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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,稲荷は稲成り-宇迦之御魂大神は五穀豊穣を司る神

2024-10-09 20:23:16 | 写真
■五穀豊穣へ祈る
 五穀豊穣というよりはお米の方ばかり向いている印象がある私とその周りなのですがここ稲荷社は五穀豊穣の祈りの場所だ。

 伏見稲荷大社、伏見区深草薮之内町の稲荷山をご神体としました全国稲荷社の総本山となっています社殿です。その創建は8世紀初頭の和銅年間、西暦では708年から715年頃に造営されたといいまして、当時伏見の地名はまだなく、稲荷社と呼ばれた。

 奈良線の稲荷駅から直ぐ。稲荷駅というのは伏見稲荷という名前ではなく元からの稲荷社としての名前をそのまま大事に継承している、とも解釈できるのですが、同時に駅前にいきなりどんと大きな鳥居と、その向こうに耐震補強中の鳥居が迎えてくれるのです。

 御香宮、伏見稲荷大社とは言いますが実のところ伏見の中心部というのは京阪電車でもう少し行きました御香宮のあたりがその中心部となります。いや実際、JR奈良線で伏見稲荷大社といえば京都駅を出て東福寺駅の次が稲荷なので近いなと思うところですが。

 紀伊郡稲荷村となっていましたのが福稲村となり深草村とそしてのちに深草町、1931年に京都市伏見区となりました歴史が。御香宮が中心部なのか、と言われるかもしれませんが、あの辺りは大坂城に並ぶ規模の伏見城があった、といえば中心部たる所以だ、と。

 大坂城に並ぶ伏見城、といわずとも御香宮といえば名水、名水といえば酒造、伏見といえば酒です。だいぶん頓智のような言い方になってしまいますが、それは歴史上、もともと稲荷社とだけ呼ばれていた社殿を明治以降無理に名前を変えたためとも言えまして。

 稲荷は稲成り、という語源があるとも数多言われる社殿の歴史には一説として考えられていまして、その社殿はむかし祭神が稲荷山の山頂に降臨したという縁から長らく山頂に構えられていましたが、室町時代中期に山麓へと遷座しまして、いまにいたります。

 宇迦之御魂大神、祭神はまた数多ならぶところでありまして、宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社、と神々が並びます。この独特の信仰は更に明治維新の廃仏毀釈までは神域に神社と寺院が並び、信仰の多様性を示していた。

 東寺の鎮守社、こんな関係を示しますとどう思われるでしょうか、と一筆思い浮かべつつ、いや京都駅から東寺へ向かう途中に伏見稲荷大社の御旅所があることから、これ京都散歩の際には常識なのかもしれませんが、この時代からかかわりがありました。

 空海と稲荷神が田辺でであったという鎌倉時代末期に記された東寺の寺伝稲荷大明神流記眞雅記云ゝには記載があり、田辺というのは京田辺でははく熊野の田辺をしめすのですけれども、教王護国寺である東寺でも当時、稲荷社の影響は大きかったということ。

 五穀豊穣を司る神、として信仰が広まりました稲荷社は全国に三万柱が奉じられているとともに、その創建の頃の大衆は農耕振興こそが第一であり最大の願いではあったのですが、農耕の安定化と共に殖産や商売繁盛が願われるようになり、その移ろいを経て。

 清少納言が枕草子に当時の参詣の様子を記すとともに蜻蛉日記や今昔物語集といった古典文学にもその様子が描かれるところから、もっとも当時山頂の社殿詣では大変だったでしょうが、社会や文化とのつながりの深さを感じさせるところではあるのですね。

 拝殿と本殿前には、もう国籍豊かな方々の祈りといいますか、祈りというよりは本殿での作法と共に詣でることが目的ではないのかな、という方も見受けられるのですが、それにつけても境内はもう賑やかであり、今も社会や文化とのつながりを感じられるのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,思い出す一ヶ月前は令和のコメ騒動と政治視座は現状とのかい離

2024-10-09 20:00:10 | 写真
■令和の米騒動始末
 この記事は九月十一日に掲載する予定でしたが二条城と大阪城の話題を先に掲載した関係で遅れてしまいまして、まあ当時の緊張を思い出し残しておくという意味で。

 お米が、ピンチだ。正直な話をしましょう、基地を撮影に行った際に寺社仏閣を巡ることが多いわたしは、この際諦めてお米を売っていそうなスーパーを行脚しているのですけれども、米所だと思った近県でもスーパーの米売り場はカラか別のものが売っている。

 餅米が販売されていたなあ、というのは8月のお話で、しかし餅米の品薄になると麦が置かれていた、貧乏人は麦を食え、といったのは池田総理だったか、所得倍増計画を行った首相、令和の所得倍増計画が進む中、やはり麦なのか、というのは実感でした。

 麦飯も検索すると七割麦飯という、ふつう麦飯は三割程度ですから逆転してしまうような代物が出ていまして、七割麦飯って箸で摘まめるのだろうかという、もう現実感がなくなってそんなことを考えてしまいます。いや、兆候は七月にはあったのだ。

