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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】東福寺,伽藍と紅葉彩り背景に無準師範と聖一国師円爾出会いを遡れば玄奘三蔵と道昭との出会い

2024-11-27 20:24:40 | 写真
■無準師範と聖一国師円爾
 寺院というのは出会いの場所なのだなあ。

 東福寺、三連休の初日に拝観へと歩み進めました。九条道家が開基となり、聖一国師円爾を開山に招いて造営しました臨済宗の寺院です。円爾さんはヴァスバンドゥの仏教宗派解説書であるアビダルマコーシャカーリカーの翻訳阿毘達磨倶舎論を幼くして学ぶ。

 アビダルマコーシャカーリカー、というとなにか格好いいですが、三蔵法師こと玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典で、日本へは遣唐使として派遣された法相宗の僧侶道昭が西暦653年に玄奘三蔵本人に拝謁した際に訳版を託され、日本に伝えられた。

 園城寺にて得度し東大寺で受戒した円爾さん、この頃は弁円と名乗っていまして、上野国長楽寺、現在の群馬県太田市に現存している長楽寺の栄朝に師事し、そして臨済宗を学ぶべく鎌倉寿福寺の行勇に師事したのち、大陸は宋にわたっています。

 臨済義玄の拓いた臨済宗、悟りにいたるために数回の殴り合いと暴力が絡む黄檗三打という過程があって、黄檗三打も三回くらい叩かれたのかと思ったらば黄檗老師を訪ねたところ30発棒で殴られたといい、師匠に数発腹にぱんちとか、すごいのなんの。

 河北省に臨済寺が現存していて、もっとも臨済義玄さんは咸通7年頃つまり貞観6年、西暦ですと866年に入寂されています、あの富士山貞観大噴火の翌年くらいですね。円爾さんが生まれたのは建仁2年、つまり西暦1202年ですので実のところ接点はない。

 黄檗三打という歴史を知った上で中国拳法なんかをみていると、臨済寺もなにか拳法ができそうな配置となっていまして、昔の中国の寺院はバトルが起こっていたのか、と懸念するとともに、日本からの留学僧にもバトルがしかけられていたのではないか。

 禅宗、臨済宗も禅宗なのですが、大陸の新しい仏教となっています。そして当時日本の仏教界でも変革を模索する動きがありまして、いや言い換えれば宋に渡ればなんとかなるという、2000年代のアメリカ留学ブームのようなものが鎌倉時代に起こっていた。

 渡米か渡宋か、ともあれ我が国は渡るの大好きだなあと思いつつ、英語能力に限界があって日常会話しかできないのにアメリカ留学を行って何も専門研究を学べなかったという方がいた通り、実際当時の宋への留学僧も中国語が駄目だった人は多かったらしい。

 渡宋の語学問題は、当の宋で受け入れた寺院や官僚の、いや語学ができた日本からのりゅう学僧の日記にさえ嘆かれていて、しかしそうしたなかで円爾さんは径山寺の無準師範に師事しました、径山寺、ここは宋時代に醤油を日本に伝来させたともいわれる。

 無準師範、宋時代禅林中の巨匠と言われる方で兀庵普寧と西巌了恵と別山祖智と断橋妙倫の高弟を四哲として宋時代に大きな影響を及ぼした僧侶で、また絵画の才能にも秀でていたという。与円爾尺牘というやりとりの当時の親書が東京国立博物館に現存する。

 与円爾印可状、えんににあたういんかじょう、と読むのですが無準師範さんが円爾さんに書き与えた印可状が今も東福寺に現存していまして、意志を持って学ぶものと教えるもの、仏教徒は哲学的なものなのですが、そのつながりを今に見ることもできるのですね。

 径山寺も臨済寺も現存しているのですが、臨済寺は戦後荒廃した時期があり、その際に手を差し伸べたのが日本の数多ある禅林寺院であったという。考えれば八百年の出会いか、そう歴史と共に拝観しますと、また違ったものが見えてくるようにおもうのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
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【京都幕間旅情】東福寺,青椛と紅葉の狭間は黄緑椛で迎える師走前と今まさに進む気候変動最中の通天橋

2024-11-27 20:00:06 | 写真
■師走まで数日というのに
 寒くはなったのだけれども季節の移ろいは。

 師走まで数日というのに、東福寺の紅葉はこんな感じです。Dynabookで変換しようとすると東福寺の効用、と最初に出てくるほどに、最近のPCは言葉を知らないなあ、と思うとともに、紅葉という季節の風物詩が手元のPCからも遠ざかっているようで。

 臨済宗東福寺派の大本山、ここは通天橋を包む紅葉が京都を代表する風景の一つとなっているのですが、椛そのものが、一応暑さ寒さには強い植物なのですが、暑さではなく熱さというこの数年間の気象、気候変動という言葉を実感する最中では厳しいのか。

