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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】平野神社-桜花,AIは桜吹雪の夢を見るか-"贋作師からの問い-"本物"をめぐる思索"考察

2025-04-16 20:25:36 | 写真
■AIは桜吹雪の夢を見るか
 AIの将来性と限界を考える観桜の際のひとりごと。

 AIは桜吹雪の夢を見るか、結局のところAIを搭載したガイノイドが開発されて、人間と共に生活し喜怒哀楽を分かち合うようになって初めてAIは桜吹雪の夢を見るように考えるのです、そういう意味で喜怒哀楽というものはまだ先で。

 表面上の情報しか入手できないために、内部的な分析を行うことが出来ず、内部的な分析を行った情報をもとにした論文を模倣して係数や代入する部分を切り替えて繕うのが、今のところ限界である、こういう印象はないでもない。

 贋作師からの問い-"本物"をめぐる思索、NHK-BSスペシャルで先日こんな番組がありまして、録画しておけばよかったなあ、というのは、"俺は本物が欲しい・・"という名台詞を残した某アニメのヒロイン役の声優さんがナレーションしていて。

 アニメの話は、まあ、いい。このドキュメンタリーは贋作絵師のヴォルフガングベルトラッキ氏が、贋作を日本を含め世界中に売るとともに、"絵を買うのは教会に通うのと似ている、信じるかどうかだ"というお話をしていたのですね。

 本物か贋作か、日本国内のとある自治体美術館に贋作の疑いがある作品がありまして、この真贋判定は難しく、結局贋作の元の作者の作品複数と対象をAIにより判定させ、タッチから贋作かどうか判断を委ねる研究者の試みが映された。

 絵画、過去の筆のタッチの流れなどからAIは判断に困っている様子をドキュメンタリーは描いていましたが、やはりなあ、とおもったのは、絵しかAIはみていないというところでして、ここに美術評論家の厳しい一言が示されています。

 画家が描くさいの背景、画家はどのような環境で育ち、どのような体験を重ね、どのような喜怒哀楽と、師事した画家や教育の専門性やほかの画家からの影響、家族や社会や環境や政治や恋や失恋や天候さえ影響されて、描くということ。

 俺は本物が欲しい・・・、というアニメの台詞よりもNHKのドキュメンタリーでは美術館の型が、本物が欲しいと云うよりも贋作だとショックだ、という言葉を、これはいい絵だとおもいます、という言葉で濁していましたが。

 AIは結局のところ、そこまで踏み込むことは出来ていない。いや、疑似空間に紀元前ころからの地球そのものを大規模に再現して、その画家の生涯さえ追体験するほどの仮想空間が出来れば、また話は違ってくるのかもしれませんが。

 地球史を仮想空間に再現する、なにか、そのナレーションの声優さんが過去に出演して、じゃあ歌うね?という言葉を残してサクッとやられてしまったアニメーションの新章を思い浮かばせる内容ではあるのですが、まだ今の技術は難しい。

 アニメの話は、まあ、いい。大切なことだから二度かきました。記憶媒体の性能向上を考えますと、デジタルカメラやタブレット端末にテラバイトの先のペタバイト単位のメディアが開発される日は遠くないのかもしれません。しかし。

 経験や感情といった喜怒哀楽をAIが理解し経験を蓄積する、模倣ではなく体験を共有できる時代はいつごろになるのか、そこまで進んで初めて、AIは模倣を脱する、桜吹雪の夢をみるようになれるのかもしれません。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
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【京都幕間旅情】平野神社-桜花,AIは桜吹雪の夢を見るか-SFの世界がここまで予想できなかったという二〇二五年

2025-04-16 20:00:06 | 写真
■AIは桜吹雪の夢を見るか
 平野神社の先週撮影しましたわだいを。

 AIは桜吹雪の夢を見るか、二年ほど前に生成AIが本格的に個人利用が可能な水準となって普及の萌芽が始まった時節、今年は初詣の機会とこうした視座に依拠しまして平野神社なのに扱っている話題はAIという不思議な記事を掲載し始めまして。

 人工知能、こうした表現はSFの世界では既に1950年代から有りましたが、現実の物として普及するまでには時間がかかったと思う半面、SFがAIを語っていた時代は、現代の水準まで情報通信技術向上を予測できていなかった。