 基地撮影の際に立ち寄る道の駅、テレビアニメの影響で"米作りは土作り"という産地のお米を、遠出したことだしと道の駅で購入していましたが、七月の時点で、実はもう在庫がないので新米の頃まで入荷しないのですよ、といわれた。そこから一ヶ月半で。

 実は道の駅、件の毎回遠出の際に買っていた道の駅には新米が入っていました、地元のお米、ほぼほぼ八月下旬と九月上旬で5kgが3000円ちょっと、確かに高いのは高いのだけれども、減ってくると購入してしまう。常に一袋だけ新品の買い置きをしているから。

 新米が入っているのか、と安心してしか市況見本に出回りのスーパーをみてみよう、と、有名な"榛名乳業"のジュースを扱っているスーパーに寄ってみますが、やはり米の棚はカラ、ほかの棚と比べカラなのだ、これがほんとの、空の境界、なんてね。

 五穀豊穣、という言葉がありますが、五穀とはお米と麦に粟と豆に黍、粟であって栗ではないのだけれども最近の子は粟といってもピンと来ないのか粟と栗の漢字を読み違えたりする。豆が消えてここに稗がはいったりするのが五穀というものですが市場では。

 黍、きびだんごとして有名だけれども主食用に市場にはほとんど出回っていないし、粟についても同様、まあ、麦は小麦粉が十分出回っているのでお茶碗にいれる主食以外というならば、パンでも麺でも潤沢に供給されているが、ご飯が食べたい、となると。

 大阪では乾パンさえ品薄だ、とは、大阪では何体かやっつけたらしい、という宇宙戦争のような話ではなく、麦も枯渇した状況の先を知らせてくれまして、パック飯もかなり厳しいことに。横須賀では一合づつ分売していたのを思い出すのですけれど。

 戦争中でもないのに何でお米がないの、と子供に素朴な疑問を突きつけられ返答に窮した若い親さんがいるそうで、地球との環境戦争さ、とか、ロシアウクライナ戦争の影響、というわけでもなく、ただただ、昨年の猛暑での不作が響いている構図なのですが。

 大本営発表のように、市場には十分のコメ在庫はある、という農水省の発表を、現場を見ろという小売業者、在庫を放出しない府が悪いという農水省、今回のお米が最後ですと放出すれば本当のパニックという小売業者、足りているんだを繰り返す農水省、と。

 東京大空襲を、損害は極めて軽微なり、と発表したお役所がそのまま看板を掛け替えて、昔の海軍省のあった場所にある中央合同庁舎に入っているようなものですから、こういう言葉を繰り返すのかもしれないけれども、もう少し現実を見てほしい、とおもう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】二条城,耐震補強成った御殿と天正地震にみる無防備都市京都

2024-09-18 20:23:38 | 写真
■無防備都市京都
 イタリア映画や西部警察第一話のような表題とともに歴史地震というものの視座からこの京都を考えてみたい。

 二条城は耐震強化工事を進めましたが、例えば熊本地震を受け文化財の破損という懸念を直視した仁和寺などは、大量の画像情報をあらかじめ記録することで、そのためにEOS-5Dmark4を経費で買ったのは少々首をかしげますが、撮影し、そのときが来てしまった際の復旧用データを集めている。

 仁和寺の五重塔は比較的新しい建物、それでも一応中世、そして醍醐寺の五重塔が天正地震、過去最大規模の歴史地震として知られる若狭湾を震源とする地震、に耐えていますから若干楽観的な視点を持ってしまうのですが、一方で天正地震は京都全体で見るとかなりの建物被害が記録されています。

 醍醐寺の五重塔が天正地震に耐えたのだからほかも大丈夫、とは言い切れないわけで、しかし文化財の多さを考えると、例えば南海トラフ、巨大地震が発生したときの被害と、そして復興をどのように道筋を立てればよいのか、ということは気の遠くなる、が、考えねばならない問題です。

 東寺の講堂が破損している、大垣城焼失、長浜城倒壊、伊勢長島城倒壊、清洲城液状化被害、亀山城全壊、木舟城倒壊、帰雲城山体崩壊で消滅、震源が若狭湾であることを考えればその被害の大きさというよりも被害範囲の広さに驚かされるのですが、直下型地震でもこういう被害があったということ。

 南海トラフ地震、ここに当面の焦点を移しますと、やはり、現実的な被害金額を元に現実的な費用での復興復旧のあり方を考えておく必要は、現行法では難しいならば特措法を成立させてでも模索すべきです。すると、直せない、という破損状況からの復旧方法を模索する必要があるのではないか。

 全壊でも倒壊さえしていなければ、もちろんそのまま作業員が中に入り補強する、ということは安全上難しいといいますか、余震で倒壊する懸念がありますから避けなければなりませんが、いまはUGV無人車両など各分野で無人機械の運用領域が拡大している時代ですから、なにか工法の方法はないか。