 東山区本町十五丁目に所在します東福寺は、その名の通りのJR奈良線東福寺駅から、寺域までは三分、通天橋などがみえる東福寺らしい風景までは徒歩十五分、といったところでしょうか、この広さが歴史をなにより語るとともに、紅葉の名所となっていて。

 東山区といいますと清水寺も有名ではあるのですが、京都は東海道新幹線と東海道線の長い鉄道高架橋により、なにかその南北で違う様相を感じてしまいまして、それは東山は標高が高いものの、鴨川に沿って永らく低地は水害に悩まされていた歴史がある。

 東寺が望見できるところからふと思い出すのは西寺、平安遷都とともに造営された官寺、東寺と西寺の二つの内、いま西寺が現存しないのはやはり、桂川の治水とも関係していまして、水害により荒廃したという。先の都は長岡京も浸水が遷都の理由だったが。

 水害、というものは気候変動と関係あるもので、過去にも火山活動や太陽黒点を契機とする気候変動は確かにあった、しかし京都の水害は築堤、もっとも有名なのはやはり豊臣秀吉の京都大改造だろうなあ、これにより、土木工事が平安京に安寧を齎した訳で。

 東海道本線東海道新幹線の南側には、山手を除いて急に寺社仏閣で古刹の風情を感じることができなくなるのは、こうした治水というものの安土桃山時代までの遅れというものと無関係ではないもので。しかし近年、気候変動が問題になる中で少々憂う事は。

 治水と気候変動の連環性というものをもう少し考えなければならないのではないか、紅葉の遅れ、と甘く書いた背景には単純に夏の長さと異常な高温が背景にあり、そう、春は三月四月五月、夏は六月七月八月、秋は元々九月十月十一月だった訳でして。

 師走が近くなるまで紅葉の気配がない、そもそも九月十月は秋の涼しさを感じることができたのは屋内の冷房の目の前くらいでは無かったか、と。これは同時に、紅葉の遅れに顕著化するのですが、見返してみると北大路機関創設当時は紅葉は十月に始まる。

 きせつの風物詩が寂しいね、というものだけではなく、椛は今後暑さが激しくなれば木々の生命力を維持できるのか、いや、既に庭園を彩る苔がもう緑を保てず枯死する状況が始まっていて、すると木々が枯死してしまうような未来もそう遠くないのでは、と。

 桜並木と梅花に始まる春は、もう四月に入る段階で桜花は早くも新緑に移り変わり、最早梅花は二月で終わりかねないものに、新年度に花見を楽しむことはもはやできない状況ですが、同時に気候変動は桜に有害な害虫を北上させ、国土は風景さえ変えつつ。

 治水、気候変動は降雨量の増大や台風の激甚化にも直結する事から、築堤や防風林の強化とともに、現在建築基準法は耐震基準に偏重していますが、耐風基準というものを相応に考え、風速60m/sや70m/sに備えなければならなくなるのか、と思うのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】廬山寺,光る君へ-紫式部邸跡は千年を超える街並みと平安京散策著者角田文衞先生の発見

2024-11-13 20:24:35 | 写真
■光る君へ
 光る君へ、このNHK大河ドラマ放映とともに注目を集める様になりまして新しい京都観光の定番となりつつあるこの堂宇は。

 廬山寺、元々は天台宗寺院であり船岡山の南山麓に鎮座していまして、この一帯にあったころの寺院は與願金剛院という名となっていまして、開山となられました慈恵大師良源さんは、元三大師。第18代天台座主でもあり、比叡山延暦寺中興の祖、と。

 慈恵大師良源、どういう時代を生きたかと問われればこの方を取り立てたのは摂政関白として延喜の治という良政とともに朱雀天皇から村上天皇の時代まで天皇に仕えた藤原忠平が若き良源さんを見出した、かの菅原道真公の晩年の少し後に生まれています。

 二十六ヶ条起請、として比叡山の僧兵の乱暴狼藉を戒める戒律を敷くとともに、これが結果的に僧兵の指揮系統を統一したために強訴が増えたともいわれ、興福寺の祇園感神院こと八坂神社を天台宗に改宗させ京都での勢力拡大を図るなど、いろいろやった。

 元三大師、この名は没後に町衆に親しまれた名で、正月の三日に没したためにこう呼ばれるようになりましたが、角大師とも親しまれ、これは疫病神が京都において猛威を振るったころ、良源さん自身が夜叉の扮装で疫病神を祓ったという歴史に由来します。

 良源さん、疫病は京都の定番のような災害であり、この払いと共に角大師の護符は今も京都各所に報じられていて、角大師の歴史からみますと、日本で最初にコスプレで人気者になった、ということなのかもしれません。源氏物語とコスプレの寺院、というね。

