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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】八坂神社-七夕,真夏は熱さこのさなかでは危険な屋外を巡るいまの京都散歩という難しさ

2024-08-14 20:22:41 | 写真
■熱い京都熱い散策
 台風が関東に近づいているといい今年もそろそろ台風が涼しさを運んでくるのだろうかと不謹慎だけれども季節の移ろいをおもうところ。

 真夏の暑い、いや、熱い、時間帯の散策というのはもはや危険なものだなあ、と実感するところで、それならば昨年は涼しかったのかと問われると肯定することはできないのですけれども、今年はやはり、改めて冷房の利いた自動車でなければ、と思うところ。

 京都を歩くと外国人ばかり、といわれるところですが、彼ら彼女らはせっかくユーラシア大陸なり太平洋なりインド洋をわたってきたのだから、熱くともホテルでゆったりなにもせず過ごす、という選択肢がない故ではないかとおもう、動くほかないのだ。

 八坂神社は、こうした中でなにしろ四条通りの中心部から交差点をわたるだけで行くことができる場所ですから多少人が出歩いているだけで、たとえば大徳寺、たとえば妙心寺、たとえば相国寺、壮大な古刹は熱いひには2021年のような静けさとなっていて。

 市バスから直接いくことのできる寺社仏閣はともかくとして、多少歩く場所となりますと、それは清水寺や金閣寺ならば別格なのかもしれないけれども、観光パンフレットの表紙に載らないような社殿や寺院となりますと、閑散とするというより熱さが危なく。

 熱さ、このさなかでは京都散歩というものも実のところ難しくなっているのではないか、平安時代に連日の暑さを嘆く日記などはあっても調べてみると気温は27度とか28度という水準と言いますので、すくなくとも外の気温ではいまとは比べものになりません。

 冷房はなかったですし、氷室なんてのは殿上人のかすかな楽しみだったわけですから。気温が38度とか気象台が発表し、車載温度計が41度都下になっているような状況ですと、路線バスでバス停の目の前に拝観受付があるような寺社仏閣でなければ、とも。

 庭園拝観、むかしは時間帯を考えればここで涼を感じられたのですが、あたりまえですが冷房なんてありません。だから庭園拝観でも、そうとう地形と風があるような庭園を選ばなければ、とてもではないのですけれども汗で大変なことになっているわけで。

 携帯式扇風機、これを持ち込んで庭園拝観をたのしむというのもどうしてもきょうがさめてしまいますし、真夏の拝観、抜けるような青空を逆手にとって楽しむ、と強がってはみたいものの、やっぱりこれは強がりのほかはないのだよなあ。

 技術で何とかしたいものですが、何かこう、ジャケットの背中が太陽光発電装置になっていて、裏地にはペルチェ端子を仕込んで熱ければ熱いほど冷却して内側が寒くなるような、そんな未来の技術が来年の大阪万博あたりで出てこないものかと思うのだ。

 空調服、を着込もうにも、あれは見た目はともかく涼しさがすごいというのだけれど、カメラバッグを肩掛けにしているとどうしても服のなかの空調を遮断してしまうことは目に見えていますし、だからといってカメラを持たずに写真撮影はできないのですね。

 気候変動、こう夏が暑いまま推移してゆきますと、7月から8月にかけては身動きに危険が伴う、そんな未来が見えてくるのですが、2075年には世界では気候難民、居住できない気温50度越えの地域が増えてくると言いまして、これも地域紛争を誘発するのだろうなあ。

 祇園祭の季節だからこそ、京都散歩は話題に事欠かないのだけれども、寺社めぐりをまじめにやってみますと熱中症、いや日射が直接原因だから日射病といっていいとおもう、そんな兆しの頭痛とともに散策する、なんともいきづらい時代となっているのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
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【京都幕間旅情】八坂神社-七夕,七月七日は旧暦-祇園祭の祭事無事完了の社殿には笹と短冊の七夕の機運

2024-08-14 20:00:45 | 写真
■旧暦の七夕
 七夕は旧暦ですと今の八月上旬になるのです。

 祇園祭が一段落しまして、これは八坂神社の祭事でしたので7月28日に御輿あらいがおこなわれ、これでほぼ神事が終了したところとなりました。考えてみるとほぼほぼ一ヶ月、京都の中心部をそのまま祭事で占有するわけでして、これはすごいことなのだなあ。

 祭事も、この2024年という年ではようやくCOVID-19前の水準まで戻っているのですけれども、結局のところCOVID-19の時代とを比べますと、緊急事態宣言が発令された直後にはさすがに出歩かなかったものですが、近所の方いわくこの界隈はやはり無人だったと。