 倒壊していない建物の内部破壊状況を複数の小型無人機により、破損部位を特定するとともに、熊本地震における熊本城方式で、まず倒壊しないように持ち上げ、ここにH鋼のような支柱を挿入して仮骨組みを家屋内に設置して倒壊しかけた場合の補強部位を構築、そこから支柱にもたれかかるような復旧など。

 熊本城は、この工法を試験的に導入しまして、それは最初の事例故に費用がかなり大きくなったことは想像に難くないのですが、あの状況でも建て替えではなく復旧できるのだ、という可能性を示してくれました。こうした工法を普及させることで、現実的な費用で復興、派無理でも復旧を模索すべきと思う。

 建物は解体してしまいますと膨大な建築廃材を生んでしまいますので、この処分費ひとつとっても復興計画を圧迫します、が、そのまま倒壊しないように復旧し、第二次補修として情勢が落ち着いた後で耐震補強のかたちで次の地震に耐えられるよう改修するならば、少なくとも廃材は出ません。

 能登半島地震の高齢化世帯家屋被害をみればわかるように、費用面を考えた全壊家屋の復旧方式が必要だと考えるのは、今後の少子高齢化により、年金生活世帯が増える中で、家屋建て替えという選択肢が現実的ではない、という問題です。安価な方法を構築し、普及させることで安さの相乗効果を生む。

 復興を考えますと、高齢化は大きなリスクで、それは生産人口から切り離されてしまいますと、保険と貯蓄で考えなければならない、放置することは地域復興そのものを停滞させてしまう。そしてそれは寺社仏閣についても氏子さんや檀家さんがこれから減ってゆくことを意味するのですから、ね。

 二条城探訪とともに、防災の日を考える。なにかこういつものコジツケ感は否めないのかもしれませんが、8月8日の日向灘地震を受けての南海トラフ地震臨時情報もありましたし、地震災害というのは、九月一日と一月十七日と、三月十一日ともう一つくらいは真剣に備えを考えたいものです。

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【京都幕間旅情】二条城,歴史に消えた織田信長武衛陣二条御所改築と足利義昭の二条城

2024-09-18 20:00:21 | 写真
■幻の二条城
 幻の、なんていう表現としましたならばなにか好奇心を誘う様な妙な始まりですが実際問題古地図でも曖昧であるのが少し昔の京都のまち。

 二条城、熱そうと思われるかもしれませんが、実際熱い、掘割の中のいきものたちで生き残れたこはいるのだろうかというほどに煮立つ中を鯉が泳ぐ。気候変動、なのだろうなあ、というような情景が広がっていまして、北大路機関創設当時との違いを痛感して。

 苔の生育に既に大きな影響が出ているゆえに庭園の情景が変化しているというこの気候変動ですが、松の木や桜並木、梅林と竹林の生育に今後影響が出ることも想定しておかねばならず、日本の美観、というものが危機に曝されているのだと実感するのだ。

 武衛陣、さて二条城の話題に戻りますと最初の二条城として造営された武衛陣を強化した日本最初の城郭型政経中枢は、完成前に永禄の変を受け三好三人衆のてにより焼失します。しかし二条城にはつぎがあった、室町幕府15代将軍足利義昭の御所として。

 織田信長による武衛陣二条御所を改築しての新しい二条城は永禄11年こと西暦1568年に造営されました、それは足利義昭の織田信長による支援を受けての上京に際しての御所というもので、しかし場所は今の二条城とは異なる場所に造営されていましたが。

 平安京二条というのは、二条大路と中御門大路に挟まれた通りでして、今は相当に入り組んでいますが椹木通というところになっています。そもそも状況を果たした足利義昭は、先ず第一に御所が無く、六条本圀寺を宿所として、仮御所のようにしていました。

 六条本圀寺はそののちに細川京兆家邸に遷り、そして今とは場所が違いますが本能寺へうつるとともに、そして再び本圀寺に戻った流浪の将軍なのですが、織田信長はそのさなかに武衛陣二条御所を改築し、新しい二条城を造営していた訳です。その姿は。

 信長の二条城、それは400m四方の平城を基本として、二重の掘割に守られ、三層天主を備えた城郭造の邸宅となっていたという。天守閣ではなく天主、これは織田信長が安土城を造営する前の天主となっています。ああ、岐阜城の天主は造営した後でしたが。

 義昭の二条城、規模は中々の迫力だったのでしょうが現存しません、そして歴史も短かった。元亀3年こと西暦1572年に義昭は信長と対立し、信長追討令を発布しています。これに呼応した武田信玄が西進を開始し三方ヶ原の戦いにて徳川家康に勝利します。

 信玄の勢いを見た義昭は二条城にて信長に対し自らも挙兵するのですが、この時信長の居館は二条城の隣にあったものの、本人は不在で、信長は逆に上京の町屋を焼き払い二条城を包囲、正親町天皇の勅命を得て和睦に至るのですが、緊張関係はそのまま続く。

