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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】東寺,平安遷都時代からの古刹伽藍を見上げつつ考えるのは当面の課題

2025-06-18 20:00:11 | 写真
■北大路機関移転準備
東寺に行って参りましたのでその写真の紹介と共にgooブログ終了前の移転準備などについてのわだいを。

Weblog移転準備、北大路機関では現在進行中の移転準備について中間報告を。業者はつかわないつもりですが、移転先に移転できないデータの保存作業と万一の際のバックアップの作成に時間を要しているという段階です。

コメント機能について。移転先の北大路機関にもコメントの機能はあります、が、Gooブログとocnブログ時代に頂きましたコメントが全部消滅する事となりますので、これをバックアップで保存する作業が現在進行中です。

Gooブログとocnブログ時代に頂きましたコメントは決して少ないものではなく、また、コメント欄で補足してもらって、その上で記事全体の相互のファクトチェックの一助とするのがWeblogですので、なんとか保存したいもの。

コメントを移転先にもってゆく事は出来ませんが、“こういうコメントがあった”という記事を作成する事は出来ます、いますぐに移転してしまいますと、そのまま消滅してしまうデータですので、ぎりぎりになっても確実に保存したい。

Weblogそのもののバックアップデータですが、なにしろ写真データが多い。これ、移転用のデータ化ではなく、写真ごとコピーしているのですが、HTMLデータとして保存した場合でも、写真データと連接できない為、そのままでは無理で。

記事データは、どの写真がどの記事の何番に、という記録を含めて、Weblogは自分でデータをHTML化せずとも、ここに写真を載せて、という自動化により楽に記事を作成できる一方、移転する際のデータが大きいことの弊害が表れている。

移転作業に専念できればいいのですが、時間は有限で、第三北大路機関として将来独自運用するであろう創作サイトに14000字の話題を毎週二回か三回かと掲載していますので、その作業と、余暇の時間はそれで目いっぱいという最中で。

記事について。先行して移転した方の話として2024年と2023年の記事までしか移転できなかったので、それ以前の十数年分の記事は消去になります、というような話題を見まして、こういうことにはならないようにしたいなあ。

OCNブログ時代から有料ブログサービスを利用していますので、掲載できる写真データの大きさに余裕があり、そのために毎回一定枚数を掲載している、だからブログデータそのものが重い、簡単にこれを移動できるのか、という懸念がある。

バックアップはまさにここに備える為であり、最悪の場合は文字データだけでもしっかりと移動したいのだ、という。それはブログサービスというもの全体は既に斜陽の下り坂ですので、その先に、ブログサービスが全て終了した先も見越して。

gooブログへのOCNブログからの移転に際して、トラックバックデータは引き継げませんでしたし、また、一定文字数以上の記事は規定超過分が全て消去されているため、東日本大震災自衛隊災害派遣備忘録などはかなりが消えています。

東日本大震災災害派遣記録などは、大本が公的データですので原本を記録しているものとは考えるのですが、まあ、似たようなことがこのここにしか掲載されていない記事において発生する事の無いよう、時間はかかっても慎重に記録している。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
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【京都幕間旅情】岡崎神社,高倉天皇の時代うさぎの神社の安産多産の御利益と後醍醐天皇時代の再建

2025-06-11 20:25:07 | 写真
■うさぎの神社
京都散歩はこういう歴史や文化や価値観との巡り合いがある。

岡崎神社、うさぎの迎える神社なのですが、うさぎといえば多産、まあ、いぬもそんな感じだと思うのだけれども、多産の神社という、少子高齢化の時代に有っては重要なご利益があります、それ考えるとアニメの聖地にするのは難しいことはわかるが。

高倉天皇の時代、うさぎの神社の安産多産の御利益というものはそう、歴史的な背景がありまして、治承2年こと西暦1178年、高倉天皇の祈願を受ける祈願所となっています。中宮徳子の御産の幣帛をここでおこなったということですね。

中宮徳子、最近ですと2022年に平家物語がアニメーション化されました際に有名となりましたけれど、御産の幣帛という吉事ありましたゆえにこの社殿は、安産の神として信仰されるということになりました。建礼門院さんのはなしは、またあらためてしよう。

平安朝の時代、寺社がその勢力を維持するというものは簡単ではありませんので、それこそ明治以降、廃仏毀釈と太平洋戦争を乗り越えると、そう簡単には寺社は無くなることは、とおもうところですが地方都市に行きますとそういうところは案外多い。

