■京都に凝縮された日本
梅の満開の話題は次からというちょっと旬が遅れて話題を紹介しますのがこのWeblogとなっています。

季節の京都を紹介したいという北大路機関ですけれども、一つの寺院や社殿をじっくりと紹介しますのでどうしても撮影してから記事を作成して掲載するまでは、一週間以上かかってしまうというところでして、旬を外すこともあるのですが、さて。

YOUTUBEなどで中継している方が居るのはよくはためにしているのですが、あれはその場で中継できると云うことですから旬を外すことが無くて好いのだなあ、と思う一方、北大路機関としては写真と文章を一つの個性としたい変なこだわりがあって。

京都を紹介したい、というのは、日本の変な部分、会議が長い背景とか、前例踏襲の背景とか、年長者の横暴という背景とか、外圧に弱い背景とか、よそ者に対する閉鎖的な背景とか、弱くなった方を叩く背景とか、逃げ足の速さの背景とか。

歴史と価値観と文化の形成にあって京都には背景となるものが数多くあります、ですから、伽藍がでっかくてスッゲー、というような意識ではなく、この伽藍や社殿を伝え続けた歴史的背景から何かを読み取れれば、というものが主題なのですよね。

北野天満宮の歴史というものは幾つもあるのですが、最も大きいのは菅原道真公を配流ののちに頓死させてしまったという歴史ののちに、自分の行いは後ろめたさを感じた場合に、逆に追い詰められた際に心理的な不易というものがあるという。

清涼殿落雷事件などは、普通に考えれば落雷だ、といえるところ、ただ、清涼殿、つまり宮中に落雷があることは過去に無かったと云うし、高雄山の方角から雷雲がやってきたということで、これは重大な事案だ、と受け止められるようなっ田という。

高雄の神護寺は京都を守る和気清麻呂の氏寺だったということで、皇室守護として崇敬されている和気清麻呂が雷雲の御所に迫るところを防がなかったと云うことで、これは祟りらしい、と更に思い詰める背景になったとされています。

神護寺、落雷は醍醐天皇の目の前に落ちて歩いていた女官がそのまま立ち姿で黒焦げになったり、廊下を走った雷が離れた貴人たちを襲った、こういう事情があって、これこそ菅原道真の祟りに違いない、と社殿を造営した、こんな歴史なのです。

醍醐天皇は目の前でこんな出来事があったのは相当ショックであったようで、ショックから引きこもりになってしまった三ヶ月後に崩御したという。そして落雷の死傷者の衝撃は宮城に穢れをもちこまないという習慣からも衝撃となった。

菅原道真公を奉った社殿というのは、じつは北野天満宮造営前に洛中洛外に幾つも造営されていて、ここまで鎮撫慰霊したのだから大丈夫だろう、とおもった矢先に落雷があったのだから、ひときわ大きなこの社殿を造営したという。

Twitter、いやいまはXという名に慣れなければならないのか、一枚二枚の写真と短歌俳句くらいの長さの文章で共感を得ている投稿が出来る方々に、ちょっとその才能が羨ましいなあ、と思いつつ、北大路機関はそのままやってゆくしかない、と。

梅花の京都、さてそろそろ梅花の季節は終わりつつあります、それは桜の季節が到来することを意味していますが、あと十日ほどしますと見頃を迎えるのでしょうか、その話題を、多少時間はかかっても、紹介してゆきたいところなのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
梅の満開の話題は次からというちょっと旬が遅れて話題を紹介しますのがこのWeblogとなっています。

季節の京都を紹介したいという北大路機関ですけれども、一つの寺院や社殿をじっくりと紹介しますのでどうしても撮影してから記事を作成して掲載するまでは、一週間以上かかってしまうというところでして、旬を外すこともあるのですが、さて。

YOUTUBEなどで中継している方が居るのはよくはためにしているのですが、あれはその場で中継できると云うことですから旬を外すことが無くて好いのだなあ、と思う一方、北大路機関としては写真と文章を一つの個性としたい変なこだわりがあって。

京都を紹介したい、というのは、日本の変な部分、会議が長い背景とか、前例踏襲の背景とか、年長者の横暴という背景とか、外圧に弱い背景とか、よそ者に対する閉鎖的な背景とか、弱くなった方を叩く背景とか、逃げ足の速さの背景とか。

歴史と価値観と文化の形成にあって京都には背景となるものが数多くあります、ですから、伽藍がでっかくてスッゲー、というような意識ではなく、この伽藍や社殿を伝え続けた歴史的背景から何かを読み取れれば、というものが主題なのですよね。

北野天満宮の歴史というものは幾つもあるのですが、最も大きいのは菅原道真公を配流ののちに頓死させてしまったという歴史ののちに、自分の行いは後ろめたさを感じた場合に、逆に追い詰められた際に心理的な不易というものがあるという。

清涼殿落雷事件などは、普通に考えれば落雷だ、といえるところ、ただ、清涼殿、つまり宮中に落雷があることは過去に無かったと云うし、高雄山の方角から雷雲がやってきたということで、これは重大な事案だ、と受け止められるようなっ田という。

高雄の神護寺は京都を守る和気清麻呂の氏寺だったということで、皇室守護として崇敬されている和気清麻呂が雷雲の御所に迫るところを防がなかったと云うことで、これは祟りらしい、と更に思い詰める背景になったとされています。

神護寺、落雷は醍醐天皇の目の前に落ちて歩いていた女官がそのまま立ち姿で黒焦げになったり、廊下を走った雷が離れた貴人たちを襲った、こういう事情があって、これこそ菅原道真の祟りに違いない、と社殿を造営した、こんな歴史なのです。

醍醐天皇は目の前でこんな出来事があったのは相当ショックであったようで、ショックから引きこもりになってしまった三ヶ月後に崩御したという。そして落雷の死傷者の衝撃は宮城に穢れをもちこまないという習慣からも衝撃となった。

菅原道真公を奉った社殿というのは、じつは北野天満宮造営前に洛中洛外に幾つも造営されていて、ここまで鎮撫慰霊したのだから大丈夫だろう、とおもった矢先に落雷があったのだから、ひときわ大きなこの社殿を造営したという。

Twitter、いやいまはXという名に慣れなければならないのか、一枚二枚の写真と短歌俳句くらいの長さの文章で共感を得ている投稿が出来る方々に、ちょっとその才能が羨ましいなあ、と思いつつ、北大路機関はそのままやってゆくしかない、と。

梅花の京都、さてそろそろ梅花の季節は終わりつつあります、それは桜の季節が到来することを意味していますが、あと十日ほどしますと見頃を迎えるのでしょうか、その話題を、多少時間はかかっても、紹介してゆきたいところなのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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