 二条城の運命が決したのは同年、義昭の宇治槇島城での挙兵により槇島城の戦いが勃発し対立は破滅的となり、二条城はこの時幕臣伊勢貞興と三淵藤英が留守居に充てられたものの織田軍包囲により無血開城、義昭の安芸遷座により二条城は終わりました。

 二条城の天主や門扉はそのまま天正4年こと西暦1576年に解体、安土にて築城中の安土城に転用されることとなり、文字通り姿を消しました。その後、信長は京の宿所として二条晴良から邸宅である二条邸を譲り受け、新しい、別の二条城を造営しています。

 皇太子の誠仁親王に献上される二条城は、その後廃城となりまして、別の場所に徳川家康が、今の二条城を造営します。この確たる規模の城郭は宮内省管理下で離宮となり、戦後は一時GHQが占領した後に、今日の二条城として今も健在なのです。

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【京都幕間旅情】二条城,南海トラフ地震臨時情報に関東大震災101年目と耐震補強成ったこの夏の京都の二条城

2024-09-11 20:23:30 | 写真
■関東大震災101年
 防災の日の話題とともに。実は技術的問題からこの記事は防災の日に近い先週に掲載する予定の記事が遅延となったという事情があります。

 防災の日、この日を忘れていたわけではないのですが、政府防災訓練も台風10号接近により中止されるというさなかにあって、関東大震災から101年目という節目の日にも若干その存在感の軽さを感じていいたところです、が災害のリスクというものは認識していまして、いや実感している。

 関東大震災から101年、そして、現実として例えば首都圏巨大地震を題材にした映画"地震列島"では冒頭に"東京にはこの50年間巨大地震は来ていない"として、次の地震が切迫しているという警鐘を鳴らした映画でしたが、あの映画"地震列島"がもう1980年の、つまり40年以上前の映画だ。

 地震列島、映画では主人公に地震学者を据えて、次の地震が切迫している、と政府に警鐘を鳴らしながら、自信でも得ない自動車の研究をするなど、切迫していたとしてその自動車を普及させるのに何年かかるのだよ、とちょっとシナリオの限界を超えていたような気もしましたが、いい作品でした。

 防災の日に併せて二条城の話題を、と考えていたのですが実際、この二条城では耐震工事が長年行われていました、2005年頃にこの二条城の大名屋敷が震度五強で倒壊の恐れ、という、姉歯物件問題により耐震強度偽装が全国的に問題となった際、姉歯さんと無関係でも調査した結果わかったリスクのひとつ。

 二条城、無事耐震修理が一段落したとのことで、本丸御殿の一般公開が再開されました。耐震工事といいますと、がちがちのH鋼で周りを固めるとか、外見が悪い意味で一新してしまう中にありまして、さすがに現存する唯一の大名屋敷を備えた二条城はまともな、耐震工事となっていました。

 耐震工事、防災の日という現実を再認識しなければならない機会とともに、改めて考えますとわかっているようでわからないことばかり。能登半島地震など今年もすでに、といいますか元日から、災害に見舞われている我が国ですので、そのあり方というものを考えずにはいられない。

 酷暑、そう、考えてみると三週間前までは日本の災害というものは異常気象のほうに意識が向いていまして、二週間前に台風迷走がたい変と書きましたそのあと一週間前は伊勢湾台風や第2室戸台風の再来といわれていましたが、そう、このあたりになりますと、地震、関東大震災を思い出さねば。

 関東大震災、日本列島が大陸外縁弧状列島であるかぎり、この国土は火山性地形故にうまれたものなのですが、どうじにその特性から地震とは不可分の地形でもあります。花折断層が京都市の真下には走っているわけですが、逆断層地震のように活断層に沿って起こる地震も、正断層地震のように活断層を生む地震も。

 古都の防災、と書きますと伝統家屋の多い京都は人口密集地域であると同時に耐震性に限界のある建物が多いこともその特色となっています、そして過去の地震と比較して耐火性は向上しても電化が進んだことで火災への震災時における脆弱性は高まってしまっているのですから、被害を考えると憂鬱に。

 寺社仏閣、文化財の耐震化は進められているというけれども、京都の真下は岩盤ではなく帯水層であるため、揺れの特性も帯水層の軟弱地形として、増幅される懸念がある。過去の歴史地震では洛中では液状化被害の記録がないことは幸いなのですけれども。市域全体の防災の重要性を感じてしまう。

 復旧復興、もう一つ考えるのは都市の景観というものを留意し、そのときが来てしまい、それなりに大きな被害が出たときの復興を、どのように震災前の水準に戻すのかという事前計画が絶望的に立てにくい、ということが。復興住宅として中層アパートを大量建築してしまうと、都市の景観が変わってしまう。