 IT革命という表現は森政権時代の、もう森政権というものを実感として知っている方々は中堅という世代になっていますが、その情報通信技術は確かに発展していまして、こうしてWeblogのような個人の情報発信が容易となり。

 Weblogを一例としてあげましたが、生成AIはこの二年間で非常に発展を遂げまして、特に描画などの技術は二年間で、模倣能力が際立って高く、輪郭などのデッサンをAIから手書きで学ぶという不思議な時代となっていますが。

 SFの世界がここまで予想できなかったというのは、AIは対等か上位という存在である、つまり法人規模とか行政単位で使うものという認識がありましたが、個人が使役できる水準まで短期間で普及したというのはSFを超えていて。

 情報過多、他方、これは予想できていたことですが、AIが様々な情報を短時間で、模倣して文章でも描画でも音声さえ描写してしまうことになり、ただでさえ情報過多の時代に、更に情報が洪水を起こしているのかな、という。

 Webに掲載される多数の情報を、AIが量産することにより、WebにおけるAIの生成した情報が溢れてしまい、AIを用いた検索技術の高さというのは多言語且つ高精度という話ですが、不要な情報の取捨選択が逆に難しくなっている。

 検索しますと、意味の無い情報が大量に上位表示されまして、あれはおそらく閲覧数に応じた広告収入を見越しての表示なのでしょうが、似た単語でも全く意味が異なる情報を羅列し、10年前と比較し検索精度は低下しました。

 草創期の時代、アメリカのとある新聞社が投資情報について人間ではなくAIに執筆させるようにした結果、一日あたりの記事数は80から3000まで増加したということですが、誰が読むのかについて触れていませんでした。

 記者の執筆は必要な情報の取捨選択を行い、その記者が実名で報じるわけですから、記者の個性、この記者ならばこういう話題、と定評も悪評も立つのですが、AIの場合はまず当然ですが、個性を発揮できる段階には至っていない。

 3000も経済関連記事を凄い、と評判を立ててあげたいのですが、考えて欲しいのはスクロールして読む側の立場でして、10記事1ページとして仮に次へのクリックを毎日300回も続けられるでしょうか、一週間2100回だ。

 記事に責任を持てなくなるとともに、そういった新聞社がWebで数十社がAIを利用して記事を作成しますと、毎分数百の記事が飛び交い、読む側は、それこそAIが任意に表示した記事しか読まなくなる、いや、読めなくなるわけすね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】平安神宮-桜花,二〇二五年京都桜花の季節もこの週末の荒天で幕引き

2025-04-13 20:00:55 | 写真
■平安神宮-桜花
写真の紹介は撮りためたものをこれからというところではあるのだけれど。

京都の桜は、本日の荒天でほぼほぼおわりだなあ、とおもうのです。梅の季節が相当遅かったものですから、さくらの季節はどうなるものか、と考えていましたが、昨年よりも三週間ほど、いや一ヶ月ほど、こちらも遅かったという。

入学式の季節に散ってしまっていた桜の季節が何年も続きましたので、今年は良い時期に咲いてくれたものだ、と考えつつ。もちろんそれは卒業の季節に咲く梅花の季節もよく重なりましたことに不思議な安堵感を思えるとともに。

平安神宮、桜の名所は数あれども、どこから散策するのか、そう、休みの日と晴天でいい光の環境で撮影できるところは限られているものですので、どうするか思案するのですが、混雑しているところほど身動きが難しくなるもの。

桜の花々はいろいろな種類がありますので、遅咲きの桜などはまだまだこれからというところがあるのは事実なのですけれども、わあっと広がるように咲き誇る名所はほぼほぼ同時にさくものですから、回れる期間は集中しています。

一日何カ所も回ってしまいますと集中力が途切れてしまいますので、遮二無二どんどん回る馬車馬のような休日や余暇の過ごし方はすきではないのですけれど、咲いている季節、雨が降らない日程を考えると時間はなかなか難しい。

鳥居を背景に社殿を背景に、なるべく青空とコントラストを考えて、逆に逆光で花々の色彩がめいっぱい際立つ情景と構図を考えて、しかし、撮影だけで全部終わるのはもったいないですから、美味しいもの愉しい飲み物を頂きつつ。