 八坂神社の歴史が祇園祭の歴史でもあるのですが、その祭事の願いは疾病祓いであり、もっとも、祈るほか無かった時代にあって感染対策とは真逆の、集まって一カ所で祈るという祭事、この祭事のかたちはCOVID-19のさなかには形而上だけのものに収斂します。

 祭事の継承、有形無形の祭事にかんする様々な手続きやしきたりや準備というものは、これ、当初は数年途絶えることで継承が難しくなるとは言われていたのですが、実際のところはやはり、生きてこそ、ではないのですが人が生きていれば十分つなげるもの。

 継承で困難となったのは逆に小さな行事や祭事のほうだともいわれましたので、祇園祭に関してはこうしたことは意識することもなく、これは当事者ではなくあくまで第三者出会ったためと言われるかもしれませんけれども、ほかの祭事でも重なるもので。

 さくら祭、やすらい祭、競馬神事、これも全国の規模でみればかなり大規模な祭事になるのだ、と言われるところでなるほど傍目には比べる対象が大きいものですとそうなのかなあ、とおもいつつなのですが、こちらも祭事の中断を経ても継承できました。

 七夕祭は、八坂神社にあまたある祭事の一つとなっていまして、これ、しょうしょう真夏の暑さにやられてしまった感のある笹に短冊を取り付けていまして、なるほどなあという定番の願い事からくすっと笑ってしまう願い事までが綺麗に本殿まえにならぶ。

 短冊を眺めつつ、そう、こちらもひところの定番になりそうだったコロナ退散というような願いも、ようやく日常の願い事が、相殺するような、いわばコロナがウィズコロナになったのだなあ、そんな感慨深い気持ちで笹の短冊を眺めていました次第で。

 COVID-19を冷静にその現状をみますと、最初の2年間よりも国内死者数はかなりの規模には上っているのですが、最初の2年間に危惧されたのは当初厚労省が想定した、一年間40万、という制御できなくなる状況であり、ワクチン開発によりこれは回避できた。

 八坂神社は、考えるのは、前よりも増えたのではないか、ということです。そう、オーバーツーリズムの再来というところで、これは考えられたのだから建物規制のない南部のあたりや京都駅周辺再開発に際してもう少しホテルなどが必要なのだろうなあ。

 2021年にくらべて2022年の人出は、と2年前に記述していることを写真とともに思い返しますと、やはりあの最初の三年間は異世界のような京都の静けさがありましたので、それもただ、意識して情景写真を撮るようになった2000年代はじめと比べてもこれは。

 日常風景といいたいところなのですけれども、やはりオーバーツーリズムのほうをかなり意識しなければならない、市バスは混雑し人手不足で便数も減り、食事の際には価格高騰が顕著で、中心部は国際化が進みすぎて、というこれが、日常になったのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】藤森神社-紫陽花祭,日本を超えて世界を歩んでこその多文化主義

2024-07-17 20:24:13 | 写真
■紫陽花を眺めつつ
 紫陽花園を散策しこのところの湿気に浸かれている紫陽花とがんばろうとする花々をながめつつ。

 藤森神社の紫陽花祭、妙に日本酒が安く手に入る祭事という事もあって色々散策してみましたが、この写真と共に昨今の国際報道の話題に論理が飛躍してしまったが、なにせ三韓征伐という過去の歴史に所縁ある神社の写真と共にご容赦いただきたい。

 世界での極右の流れというのが、こんなところで書きたくなるほどにわたしにはちょっと理解できないのだ。日本だと自主防衛強化とかが右傾化といわれ、左傾化というと国際協調とか、グローバリゼーション路線を掲げている印象があるのだから逆に見えて。

 ハンガリーのオルバン政権、極右思想といいますと思い出すのはこちらの方なのですが、不思議なのはオルバン首相はEU議長に輪番制で選出されるとそのままロシアに赴き、そのあとは中国に行っている、極右というと反共というイメージがあるのだから。

 極左といえば容共で60年安保闘争でアンポハンタイを掲げてうろついていた印象があるのですが、しかし、日本の極右をみれば、正当には極右は無いのか、維新も極右ではなく単なる保守だし、しかし容共や中国ロシアと宥和主義というのは見当たりません。

 反共、といえば中華民国台湾の国民党も同じで、蒋介石と張学良の西安事件を思い出せば、というか国民党の南京事件と上海粛清を思い出せば、なんで北京の共産党と仲良くできるのか、歴史問題って何だろう、連中の商売道具なのかな、とおもってしまって。

 国民党に中国共産党が接近、というと1930年代の国共合作時代を思い浮かべるのですが、歴史はそのあと国共内戦へ回帰する、結局民進党が勝ったのは、国民党は李登輝総統時代を最後に容共に転向した事で支持者がついていけなくなっただけなのかなあ。