 復興について、これは京都だけにかかわらないのですが、大規模半壊と全壊建築物について、倒壊した建物を戻すことは難しい、ということならば理解するのですが、全壊したが倒壊していない建物の復旧を建て替え以外に安価に実現させる工法を、これから我が国では検討してゆかねば、と思うのです。

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【京都幕間旅情】二条城,二条武衛陣の御構えは宮城事件に至る行政中枢の城塞化という日本文化と価値観の原点

2024-09-11 20:00:45 | 写真
■二条城の歴史
 撮影は八月後半に散策した際なのですがなんで今も熱いのだろうかと思うのは気候変動というかなんというか。

 元離宮二条城、逃げ場のない京都の暑さの一丁目一番地は何処だろうと誰も得しない事を考えていましたならば、自然と古都の中心部が思い浮かびました。そして二条城の耐震工事が終わったという報道もありましたので、この話題とともに探訪した情景を。

 徳川家康が江戸時代へと至る慶長年間に京都における拠点として造営した城郭、それがこの二条城です。ただ、歴史を紐解きますと二条城は幾つもあり、いや実は洛外を含めて京都には調べると案外驚くほど城郭が造営されていて、少し調べるだけで驚くのだが。

 足利義輝の御所、二条城という名称が歴史に初めて出てきますのは、そんな歴史に在っても案外新しく、室町幕府13代将軍足利義輝の御所として造営された城郭が始まりです。幕府管領斯波氏の邸宅である武衛陣という堅固な邸宅を改造して造営されたという。

 二条武衛陣の御構え、としまして応仁の乱を終え揺動期の幕府に基盤固め、なにか大阪の西成警察署のような発想、こう思い立ち、応仁の乱で最初に焼かれた花の御所のようなことの無いよう、防御力にかなり思い切った割り切りを行った政治中枢となった。

 永禄の変、しかしこの二条城は完成寸前、三好三人衆に襲撃されて焼かれるという永禄の変が起きます。すると、完成前に焼けているのだから初代二条城、と表現するのも若干気後れするのですが、未成でも二条城として計画されたのだから、と言い訳してみる。

 武家の統領たる将軍は御城に住まう、さて、ここ重要なのは江戸時代であれば江戸城、時代劇などではしばしば姫路城が代役を担うのだけれども、将軍が城郭に、というのは鎌倉時代では無かったことでした。鎌倉が一種の総構えであったのはさておき。

 江戸城など、いや天下人という意味では短期間ではあったが大坂城も含めるべきなのか、行政中枢がある程度防衛を考えた城郭に住まう、という伝統は此処から生まれたのかもしれません。それは脆弱な行政機構という室町時代の産物ではあるのだけれども。

 宮城事件。いきなり四百年近く話を飛ばすのですけれども、熱かった八月の記憶がまだ確かですので、終戦記念日に起きました一部将校の決起事件に話を飛ばしますと、結局、終戦の玉音放送を録音したレコードが奪われなかったのは場所が場所だったため。

 第二次世界大戦の無条件降伏に反対した一部部隊、近衛師団の一部や横浜警備隊と水戸航空士官学校一部による東京の皇居占拠や首相官邸襲撃事件、その総称である宮城事件がありましたが、あの時、昭和天皇の終戦の詔勅を録音したレコードが狙われた。

 玉音盤、ただ、上記の通りこの最初の二条城以来、政権中枢は防御を強化する、という鎌倉時代や、室町時代の花の御所焼失からの反省が江戸城にも反映されていたわけでして、いわば遥か時を超えてですが、第二次大戦の終戦を実現したのかな、と考える。

 国会議事堂も、先ず強度からして艦砲に耐えるということですが、外周に柵がある。アメリカ連邦議会議事堂襲撃事件を見ても判る通り、各国議会議事堂は開かれている必要性から柵さえないところが多い、日本の場合は、開かれるよりも守りを重視している。

 京都には日本の価値観や常識の源流になった基点が多いという、散策の旅に何か実感する事が多いのですけれども、行政中枢は開放よりも防御という保守的、いや防守的な日本の、他社への不信感という裏返しはあるのですが、価値観の源流を見た思いがしました。

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【京都幕間旅情】瀧尾神社,麒麟が来る龍は待つ百貨店大丸創業者下村彦右衛門正啓と久遠の縁

2024-09-04 20:20:43 | 写真
■京都東山歴史街道をあゆむ
 京都には久遠の縁を紡ぐ社殿は多いものですが実際今も続く様子を見ますと歴史の流れは大きくとも続く絆はあるものだとある意味安心します。

 瀧尾神社。ここは京都市東山区本町に所在します神社で、主祭神としまして大己貴命をまつりまして、そして大国主命と弁財天と毘沙門天との三神を祀る村社です。創建年は不詳とされていますが平安朝末期の歴史書源平盛衰記に記されており平安遷都暫くの後に遡る。

 貴船神社、この名を聞けば鞍馬の山々とともに佇む静かな社殿を思い浮かべるでしょう、しかし、自際に行くとなりますと何しろ距離がありますし、中々に思い立っても歩みにはつながりません、しかし、ここ瀧尾神社には、貴船神社奥の院が移築されているのですね。