寺社仏閣というものの景色を撮影しますとともに、名所旧跡の風情と溶け込む様子や、春らしい情景というものはどの角度が醸すのだろうかと云うことも考えつつ、そして人出が一瞬途切れる、奇跡のような一瞬を辛抱づつ待ち構え。

名所といいましても規模が凄い、これぞ絶景という撮影が出来る場所もありますし、逆に、面積では小さくこじんまりしているところではあるのだけれども、ほおっとうなるような景色が広がっているところもあるものですから。

さくらの季節は短いものですから、もうこの季節は駆け足です。梅の花と桜の花が同時に咲くという希有な季節でしたので、そうしますと一緒に撮影できる名所となると何処だろう、と散策の計画を巡らせて地図と睨めっこしてみたり。

禅寺、お気づきとは思いますが名所旧跡にあって神社はさくらをほこる場所はけっこう多いものの、逆に禅寺などはさくらは基本余りありません、東福寺などはわざわざひきぬいてしまったほどなのです、修行の邪魔になるとかで。

密教などは、逆に東寺が、立体曼荼羅絵図を国宝として奉じている寺院ではあるのですが、満開の桜の景色こそ実は立体曼荼羅絵図が示したかった情景ではないのかとちょっと哲学的な歴史の角度を切り替えてかんがえてみたり。

今年も本日の荒天で桜の季節はほぼ終わりなのですけれども、その次には新緑の季節がやってくるわけですので京都はまた緑の新鮮な輝きを愉しめる、春の次の季節がやってくる、こんなことを考えつつ、京都の季節は進んでゆきます。

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【京都幕間旅情】平安神宮-桜花,むかしのきょうと・いまのきょうと・あったかもしれない京都

2025-04-10 20:19:59 | 写真
■古都を考える
 この週末にかけての天候がさくらのはなばなをどう影響させるのかと考えつつ。

 古都、こういう表現で京都を紹介されますと、まあ確かに事ではあるというか、今は首都ではないね、となるのですけれども、平安神宮界隈は、思えば明治維新後、勧業のために京都でおこなわれた国家行事の遺風が残るように見えます。

 堀川通拡張など、京都は都市改造により道路が、市電に対応するとか、もう市電ないけれども、市街地が整備されてゆきました。ここで平安神宮界隈を見ますと、近代都市京都、という印象の、現代ではなくとも、始まりにも見えてくるのですね。

 広い道路に煉瓦調の格式高い建物とその奥に平安神宮、そういう感じです。そうした上で京都というものをみてゆきますと、歴史ひもとくだけで平安遷都のころには桓武天皇が長安を意識して左右対称のたてものをぞうえいしたわけで。

 桓武天皇を平安神宮とおなじようにみなくとも、こう反論されることがあるかもしれませんが、1976年の平安神宮放火事件などは桓武天皇反対派の過激派が引き起こしたモノですので、その伝統と威風は生きているといえるもの。

 軍事と造作、桓武天皇反対の過激派というと、平安時代の刺客がFATEGRANDORDERに遂に登場か、とおもわれるかもしれませんがこれ昭和の話、そんなに桓武天皇長生きでしたかねえ、とおいかもしれませんが、その頃御霊は延暦寺とかどこか。

 放火事件の主張によれば、遷都を繰り返すと友に蝦夷討伐という民族戦争を続けた桓武天皇は、ニッポンテーコクシュギの原点であるという、なにか反米闘争にキリスト教をからめるような無茶にもおもえますが、そういう理由だった、と。

 都市改造により、特に豊臣秀吉の京都改造なんかは筆頭ですけれども、京都は常に変化している、そういう印象はあるのです、だから京都の平安遷都が千年遅ければ、この平安神宮の前のような市街地が前面広がっていたとおもうし。

 豊臣秀吉の京都大改造では御土居で京都を城塞都市として改造したと云い、ソレにより市域が限られてしまったからこそ、鰻の寝床、と揶揄される町家がひろがるようになって京都改造が進んだ、市街地の風景も一新したのは確か。

