新書『映画を早送りで観る人たち』を読んでると、ホント驚くことばかり。
昭和の頃は明らかに蔑称として使われ、他者から言われて最も傷つく呼び名だった筈の「オタク」が、今の若い人たち(いわゆるZ世代)にとってはむしろ「憧れ」の対象って、マジですかっ!?
私はブログでいつも、自虐の意味で自分を「オタク」だと書いてるけど、それは逆に自慢してる事になっちゃうの?
「ゆとり世代」の頃から世間で「個性的であること」がやたら重要視され、半ば洗脳みたいに「ナンバーワンよりオンリーワン」ってな価値観を植え付けられて来た結果、今や特定のジャンルについて人並み外れた知識を持つオタクが「カッコいい」とさえ言われるようになってるとか。
なぜもっと早くそうならなかった!?w
だからZ世代は、とにかく数多くの作品を観て知識を得るため、早送りしちゃうワケです。
そう言えば、こないだの記事で回想した当時30歳位の若い同僚も、私が『太陽にほえろ!』やハリソン・フォードを盲目的に推してることを「羨ましい」みたいに言ってました。
それほど夢中になれるものが自分に無いことを、なんだかコンプレックスに感じてたようで、それが変な対抗意識に繋がったのかも知れません。
バカにされなくて済むならそりゃ有難いけど、う〜む……やっぱり違う気がする。オタクが個性なら、オタクでないのも個性だからそれでええんちゃうの? なんで世間の価値観に合わせて自分を変えなきゃいかんの?
そもそも世間の価値観なんか、そうやって無責任に180度変わったりするんだから。私自身、寡黙だったり真面目だったりする男の評価が、女性から見て「カッコいい」から「つまんない」に180度変わったとき(1980年前後)の衝撃が未だトラウマになってますw
それは今にして思えば、女性の価値観が変わったんじゃなくて、時代の空気が(女性が本音を言えるように)変わっただけかも知れないけど。
だから、そんなもんに振り回されるのはホントにアホらしい。あまりにも世間の価値観に縛られてる、今の若い子らが気の毒になって来ました。
民族全体で共有するそれ(方向性)がないので、目につくものを手当たり次第に買いまくって、結果何も残ってない。残ったのは肥満した身体だけ、みたいな感じです。
確固たる"自分"があれば、他者がどうであろうが良いと思うんですよね。"力"もない。ナイナイ尽くしだから群れから放り出されるのを恐れる。だから早送りwなんだと思います。
今の若い子らはネットで世の中を知りすぎて、そういう勘違いが出来ないことが最大の不幸なのかも? 今読んでる本でも、SNS等で常に同世代の子らの動向を知って「比較」出来てしまう環境が、ますます彼らを焦らせる(だから早送りする)んじゃないかって分析されてます。
世の中、知らない方が良いことも沢山あるんだと思います。女性のヌードがワンクリックで、それも無修正で簡単に見られちゃうのも、長い目で見れば不幸ですよね、絶対。どの口が言うとんねん?って言われそうだけどw