 仙洞御所を下賜され移築、現在のお寺は宝永の大火、天明の大火、と京都市内を焼いた大火災により幾度も焼損していまして、現在本堂となっていますのは御所の仙洞御所を光格天皇より下賜され移築したという歴史があり、境内には皇族天皇陵墓群も。

 紫式部邸跡、現在ではこう親しまれている寺院ですが、しかし幾度も火災や再開発に見舞われた立地、当地がそうした歴史を持つという事は秀吉の京都改造の際にも知られておらず、調査により判明したのはなんと昭和時代、歴史学者角田文衞先生が発見した。

 角田文衞先生、実は手塚治虫の親戚にあたる方、という係累もありまして、いや手塚作品には何か歴史的なものの中に独特の世界観を織り交ぜたもの、火の鳥などまさにそうか、感じさせるのですが、やはり影響というものはあったのかなあ、と思ったりも。

 平安京散策、角田先生は平安京散策という著書を30年ほど前に発表されていまして、これは源氏物語と平家物語といった王朝文学の世界の、所縁ある街路の今を示している、京都散歩の際のなにか少し違ったお手元におすすめの一冊を示していたりします。

 桔梗、不思議な話ですが今年は桔梗が十月末まで美しく咲き誇っていまして、源氏庭を明るく彩っていました、桔梗というのは夏の花ですので、もうすぐ十一月という、暦の上では秋どころか冬が見えている最中にはなんとも不思議な印象でながめるものです。

 源氏庭の桔梗を異常気象に気候変動、と切り捨てるのは情緒というものを理解しますと少し勢いはなく、そう、太陽の傾きだけは既に季節は冬が近いこと示すさなか、不思議な情景、空の色と夏の花々という風情を醸しているのが、わたしはすきだなあ。

 光る君へ。NHK大河ドラマの関係で、寺院自身もこう強調しているところなのですが、ほんの二年前には、これはCOVID-19の影響もあるが、独り占めという単語当て嵌まる静かな庭園拝観を愉しめましたが、いまはこう、不思議な活気が満ちているのです。

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【京都幕間旅情】廬山寺,慈恵大師良源の寺院は源氏物語著者紫式部邸宅跡地に天台宗の教えを紡ぐ

2024-11-13 20:00:11 | 写真
■源氏物語
 文学の時間だ。

 源氏物語、今回拝観しました廬山寺は源氏物語のゆかりある寺院として知られます。先日、寂光院と平家物語の話題とともに歴史を回想した際、平家物語と来たからには次は源氏物語だろう、と考えたわけではないのですが、大原の寂光院と違い、ここは街なか。

 廬山寺、慈恵大師良源により天慶元年こと西暦938年に開かれた天台宗の寺院です。その歴史は千年以上に上り幾つかの歴史を経て天台圓淨宗天台宗系単立寺院となっていまして、現在は御所東の一角、寺町通の涼やかな風吹く一画に鎮座しています。

 阿弥陀三尊をご本尊として奉じる寺院、このご本尊は重要文化財に列せられていまして、左脇侍観音菩薩、右脇侍勢至菩薩、ともども拝観者を温かく迎えてくれます。そしてご本尊の前には源氏庭、かの源氏物語の世界を印象付ける趣向となっている。

 紫式部邸宅跡、当地は慈恵大師良源が開山となりました寺院ですが、同時にこの一帯は世界最古の恋愛小説と言われる源氏物語、これを著した紫式部邸宅跡であることが、昭和に入り分かっています。当時の遺構はありませんが、場所がここなのは確か、と。

 京都散歩、と言えば有名な定番は名所旧跡が数多並ぶ東山や北山に嵐山とやまやまやま、という風光明媚な一角があり、これ、考えれば洛中はどうしても再開発、秀吉の京都大改造もそうだし、数多あった大火により再開発を強いられた一画が多いのも確か。

 上京区寺町通広小路上ル北之辺町、今回拝観しました寺院は廬山寺といい、いや昨今は誰でも知るような有名どころになり、此処にも観光客の波、という時代を迎え、これもオーバーツーリズムではないのだけれども時代の変化を迎えている一画という。

 寺町通、そうこの寺院の前の通りは寺町通という、秀吉の京都大改造により造営された寺社仏閣が集中している、本来の京都中心部を目指した通りであるとともに、しかし大寺は当地に遷座するには手狭過ぎ、難しい寺院の集中を生んでいる不思議な一角だ。

 船岡山の南麓にありました廬山寺、天台宗寺院であった寺院なのですが、京都大改造の際に区画整備の対象となり、秀吉が寄進という名の準備した一画に遷ったのが現在の廬山寺の位置でして、そして中心部を目指すも、どうしても御所周辺は手狭過ぎた。