 徳川家光の時代までに主要な仏閣が再建され、その際に御土居も、鴨川の氾濫対策にもちいた堤防部分を例外として、撤去したのですから、それも京都の風景を一新させた、だから京都というのは常に変化する街なのだ、と実感しますが。

 高層ビルが林立していてもおかしくないような、新しいものが始まった街が京都といえるわけです。もっとも、文化的にとか哲学的に好い影響も悪い影響も一緒くたに残している街ともいえるのはなんとも不思議なのだけれども。

 平安神宮放火事件は、よくそんな理屈を膏薬みたいに貼り付けたものだ、と、許せるかどうかを度外視すると不思議に思えるのですが、逆に歴史というものをこうやって繋がっていたといえる、ここに明治の時代の京都の残り香をかぐ。

 千年平安遷都が遅ければ、こうロマンを考えて気づいたのだけれども、ああ、すると平安遷都前ということは、あの長岡京で千年、洪水と湿気と暴走族を我慢しなければならないのかあ、ちょっとそれは難しいのかなあ、とも考えたりするのですね。

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【京都幕間旅情】平安神宮-桜花,満開の花々と振り返る幕末動乱と戊辰戦争と東京遷都の後の新しいはじまり

2025-04-09 20:24:44 | 写真
■平安神宮と京都
 新しい社殿ゆえにこの平安神宮は京都の歴史においてひとつ重要な地位を担っているといえるのですね。

 平安神宮と京都、平安神宮をニセモノの寺院というかたがいまして、いやいやまず寺院ではなく、と訂正を入れるところから始めるのですが、平安遷都ののちの東京遷都を経て、京都というものを憧憬に留めるための社殿が正しい。

 遷都、明治時代に政治は首都を大阪におくのか江戸におくのかを思慮したとされていますが、どのみち、明治維新ののちに首都を東京や大阪ではなく、このまま京都におくという選択肢はなかったのだなあ、と考えると少し寂しいか。

 幕末動乱、蛤御門の変、京都に首都を置けない背景には孝明天皇の時代、幕末に京都は動乱を超えて戦場となり、特に長州藩邸焼き討ち、歴史では藩邸自爆と書かれることも多いのですが、ここから出た大火災が中心部を灰燼に帰して。

 孝明天皇はその際に御所を出て、民衆と直接対面、対面ではないにしても焼け出された町衆を直接目にすることとなったといい、同時にここまで焼けてしまっては首都として京はもはや、という決断させる要因にはなった、といわれる。

 殿上人と地下人、なにか地下人と表現すると地底人のようでHGウェルズのタイムマシンを思い出させる印象ですが、要するに御所で上に上がることのできない位階の低いひとたちをしめす、こんな差別というか区別というかが昔はあった。

 位階の低い人たち、を誤変換すると、異界の低い人たち、となってしまうのでHGウェルズではなく急に異世界モノじみてくるのですが、それは閑話休題、こういう認識をする常識が日本ではなんとか手の届く時代まで残っていたのだから。

 東京遷都は為されたわけですが、結果、御所をみれば旧ナントカ家跡地、という感じで屋敷も次々と東京セントされてしまいまして、セントしてやろうか的ななんにも残らない京都だけが置き去られ、結果復興も出来なくなってしまい。

 応仁の乱はじめ、京都というのは幾度も戦乱に見舞われてきたのですが、その都度復興を果たしていまして、しかしその例外になろうかというのが、幕末動乱の後遷都により政治中枢から切り離された時代なのかなあ、とかんがえる。

 戊辰戦争など、なにしろ明治政府はそのあと西南戦争で終止符がうたれるまで戦国時代part2的な騒擾に見舞われて、日清戦争もできないほど国内で戦費がかさんだモノですから京都復興に予算など割けないという厳しい状況が続く。

 平安京へて首府をになっている時代ならば、とにかく体裁はどうにかしようと、掘っ立て小屋でもいいから体裁を整えるべく予算がくまれ、それを実行するための人足が居住用の掘っ立て小屋を建てて、復興を無理矢理形づけたはずだが。

 宮城が遷ってしまうと、そういうことになるのか、遅れていた復興を久々に明治天皇が戻られたさい、これは行幸になってしまう構図ですが、朝霧の中に霞んだ復興にも軌道が見えない京都を見まして、その復興を勅令したことにはじまり。