 日本で容共の政党はあるのか、と問われれば共産党そのものがあるのだけれども、地方自治で一定数の少数派を維持しているものの国政では、数名の当選で大躍進を掲げるほどですから政権を目指せるのは宇宙時代を待つほど遠い先の話のように思える。

 北方領土問題を考えると、共産党はかえせ北方領土、の立場であったからソ連と接近していたのは社会党という昔あった政党になってしまう、こういう話を酒宴でやると、社民党っていま何人残ってたっけか、正当じゃなく諸派では、いやいやぎりぎり、と。

 極右政党の躍進にロシアの情報機関などがフェイクニュースを流して支援しているとか、選挙への介入という報道や陰謀論、玉石混交の情報が出てきますと、そういえば日本で極右が台頭しない、極右政党が国政に存在しないこととロシアの問題を見てしまう。

 北方領土の問題があるので極右政党を支援する事は出来ないというか、ロシアの利益にはならず、むしろ極左主義を支援することでグローバリゼーションから遠ざける効果があり、周辺地域の安全保障に関与しなくなるという特性があるのではないかと考えて。

 左派連合、フランス選挙で勝利した左派連合をみますと、NATO脱退にEU脱退、国連もそのうち脱退するのだろうか、主張を掲げているのだけれども、日本の左派のように核兵器反対や自国防衛反対の非武装中立路線なんてのは絶対に掲げていません。

 同床異夢、という訳では決してないのですけれども、世界を理解するには、もっと世界を歩んでこその多文化主義が実現するのですが、歩むほど時間と余裕がないのが日本を含めた世界で、事なかれ主義の方便なのかもしれない、と思いつつ末尾としましょう。


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【京都幕間旅情】藤森神社-紫陽花祭,神社創建に繋がる国威発揚の歴史と欧州極右混迷

2024-07-17 20:00:58 | 写真
■千余百年の社殿から
 トランプ前大統領暗殺未遂事件により欧州と共にアメリカでもいずれ今回の事件のバイデン政権陰謀論が出てくるのだろうなあと思いますと先が思いやられる。

 藤森神社、三韓征伐での先勝を記念し創建された、1800年の歴史を誇る神社です。実際には西暦換算でいつごろ創建されたかは諸説あるようですが、氏子衆の広がりから少なくとも伏見稲荷大社が現在位置に出来ましたよりは前から歴史が続いている。

 三韓征伐、これから多様性の時代となりますと、考えると世界では多くの会戦が、それはアウステリッツやワーテルローの様な近現代は勿論、カンネーとかルビコンとかいろいろな場所があるのですけれども、そうしたところ、神社に当たる石碑はあるのか。

 多様性の時代、そうした過去はどのように清算といいますか内部化しているのか。何しろ大阪の放出のように、地名に歴史が残っているところもありますが、放出の地名の意味を例えば韓国の友人に問われた場合、どう答えればいいのか、答えが定まらない。

 グローバリゼーションに関する論文試験が大学入試で出たのが21世紀初めごろ、高校生の頃からEHカーとかハーマンとかサミュエルハンティントンとかを読み漁っていたので理解はしていたのですが、あのころからEUは欧州の壁、と呼ばれていた。

 社会に出ればこういう問題の収斂のやり方は機構に備わっているだろうと思っていたが大違いで、結果的に実生活に見ない事とすることで解決の糸口を議論する機会が永遠に喪失し、これが選挙の機会などで保守政党支持などの面で表面化しているのかなあ。

 外交フォーラムという、もう民主党政権時代の事業仕分けに引っかかって廃刊になってしまった雑誌に、田中俊郎の論文だったか、欧州の壁、つまりEU域内の通行は自由だけれども中東アフリカや東欧地域、当時はEU加盟交渉中、入域の難しさが指摘され。

 極右の台頭といいますか、移民反対主義、移民排斥主義という論調は2002年頃までのEUでは、そもそも入らせることが無いということで、大きな摩擦になっていなかったように記憶します、マリールペンの国民戦線はこの頃勢力を伸ばしていたようですが。

 移民反対主義が日本に定着しないのは、そもそも移民が少ないことと共に、中華街というものは昔は京都にも、今は神戸の元町と横浜の、あれも元町なのか、残っている訳ですが、あれを見て思い出すのは移民排斥よりも美味しい中華料理の安さに感謝が先で。

 欧州の壁と言われていた時代をそのまま維持していたならば、此処まで極右の潮流は生まれなかったのかもしれませんし、そもそもボートピープル、欧州の浜辺に乗り付ければ欧州の社会保障にあずかれる、という状況もなかったのではないかとさえ。