 オーバーツーリズムの先例からこの廬山寺は長く遠い場所に在りまして、その背景には、秀吉により遷座した先は御所の隣、いやもともと寺町通は寺社仏閣を御所防衛の緩衝地帯とするために造営した一画であるためなのですが、それだけに土地が制限されて。

 伽藍の大きさこそが寺の風格、これも寄進や信徒の規模を示すのであながち間違ってはいないのですが、観光地となるのはこういう大伽藍と歴史を誇る寺院であり、どうしても寺町通、となりますと、南のアーケード街のほうが有名になっているのもたしか。

 新京極通とともにアーケード街の寺町は、そう、修学旅行の定番ともなっている場所、アーケードで区切られているために迷子の心配もなく、町衆、というかやくざな人たちも含めて、修学旅行生をまもってゆこうという不思議な風情を醸している。

 修学旅行の定番も御池通が北限という感じで、廬山寺はそこから遥か来た、御所東にあります。歴史は京都大改造とともに始まるこの寺町通ですが、一方で新しい歴史かといわれれば安土桃山時代、京都に在っては新興でも日本にとっては古い歴史なのです。

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【京都幕間旅情】寂光院,平家物語-変革と変容,クリエイターとアニメーター・AIとアニメーション,日本アニメーションの将来を考える

2024-10-30 20:24:56 | 写真
■古刹で考える未来
 未来への展望と云えば大阪関西万博なのかもしれませんがわたしはこういう古刹でこそ考えがまとまったりします。

 寂光院でここまでアニメーションについて考えるとは思わなかったのですが、素晴らしい毛氈と目の前に本堂、放火され再建されたというも尾ですが来年で本堂再建から20年という風月を経て質感が情緒を醸すように至った堂宇を前に、思想が広がる。

 POMERA,愛用していた100が遂に不具合を起こすようになり、買い置きのPOMER200を使い始めましたが、若干重く大きくはなったもののバッテリー駆動、数日に一回充電しますとほぼほぼ丸一日、執筆に活用してそん色ないという性能は気に入った。

 執筆という視座からは、ふと思ったときにどこか座るところがあれば長文を作成できてしまうのは嬉しいところ。まあ、長時間居座られては寺院の方にも迷惑かもしれないので、混雑してきますと当方も空気を読むことは吝かではないのだけれど、も。

 AIとアニメーション、これからはAI生成画とアニメーションの問題が、調和できるのか著作権の問題で対立するのか、という分水嶺が、そう遠くない将来、場合によっては次の政権交代くらいまでに深刻な問題として取り上げられるのではないか、と。

 画像生成、そう画像生成、結局現在の生成AIは既存の写真や絵画や作品などから人口学習して出力しているものなので、現時点で既に倒錯問題が生じている、恐らく古い作品で、AI学習利用を禁止する、と明示されていない作品や著作物が狙われる段階だ。

 JR西日本の車内広告に広告募集としてAI生成の写真や風景や、これは同じか、あとは水墨画などをそのまま張り付けていますが、あれはどこからか訴訟の対象とならないか、過払い金訴訟のように大手弁護士事務所の訴訟対象となるのは近いように思います。

 著作権、すると、今後考え得るのはキャラクターデザインをアニメーターが体系化して、いわばデジタルツインのように肖像権を持つキャラクターを一人ひとりアニメーター個人の人物、もしくは小説などの原作者が持ち、世界を形成するようなるのでは。

 街路や背景などは、これは京都アニメーションの現地取材方式ではないのだけれども、個々人が撮影した写真などをもとに人口学習させた、個々人にカスタマイズされたAI人口学習アルゴリズムを構築して、著作権上の問題を回避する時代となるのではないか。

 クリエイターとアニメーターの融合というような時代がそう遠くない時代に到来するのではないか、と思うのです。無論、大手アニメーター、というよりも中小を含めて、これでは存続できなくなるとして反対論が業界を揺るがすために一筋縄ではいかないが。

 声優さんの声を人口学習することについては、恐らく肖像権の延長線上に、近く法整備が必要になる、実際に声の人口学習を禁止する運動は始まっています故に。ただ、一作当たりの本人への出演料というかたちで妥協する可能性はあるのでは、とみている。

 業界団体をしっかりと構築する必要があるとは思うのですが、結局、一人で自己完結のアニメーション長編がAI生成により可能となるのは現実的に近いのではと思う。それは前述の通り、個人の投稿作品という形で、最初はグレーな扱いを受けるかもしれない。

 変革と変容、この背景には予算不足、いや予算は社会全体で一定程度あったとしても、その配分は多様化しているという実情からクリエイターに潤沢に回せない時代が来ています。その収斂と変容がどうなるのか、そんなことを古刹で、考えてしまいました。
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【京都幕間旅情】寂光院,平家物語-日本アニメの将来,平家物語のアニメーションは素晴らしかったのですが