 勧業、要するに見本市を行うことで世界にこの京都を開く場所としましたのが、この平安神宮界隈、岡崎の地でもありまして、そこからはじまった復興がいまの政令指定都市程度にはなる水準となった、始まりの地、なのですね。

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【京都幕間旅情】平安神宮-桜花,美術館と京都会館と勧業館と近代的な建物が並ぶ東京遷都後の情景

2025-04-09 20:00:25 | 写真
■満開の岡崎
 今回の話題は昨日撮影の情景から。

 桜花満開の季節、梅が遅かっただけに大丈夫かと思っていたのですが、見事なまでに新年度、咲き誇っていまして、これがさくらでさくらがこれよ、とまあ、言い切れるような優美さをほこっている、そんな春のうつくしい日常で。

 平安神宮、まいとしまず何処の桜を見に行くかは、北大路機関標準木というさくらがありますので、そこはまあ、何度も何度も通うのですが、それを全部特集しますと、ヤサが割れてしまう。ということは閑話休題、さてさて。

 最初に載せる桜花の話題をどうするか、撮影というか散歩とともに、出来高、というのでしょうか、迷うのですが、今年は、さくらのわだいは平安神宮の写真とともにはじめたいのです、なにしろこんな天然色が迎えたのだから。

 岡崎公園と平安神宮へ、このかいわいは東山、というにはちょっと離れていますから、ひがしやま、こうひらがなで表現したいような静けさとともに、実のところ不思議な活気があり、現代的でもあり、しかしひろびろとしている。

 美術館と京都会館と勧業館、近代的な建物が並ぶとともに、平安遷都から東京遷都を惜しむような大鳥居と、明治時代に急遽、というよりも明治天皇が荒廃したままの京都を悼んで造営を命じた平安神宮はどこか近代的であって。

 明治国家として近代国家を歩みたい一方で、古都への憧憬をいっしょくたにしたような情景は、都大路の、平安遷都の頃に、いや平安遷都がもう千年おそければ、たとえばこんな、という情景を醸しているのがこの界隈だとおもう。

 神宮外苑、不思議なのだけれどもむかし、自衛隊観閲式といえば明治神宮の神宮外苑でおこなっていまして、交通統制が面倒だとかで、田中角栄総理の時代にいまの朝霞訓練場に自衛隊観閲式の場を遷した事情がありましたが。

 府警の閲兵式、いや、視閲式、この京都府警の年頭行事をおこなっていますのはこのあたりで、まあ、戦車はでてませんが装甲車は、警察では防爆車というんでしたか、行進します。ああ、もう中部方面隊には戦車がなかったなあ。

 写真を撮影する際に、情景を思い起こしますとすこし考えるのは、手前に焦点を合わせた方が良いのか、奥の風景に焦点を合わせた方が良いのか、というところです。掲載するだけならば両方比較すればいいだけなのでしょうけれど。

 情感醸す風情というのは、さくらが主人公なのか、たてものが主人公なのかと考えるのだけれども。ここで考えるのは、さくらを主人公にしてしまうと、どこそこの場所で撮ったかわかりにくい、という、情報的な悩みが生じる。

 一枚に情報を無理なく込めるように、つまり一枚を大きく引きのばして飾ることをかんがえると、そのキャプションに答え合わせの情報をもりこめるのか、それとも画像情報だけで勝負するのか、となりますので、構図はむずかしく。

 写真は、喫茶店などでたとえば風景写真が飾られていますと、その写真は何処なのかと推理と答え合わせが愉しくなる故そんなことをおもうのだ。もっとも、この前の長岡はわからなかった、長岡京ではなく新潟の長岡という。

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【京都幕間旅情】随心院,観梅と観桜の違いは大の大人が路上呑みで羽目を外せるか否か

2025-04-04 07:00:29 | 写真
■観梅と観桜の違い
徹夜仕事のデータが飛んで昨夜1903時以降なにもしなかったことになって凹んでいるさなかの話題だ。

梅花、さくらよりも軽視される背景として、そして、年度末以前に開花時期を迎えるという関係上でしょうか、梅花の花見は数多いのですが、うるさいオッサンオバハンがたが大挙して集まって延々酒を飲めや歌えの大宴会、そんな情景はさくらだけという。