建礼門院さんの時代を経まして、歴史がある神社と桓武天皇に高倉天皇という義務教育の社会科や古典古文で聞く名前が関わりましても、当時としてはそういう認識がありませんので、歴史の表舞台から去るとともに、やはり荒廃してしまったらしい。

後醍醐天皇、社殿によれば元応元年こと西暦1319年に後醍醐天皇が社殿を再建することとなりまして、そのさいに正一位の神階と神宝を賜っています。後醍醐天皇は鎌倉時代末期に在って、王朝文化の復興に尽力した事が洛中の建物によくわかりますが。

建武の新政、後醍醐天皇は鎌倉幕府滅亡後に王政復古を行いました結果、当時の国内情勢や危機的状況にいきなり平安朝の政治機構を再編するという無茶を行いまして、結果的に国政が危機的な状況となり、権威は重要ですが度を超すと悪くなる一例に。

後醍醐天皇により再建、京都ではいくつか見えまして、鎌倉幕府牽制のために権威を示すためという目的もあったのでしょうけれども、建武の新政を始めた以降は県政の目的が無くなったにもかかわらず継続し財政が悪化、結果、まあ、足利尊氏と対立する。

祭礼はじめ、そこまでお金かけてやる必要があるのか、というものに費用を掛け過ぎて後々苦労する、という日本ならではの風習はありますが、このあたり建武の新政に見出すこともできるのでしょうか、一寸言い過ぎなきもするのですけれど。

岡崎神社の復興をこういう視点で見ることはよくないのかもしれませんが、結果的に北朝と南朝に日本が分断される事となりまして、そしてその前に再建しました社殿も、室町時代中期の応仁の乱の戦火に見舞われ東光寺が焼失、神社のみが残るのみ。

京都十六社の一座をしめますこの神社は、明治時代に郷社に列せられています。社殿がいつごろのものなのか、ちょっと調べただけでは判明しなかったのですが、1934年室戸台風により拝殿が倒壊しているという記録があり、拝殿はそれ以降のものとわかる。

太平記のような話まで出てしまったところですけれども、岡崎神社には京都の歴史を凝縮したようなものが散見される、そういう一例をみることができます。かわいらしいウサギの迎える神社、参拝し歴史を振り返りますと深いものが見えてくるのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】岡崎神社,うさぎが敬礼するように並ぶ社殿は清和天皇が貞観11年こと西暦869年に造営した神社

2025-06-11 20:00:23 | 写真
■岡崎神社
岡崎神社さんさくのわだい。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続、アニメ聖地巡礼ということに図らずもなってしまいましたこの岡崎神社、近くに金戒光明寺が鎮座して、主人公がここの名をかっこういい、こう述懐していましたので、ここになったのか。

うさぎが敬礼するように並ぶ社殿は、此処を目的に京都へ、というには毎年十月の氏子大祭とか、日を決めて参拝してもらった方が、という静けさと規模ではあるのですが、京都を散策する際にひとつ参拝、というにはみどりあふれています。

清和天皇が貞観11年こと西暦869年に造営した神社、岡崎神社はその歴史はもともと方位神をまつる平安遷都の頃の社殿という歴史があったのですが、貞観年間という日本市場、最も災害が多発した時代に新しい役割を求められたという経緯が。

播磨国廣峯より祭神牛頭天王、素盞鳴尊を迎えたという、何かこの流れは八坂神社を思い出す様な始まりがありまして、もともとの方位神の社殿はそのころ東光寺という寺院になっていたようですが、そこの鎮守社として祀られたということでした。

貞観年間、日本沈没の読者の方でしたら、古富士噴火という貞観年間の史上最大規模の噴火を思い出される事でしょうが、2011年以降ですと、千年前の東日本大震災としてマグニチュード9クラスの地震であったとされる貞観三陸地震も発災している。

古都古都とコトコトいわれます京都ですが、京都という名の通り首府である歴史が長かったものですから、その入れ替わりは、いまの東京ほど早くなくとも時代と共に移ろいはありまして、新しい役割をもとめられないと社殿というのは継がれない。

仁和地震として、仁和年間の西暦887年に千年前の南海トラフ巨大地震が起きていますので、岡崎神社で安泰だったかと言われればそうではなかったというのが歴史の不思議なところなのですが、まあ、日本というのはもともと災害の多い立地ゆえ。