 ボートピープルといえば日本の場合はヴェトナム戦争後の南ヴェトナムからの避難民が思い浮かべまして、そういった方々のコミュニティもあり、お店をやっている方は美味しい料理をお手頃に提供してくれるとかそういう認識はありますが、そう摩擦までは。

 ブルーノゴルニッシュ氏が国民戦線といいますか国民連合次席ですが、この方が極右思想に目覚めたのは京都大学に法学部助手として留学当時、京都の街並みを見て自国文化を維持できている国に感激し、日本人女性と結婚しつつ国民戦線を結成したといいます。

 欧州の現状を見ていますと、ああはなりたくないなあ、という素朴な印象とともに、しかし間口を広げた以上、その間口をいまさら何十年も経て下げるという事による摩擦の方が大きいのではないのか、過去は変えられませんからねえ、と思ったりするのです。

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【京都幕間旅情】藤森神社-紫陽花祭,神功皇后三韓征伐社殿を前に欧州極右の躍進と停滞の流れを考える

2024-07-10 20:24:30 | 写真
■多文化時代のなかで
 紫陽花はちょうど見ごろなのですがこの湿気が凄い事になっている中で噴き出す汗だけがどうにもならない事に苦笑しつつ参拝のあゆみをつづけましょう。

 藤森神社、紫陽花祭の際に参拝へと詣でたのですが、ちょうど学区の祭事ということで和やかな雰囲気と子供たちの活気とで、もう少し人がいないと思っていたものですから、意外に思いつつ、しかし大事にされているなあ、とちょっと心和みました。

 神功皇后の三韓征伐、その際に創建されたという神社なのですが、この祭事の頃、対馬の和多都美神社で、韓国人観光客出入り禁止、という話題がありまして、なんでも観光客迷惑行為が続いたための措置だという。出禁は厳しく見えるが、放置すると。

 日本の歴史を見てゆきますと思い出されるのが、我慢の限界を超えるまで我慢を続けて、やめろ、という主張や、主張を続けることで生まれる対立を避けようとする融和路線により、結局事態が看過できないところまで悪化させたことが何度もありまして。

 多様性とか寛容、というのは、対立を避けるということを物事を解決するために努力を傾注するという過程を省いてしまって、見ない事にして解決するよりも自然収斂する事を期待する事なかれ主義をそのまま、寛容、の定義に当てはまると言い換えただけにも。

 解決するための努力は、成功しなければ深刻な対立となりますが、解決しようとしないところに、異なる常識の土台が、相手は留意しているつもりでも踏み込み過ぎてしまい、若しくは一過性の事だろうと継続することで、決定的な破綻が生まれることが。

 NHK報道などをみていまして、この藤森神社の話題をまとめていた際に国際報道似て話題になっていましたのは、フランスにおける極右台頭、というもので議会選挙において優勢を誇りマクロン大統領の呼びかけで左派連合が結成されたことでした。

 極右の台頭、フランス議会選挙での最初の流れを報道で見まして、すると今紹介する話題の次はン本の神社仏閣と併せて極右の話題を考えなければならないなあ、と思いつつ静かに七夕のフランス議会決選投票を見ますと極右の失速が凄いことになった。

 極右の失速、記事の話題を考えて掲載の時期を待っている間に対等が失速になってしまって、まるでアクロバット飛行、掲載する順番は決まっているものですから、勇み足で文章だけ作成していたらとんだドン・キホーテぶりをさらすところだった。

 フランスの極右、しかしどうしても、極右というと認識する人物像と国民戦線、最近は国民連合というのですけれども国際連合と字面が日本語の場合は似ているので困惑して国民戦線と読んでしまう、この実物像が日本から見ると、あれでもなのか、と。

 移民規制や国籍取得を日本やスイス並みに強化する、国民戦線時代に国民戦線の創設者マリールペン氏が表明していたものでした、あとは自主防衛、フランスは核兵器国ですから全く不可能とは言い切れない、EU離脱、イギリスがやったやつ。治安強化、など。

 日本並みに強化する、という主張を国民戦線が行っているところを観ましたら、つまり、そういうことなのか、と。無理に多文化共栄を始めますと摩擦を生んでしまう、無理のないように、と収斂したのが日本、同じことを言えば極右扱いがフランスなのか。

 少子高齢化と呼ばれる時代に、今後ますます外国人材や移民の議論が広まってゆき、此処で無理な多文化共生を行った場合には今後日本で極右思想が、と危惧しかけたところに多数の小学生の社会見学の行列が続き、早計なのかなと少しだけ安堵した次第です。

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【京都幕間旅情】藤森神社-紫陽花祭,神功皇后三韓征伐戦勝記念し造営の社殿は子供たちの活気に包まれる