 武鶏社としまして、洛東聲ノ谷にありました社殿がその始まりなのですが、残念ながらこの社殿は応仁の乱、その騒擾とともに焼失しまして、少し近い日吉坂に遷座します、武鶏社という名はこの遷座とともに多景社と改まりまして、天正時代まで、崇敬を集めました。

 多景社。なるほど音の韻は武鶏社のままではあるのですが、天正年間になりますと天正14年の西暦1586年に関白豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営する事となりまして、多景社はまたの遷座となります、しかし、現在位置への遷座は豊臣秀吉の寄進とともに画くとして進む。

 瀧尾神社、神社の名前は宝永年間の西暦1704年頃に幕府により普請工事が行われまして、その際に多景社は瀧尾神社へと改まりました。方広寺大仏殿などは盛者必衰の歴史を体現するがごときではありますが、瀧尾神社は遷座した事で新しい縁を、結ぶこととなります。

 下村彦右衛門正啓、大丸百貨店創始者です。享保年間の西暦1717年に伏見京町呉服店大文字屋を拓いたのですが、ここから洛中へ毎日行商へ向かう際にここ瀧尾神社へ参拝していたという、1726年に大坂心斎橋筋、1728年に名古屋本町、店舗を広げる事となりまして。

 大丸屋、大丸となりました後にも瀧尾神社との縁は続きまして、天保年間の西暦1839年には遂に2500両、現在でいう5億円を寄進し、これにより本殿、拝殿、手水舎、絵馬舎、現在に至る社殿が整備される事となりました。この際に貴船神社の旧社殿を拝領したという。

 九山新太郎。本殿には江戸時代後期の彫り物職人、九山新太郎の彫像した8mもの木彫りの龍が在りまして瀧尾神社の象徴となりました。ただ、これは面白い話がありまして、今も続く彫物師九山家の彫像、当時としては破格の迫力で広く知られたというのですが、凄い。

 龍の瀧尾神社、大丸の寄進と共に掘られた彫像は今にも動き出しそうで、当時、いや動くぞ、動いていた、と評判になり実際月夜の晩に水を呑む龍に驚いた氏子もいたとかで、一頃は神社により龍彫像が逃げ出さないように、と金網で囲っていた時代もあるといいます。

 高島屋。さて大丸と云えば高島屋がライバルという印象がありますが、創業時から張り合う事も多い両社は幕末には高島屋が新政府側に附いた事に対抗し、大丸は幕府側に附きます。すると、ここはかの鳥羽伏見の戦い、その戦跡即ち維新の激戦地に程近いのですね。

 応仁の乱にて社殿を焼かれた歴史がある当社ですが、しかし幸いにして維新の動乱にも焼かれる事無く、社殿の内八棟は京都市指定有形文化財へ指定されています。もしかすると、水の聖獣でもあります巨大な木彫りの龍が戦火から、社殿と氏子を護ったのでしょうか。

 麒麟が来る、ではありませんが、瀧尾神社は麒麟に獏や鳳凰に尾長鳥、十二支や鶴に犀の彫像が回廊には並びます。明治維新から大正昭和平成令和と時代は永く続きますが、実は大丸との御縁も強く続くという事で、縁を長く紡ぐ社殿ということで、歴史を感じます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】豊国神社-方広寺,江戸時代越え秀吉世界への勲功認めた明治帝勅令の再興

2024-09-04 20:03:32 | 写真
■国家安康君臣豊楽の鐘と共に
 東山の大和大路正面、京都駅から鴨川を越えて東へ散策の歩みを進めますと中々に興味深い街並みと情感の移ろいがあります。

 豊国神社と方広寺、太閤豊臣秀吉に所縁ある寺社仏閣は共に東山区大和大路正面茶屋町に並んでいまして、参拝者と拝観者を日々迎えています。大和大路正面は洛中一帯を見守る要地にありまして、此処には慶長年間1599年以来より太閤秀吉が永く鎮座しています。

 明治前夜の慶応4年即ち1868年、明治天皇大阪行幸に際し天皇は自ら豊臣秀吉について、“皇威を世界に宣べ数百年経って尚寒心させる国家に大勲功あるは今古に超越するもの”としまして、江戸地最初期から荒廃に任されていました豊国神社再興の勅令を出しました。

 維新を経て新国家建設を進める明治政府には喫緊の課題は幕末に相次ぎ高まった列強軍事圧力を前に既に屈した清国と圧力に曝される朝鮮と共に場当たり的に妥協し締結された不平等条約を改正すると共に軍事圧力を跳ね除ける事でした。ここに明治帝は秀吉を示した。

 瓦解とも称される大政奉還は武家社会の終焉と新時代の到来でもありましたが、当方がかつて歴史に接した際に驚いたのは江戸時代一杯、豊国神社は破却される事無く此処東山の地に維持されていたという事で、徳川と豊臣の歴史を思いだせば意外とさえ言えましょう。