日本人って定義は何なのか、とニッポン民族とかコクスイ主義とかまあそういった右がかった論議を抜きに考えますと、個人的な考えで地震雷火事親父、水爆数千発分のエネルギーを持つ巨大地震が定期的に起こり、水爆数百発分の地震は日常茶飯事に。

日本人の定義は巨大地震に大地震に地震列島と稀有な規模で北半球が終わる様な巨大火山噴火の可能性を構えて毎年の風物詩のように巨大な台風と熱波に寒波に水不足と土砂災害に竜巻、こういう国土に愛着を以て住めるならば、それが日本人なのだろう。

災害は調べれば調べるほど、愛着が無ければ住めないぞ、というほどに物凄い災害はやってきますが、こと有史以来巨大カルデラ噴火は無いものの、調べれば最大規模の噴火を起こせば氷河期を起こしそうな火山も両手で数えられないほどありましゆえ。

祈りと願い、ではないですが、鞍馬さんはともかく例えば榛名さん、いや榛名山もカルデラ噴火を起こせば氷河期は来ないものの火山泥流は東京を廃都に追い込むほどの噴火を引き起こすものですので、こう、もう、神社に祈るほかないという背景は。

火之迦具土神、火山の神様も京都では愛宕神社にまつられていまして、火之迦具土神は榛名神社の祭神でもありますが、護衛艦はるな、護衛艦あたご、こう思い出しますと辺に繋がる様に思えてしまうが、岡崎神社は素戔嗚さんをまつっている。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】岡崎神社,気づけば聖地巡礼それが京都-やはり俺の青春ラブコメは間違っている聖地巡礼

2025-06-04 20:25:30 | 写真
■岡崎神社
京都では気付けば聖地巡礼という事が意外と多い。さっき東映YOUTUBEで赤影11話を視聴して東福寺が出てきて驚いたぞロケさせてくれたんだ。

岡崎神社、聖地巡礼、という訳ではないのですがこの神社は、“やはり俺の青春ラブコメは間違っている”の第二期、修学旅行編で一行が逗留しましたホテルに隣接した神社でして、その様子はアニメの作中に出ていまして、ここか、とおもったものでした。

京都を舞台にしました作品は、まあ、であいもん、いなりこんこん恋いろは、筆頭に幾つもあるのですけれども、ああここ北大路機関根拠地だ、とか北区図書館だとか、分かるところもある一方、あまり強調し過ぎるとかえって薄まるのだなあ、と。

聖地巡礼、京都の聖地巡礼といいますともうこの裏手の金戒光明寺とか、そのもの文字通りの聖地となっていますので、本質的な意味での聖地巡礼が可能なのですけれども、今回は少し軽い方の聖地巡礼について。

通過するにはちょっと惜しい、こういう歴史がある神社は数多ありまして、いやそれだからこそ京都散歩というのは、京都観光を超えた日常に登らないと有名どころにおわり、奥座敷まで楽しめないということにもつながるのですけれども。

左京区岡崎東天王町、この社殿は始まりを見ますと記念すべき延暦13年こと西暦794年の桓武天皇平安京遷都に際しまして、王城鎮護のため平安京の四方に祀った方位神という大将軍社の一つとされています。

社殿は新しいものですが、ここが京都市内なのだ、というほどには緑あふれる様子に、首府として機能していた時代は長いのだけれども、その間も含めてこの国は杜の国であったのだなあ、というほどには緑に満ち溢れているもの。

千年単位の歴史を持つ神社は、社殿が古ければ、特に神社は寺院程おおきな伽藍を必要としませんので、全国を見れがかなりの数に上ります、ただ、祭礼含めてそうした神社が少し歩けば点在しているという意味で、京都は不思議なところがある。

都の東に鎮座するころから東天王と称されていまして、ただ、当地はむかし、といいますか創建の頃にこのあたり一帯、うさぎが多かったようです。故にうさぎをまつる神社ともなっていて。多産のご利益、こう考えると修学旅行生は通過するものなのか。

うさぎの神社、一方でこの神社をウサギという一点から見ていますと、そう通過せずとも可愛らしいものを見られるのだなあ、と思うのです。そして京都というのは昼間よりも、夜の方が社殿など、その造形をしっかり見られるのですから。