2024-07-10 20:00:53 | 写真
■藤森神社-紫陽花祭
 梅雨時の晴れ間と云いますか曇天の中をちょっとだけ空き時間と併せて京阪電車に乗りまして藤森神社へ。

 紫陽花祭があるということで、ちょっとお邪魔しました。近所の方はうどん無料券が配布されているという事で、興味があったのですが、うどん云々は別として学区の小学校から紫陽花見学に社会見学が延々続いていて、活気が心地よい季節になったものだ。

 藤森神社、伏見区深草鳥居崎町の、というよりも京阪本線の藤森駅がありますので、だいたいこのあたりかなあ、という事は分かってもらえるような一角で、神社仏閣は意外遠いのですが、多くが鳥羽伏見の戦いで戦災に遭った為、新しい社殿が多い一角で。

 鳥羽伏見の戦いの主戦場からは、何しろその名の通りの鳥羽街道駅も近いのですが、本殿は中御門天皇より下賜された御所の賢所が使われているという、つまりこの一角が鳥羽伏見の戦いの戦災を免れたところであるわけで、長いながい参道は心休まる。

 蒙古塚、しかし心休まるとは表現したものの、これは子供の頃の強烈な印象というのが何十年も人生観に影響するものなのだという一つの例でしょうが、境内に蒙古塚というのがあって、此処の事だと思うけれども、此処と、そして東山の将軍塚は苦手なのだ。

 白山神社なんかも、京都の中京にある白山神社はそうでもないのにほかの白山神社、加賀の白山神社も含めて近づきますと若干頭痛がしたりしまして、この地域は苦手意識があります。蛇の神話への苦手意識なのか、これは大昔、泉鏡花を読んで漸く理解して。

 蛇の信仰というのは要するに山間部の水害の歴史と重なる部分がありますから、夜道に山沿いの道を通って空気の気温の境界がうっと来て、これ、知らない人は心霊現象と勘違いするのだろうけれども、水害の多い地形は温度層の違いがあるのだろうなあ、と。

 三韓征伐、泉鏡花は海神別荘を読んでようやく白山の歴史へ片鱗をつかんだのですがこれは閑話休題、そもそもこの藤森神社というのは神功皇后の三韓征伐戦勝を記念して造営したものといいまして、その創建は神功皇后摂政3年こと西暦203年に遡るという。

 伏見稲荷大社が近い藤森神社ですが、歴史的には三韓征伐が先である通り、伏見稲荷大社は後に来た社殿であり、実際氏子衆は伏見稲荷大社の周りにも居住し神幸祭では武者行列が神輿と共に伏見稲荷大社付近を練り歩き、神輿は伏見稲荷大社の境内に入る。

 武装して伏見稲荷大社に入れるのはウチくらいやで、どや?とは友人の一人の言うところ。申し訳ないが陸自迷彩に89式小銃のエアガンと鉄帽に戦闘防弾チョッキの冷却パッド入りレプリカでは参加できないという事なので、丁重に辞退した訳なのですが。

 蒙古塚、というのは怖いなあ、という印象を昔もった、実際鉄製の武者人形まで置かれていて、初めて行ったのは夕刻だったような気もするが忘れてしまったなあ、ここ、あまり、というよりも苦手、という認識ができてしまったのは前述のとおりですが。

 神功皇后の三韓征伐に由来があって、日露戦争戦勝の記念碑やいろいろなものが鎮座しているものですから、ちょっと、多感な時期に行ってしまったのがそういう印象を受けたのかもしれない。ただ、令和時代の多様化の時代でも大切にされている社殿です。

 多様化が行き過ぎますと、いまでは靖国神社が不逞中国人によりスプレー落書きされた事件がありましたが、こういう歴史を湛えた神社でさえも標的にされてしまうのかなあ、と危惧するのは考え過ぎなのか、考えない事こそ平和ボケということなのか、と。

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【京都幕間旅情】頂法寺六角堂,聖徳太子持仏奉じた寺院は山城大飢饉救済経て町衆慕われる町堂へ

2024-06-19 20:22:45 | 写真
■聖徳太子と親鸞さん
 京都散歩は意外なほど多くの人々との歴史に描かれた行程を結びつけるものと毎回感慨深いのですが。

 聖徳太子の持仏を奉じたという六角堂、この持仏は如意輪観音像というもので、残念ながら秘仏となっています。浜辺に仏像が漂着するなんて見たことが無い、といわれるかもしれませんが、仏教草創期は元々からの州境と対立する事が多かったわけで。

 仏像はよく川や海に対抗する宗教から捨てられていて、木製の仏像は浮力があるものも存在済ますから、その生流れ着いた、というのは幾つかのお寺で所縁というものをお教えいただいたことがありまして、放流していたやつがいるならば漂着もあるだろう。