2024-10-30 20:05:33 | 写真
■朱毛氈の上にて
 この寂光院探訪の際には未だ暑い日々であったのだけれども流石に大原までやってきますと若干ではあるがおんどは涼しく。

 寂光院、平家物語、アニメーション、と。最後少し飛躍したぞ、と思われるかもしれませんが実際、あのアニメーションの平家物語は記憶によく残るような名作であったと思いますし、寺務員さんの解説でもふと触れられ、所謂聖地巡礼というすがすがしさ。

 平家物語のアニメーションは素晴らしかったのですが、同時にこう言ったアニメーションは今後どのようになるのだろう、という、いわば担い手、アニメーターと技術の進歩について思うのです。朱毛氈の上にゆったり腰かけながらふと考えてしまった。

 特撮、日本のお家芸というべき映画技法はかなりのぶぶんCGにとってかわられたように思う、実際問題特撮の新作はテレビでは逸翁は造られているのだけれども低予算が響いていて、これは1974年オイルショックの景気後退の時機と比べてもかなり厳しい。

 映画という視点では特撮は、ほぼほぼ、昔であれば特撮が用いられた部分でもCGが用いられ、いや原点回帰として特撮は実物を用意できなかった際の代用であったのだからCGはそれこそ特撮の正統進化では無いのか、と言われるかもしれませんけれども。

 特撮は費用が掛かる、とはいわれるところ。ただ、CGも安価なのか、と問われますと、例えばシン・ゴジラなどは実質ゴジラが動く様子は17分間であったといい、質感を求めれば求めるほどCGも費用が掛かってしまう事もまた現実のようでして。

 CGも費用が掛かる、けれども将来的にAI描写によりCGの費用の掛かる部分はかなり解消されてゆくのかもしれないが、現実問題として大画面で再生するには、やはり資金力がものをいう、と、資金力で特撮草創期の日米映画資金力の話に戻ってしまう。

 蒼き鋼のアルペジオ、CGを大胆に使ったアニメーションとしてはあの作品がテレビでは草創期になるのか、無論前にもいくつかはあるのですが一応の成功を見たのはテレビアニメーションではあの作品、映画となりますと、アップルシード、なのかなあ。

 アップルシードから蒼き鋼のアルペジオ、思い起こせばこれもCGといいますかポリゴンの制作費用が提言した事で劇場映画でなくともTVアニメーションの予算でCGが使えるようになったのか、と。背景の写真からの転用は、雲の向こう約束の場所、か。

 予算になるのか、こう結論付けるのは早計かもしれないのですけれども、雲の向こう約束の場所、は写真を画像に起こす技法でキャラクター描写にアニメーターさんが、あの場合は監督さんほとんど一人でやったとも当時聞きましたが、予算を抑えた構図で。

 風立ちぬ。対極にあるのが背景をすべて手書きで頑張った、ほぼほぼ美術作品のような背景で形成されているスタジオジブリの作品なのですが、美術品は量産が利かない、一作制作するのに時間も費用もかかり、一本転ぶと大変なことになってしまうという。

 AI生成の作画によるアニメーションが主流になるのも、また時間の問題なのかなあ、と予算面で日本のアニメーションが潤沢ではない実情を背景にこう、思ってしまうのですね。勿論、大手であれば、いや中小零細もストなどで声を上げるのは必至でしょうが。

 インディーズ作品でAI生成画によるアニメーションがまず怪物のような作品が出てくるのだろう、例えばあの月姫、のような作品がいきなり静止画ノベルゲームではなくアニメーション作品で出てしまうような、そんなところから変容が始まる、気がするのだ。

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【京都幕間旅情】寂光院,平家物語-最近ではアニメーションが有名に,少女びわと建礼門院徳子

2024-10-23 20:24:01 | 写真
■建礼門院徳子
 声明の里といわれた大原は今もう一つの視点で。

 平家物語、最近ではアニメーションが有名に、と紹介したいところなのですが、あのアニメーションは2022年という、考えれば時間が経つのが早くなったように思えるのは歳を取ってしまったからなのでしょうか、この寂光院、作中の末尾に描かれています。

 寂光院でも庵主さん、ではなく寺務員の方、ちょうどこの寂光院の本堂を開設する際にアニメーション作品の方に触れられていまして、そうですよね寂光院といいますと最近ここ寂光院がわだいになったのはあの作品、と勝手に納得してしまったのですけれど。

 寺務員さんの方は学生時代に漫研だったというお話を、堂宇とお山の解説全般が終わりました後で雑談しました際に、平家物語のわだいにあわせまして交歓しましたもので、実際、淡々とではあるが感情移入できる視座をもとの平家物語の大筋に沿って。