清和天皇の時代、日本で最も災害の多かった時代である貞観年間の西暦869年に改めて当地に社殿を造営し、播磨国廣峯から祭神牛頭天王素盞鳴尊を迎えることとなった際、方位神をまつっていた社殿は新しい役割を持つこととなります。

神仏習合の時代、素戔嗚尊を奉じたのは東光寺という寺院でして、この神社はそのまま鎮守社としての意味を持つこととなります、神社は、役割がある限り消えないのですが、単に氏神を祀る神社ですと、祀る側の衰亡が影響してしまいますから。

聖地巡礼は隣のホテルの方だろう、こう思われるかもしれませんが、その通りでして、するとあのローソンは、あのローソンなのか、と気づくような感じです、今度はそのホテルで食事だけでもしてみようかなあ、なんて考えたりもするのですね。
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【京都幕間旅情】光悦寺,POMERA-DM-200はワープロの正統進化のように思えるPOMERA

2025-05-14 20:25:41 | 写真
■芸術の拠点で文章を考える
 人間は考え続けなければ生まれてきた意味が無い。

 光悦寺、芸術の拠点で文章を考える。生成AIとか文章を取り巻く環境はいろいろあるのですけれど、まあ、生成AIは有り体な文章だけを量産する感じで、執筆速度ははやくとも個人的にモノになる文章は全く出してくれませんので様子見としまして。

 POMERA-DM-200,使い始めて半年の話題です。こういう紹介は本来、DM-200買おうかな?と思っている人向けなのかもしれないけれども実質はDM-200は製造終了で現行機種はDM-250だったりする、バッテリーの性能が向上しているというけれど。

 DM-100と比較して機になる点を一つ上げると、電源の立ち上がりが、意外と遅い、4秒から5秒かかって、電源しっかり入ったのかなと思わずに度押ししてしまいそうになる。ものの数秒、といわないでほしい、DM-100は1秒で最初の文字が打てたゆえ。

 1秒と5秒、ガンマンの早撃ちの世界か、と言われるかもしれないけれども、短時間、電車の一瞬や待ち時間にラーメンが出来上がるまでの寸秒など、時間を選ばず書き上げるという選択肢では意外と数秒はストレスになりまして、これは不思議な留意点だ。

 電源の立ち上がりというのは、たたんで収容している段階から、ケースから取り出して画面を開いた瞬間に直ぐ打てるのか、電源は云っているのかどうかという隔靴掻痒で、変な話、自動車のブレーキの反応やハンドルの反応と考えてもらえれば、いい。

 画面が液晶、バックライト付きか単純液晶かということで、これもDM-100とDM-200の大きな違いとなっていて、単純な、電卓のような液晶のDM-100は炎天下の直射日光があたっても文字が見えるけれども、DM-200はモニターとなっているのでここが。

 太陽光で明るすぎるとバックライトをかなり高い輝度で表示する必要が出てきて、これは当然バッテリーの駆動時間にも響く、屋外で使うようになると液晶の構造、DM-100とDM-200でDM-200の難点としてちょっと感じるようになってきました。

 DM-200は据え置き機種として使ってDM-100を持ち歩きに使う、こういう分け方ができればいいのだけれども、DM-100のほうに寿命が来てしまったのだから仕方ないのだという。他方、気づいたのはDM-30など折りたためる機種は全て廃盤ということ。

 DM-10,最初のPOMERAはこの機種でして、これが学生時代に有ったらなあ、こういうほど重宝した、DM-10があれば講義の口述筆記もノートPCのように電源確保に走らなくてよかったし、シンポジウムなどでももっと多くを記録できたように思う。

 DM-30はDM-10の正統進化版といいますか、液晶モニターを折りたためるとともにキーボードも折りたためて、POWERSHOTG1Xコンパクトデジカメ程度には小型化できたのが利点でした、DM-100はSonyのVAIO-Pくらいの大きさだから。

 DM-10は、結局、保存機能が文字化けするようになり、せっかく打った文字が判読不能になったことで、仕方なく用途廃止、その結果、DM-100を、何年間かかなり長期間にわたり使用する事となりましたが、DM-200は後継というよりは別物のように。

 ワープロの正統進化のように思えるPOMERA,寺院を拝観した際にも自由自在に機能するという、ものを書く、描く、そんな人間には重宝する機材なのだけれども、電源と立ち上がりと液晶、なかなか“これぞ決定版”は遠いのだ、こう思いつつPOMERAを仕舞う。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】光悦寺,芸術の拠点で現代の筆こと文字を描く道具について考える