 平安遷都の頃には、六角堂は区画整理の対象にならないように自ら動いて大路に道を譲った、といわれるのですけれども、能登半島地震の側方流動が実際に起こり報道で目にしますと、動くこともあるのかなあ、と思いつつ、平安遷都後の造営はのではとも。

 寺院が周りにないことは前述の通りなのですが、故に拝観の方は多いものの観光ルートから外れていることで煩いようなことはあまり感じない、そして今はビル群の中にある寺院という風情なのですが、平安朝から鎌倉時代にかけては下町の只中にあった。

 清水寺と石山寺と長谷寺、鎌倉時代までに下町にありましたこの頂法寺は清水寺と石山寺と長谷寺と並ぶ観音霊場であったといいまして、既に庶民信仰はもとより僧侶の間でも有名となっていました、そして、特にかの親鸞さんがここに籠った事でも有名で。

 範宴、のちの親鸞さんは延暦寺の堂僧であったころ、建仁元年こと西暦1201年に六角堂で百日間参籠という修業を積んでいまして、これは当時京都で影響力を示し始めていました法然さんの浄土宗について、なかなか考えがまとまらず参籠したのだ、と。

 法然さんに帰依する事となった、もともとは範宴は延暦寺にて浄土宗という専修念仏が急速に影響力を伸ばしているために、その実情を調べてくるようにと命じられた先の帰依、という実情があるようですが、その際に考えをまとめたのが頂法寺、という。

 祇園祭がまもなく始まる季節ですが、室町時代にはこの頂法寺が山鉾巡行の順番を定めるくじ引きを行った場所といいまして、下町に位置することから集会所として、騒擾の時は民兵の集合場所に用いられるなど、暖かい話から血なまぐさい話まで。

 足利義政、このかたは室町将軍ながら権力集中を避けるために実験を与えられなかったことで結果的に応仁の乱がおこることとなってしまう悲劇の将軍であり、また銀閣寺たてたことで有名になったりした方なのですが、足利義政が民衆救済を行った場でも。

 山城大飢饉という寛正2年こと西暦1461年の大飢饉に際し幕府が粥施行という無料の食糧配給所を設置したのがこの頂法寺で、この施行はこのまま応仁の乱と共に京都が荒廃する中、町堂という下町の自治活動における中心地となっていった歴史もある。

 多聞院、不動院、住心院、愛染院、中世の時代には複数の塔頭寺院がありましたがいずれも現存せず、しかし町衆に慕われた寺院という事で過去18回もの火災に見舞われているものの、その都度町衆の支援を受け復興され今日に至る寺院となっていて。

 歴史散策というには、今現代こそ千年後には歴史だ、と言われる通り、世の中も価値観も変容し続けているところではあるのですが、こうした中に抗うというよりもゆっくりと佇む頂法寺の堂宇は、なにかこう、探訪を繰り返してしまうものなのですね。

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【京都幕間旅情】頂法寺六角堂,京都の街中に聖徳太子と小野妹子の四天王寺造営にまつわる歴史

2024-06-19 20:00:58 | 写真
■六角堂探訪記
 嗚呼暑いとおもいつつ梅雨入りの時は梅雨入りの時で嗚呼湿いと嘆くのだろうなあと今の時点で思うが晴天は散策に活用したい。

 頂法寺、このお寺は京都の本当に中心部にあって、観光客にはあまり親しみはわかないかもしれないけれども京都では若い頃から思い出に残る場所である、何故なら隣に河合塾があって若者本来の野心を大学受験にぶつける場への通り道にあるから。

 本堂に受験生らしきかたの団体がお参りに来ているのを見ましたけれども、駿台とかいろいろあるのにとおもいつつ、神社の様な柏手を叩く参拝作法で詣でていまして、いやここはお寺、天台宗系単立寺院なのよ、とほほ笑んだのはちょっとまえのはなし。

 六角堂、まあ前述の河合塾は半分冗談としましてもここ頂法寺は通称六角堂という事で、地下鉄烏丸御池駅にもほど近く、ビルに囲まれた一角に、しかし歴史だけはもう滔々とというほどに連綿と湛えている独特の形状の堂宇とともに記憶に残る。

 記憶に残るといいますか、散策の際にふと立ち寄る、という風情がありまして、建物は相次ぐ火災により現存するものは明治時代初期に再建されたものなのですけれども、近くに喫茶店もいくつかありまして、ちょっと立ち寄りたくはなるときがあるのだ。

 XXXHOLiCのユーコさんのミセというか家に似ているね、と知人に言われまして、なるほど建物ん形状は全く違うけれども高いビルに囲まれてそこだけ時間は穏やかに流れているような気分になるのは、と、2000年代初頭の作品話題で意気投合したことも。

