦支援やラバウル海軍航空隊派遣、その戦史は数えきれません。

 ヘリコプターは式典会場から少し離れた場所に並ぶ//木更津海軍航空隊といえば、九六式陸上攻撃機です。1935年に初飛行を果たし1936年、つまり皇紀2596年に制式化された海軍の陸上攻撃機で、九六式陸上攻撃機は日本海軍がワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約を受け航空重視路線先鋒に開発されました。

 機首に黒いレーダーカバーが装備するのが後期型のCH-47JA//九六式陸上攻撃機は第一次世界大戦後の海軍軍縮機運を受け締結された海軍軍縮条約により、日本は戦艦と巡洋戦艦をワシントン海軍軍縮条約で、航空母艦や巡洋艦と駆逐艦等をロンドン軍縮条約でイギリスアメリカよりも上限を厳しく定められた為開発されています。

 式典開始へ駐屯地司令の到着//戦艦は戦間期の時代に最強の攻撃力と防御力を持ち、優れた機動力を有していた為、これこそが戦力投射の最強手段、現在の戦略核ミサイルに匹敵する優位性を持っていました、当時戦艦を撃沈する事は戦艦以外に容易ではなく、これを制限された事は看過できません。

 田中重伸第1ヘリコプター団長兼ねて木更津駐屯地司令に先立ち幹部の到着//1923年には日本海軍が初の空母鳳翔を完成させますが、各国海軍が新たに航空母艦を続々と建造し、これにより洋上から航空機による渡洋攻撃が可能となった為、日本海軍はこの対抗手段、戦艦や航空母艦を撃破可能で新開発の装備体系開発を必要とされたかたちです。

 観閲部隊指揮官の到着//九六式陸上攻撃機、海軍が求めたのは長大な航続距離を有し陸上基地から運用、魚雷を搭載可能で戦艦や航空母艦に対して高速を以て遠く洋上へ展開し雷撃を加える、更に多数の爆弾を搭載し陸上目標や敵港湾施設を爆撃する、新しい航空機として開発されたものです。

 CH-47を背景に隊員が並ぶ//三菱重工が中心となって開発された九六式陸上攻撃機は怪物のような航空機でした、1936年と云えばイギリスで傑作攻撃機ソードフィッシュ艦上攻撃機が制式化された年ですが、これは布張り主翼の複葉機でした、対し九六式陸上攻撃機は軽金属合金製、進んでいます。

 空色の部隊旗は航空科部隊の職種色//怪物という表現の九六式陸上攻撃機は、長大な航続距離にありまして、初期の九六式陸上攻撃十一型は雷撃兵装で航続距離2850kmもの性能を有していました、後期型の九六式陸上攻撃二三型は航続距離6200kmという驚くべき性能を誇り1048機が生産、配備された。

 田中重伸第1ヘリコプター団長兼ねて木更津駐屯地司令の巡閲//九六式陸上攻撃二三型の航続距離6200kmは九州鹿屋基地からインドネシアのジャカルタへ、木更津飛行場からハワイの真珠湾ヒッカム飛行場まで、連絡飛行できることを意味します。アメリカの空の要塞ボーイングB-17Gの航続距離が5800kmですので凄さが分かる。

 陸将補田中重伸団長、なお2014年から田尻祐介団長へ、現在の団長は服部正陸将補//一式陸上攻撃機はその後継機で1941年に制式化、実に2435機が生産されました。こちらは防御力と速度性能を重視した為、航続距離は6060kmとなっています。徹空母強襲や航空優勢喪失下の攻撃、運用の苛烈さから損耗が大きかったものの終戦まで戦い抜きました。

 整列した部隊の背景には海上自衛隊と航空自衛隊機も並ぶ//九六式陸上攻撃機は、全長16.45m、全幅25.0m、空虚重量4965kg、全備重量7778kg、1075hpの金星エンジンを双発搭載しています。一式陸上攻撃機は、全長19.63m、全幅24.88m、空虚重量8050kg、全備重量15450kg、1850hpの火星エンジンを双発搭載していました。

 観閲飛行準備の号令//終戦と共に海軍航空隊は解体され、木更津飛行場もアメリカ軍の進駐軍へ移管されました、その後、木更津飛行場はアメリカ軍から自衛隊へ移管される事となり、航空自衛隊と陸上自衛隊が移駐、新たに陸上自衛隊木更津駐屯地と航空自衛隊木更津基地がおかれた訳です。

 飛行開始まで時間があるので、痛コブラと痛オメガを見学//CH-47は現在の木更津の主役となっていますが、九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機のような対艦攻撃任務に用いられるのではなく、輸送ヘリコプターとなっています。この為、速力や航続距離では九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機には及ばないものの輸送力は凄い。

 凄い特別塗装機もあったものだ、と率直に驚いた//チヌーク、というのがCH-47の愛称ですが、巨大な空輸能力は防衛出動に際して様々な装備を一挙に空輸できることを意味し、更に戦争を放棄したわが国を度々襲う巨大災害に際しては空輸能力を活かした孤立地域への災害派遣任務や拠点への物資集積へ大活躍します。

 OH-1,そして背景にV-107が展示されている//CH-47JA輸送ヘリコプターは全長30.1m、全幅18.3m、空虚重量12100kg、全備重量22680kg、3750hpのライカミングT55-L-714エンジン双発搭載です。もっともこれは回転翼を含んだもので胴体部分をみますと全長15.54mと全幅3.87mとなっていますが、ね。

 AH-64D戦闘ヘリコプター、こちらは航空学校の教材//輸送ヘリコプターというだけあって空輸能力は物凄く、普通科部隊の軽装甲機動車ならば機内に1両を搭載し長距離飛行が可能で、更に1両を吊下げ空輸可能、120mm重迫撃砲を牽引車毎空輸でき、特科部隊のFH-70榴弾砲や3t半トラックさえも空輸可能というもの。

 CH-47には歴代第1ヘリコプター団の航空機シルエットが描かれる//空輸能力の本気を出したCH-47JA輸送ヘリコプターの実力はどのくらいかと云いますと、木更津海軍航空隊が誇った九六式陸上攻撃機を吊り上げて空輸する事が可能ということでして、短距離ならば更に重量の大きな一式陸上攻撃機も吊下げ空輸可能という高性能です。

北大路機関:はるな くらま
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