 旧別格官幣社であり別表神社である豊国神社、主祭神に豊臣秀吉を祀る神社です。慶長年間1598年にこの世を去った秀吉は伏見城内に安置されていましたが、没翌年に遺命へ従い方広寺東山大仏東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬される事となり、此処に今も豊国神社が在る。

 新八幡として祀るように遺言した太閤秀吉ですが、朝廷は豊国乃大明神として正一位の神階を贈り社殿を築きました。そしてこの地は方広寺、天台宗寺院として方広寺盧舎那仏大仏殿が豊臣秀吉の発願により文禄年間1595年に木食応其の手にて建立されているのですね。

 国家安康君臣豊楽、中学校社会科の教科書にも記されるこの一文は家康を分断し豊臣再興を期している陰謀の表れだ、としまして慶長年間の1614年から1615年にかけての大坂の陣、大阪城落城へと繋がります。その国家安康君臣豊楽が記された鐘が、方広寺にある。

 方広寺にはくだんの国家安康君臣豊楽を記した鐘が鐘楼に今も維持されていまして、これも分り易く国家安康君臣豊楽の部分に白線が記されています。復元ではなく実物が大坂の陣と豊臣氏滅亡を経ても維持されている事は知った当時に新鮮というか、驚きでしたが。

 北政所は大阪の陣により大坂城が落城する様子を此処からほど近い高台寺より夜闇が遠く紅蓮の焔に染まる悲しい光景として視ているともいわれますが、豊臣氏助命嘆願は強く行わなかったものの豊国神社と方広寺については破却から逃れるよう幕府に嘆願したという。

 江戸時代にも豊国神社は関ヶ原の戦い西軍を陣取った武将の寄進と共に参拝者で栄華を極め、という事は流石に無く、幕府は豊国神社と方広寺の維持は認めつつ、しかし豊国神社については以後一切の修繕や改修を禁じて、いわば封印する形での存続を認めたとのこと。

 明治天皇大阪行幸に際しての再興の勅令は、幕末動乱に焼けた洛中の再興が始まると共に併せて荒廃に任せる豊国神社をそのままとするに忍びなかったという大御心もあるのでしょうか。再興に際して二条城や南禅寺に残る秀吉の伏見城遺構を移築し充てられています。

 唐門は国宝指定となっていまして南禅寺塔頭金地院から移築したものです。しかし大本を辿れば伏見城まで至るとの事でして、いやはや安土桃山時代の遺構は明治時代にも移築できる形で残っていたと驚くと共に、京都大改造始めその遺功を覚えていたと感慨深いです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】妙心寺-お盆,おしょらいさんお迎えする大伽藍を後に迫る巨大台風10号

2024-08-28 20:22:02 | 写真
■文化財脅かす気候変動
 鹿児島県に台風特別警報が発令されていまして予報ではこの後九州に上陸した台風は来月にかけ京都に接近するという。

 京都と気候変動、このお盆のおしょらいさんを撮影していたさいには実感がなく、台風でも来るならば多少涼しくはなるのかなあ、と安穏と考えていましたが、いま台風10号が接近していて、中心気圧が935ヘクトパスカルまで成長しているという。

 奄美大島付近にこの台風が停滞している時間帯にこの話題を執筆しましたが、次の項目を角までに少し時間をあけていますと、お昼の1300時には鹿児島県に台風特別警報が発令、当初予報の伊勢湾直撃とか大阪直撃といっていた予報は何だったのか。

 935ヘクトパスカル、瞬間最大風速70m/sという暴風、かつてない台風、かといわれれば第二室戸台風とか伊勢湾台風とか2018年台風21号とかいくつか前例がありますし、1950年代に多発していた巨大台風と比較しますと、70年ぶりの多発、ではあるが。

 文化財、京都と気候変動という話題は、このおしょらいさん撮影の際には、異常熱波で、伝統行事を存続できるのか、という危惧のほうが大きかったのです、暑かった中で撮影しましたから、いやあれ、熱かったなかというべきかもしれないほどに。

 伝統行事存続はたとえばいまは気温40度となっていますが、このまま中東や南欧のような気温50度というように、そのころには地球の一部地域は60度を越えて居住不能となる環境難民の懸念が国連はじめ警告されているのですが、仮に50度として。

 50度の世界で果たして祇園祭を行えるのか、山鉾巡行は曳くのもみるのも生命の危機ととなりあわせにならないのか、という危惧がありまして、いや、50度の世界となれば如意ヶ嶽はじめ五山の木々が枯死してしまい、五山送り火が不能とならないか。

 しかしもう一つ、巨大台風の頻発という状況も、これも考えればもう少し想像力を働かせて熱いさなかでも意識すべきだったのでしょうが、京都の文化財は風速70m/sの世界を想定して建築されているのか、という文化財の危機に直結しているのですね。