 けいおん!の山田尚子監督作品、けいおん!の監督、というだけで色彩豊かな世界観を共有できるのかな、と思うところです。監督は京都アニメーションに入社ののちにさまざまな作品に参加し、また監督として全体の制作を統括しています、どれも完成度が高い。

 中二病でも恋がしたい!、境界の彼方、氷菓、と監督が絵コンテで参加されました作品なんかはDVDかBDを揃えていますし、けいおん!についても。あとヴァイオレットエヴァーガーデン、一部BDをかったものの店頭品薄、というよりBDを扱う店が減った。

 古川日出男の新訳、平家物語を原作とした作品は琵琶法師の少女びわを主人公に、実父を平家の武士に殺害され抗議に向かった先で平重盛に拾われるところで、重盛の子、平維盛と平資盛と平清経とともに生活し、平家の興亡を目の当たりにするという展開だ。

 徳子、平徳子とびわの出会い、そして高倉天皇への入内、後白河法皇と平氏の確執の高まりとともに鹿ケ谷の陰謀を発端として高まる全面対立、歴史にある通りの混とんと動乱の機運が戦禍へとつながる様相が、治承三年の政変により一気に沸点に達します。

 びわ、平徳子、実質この二人を中心に物事は、大河ドラマという通り一人の力では抗う事は出来ず見るほかない大河のような流れに翻弄されているのですが、入内した平徳子は高倉天皇の皇子、のちの安徳天皇を身ごもるところで降りれぬ歴史舞台へ立つ。

 福原遷都を強行した後に、後白河法皇の平家追討院宣の発布、源頼朝の挙兵と富士川の戦い、南都焼き討ち、次第に形成は不利の様相を呈するとともにつかの間の勝利が戦術的勝利の代償に戦略的敗北を被る悪循環となり、一ノ谷など決定的敗北を重ね。

 壇ノ浦の戦いはその最終話に描かれていまして、歴史上には実在していない少女びわの視点を通し、一つの歴史が終わり一つの歴史の転換点、というものをかなりわかりやすく描いています。それはその時代を生きる人々の感情を今風に解釈したうえででも。

 安徳天皇は、壇之浦において平家と運命を共にしました、それは敗北を重ねた平家が最後に源氏への決戦を試みた壇之浦の戦いにおいて皇太后徳子とともに入水するのですが、徳子だけは引き上げられ、罪を問われることなくしかし出家、寂光院へ入る。

 三種の神器さえ帰って来るならば、別に平家を撃ち滅ぼそうとまでは思っていなかった。後白河法皇は劇中の末尾に、建礼門院徳子をここ寂光院に訪ねるとともに雲の狭間から射した陽の光が堂宇をふっと照らし、本尊を照らす様子を悲しく見上げて物語は終わる。

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【京都幕間旅情】寂光院,静けさの大原と平家物語大原御幸は諸行無常という六道語りを今に伝える

2024-10-23 20:00:54 | 写真
■平家物語ゆかりの地
 大原というと京都市内でもはるか北の先という印象が有りますが実際に散策してみますと此処を隠遁の地とした人々のきもちがよくわかる。

 寂光院、京都の奥座敷と言われる大原は左京区大原草生町という、特に奥まった、しかし静けさと共にある立地の尼寺です、山号は清香山、平家物語ゆかりの寺としても知られ、それは平清盛の娘である建礼門院徳子が晩年を過ごした寺院という歴史ゆえ。

 天台宗寺院である寂光院、この一帯の大原は三千院、梶井門跡として長らく洛中近くに位置していました寺院が当地に明治以降遷りまして歌にも謡われたほどなのですけれども、もともと当地は貴人の隠遁の地、という風情をたもっていまして。

 真如覚比丘尼という名に改めた建礼門院徳子は第3代住持として平家滅亡後の、しかし追討命令を発布した後白河法皇にとっても、結局は鎌倉幕府開府による武家社会が始まり、それは七百年にわたり朝廷と皇室は権威だけの世界に留まるところとなる。

 清香山の山号とともに、しかし実のところここ寂光院の寺院はその始まりの歴史がはっきりとわかっておらず、寺伝によればとう山の開基は聖徳太子、その創建は推古天皇2年こと西暦594年、最初の住持は聖徳太子の乳母玉照姫恵善尼とされています。

 声明、融通念仏、音韻により読経を広める大原声明発祥の地とされ、梵唄という大陸伝来の仏教声楽から日本の音楽、とはいいつつも仏教音楽という一つの体系ではあるのですが、その発祥の地でもあることから、日本における独自音楽が確立した地ともいう。