2025-05-14 20:00:14 | 写真
■POMERA-DM-200
 POMERA-DM-200はいまやランチの際にさえおてもと。

 光悦寺、本阿弥光悦の寺院にて雄大な景色と共に、光悦村の芸術家集団というその世界観の広まりに何か描きたくなるという事で、このWeblogの執筆に不可欠な機材、POMERAの話題をというつづきものなのですけれども。

 POMERA-DM-200,電源のもちという点では、高性能化した分だけ消費電力が大きくなるというのは仕方ないことなのですが、単三電池二つで27時間運用できたDM-100と比較しますと、バッテリーアダプターに依存するDM-200は確かに使い勝手が。

 ATOK校正支援機能、これを搭載した事で書きやすくはなったと思う、けれども消費電力が、という。一方、重量が増大した事は痛し痒しです。1g単位で軽量化したいLCC格安航空を利用する際には、鞄から出してポケットにいれたくはなりますが。

 ATOK搭載でバッテリー含め重くなった、ただ、これは重いことは、多少は利点がある。DM-100は軽量でしたので、キーボードをタッチするとカタカタ動いてしまうのですね、動くとキータッチが難しい、それにカタカタと音も気になるのです。

 DM-200の重量感と、あとはDM-100と比較して底面のゴムパット、衝撃吸収用のゴムパットがDM-100は直ぐに外れて消えてしまったのですが、DM-200は一体型でそう簡単に外れないようになっている、この部分は進化した部分と言えるのかもしれません。

 リチウムイオン電池は劣化する、こう表現しますと、いやいや鉛電池の萌芽とか昨今のEV電気自動車のバッテリー劣化事情と重なるような話題となるのですけれど、POMERAについてもあてはまります、特に運用開始半年で思ったバッテリー事情は。

 DM-100の控えに安価な時に新品を購入したDM-200,つまり“自宅時間”“ステイホーム”を箱だしさえしないまま待機していたDM-200は使い始めたのが購入してかなり経た後でしたので、使い始めた時点でかなりバッテリーが劣化していたのかもしれませんが。

 新年度以降というかさくらの季節あたりから、使用開始二時間弱でバッテリーマークが一つ減る、充電完了の後に20時間程度は動いたはずですが、明らかに10時間もたないだろう、という状況になっていて、バッテリーは個人では交換できない一体型で。

 四国とかいろいろ行く機会があった一月は、それほどバッテリーの消耗を気にせず、自宅でフル充電した後は、四国で奈良で大阪でと、長々移動し仕事し撮影する合間にPOMERAを使えていたのですが、先日福岡行ったときは充電が心配だった。

 TypeBのUSBによる充電ですので、コンセントさえあれば充電できる、おそらく携帯式の太陽光発電機、登山用の非常用に使っているもの、これでも充電できるとは思うのですが、乾電池一つ入れ替えれば一週間二週間の交換が不要だったDM-100を比べると。

 バッテリーの問題は、これはもう交換するほかないのですが、電源を気にせず仕えたDM-100か、処理能力と変換能力を手に入れた分だけ電源にひきずられるDM-200と、どちらがいいのかは、ちょっと考える余地があるのかもしれません。

 箱だし新品というか工場出荷は小出し直後ならば数年単位で使えたのだと思う、ただ、予備機種として何かあってもいいように準備していて、使い始めたのが買ってから保証期間を過ぎたあとだと、こういう事もある、という感じのDM-200運用開始でした。

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【京都幕間旅情】光悦寺,江戸時代の芸術一大拠点に想う文章を書くという事と描くという事

2025-05-07 20:25:05 | 写真
■光悦村-芸術家集団
 新緑というものは色々と書き立てるものがあるのだ。

 光悦寺、十界大曼荼羅を奉じる寺院となっています。そして庭園に点在する茶室は古田織部、織田有楽斎、千宗旦とった茶人たちと交流を深めて造営された数かずの茶室、その意向を明治以降に再建したものがならびまして、一部は待合庵が開かれて。

 三巴亭、大虚庵、了寂軒、騎牛庵、自得庵、徳友庵、本阿弥庵、こう幾つも茶室が、広い境内に佇むように点在していますのを傍目に、雄大な鷹峯の風景を見て、そして歩いてゆくわけです。光悦村、芸術家集団、なにかこう、促されるように書きたくなる。