大宴会は、不思議と梅花ではみないのですよね、実際問題、梅の木が公園などに植えられているところで、ドコドコ社花見、とブルーシートで花見の場所取りをやっているところなどは見かけないもので、まあ、これも観梅が静か宮部と思わせるゆえんか。

年度末のデスマーチとも称される厳しい状況でそんなきちょうな人材を花見の場所取りに使えない、という事情もあるのでしょうけれども、静かな梅花を見上げて、ここで花見の宴という印象の外、蚊帳の外に置かれている概況を見ますと寂しく感じるもの。

梅花はかおりだ、とはいわれるところで、そして興味深いのは梅花は咲いているときもかおりはすごいですが、結実しているときのほうが香りが凄いものですので、予定を早め憎んで、咲いてしまった、という後でも花見が成り立つような気もするのですよね。

他方、日本の花見ははなを見ていないのではないかと揶揄されるところで、羽目を外せるところが魅力なのだろうか。実際、路上で座って宴会するのはコロナ時代の緊急事態宣言発令中くらいの国にあって、無礼講というわけではないけれども、この点は。

大の大人が地べたに座って路上のみをできる貴重な機会が花見、ということなのかもしれませんけれども。花見、前述のソメイヨシノの寿命という問題を考えますと、今後やはり限られた桜並木でさらに人口密度が高まってゆくのでしょうか。考えてしまうのです。

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【京都幕間旅情】随心院,梅花拝観と共に、例外状態とか無責任状態とか、大阪関西万博と大阪万博の比較

2025-04-03 20:25:42 | 写真
■永遠に咲き続ける桜の木
 桜並木がばっさりやられているところを見かけまして昨今おもうことが。

 花見について、こちらのほかには、堤防に梅並木というところをさがしますと、一応植えてある場所にはみあたるのですけれども、さくら並木ほど一般的ではない。一方で、桜はソメイヨシノの寿命が60年ほどというところで、終戦後植えた木々はそろそろ。

 永遠に咲き続ける桜の木、というゲームとアニメーションが20年ほど前にありましたが、現実は真逆、気づけば桜並木を一連ごとぶったぎられて空襲か艦砲でもあったのか、と危惧するとこともあります。誰が植えて誰が管理するのか、こういう問題はあるけれど。

 真言宗の門跡寺院であるのですが、現存する建物も総門は宝暦3年こと西暦1753年に二条家より移築したという歴史あるもの、本堂 は江戸以前の慶長4年こと1599年に再建されたという歴史あるものとなっています、故に普請中の時も多いのですけれど。

 表書院も寛永年間の1624年から1631年という時代に再建されたもので、庫裡は宝暦3年こと西暦1753年に二条家より移築されたもともとは同家の政所御殿となっていたところ、薬医門 はやはり寛永年間の造営となっていて、この一角の梅林は安泰といえて。

 大阪万博、今の時代にいろいろありまして1970年大阪万博の関連資料を調べる機会がありまして、それは2020年に東京五輪、1964年東京五輪を調べた際の延長線上のような調べごとではあったのですが、いまの万博と重なる点が桜並木にもある。

 終戦後の桜並木整備は、おそらく、管理者等を所掌という視点から並木を考えるのではなく、関連法令や条例が無かった時代に個人で植えたものやかなり曖昧なできちゃった桜並木があった、これはアガンベンのいう“例外状態”のような最中で成立したのだ、と。

 例外状態、要するに基本的な法機能が何らかの混乱により無政府状態ではないが正常に機能しない最中で決定を必ずしも平時の法手続きではないが有事法制も機能しない欠缺の分野において物事が決定される、これ本来は憲法制定権力などを考える理念ですが。

 桜並木の考えにアガンベンを持ってくるのも自分でもどうかしているとおもうのですが、逆にそういった手続きで生まれた桜並木が樹木の寿命を迎えた場合に、更新する、再生する、新しい桜並木を生む基盤がないゆえ、消えてゆく桜並木があるのだ、と。