 古い木造建築物が倒壊する、これが風速70m/sの世界という。ただ、瞬間最大風速のはなしではなく風速の話で、今回の935ヘクトパスカル、しかも上陸地点は九州ですので、京阪神地区に到達するころには多少弱まっているという可能性は高いのだが。

 これが910ヘクトパスカル程度の勢力で大阪湾に上陸するような台風が頻発する時代になったならば、歴史的建造物はいったい、どの程度の風速を想定して建築設計されているのだろうか、という疑問です。地震と違い台風は記録が残りにくい。

 気象庁にきけばよいだろう、と思われるかもしれませんが、気象観測は明治時代からですので、歴史地震、白鳳地震はじめ過去の歴史は震源はともかく被害分布の記録は歴史地震として全容に迫れるのですが、台風被害は中世以前、記録が。

 嵐で大変だった、という記録は残っていても歴史地震のように地域ごとの被災記録をつなぎあわせることで全容が解明できるような、体系だった記録が、歴史台風というものが残っていないのですね、すると建物強度への配慮も記録がない。

 大阪城築城の際にはナマズに注意すべし、と天正地震の被害を元に耐震研究が行われ、その成果は熊本地震での築城当初部分の耐震性の高さで証明されましたが、果たして、京都の歴史的建造物は巨大台風を想定しているのか、不安なのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】妙心寺-お盆,真夏の京都&熱い京都-おしょらいさんお迎えする大伽藍は暑すぎてヤバい!

2024-08-28 20:00:10 | 写真
■わんだふるはいかん!
 妙心寺へお盆のおしょらいさんお迎えの灯篭を見上げるべく拝観へ向かったのですが、わんだふるな一日になると思いきやこれ暑すぎてヤバい。

 京都散歩、当たり前と言われればその通りなのですが真夏の写真は少ない、紅葉の季節やさくらの季節の写真、そうかあと梅花の季節と比べても。そういうのは、このところの熱さです、真夏の情景はもう五月あたりにとるほかないのか。

 熱さです、妙心寺はおしょらいさんの季節と言うことで拝観にむかったのですけれども、花園駅から妙心寺まで、これといって遠い距離ではないのでそれほど熱さ対策もせずにカメラ片手に拝観へと歩み勧めまして、時間帯もお昼頃であったのが。

 妙心寺まで地図でみればもう花園駅から指呼の距離なのですけれども、頭痛にめまいまできまして、妙心寺にきた、目眩も来た。これ、百里基地で経験しましたけれども熱中症の前兆だ、昔ふうにいいますとこの症状は日射病ともいう。

 おしょらいさん、16日に執り行われますので、その夕方や前日あたりは盛り上がるのですけれども、そのさらにもう少し前から提灯はともされていると言いますので、それならば混雑があまりないころあいに情景を撮影しよう、とね。

 妙心寺は混雑はなかった、というよりも、これほんとに2024年の写真ですか、2020年のお盆ではありませんか、といわれてしまったような人のいない京都、という情景に仕上がりまして、それはもちろん、熱すぎて人出が限られていた構図なのかなあ。

 真夏の京都、熱い京都、という表現は幾度も紹介しているところですけれども、この熱さは庭園を直撃していて、何より情景を構成する上で重要なスギゴケが熱さで壊滅状態になっているという、気温も湿度もスギゴケにはもう無理らしい。

 スギゴケ、苔類は気候的適応力が高く、ほかの惑星へのテラフォーミングに使えるのではないかと言われた時代があり、火星や金星のテラフォーミングへの応用が期待されたと言うけれども、火星や金星はなんとかなっても、京都はだめなのか。

 日本庭園の起伏に富んだ造形、このなかでも必然の窪地状の地形にたまった水が、おそらく直射日光で熱湯になってしまって、スギゴケは茹でられている構図なのだろうなあ。実際、拙宅の水盆にわいていたボウフラは熱くて白くなっていた。

 衛生環境を考えればボウフラが水盆で熱せられて全滅していたのはさいわいのことなのかもしれないけれども、地球環境を考えるとこれは大変なことになっているのだ、と思う。これを避けるにはソーラー噴水というものを拙宅では活用しています。

 ソーラー噴水の気化熱、飛沫がそれなりに一定以上の温度上昇を避けるようでして、これが動いている水盆は、なぞの生き物たちも生き残っていました、けれども安物のソーラー噴水は数日間故障することもあり、そういう水盆の生き物は残念なことに。

 庭園のスギゴケの場合は、まさかソーラー噴水で全部防護するわけにもいかず、それでは水盆だらけになって水芸のようになってしまうしで、日本庭園、コケならばなんでも情景のために、と選ぶことができないようになっているという話を聞く。

 妙心寺にもいくつも庭園があるのですが、この熱中症手前の頭痛がある中ではなかなか退蔵院庭園を散策しようと言う余裕が生まれてこなかったのが正直なところです。もうすこし、盆をすぎれば涼しくなるのかもしれないと期待しつつ、この日の散策でした。

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