 POMERA,さて本日はこの話題、POMERA-DM200を本格的に使い始めて、半年となりました。その前はPOMERADM-100を使っていまして、ただ、バグが出るようになり、POMERA-DM-10以来、用途廃止、となりました故の交代となった。

 DM-100のバグは、毎回電源を入れるたびに、新しい文書、が立ち上がってしまうので、カフェや寺院やラウンジで執筆していると、珈琲を取りに行く数分で同様の状況、保存していれば文書が消えたわけではないのでもう一度フォルダを探せば早いのですが。

 真っ白な新しい文書が立ち上がる、これは席を立つというよりも、数分間でもキーをタッチしない時間があると自動で電源が消えて、新しい文書が立ち上がると同時に前の文書は消えてしまいますので、保存も保存ボタンがるわけではないので操作は煩雑だ。

 予備役というか、これ、DM-100はメーカー修理に出すにも古い機種となっていますから簡単には修理に出せず、それならばと予め買ってあったDM-200を出します。まあ、DM-200も廃盤でいまはDM-250となっているのですから、DM-100は頑張ったほう。

 POMERAは開いて一秒で文書を掻き始められるというのが利点で、ポケットメモライター、紙とペン、これが最大のライバルという触れ込みなのですから、フォルダを探して開いて数十秒、これを何度もやるというのではPOMERAの意味がありません。

 文書を書く上で、いや発想と共に思い浮かぶ文書が書くというより描くというのが相応しいものなのですが、不思議と思い浮かんだ最良の表現は、強く印象に残ったつもりが書かずに自宅まで持ち帰ろうとすると、発想は胡散霧散していることが実に多く。

 描くように記す、POMERAの利点は定型文ではまとまらない、文字通りの創作活動に向いているといえるのですが、上記の通り、毎回真っ白な何も書いていない文書を出されてしまっては意味がありません、そういう運びにて新しいDM-200の出番となった。

 DM-200,前のDM-100との一番の違いは、・・・、・・・・・・、こういわれると困るところです、形状は似ているが何から何まで違う、まず、安価なプラスチック筐体が、これ金属製なのだろうか、とおもうほど傷がつきにくい樹脂製になった点とか。

 リチウムイオンバッテリー内蔵でDM-100が電池式であったのと比較しますと重くなった、理由はDM-200の演算装置が高性能化しているために、消費電力が大きく、乾電池だと数時間で使い切ってしまう為、という理由ですが、重くなったのはちょっと、ね。

 DM-200はCPUの性能を高めた結果電力を喰うようになった、けれども全くの文字うち装置であったDM-100と比較し、予測変換能力、書いていて単純なタイプミスを気にせず察してくれるという点で、DM-200は進化したPOMERAといえるものでした。

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【京都幕間旅情】光悦寺,鷹峯を望む寺院はゴールデンウィークにも静寂に包まれている

2025-05-07 20:00:15 | 写真
■洛北は静かな寺院にて
 この当たりならそれ程混雑しないとは思っていたけれども誰もいないとは思わな過多。

 光悦寺、静かな寺院にて、実のところ北大路機関の重要な執筆は寺院で、行っているといいたいけれどもそこまで寺院も寛容ではないというか調子に乗り過ぎてはいけないということで踏み込んでは書いていないけれども、着想の場が寺院であったりは、する。

 鷹峯を望む寺院は、数多茶室が点在する風光明媚な場所となっていまして、ここはPOMERとかを持ち込みますと、絶好の執筆場所、といいますか文章が沸き起こる様に生まれてくる、そんな場所なのですね、特に何より人が少ないのだから。

 北区鷹峯光悦町、標高はやや高いところにあるのですが、山門のすぐ目の前まで市バスが運行されていますので、もちろん徒歩で行くことも簡単で、佛教大学の千本北大路から、歩いても30分ほど、45分見ておけば間違いないという近い場所で。

 本阿弥光悦の寺院、光悦寺とは本阿弥光悦さんの寺院であることを示します。あの本法寺にて商家の長男坊という生まれの豊かさを切り離して芸術の道を志したとともに、徳川家康に重用され江戸時代初期を代表する芸術家となりましたのはご存じの通り。