 この世に偶然なんてない-あるのは必然だけ、とはXXXHOLiCの主人公たる壱原侑子さんの台詞なのですけれども、必然かは別として烏丸かいわいを散策していますとここ六角堂は前を通ることも相応に多く、いや京都の街の成り立ちとも深くかかわっていて。

 中京区六角通東洞院西入堂之前町、この一角は、二条通りまで出て15分ほど歩けば二条城が見えてきますし、四条通まで下って30分ほど歩けば八坂神社が見えてくる、烏丸通を45分ほど歩けば東本願寺が見えるのですが、この周りに寺院はというと。

 用明天皇2年こと西暦587年に創建となったといい、平安遷都よりもはるか前から存在していたこととなります。もっとも昭和中期の発掘調査では飛鳥時代の遺物は発見されず、藤原道長の御堂関白記にはその名が記され、平安朝中期ごろの創建と言われる。

 天台宗系寺院なのですが、もともとのいわれは敏達天皇の時代に海岸に漂着していた仏像を聖徳太子がひろい、これを持仏像とした。この持仏像に戦勝祈願を行い物部守屋討伐に臨んだところ見事勝利し、その功徳に感謝し四天王寺を造営することとした。

 四天王寺建立のための木材を探し小野妹子とともに当地を訪れた際に近くの池で聖徳太子が水浴びをしていたところ、持仏像がその場所から動かなくなり、その再偶然出会った老師風の翁からここに寺院を造営する事を進められたのがこの寺院の始まり。

 聖徳太子が水浴びしたという池は、人工のいかにもというかたちにはなってしまっているのですけれども、堂宇に隣接して現存していまして、聖徳太子さんは水浴びしていませんが、この暑いこの頃となりますと鳩さんや烏さんが水浴びしていたりする。

 堂宇が六角となっていますのは、その老師風の翁より寺院に相応しい銘木の場所を教えられ、四天王寺の建材とするとともにこの場所に堂宇を組む際、組み木が微妙に絡み合ったことで六角形の独特の形状となった為、それを本堂にした、ということでした。

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【京都幕間旅情】上賀茂神社-賀茂競馬,上賀茂競馬会図屏風や賀茂葵競馬図屏風などの屏風絵

2024-06-12 20:24:21 | 写真
■祭事神事はいつの時代も
 賀茂競馬の歴史を紐解いてみましょう。

 賀茂別雷神社、賀茂競馬の神事を執り行いますのは北区の上賀茂神社です。上賀茂神社は京都屈指の歴史を誇る社殿でありまして、いやその社殿は式年遷宮を幾度も経て常に新しく静謐さを保つために実のところその古さは社殿というより社伝なのですが。

 上賀茂神社は賀茂別雷大神を祀る社殿で、そのはじまりは神武天皇の時代に神山といういまはご神体となっています山の山麓は御阿礼所に神武天皇の実父とされる神話上の神、賀茂別雷大神が降臨したという奇跡を受けて造営された神社といわれています。

 皇城鎮護の神社という位置づけの社殿なのですが、賀茂別雷大神は航続守護という信仰の先に賀茂別雷大神には雷という一文字を冠していますことから天候の、その先の信仰としまして農業守護という崇敬を集めることとなりまして今日に至るのですが。

 五穀成就、この賀茂競馬もこうした農業振興から執り行われているものでして、これは単純に騎馬の速度を競うのではなく、騎馬同士の離隔がどのように開くかにより、勝敗というよりも吉祥の度合いを競っているのがこの賀茂競馬というものといいまして。

 神馬、そう上賀茂神社ではこの賀茂競馬の神事が執り行われます砂州の参道に、神事が行われないときにも馬宿がおかれていまして、常にご神馬を常駐出来ない故に実物大模型が置かれているのですけれども、いかにこの神事が重視されているのかがわかります。

 撮影に際してはその迫力を縦横無尽に記録するためには、横から流し撮りという方法も考えましたが相手は戦車や装甲車ではなく上下にも動く騎馬ですので流し撮りは意外と難しく、それならばと土煙と共に迫る構図を撮影することとして撮影位置を選ぶ。

 宮中武徳殿で執り行われた、天下泰平祈念の節会として競馬会式を平安朝の時代には毎年御所において執り行っていたということですが、寛治7年こと西暦1093年、宮中からその神事の場を上賀茂神社に移したことが賀茂競馬の始まりとされています。

 賀茂競馬は当初は一時的な宮中からの遷座というような扱いであったとも聞くのですが、そののちに上賀茂神社の年中行事として定着することとなりました。もっとも、戦後GHQにゴルフ場として接収されるまで当時の神域は今よりも遥かに広かった。