 聖徳太子が開いた、という寺伝は残るものの7世紀から12世紀まで、寂光院がどのような歴史をたどったかについては歴史として確認できるものが無く、建礼門院に仕えて後に出家した阿波内侍を、恵善尼に続く二代の住持として寺伝でも記しています。

 7世紀から12世紀までの空白、といいますと今の感覚では長大な時代の流れのようにも見えるのですが、ただこれも中世以前の時間感覚であり、それは堂宇に至る細いほそい参道を曲がり切った先に漸く庵の気配を感じまる石段を見上げた時間の感覚の違い。

 声明の里、といわれる大原は、いま、そう令和の時代に在っても声明を唱えれば山河にうっすらと透き通るような独特の空気感と共に、なにより今を以て洛中の喧騒は最寄り駅が10㎞以上先という風情立地の通り静けさを保ち、それは山内にあってもおなじ。

 本堂は、残念ながら放火によりご本尊ともども残念なことに2000年全焼してしまった。慶長年間に豊臣秀頼の命を受けた片桐且元が奉行となり造営した堂宇であり、しかし放火犯は今を以て逮捕されておらず、2005年に堂宇のみを再建しいまにいたります。

 旧本尊の木造地蔵菩薩立像は六万体地蔵菩薩とも称されていまして、本堂放火に際して焼損してしまいましたが全焼だけは免れ、美術院国宝修理所により三年間の期間を経て修繕、というよりも新しく彫像される事となりまして、いまにいたります。

 大原御幸、この寂光院を平家物語所縁の寺院としましたが、これは後白河法皇の文治2年こと西暦1186年、大原行幸の史実をもとにしました六道語りという一種の悟りを徳子が語る平家物語の段とともに、諸行無常というものを語る描写の舞台とのものです。

 寂光院はその大団円とは程遠いものの、一つの時代が終わる中で生き延びたことの命を問う、史実の人々のあったかもしれない一情景を描いているのですが。これがいまはアニメーションにより描かれ、印象的な作品があったのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,稲荷がどのように変容を辿ったのか愛染寺と浄安寺と西光寺と

2024-10-16 20:22:36 | 写真
■豊臣秀吉の楼門寄進
 稲荷社を象徴する壮大な楼門はかの豊臣秀吉が寄進したもの。

 伏見稲荷大社がどのように変容を辿ったのか、大きな起点は、やはり豊臣秀吉なのかなあ。天下餅という、織田がつき-羽柴がこねし天下餅-座りしままに食ふは徳川、なんて信長と秀吉と家康の三者三葉を謳った歌がありますが、京都では秀吉の人気が。

 豊臣秀吉はこの近くに伏見城を造営した際、大病に冒された母の大政所の平癒を祈願したのが稲荷社でして、神威成って病気平癒が実現、この際に秀吉は楼門を造営して寄進するとともに稲荷社その際大規模な寄進をしています。秀吉はこういう事が多い。

 京都大改造を行いました秀吉は御土居を筆頭に多くの公共物や寺社仏閣の再建を主導、この際に京都は応仁の乱からの復興を漸く終えた、という表現が当て嵌まりまして、そう、楼門もようやく、今に至る優美なすがたとともに当地に再建されたということ。

 楼門は天正17年こと西暦1589年に豊臣秀吉により再建された重要文化財です。ただ、本殿の、これも重要文化財なのですが再建されたのは明応3年こと西暦1494年に再建されたもので、土一揆からそれほど時を経ていない中にあの五間社流造を再建している。

 内拝殿、曲線が妙に美しい、参拝の際にはここで賽銭を投じて柏手を叩くのですけれども、ここは明応年間の再建よりはもう少し後の造営となりまして、外拝殿が天保11年こと西暦1840年に再建されているというので、この際に神域の様相が大きくかわって。

 仙洞御所を後水尾上皇が下賜されたというのは御茶屋、とこう神域の社殿の歴史を少し紐解きますと、応仁の乱では更地になったものの、そのあとの本殿復興は、直ぐにと今の感覚では言えないものの応仁の乱のあった15世紀中には実現しているのだ、と。

 愛染寺、浄安寺、中世の稲荷社の歴史を紐解きましたものの、もう一つ今とは根本から風景が変容しているものとしまして、神域に寺院が複数並んでいたという。これらは廃仏毀釈の際にすべて失われていましたが、稲荷山は神仏習合の聖地でもあった構図で。

 赤い鳥居、応仁の乱の時代にはすでにあったと前述しましたが、千本鳥居と同一なのかは議論の余地があるようでして、この背景には神仏習合と関係が出てきます、こういいますのも江戸時代の大御所さま、浄土宗に帰依に帰依していました。

 浄安寺も浄土宗寺院なのですが、浄土宗は民衆信仰を集めており承認も例外ではない、そして満願成就、結願の礼として赤い鳥居を奉納することが為されたといいますので寺院とともに鳥居、これぞ神仏習合、千本と言わず膨大な数を揃えるようなったとも。