 寛永の三筆の一人ともいわれまして書流光悦流の創始者でもあり、陶芸家としても歴史に名を残し、白楽茶碗の銘“不二山”光悦七種、これは国宝に指定されるとともに数寄者という様々な文化に造詣が深く、日本文化の形成に寄与しました。

 不二山、国宝指定されているのですが、このほかにもとうげいとしましては、黒楽茶碗の銘“雨雲”光悦七種、黒楽茶碗の銘“時雨”光悦七種、赤楽茶碗の銘“雪峰”光悦七種、黒楽茶碗の銘“加賀”光悦七種、空母や駆逐艦のような名の陶器は重文指定されています。

 光悦寺はその本阿弥光悦の隠居所となっていまして、徳川家康にこの一帯の地を隠居所として願ったところ、与えられたという。日蓮宗の寺院となっていて、街かナにある本法寺を本山としていました寺院で創建年は明暦2年こと西暦1656年という。

 ゴールデンウィークなので、ゴールデンウイークらしいことをしたいのだけれども、ゴールデンウイークと無関係にいろいろやることが蓄積していまして、でも多少はゴールデンウイークらしいことをしなければ、気分が滅入って逆に非効率になりかねない。

 鷹峯散歩は、こういう状況で、遠すぎないが気分転換できる静かな場所、という事で選んだのですけれども、驚くほどに人が居なかった、京都の古刹は混雑する印象があるかもしれませんが、ほかの拝観者は入れ違いに二人、庭園を見ていると他に一人いたくらい。

 光悦村、本阿弥光悦さんはこの界隈に親族知人芸術家など百名単位で集住してもらいまして、自分の流派に拘らない様々な芸術家を招き、京都における一つの文化拠点を造営したという。それはこの静けさを見ますと何か納得するものが生まれてきまして。

 江戸時代には追剥辻斬りと、案外治安が悪い立地らしい、標高がありますので、意外と爽快感が同じ北区かとおもうほど広がっていまして、船岡山なんかを遠望しますと、案外上ってきたものだなあ、そういうような素朴化感慨に浸ることができる。

 光悦寺は、その創建が本阿弥光悦の没後となっていまして、本阿弥家が去りますと次第に荒廃してゆきましたが、寺そのものは残った為に大正時代に大きく再興することとなりまして、不思議な静寂と新緑の満足感を湛えて、静かにたたずんでいるのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】今宮神社-桜花,新緑迎えた京都のGWゴールデンウィーク祭事の数々

2025-04-30 20:25:38 | 写真
■京都の祭事
新緑を迎えた京都の話題を。

今宮神社のさくら風景、そしていまはもう新緑となっているのですが、新緑の季節と共に明日から五月、五月連休、つまりGW,ジョージワシントンではなくゴールデンウィークの季節がいよいよやってきて、祭事が始まる。

祭事、小さな祭事、とおもっていますと、しかし冷静に日本全国の祭事を比較していますと、同じものを行うにはおおきな住民組織などが必要となるものがあり、小さいように見えても一つ一つは大きいものといえる。

さくらの情景とともに、そう、五月ですから祭事の季節、そこでゴールデンウィークには京都市内で、どのような祭事が執り行われるか、市バスとかの広告にでているような有名な祭事の話題を纏めてみました。

今宮祭、GWの祭事といいますと、ちょっと考えていきますと、5日の月曜日にここ今宮神社にて今宮祭が執り行われまして、神輿や八乙女行列の巡幸が5日の1300時から、この今宮神社を出発するのですね。こんな感じで。

稲荷祭の還幸祭、伏見稲荷大社の神輿行列の神事が、いまは近鉄東寺駅近くの御旅所に鎮座しています神輿が神社に戻ります祭事が3日土曜日に行われます、御旅所を出ますのは1400時、1600時に伏見稲荷大社へ。

下鴨神社流鏑馬神事、馬上から的へ矢を射て当てる勇壮神事が、3日土曜日に行われます。この祭事は葵祭の前儀式と位置づけられていまして、1300時から開始される、騎馬の祭事がいよいよ始まるのですね。

歩射神事、こちらも下鴨神社にて、こちらは5日に執り行われる神事です。弓は武器であると共に弦は音を奏でる神具ともなっていまして、5日の1100時から、弓の音を鳴らして邪気祓いを行う神事が行われるのです。