 初詣などで上賀茂神社に詣でますと、純白の御白砂が社殿に向けて滔々たる流れを模すように伸びているのですけれども、これがかつては下鴨神社の糺の森のような長大な長さを湛えていたということですので、往時の神事はさぞ迫力のあったことでしょう。

 徒然草、吉田兼好はその第四十一段に賀茂競馬について、“五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざり”と記していまして、そう徒然草が著された時代にはもう、いまのように、全然見えないよ、的な状態であったことに驚く。

 平安朝の時代には今のように脚立から望遠レンズで一眼レフを振り回すというようなことは当然なく、貴人は牛車を路駐して御簾の向こうから、奇人は家屋の屋根に上り、商売人は桟敷席を立ち上げて庶民は道端から見物していたといいます。

 上賀茂競馬会図屏風や賀茂葵競馬図屏風などの屏風絵にもその様子は残されていまして、これは江戸時代における京都の歴史風俗を示す重要な文化財として位置づけられています。ただ総じて思うのは、何時の時代も祭事を見物する人の多さ、という。

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【京都幕間旅情】上賀茂神社-賀茂競馬,写真は自由でありたいとカメラを構え想う

2024-06-12 20:00:36 | 写真
■AI時代の写真撮影
 閑話休題的に。

 写真を撮影する際に一眼レフかミラーレス一眼か、という時代は実のところもう終わっている印象で、スマートフォンかカメラか、という時代になっているもの。スマートフォンは、そう、iPhoneに絶大な信頼を置いているのですが撮影はわたしはカメラを。

 iPhoneが信頼できると思いましたのは、過去にアメリカの刑事事件でFBIがApple社に対しロック解除を命令したものの、Apple社は使用者以外ロック解除は出来ない、バックドアはない、と主張し実際そうだったようで、FBIは一年かけ独自に解除した、と。

 個人情報保護の時代に、こうした元々バックドアを配置しない方法、中国ですと違法になりそうですが、感心したものです、けれども実際のところ、ほかのスマートフォンよりも格段に頑丈で性能が安定していて、10年、とはいかずとも8年9年は使える。

 EOS-MかEOSか、という話題ではなく時代はEOSかiPhoneか、もちろんスマホは色々騎手があるのですことは了承している一方、被写体には平たいスマートフォンを向けるのかカメラの筒先を向けるのか、というところまで、選択肢は転換しているようで。

 AI搭載、ただ昨今どうしても気になるのはNHK報道などで“iPhoneに生成AI”という報道がありまして、大丈夫なのかな、という素朴な疑問が。AIに監視される、というような安易な話題ではないのですが、AI補正が更にきつくなってしまうのではないか、と。

 写真、スマートフォンの撮影写真はある程度補正されているもの、だからJPEGで補正するよりも最初から見栄えの良い画像が、という点は理解するのですが、細部を拡大してみますと補正で画像が逆に粗くなったり、無いものや文字が文字化けしていて。

 OCR技術がAIで高まるとか撮影位置のGPS情報から景色をWeb検索して細部の文字まで補正時に再現するとか、そういう性能が加わるのかもしれませんが、それは写真ではなく絵ではないのか、という、上掲と写真に拘りを持つ側として懸念するのですね。

 合成写真が作りやすくなる、こういう点もAIについて利点というよりも欠点と思う。AIを使えば例えば、たとえ話ですが、預言者に好き勝手な自分の考えを代弁させることができるのでしょうが回教国でこれをやれば鞭打ち刑ではすまないかもしれません。

 AI搭載のスマートフォンは、こんな合成写真を創れます、とお勧めしてくる機能が搭載されますと、例えば故人とか、勝手に画像を捏造されたくない心の内部までAIが入ってくる可能性がある、AIは空気を読む性能がまだありませんし、この点未発達そのもの。

 人工知能と人工学習というものはありますが、社会性の動物である人間は、忘れることを敢えて社会の潤滑剤にしているものでもある、しかしここをAIは学ぶところがありませんし、空気を読む、と日本では表現されますが摩擦の回避への本能もAIは至らない。

 コラージュ写真、結局のところスマートフォンで撮影することにより、そのスマートフォンにAIが搭載されますと、コラージュ写真が基本になってしまうということ、その点でデジタルでは複製が容易ですし、AIは無尽蔵に作成し続ける事さえ可能という。

 AI反対、という訳では無いのですが、一方でこれが撮影の基本となってゆきますと、今でさえコンパクトデジタルカメラは中級機種がスマートフォンに市場荒らされ絶滅しかけている、カメラの領域にAI搭載機が居座り置き換わるのが、ちょっと不安なのです。

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