 廃仏毀釈、伏見稲荷大社はこの際に社領を四分の一まで削られてしまいましたが、この際に愛染寺や浄安寺と、続いて造営された西光寺といった寺院もご本尊共々破却されてしまったといい、これにより大きく姿を変容した事もわすれてはなりません。

 鳥羽伏見の戦い、もう一つは幕末動乱の際に錦の御旗が示され一気に日本は内戦へと戊辰戦争へ進んでゆくのですが、この鳥羽伏見の戦いでの戦火の直撃は幸い免れることは出来たものの、社領全体で見れば大きな被害に見舞われ、風景は一変してしまう。

 伏見稲荷大社参拝、歴史と共に巡ればおぼろげにもかつての姿が見えてくるのではないかと、いつもよりも空を見上げつつ神域を巡ったのですが、長い歴史とともに変化の幅もやはりものすごく、稲荷社の歴史の奥深さを改めて感じることと、なったのですね。

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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,古地図で巡る旅を阻む土一揆と応仁の乱に廃仏毀釈と京都大改造

2024-10-16 20:00:47 | 写真
■古地図で巡る散策
 稲荷山まで登ってみようかと思ったのですが余りに人が多過ぎるところでちょっと断念です。

 伏見稲荷大社、その昔は稲荷社と呼ばれていたというのはこれまでも幾度か触れたところではありますが、東山三十六峰最南端の稲荷山をご神体とします稲荷信仰の御本社となっています。伏見の地名というのは明治以降この稲荷社に冠せられたという。

 稲荷社が本来の名前であったのだ、というところは驚くところではあるのだけれども、そもそもここは神社ではあったのだが、空海とそして真言密教とのつながりを持つこととなり、それは東寺の鎮守社となったという、寺社仏閣の一体化された歴史も持ち。

 東山三十六峰最南端の稲荷山をご神体とするゆえに元々はこの山頂にあった社殿が室町時代中期に山麓に遷座したという歴史もありますと、まずまず不思議といいますか関心度、好奇心というべきか、生まれてきますのは昔の稲荷社がどんな風景であったか。

 神仏習合がすすんだのは平安時代の空海の時代からというけれども、山城国風土記、年中行事秘抄、といった歴史書には祭神の多様化が記されていまして、宇迦之御魂大神を祀っていた社殿はいつの間にか稲荷大神として四神の総称を祀る様になっている。

 千本鳥居は神域を代表する風景ではあるのだけれど、さてこれ、少なくとも農業信仰として崇敬を集めていた時代にはその千本鳥居は無く、しかし室町時代には一応、応仁の乱より前から商売繁盛の信仰とともに当地に広がっていた風景なのだという。

 一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰、ご神体の稲荷山は三つの峰にわかれている、そしてそれはもともとの祭神が3柱であったともいえるのですが、稲荷社として勢力とを増すとともに社殿の維持費にも高騰する部分が相応にあり、すると社領を広げてゆく。

 藤尾社こと藤森神社境内までその社領は伸びていたのですが、その神域の広さとともに社殿が絢爛豪華となることは、応仁の乱の時代には一種の重要施設として機能した事を意味する。応仁の乱は陣地とした寺社が一つ一つ焼失することで戦火が広がった。

 応仁の乱より前から千本鳥居があった、というのは応仁の乱にて東軍細川勝元の足軽大将骨皮道賢が稲荷山日本人を構えた際に西軍山名宗全の度重なる攻撃により千本鳥居を含めて全て山頂まで焼失したという記録が残っているためでした。

 山名宗全にせめられたならば仕方ないといいたいところですが、記録は残っていても肝心の建物は残らなかったのでは意味がないのですが、少なくともこの戦火により風景は更地へ一変してしまった構図、応仁2年こと西暦1468年のはなしとなります。

 土一揆、もう一つ追い打ちをかけたのが文明18年こと西暦1486年の土一揆騒動でして、この際には東寺の伽藍も焼かれてしまい、それはこの時代の寺社は復興の名目に寺社領の農民に重税を課したためという事情はあるのだけれども、改めて更地となった。

 古地図で巡る旅、という楽しみ方が観光地にはあるようですが、応仁の乱の後の古地図はどうなっているのだろうか、洛中絵巻などはある程度民衆に余裕がある時代に製図されるものなのだから応仁の乱直後の古地図というのは、そもそも存在したのかなあ。

 いまの伏見稲荷大社が過去の稲荷社の姿ではない、という事は簡単に理解できます、何しろ応仁の乱で山頂まで更地になったのだから。けれどもその復興過程などではどのように変容の歩みを綴ったのかということは、神域を巡るとともにふと思うのです。

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