八大神社神幸祭、5月4日と5日に剣鉾を先頭に執り行われる、一乗寺あたりでとりおこなわれるひとつの祭事で、4日に宵宮祭が夜から始まりまして、そして5日は朝から神幸祭を行うこととなります。

さんよれ祭、鷺森神社、あの修学院の近くにあります鷺森神社にて行われる舞楽奉納の神事が4日と5日におこなわれます、さんよれ、とは巡幸の祭のかけ声となっていまして、奇祭のような京都の祭事の一つ。

賀茂競馬、5日月曜日に執り行われる神事で、1093年から1000年近い伝統の行事、競馬とかいてくらべうま、と読む。有料観覧席が用意されているのですけれども、満員になると直ぐに受け付け終了となる故に注意を。

京都には小さな祭事はもっとありますし、ゴールデンウィークの後にも日常的に祭事が執り行われていて、そのひとつひとつが町衆、というよりもいまは市民や住民、支えられて伝統行事を継承しています。

連休に京都散歩、もちろん昨今は外国人観光客増大に大阪関西万博のあおりを受けて宿泊施設不足が顕著化していますが、日帰りでも新幹線をつかえばかなり遠方から、京都の伝統の一端を、みることができるでしょう。

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【京都幕間旅情】今宮神社-桜花,いまは八重桜散り際の季節に長い桜の季節を考える火山噴火と気象の影響

2025-04-30 20:00:08 | 写真
■冷夏か猛暑か
八重桜が最後の華やかさを誇るところですが。

今宮神社のさくら風景、いまはもう新緑なのですが八重桜の名所ではまだその桜の季節を延長していまして、今年は涼しい、やはりフンガトンガフアパイ火山の噴火がようやく成層圏まで影響したのかな、と。

御霊信仰の神社ということですから、流石にこの気象を天変地異と捉えるとか、平癒鎮定を願う祭事というのを開くべき云々という考えは持たない一方、御霊信仰以外、この数年の夏などの季節をどう受け止めるのか。

この季節の涼しさ、いや、昔は梅雨冷えという単語がありましたので、明日から五月というのは昨年は冷房が活躍し始めていましたが、これは異常気象なのか平常回帰なのか。異常が日常のようになっているゆえ。

御室桜と八重桜はこの北大路機関創設当時には四月下旬に満開と見所、と言う印象がありましたので、これくらいの季節、五月初旬は気持ちの良い晴れ空という印象があり、この涼しさとこの桜の景色はどうなのだろう。

フンガトンガフアパイ火山、トンガ王国の島一つ丸ごと吹き飛ぶとともに、その猛烈な気圧変動で日本本土まで津波がおし寄せたことはまだ記憶すると共に、当時、そのテフラの影響を考えさせられたものでした。

テフラ、火山性堆積物、火山性エアロゾル、肉眼では見えにくいものの夕日が妙に赤くなったりという気象条件で確認でき居るものが成層圏に上がりますと、太陽光を遮断して一時的な冷夏になるという事象があり。

ピナツボ火山、思い出すのは1992年にフィリピンのピナツボ火山が最大規模の噴火を引き起こし、在比米軍のクラーク空軍基地やスービックベイ海軍基地が火山灰により閉鎖、在比米軍が全面撤退することとなった。

平成のコメ騒動という米不足が発生しましたのは、その翌年の冷夏がありましたことを思い出します。そして、原因は多少異なる、昨年の南海トラフ注意情報による買いだめがありましたが、今もコメ不足となり。

コメの生産量は充分あるという農林水産省の推計値が実は間違っているのではないかという抽出算出方式への疑義はありますが、こうした状況で昨年までの酷暑、猛暑の先の熱さがあったわけで、不安要素はきりがない。

エイヤフイヤヨークトル火山の噴火の際には別に冷夏は来なかったではないか、こういう反論はあるかもしれません、あの、欧州全域の航空輸送を阻害したアイスランドの巨大火山による火山灰の被害を思い出しますが。

冷夏か、猛暑か、それとも平常化なのか。例年は三月の内にさくらの季節が終わってしまう状態を常態として受け止めていたような心象はあるのですけれども、例年よりも遙かに長いさくらの季節をみると、考えてしまう。

トバ火山やラキ火山、浅間山もふくめるべきかどうかは意見がわかれるところでしょうけれども、一定以上の規模の火山噴火がありますと、その先の異常気象というものを、どうしても心配してしまうのですよね。

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