 大阪万博と大阪関西万博を比較しますと、フィクサーという存在ではないでしょうが、大きな国家的行事を国家が主体ではなく責任を分散する委員会のような存在で討議し進めようとすることで、重要な決定の責任の所在が分からなくなるという状態に。

 無責任状態という丸山眞男理論を出せば早いのかもしれませんが、いまは例外状態ではなくがちがちの法整備がある時代ですので、思い切った決断ができず、平時の手続きでは難しい決定を平時の手順で行う故の隔靴掻痒が起きているのだろうなあ、と思う。

 寺院の梅林を見ますと、そういった意味ではここは、独自の正統性と正当性に依拠して梅林を維持しているのだから、と考えるのですね。無論、城址公園はじめ公園という位置づけであれば桜並木は維持されてまた予算が附けば、更新されるのでしょうが。

 梅花拝観と共に、例外状態とか無責任状態とか、大阪関西万博と大阪万博の比較まで行ってしまいましたが、逆に公開期間が終わった故に満開でも開放しない梅園をみて、教条主義でがちがちの時代を生きているのだ、こう実感もしてしまうのですよね。

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【京都幕間旅情】随心院,香りつたえる梅の季節はこの寺院という印象がある

2025-04-03 20:00:00 | 写真
■梅の季節は随心院
 さくらの季節がやってきましたが。

 随心院、梅の季節はこの寺院という印象があるのだ、ここは山科区小野御霊町、地下鉄東西線の小野駅から五分、というのだけれども慣れない人は遠く感じるという、恐らくそれは坂道であるのと、どこまで登ればいいのかわからない静かな一角にある故とおもう。

 小野という一画、小野氏の根拠地となっていたといい、小野小町と小野妹子、この二人が有名な氏族なのかもしれませんが、ここ随心院も小野小町の文塚があることで有名で、北大路機関程没原稿を量産するところも少ないでしょうから定期的に拝観しています。

 仁海さんという、10世紀半ばから11世紀半ばに活躍したが僧侶が創建しました寺院でして、歴史はと言えば概ね千年ほどの時を経た寺院、具体的には牛皮山曼荼羅寺という寺院の塔頭として始まった歴史があります、そしてこの寺院は梅、前述のとおり。

 梅林、今年はほんとうに満開まで時間がかかりましたので、桜並木と梅林が部分的に重なる情景を見るところがあり、昔は梅花から桜花へ流れるように花見の季節が移っていたのになあ、と考えたりするものの、さくねんはいまごろは既に桜が散り始めていたか。

 花の季節の桜と梅、この移ろいというものを愉しむ考え方自体が古い考え扱いになるのかと考えたりもします。小野の梅林、有名な風景ではあるのですが、昨年はもう一月下旬から梅花の開花が始まっていまして、速いと感じていたけれど、今年は遅いなあ。

 梅園が開放された頃には既に満開を過ぎようとしていたことを思い出しますが、今年は真逆に、どうするのこれ的なまったく咲いていない情景が広がっているばかりで、一般開放はこの期間だからと教条的な開放期間を有料開放して、咲く前に開けていて。

 梅花のいよいよ満開を迎えようとする季節には梅林の一般公開を延長せずさっさと閉めるところも多くありまして、それはちょっとなあ、と思ったり。そうしましたうえで、不思議なものですが桜並木を誇る堤防屋公園というものは数多いのだけれども。

 雨僧正、仁海さんさんはこう呼ばれていまして、干ばつの時に朝廷より招かれ、神泉苑にて雨乞の祈祷を9回も成功させたという、この偉業を以て当地を朝廷より下賜されたという歴史もあります。雨即ち梅雨ということで梅、という訳では無いでしょうけれど。

 順徳天皇、後堀河天皇、四条天皇の祈願所となっていた、だから高貴な方々の花見の為の梅林、という事ではないのでしょうけれども。しかしなぜ梅なのか、もう少し聞いてみたいのです、なにしろ梅林は花見のほか、悲田院という歴史も京都ではありますゆえ。

 悲田院というのは貧窮院のような日本のセイフティネットで、特に梅の実は薬になると薬効作用が長年珍重されていたもので、その為に植林された場所が多い、もっとも、明治維新後には廃仏毀釈のあおりを受けて梅林を打って凌いだり寺が無くなったり。

 隨心院史略によれば、最盛期には伽藍が今の相国寺あたりまで塔頭を広げ、山城国、播磨国、紀伊国に寺領を有したということですが、応仁の乱の勃発が、相国寺のすぐ北で始まると短期間で全部失い、その後点々としますが廃寺だけは免れまして今に至る。

 慶長4年こと西暦1599年、二十四世増孝の時代に当院は戻ってきまして、江戸時代には門跡であった堯厳さんが諸事情から還俗することとなりまして、九条尚実となり、関白、そして太政大臣の任に附くなど歴史にふと姿を示す、そんな寺院なのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】北野天満宮-梅花,菅原道真公を奉った社殿に歴史と価値観と文化の形成にあって背景を見い出す

2025-03-26 20:25:48 | 写真
■京都に凝縮された日本
 梅の満開の話題は次からというちょっと旬が遅れて話題を紹介しますのがこのWeblogとなっています。

 季節の京都を紹介したいという北大路機関ですけれども、一つの寺院や社殿をじっくりと紹介しますのでどうしても撮影してから記事を作成して掲載するまでは、一週間以上かかってしまうというところでして、旬を外すこともあるのですが、さて。

 YOUTUBEなどで中継している方が居るのはよくはためにしているのですが、あれはその場で中継できると云うことですから旬を外すことが無くて好いのだなあ、と思う一方、北大路機関としては写真と文章を一つの個性としたい変なこだわりがあって。

 京都を紹介したい、というのは、日本の変な部分、会議が長い背景とか、前例踏襲の背景とか、年長者の横暴という背景とか、外圧に弱い背景とか、よそ者に対する閉鎖的な背景とか、弱くなった方を叩く背景とか、逃げ足の速さの背景とか。

 歴史と価値観と文化の形成にあって京都には背景となるものが数多くあります、ですから、伽藍がでっかくてスッゲー、というような意識ではなく、この伽藍や社殿を伝え続けた歴史的背景から何かを読み取れれば、というものが主題なのですよね。

 北野天満宮の歴史というものは幾つもあるのですが、最も大きいのは菅原道真公を配流ののちに頓死させてしまったという歴史ののちに、自分の行いは後ろめたさを感じた場合に、逆に追い詰められた際に心理的な不易というものがあるという。

 清涼殿落雷事件などは、普通に考えれば落雷だ、といえるところ、ただ、清涼殿、つまり宮中に落雷があることは過去に無かったと云うし、高雄山の方角から雷雲がやってきたということで、これは重大な事案だ、と受け止められるようなっ田という。

 高雄の神護寺は京都を守る和気清麻呂の氏寺だったということで、皇室守護として崇敬されている和気清麻呂が雷雲の御所に迫るところを防がなかったと云うことで、これは祟りらしい、と更に思い詰める背景になったとされています。

 神護寺、落雷は醍醐天皇の目の前に落ちて歩いていた女官がそのまま立ち姿で黒焦げになったり、廊下を走った雷が離れた貴人たちを襲った、こういう事情があって、これこそ菅原道真の祟りに違いない、と社殿を造営した、こんな歴史なのです。

 醍醐天皇は目の前でこんな出来事があったのは相当ショックであったようで、ショックから引きこもりになってしまった三ヶ月後に崩御したという。そして落雷の死傷者の衝撃は宮城に穢れをもちこまないという習慣からも衝撃となった。

 菅原道真公を奉った社殿というのは、じつは北野天満宮造営前に洛中洛外に幾つも造営されていて、ここまで鎮撫慰霊したのだから大丈夫だろう、とおもった矢先に落雷があったのだから、ひときわ大きなこの社殿を造営したという。

 Twitter、いやいまはXという名に慣れなければならないのか、一枚二枚の写真と短歌俳句くらいの長さの文章で共感を得ている投稿が出来る方々に、ちょっとその才能が羨ましいなあ、と思いつつ、北大路機関はそのままやってゆくしかない、と。

 梅花の京都、さてそろそろ梅花の季節は終わりつつあります、それは桜の季節が到来することを意味していますが、あと十日ほどしますと見頃を迎えるのでしょうか、その話題を、多少時間はかかっても、紹介してゆきたいところなのですね。

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